喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

気仙沼市立大谷中学校との絆 ~届いた大谷っ子米を食べる~

2014-01-31 | ブログ
 愛媛県伊方町立三崎中学校は、2011年3月11日の東日本大震災直後から
宮城県の気仙沼市立大谷中学校へ支援・交流をしている。

 昨年末12月26日、3度目の「大谷っ子米」が届いた。
あの大津波で破壊された田んぼを復興させ、収穫した奇跡の米。

 三崎中学校の通信に以下のような記事が載せられている。



「1/29日(水)おりづるの旅集会で、昨年末に気仙沼市立大谷中学校から届いた「大谷っ子米」を全校でおにぎりにしていただきました。
震災で被害を受けた冬水田んぼで採れたお米です。

 交流を続けている大谷中学校は、復興に向け少しずつではありますが一歩一歩、歩みを進めており、
生徒たちも地域の復興に貢献できるようがんばっているそうです。
 その様子を映像で見ながら、みんなで今後どのように交流を続けていったらいいか話し合い、
できたてあつあつの大谷っ子米をいただきました。
 新生徒会中心のこの活動で、生徒たちは交流への思いを強くしました。

(生徒感想)
○ 去年もおいしかったけれど、今年もとても美味しくできていました。こんなおいしいお米を食べられうれしいです。
 今後も大谷中学校との交流を大切にしていきたいです。

○ 今日、大谷中から来た大谷っ子米を食べました。
 今年でもう大谷っ子米を食べるのも最後だったので、ゆっくり味わって食べました。
これから1・2年生には交流を続けてもらい、僕たちの先輩や僕たちが作ってきた絆をもっと深めていってほしいです。
高校に行ってもこの交流のことを忘れずに、自分にできることをしていけたらいいなと思います。」


 日本一細長い、四国最西端の中学校と東北リアス海岸の中学校との絆。
顔も名前も知らない友だが、いつかお互いが握手する日があったらいいなと思う。

                                岬人(はなんちゅう) 

南海トラフ巨大地震の想定の変更について

2014-01-31 | ブログ
 四国最西端の伊方町立三崎中学校の学校だよりに防災に関する情報がのせられた。
子どもたちをあずかる学校として、その命は第一に考えなければならない。


                      「2年前に行った南三陸町防災庁舎」

「昨年末、12月26日に愛媛県民環境部防災局危機管理課から
『愛媛地震被害想定調査結果 最終報告』が発表された。

 南海トラフ巨大地震の想定(伊方)は、最大震度7,
マグニチュード9
三崎港に1mの津波到着時間49分
三崎集落の最大津波高13.7m 」 


 といった内容のもの。
これまでよりも危機感が増すものとなっている。
これによると、傳宗寺も危ない。


                 「南三陸町の4階建ての建物も津波に飲みこまれた」

 これから30年以内に、自分自身の自動車事故よりもはるかに高い確率で
南海トラフ巨大地震がおこるとされている。

 自分の身は、自分で守らなければならない、
という意識を高めていきたい。

まことやのパン  次家誠さん

2014-01-29 | ブログ


 先週の土曜日、松山へ行く途中いつものように長浜町の「まことやのパン」に立ち寄った。
すると本当、久しぶりにまことおじいちゃんが座っておられた。
80歳も超し、体調の加減でいないことが多い。

 目があった瞬間、お互いに顔がほころぶ。

 もう2年ぶりぐらいかもしれない。
以前よりもしゃべることが難しそうであったが、
出てくる言葉は温かさに満ちた、深い言葉が多い。

「私は事故により、車いす生活となり、死ぬことを考えた時期もありました。
でも、今は生きたくて生きたくてしょうがない。
一日でも1分でも長く生きたいです。

 体が痛くっても、それは生きている証。
それもまたうれしいことです。
 
 また、このようにお話しできることを本当に幸せに感じます。」


 
 涙が出てくるような言葉。
まことさんからいつも生きる喜びを感じる。

 帰りぎわに、文集をいただいた。
もう28集にもなっている。
 自由に動かない手を使い、書かれたもの。

 ぱらぱらめくると、命の喜びにあふれている。



 心がこもったパンを買い、食べながら車を走らせた。
「うまい。うまい。どうしてこんなにうまいんだろう。」
心の底から熱いものがこみあげてきた。

 また来よう。

                    岬人(はなんちゅう)

ベルギーチョコ ~クラウディアからの贈り物~

2014-01-27 | 喜久家ボランティア
 2月14日のバレンタインデーに向けて、店頭にはすでに多くのチョコレートがならんでいる。
先週、「ベルギーからの贈り物」が届いた。
なかみは、何とベルギーチョコのつめあわせ。
見ているだけで幸せな気持ちになるような。

 贈ってくれたのは、ベルギーのクラウディア。
彼女は、昨年夏3ヶ月間、喜久家ボランティアとして活動してくれた。
真夏の猛暑の中、イタリアのポタといっしょに草刈りなどの下仕事をしてくれた。

 明るくて、かしこくて、日本が大好き。
今年の秋、再び日本に来る予定。





 
 ベルギーと言えば、ビールとチョコが世界的に有名。
ゴディバ、ガレ、コード・ドール、メリー、ノイハウス、ウィッタメールなどは、ベルギー王室御用達にもなっている。

 クラウディアからの贈り物は、Cote D’or (コートドール)というメーカー。



 何でも調べてみたくなる。さっそく調べてみた。

「カカオ豆に、焙煎にこだわり、濃いチョコレートを望む人々の心を離さないコートドールは、
ベルギーでトップシェアを誇る本格派のチョコレートブランド。
創業以来120年に渡って世界中で愛されています。

 日本でいえば明治のチョコに当たるような、ベルギー人なら誰でも知ってる庶民派チョコです。

 創業は1883年。
豊富な石炭資源と植民地政策を背景にベルギーがぶいぶい言わせていた時代です。
 2人のベルギーチョコレート職人の
「最も濃い、チョコレートらしいチョコレートを届けたい」
という思いから始まった。

 2人は最も高貴なカカオ豆を探して世界中を歩き、ついに西アフリカの黄金海岸(Cote d'Or)で理想的な豆と出会った。
そして、その地をブランド名に、「最も濃い=強く、高貴な」アフリカの象徴として、白い象をシンボルに掲げた。」






 産業が栄えて、高価なチョコを買える裕福な層がいて、しかもアフリカに足がかりがあった・・・
産業革新&植民地時代の豊かなベルギーの様子がうかがえる。

 ひとくち食べてみると、その違いがすぐに分かる。
日本のものに比べると味が濃い。
最高級カカオを極細にして使っているため、すばらしくまろやか。

 しかもヤシの実、マンゴーなどの植物油を使わず、カカオバターだけを使っているこだわり。



 本物の味へのあこがれが強い。
それは、ふるさとの海の幸、柑橘に対するものと同じ考え。

 そしてそれを贈ってくれたクラウディアの気持ちを思うと、さらに幸せな気分に満たされる。
喜久家プロジェクトでの出会いが、このように未来へもつながっていく。
 出会いって、おもしろい。
 出会いって、感動。
 出会いって、未来を拓く。


 そんな喜びを感じながら、おいしいチョコをいただく。

                          岬人(はなんちゅう)




 

 

四国最西端の駅伝大会

2014-01-24 | ブログ
 1月19日(日)、四国最西端の三崎駅伝が行われた。
新春の風物詩となっている。

 今年は少し風は冷たかったが天気も良く、最高の駅伝日和。

 午前9:30前、スタート地点の佐田岬小学校前では、緊張の中、号砲を待っていた。
1区と言えば、各チームのエースがそろう激戦区。
みなさんのやる気も伝わってくる。



 そして9:30。
号砲とともにいっせいにかけ出す。
飛び出したのは、三崎高校バレー部、清水君。
地元の応援も受けながら、きつい上り坂も力強く走りきった。



 全6区間、新区間となり全てが同じ区間わり。
沿道からは、知り合い、家族への温かい応援の声。
くじけそうな選手の背中を後押したことだろう。

 選手の様々な表情・走りを見ていると胸が熱くなる。
 私は、チームが組めなかったため、今年は参加できなかった。
見ていると、自然と足がそわそわする感じ。
来年は、ぜひ参加したい。

 結果は、
中学男子の部-3年生。
中学女子の部-バレーA。
高校男子の部-バレー部。
一般の部  -四Eそろそろ走ラン会。
女性の部  -三崎高校バレー部。
小学生の部 -喜須来ジュニアA。



 閉会式の様子



 高校男子優勝、バレー部。 キリッとかっこいい。

 佐田岬の春はかけ足でやって来る。

                     岬人(はなんちゅう)

 

喜久家ボランティア  ~帰って来た愛ちゃん~

2014-01-23 | 喜久家の情報
 昨年の4月下旬から5月下旬までの1ヶ月間、喜久家ボランティアとして活動してくれた早川愛ちゃん。
テレビ番組ふるさと絶賛バラエティー「いーよ」に出演するなど大活躍。

 愛ちゃんは、将来教員をめざしている大学3回生。
もっとさまざまな経験を積み、幅広い人間性を育てたいということで1年間の休学を行った。
その始まりが喜久家プロジェクトだった。
 その後、栃木県、福岡県でのワークキャンプを終え、
昨年末からはタイへ渡り、多くの学びを手にして帰国。
 そして千葉へ帰る途中に、原点となった愛媛県伊方町平礒へ寄ってくれたのだ。
本当に、うれしくて、うれしくて。

 19日から今日23日までいて、柑橘の選果作業の手伝いをしてくれた。
その後の話を聞きたくて、多くの質問をした。
 なかでも聞きたかったことは、
「この1年間でどんなことが変わった?」
ということ。

 すると愛ちゃんは、素直に答えてくれた。
「たくさんのいろいろな出会いがありました。
それが私の1番の宝物。自分の知らなかった新しい自分に出会えるきっかけになりました。」

 年末のタイからのレポートで次のようなことを感じていた。
「去年の今はまだ、まさか自分がこんな1年を過ごすことになろうとは思ってもみなくて、ただもやもやしていて漠然と不安でしたが。

 居心地のいい場所を飛び出してよかったなって思います。
嬉しいことに、帰れる場所が増えたんだもの。

そして、私はなんにも知らないんだなーって実感。

 いろんな場所でいろんな人がいろんな問題に向き合っていて、全部が同時にすっきり解決することなんてないんだろうけど。
それを考えると果てしないんだけど。
それでも自分にできることをやるしかないし、実際やってる人たちがいる。
 私に何ができるかはわからないけど、その気づきは大切にしたいなと思います。
出会った人たち、支えてくれた人たち、みんなに感謝です。

 全部の出来事を忘れないなんて無理だけど、きっと私のなかに蓄積されてるはず。」


 これほど変われるものなのか。
田舎には、農業には、ボランティアには、たくさんの可能性が秘められている。

 昨晩は、最後の夜。
娘たちもお世話になった愛姉ちゃんにあいさつ。
その姿をしっかりと脳裏に焼きつけたことだろう。
この子たちにも未来への種をまいてくれた。

 

 弟にも。



 そして私にも。



 今日の昼1時。
三崎発の伊予鉄バスに乗り千葉へ向けて帰って行った。
もしかしたら新しい旅立ちかもしれない。

 バスの中から笑顔で手を振る愛ちゃんを弟いっしょに見送った。
やはり寂しさがこみ上げてきたが、ぐっとこらえて手を振った。
「行ってらっしゃい。」


                  岬人(はなんちゅう)

46歳の誕生日  ~四十にして惑わず~

2014-01-19 | ブログ
 今日、1月19日は、46回目の誕生日。
妻や子どもたちからの「誕生日おめでとう。」の声。
そして朝早くからさまざまな人からのフェイスブックなどへのお祝いメッセージが届いている。

 私には伝えなければならないことがある。
朝、出勤前に母家の両親のところへ行き、
「今日おかげさまで46歳になったよ。ますますがんばるけん。」
という感謝と心意気の言葉を伝えた。

 母からは、
「早、46歳になったかい。」



 そして父からは、
「46歳か、いい歳やの。床柱を背負う気持ちでやっていかないけんの。」




 まさにその通りだと感じている。
自分がこの世に生を受け、これまでやってこられたのも両親あってのこと。
これはどんなにがんばってもお返しすることはできないほどのもの。
 お返しできないぶんは、これから未来につながる我が子や地域に返していけばいいのではないだろうか。

 家で最も大切な場所の1つである床の間。
それを背に、家を支え、盛り上げていかなければならない。
時には楯となり護り、時にはその大切さを感じながら思いきって行動する。

 年老いた父の背中を見ながらそう思う。


 孔子は論語のなかで
「十有五にして学に志す。
  三十にして立つ。
  四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。
  六十にして耳順がう。
  七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」
と言っている。

 もちろん私とは比べものにはならないが、そのいくぶんかでも見ならいたい。
「四十にして惑わず。」
まさに自分の信じる道を歩む時期。

                         岬人(はなんちゅう)

 
 

訪問者数を更新  ~さまざまな人とのつながり~

2014-01-19 | ブログ
 昨年12月から毎週のように、ブログの最多訪問者数が更新されている。
先週は、40人増えて1617人。
1日、231人の人が見ていることになる。

 何が起こっているのかはわからない。
最初の頃の1日20人が、今は10倍の数。

 ふるさと、田舎、農業、教育、平和などをテーマに書いているので、
それを知っていただくことは、とてもありがたい。

 毎日、田舎にはいろんなことがある。
いろんな気づきがある。

 まさに
「ないものは、ない!」

                    岬人(はなんちゅう)

戦争を知らない子どもたち 

2014-01-18 | ブログ
 先日の「永遠のゼロ」に関するブログに、貴重なコメントを「すけつね」さんからいただいた。
顔も名前も知らない人だけにうれしい気持ちがした。
 
 私の祖父は戦死した。
場所もどんな状況だったかもわからない。

 すけつねさんからのコメント。

『あなたのお爺さんは戦死されたのですね。
お気の毒です。
 あのころは、兵士がどこの戦場へ行くのかは本人も家族にも秘密にされていたのです。
ですから、最期の本当のようすなども知ることはできなかったでしょう。
遺骨の入っていたとされる箱を遺族は受け取っておりましたが、ただの紙切れだけが普通でした。

 ボクは子供のときに戦争を体験しております。
参考までにブログの“ボクの見た戦中戦後”をご覧いただければ幸いです。』


 新たに知る事実。
まさに祖父は、すけつねさんの言われる通りの状況。

 何か無性に悲しくなる。
でも当時としては、そんな状況があたりまえ。

 この喜久家プロジェクトブログを読んでくれて、
こんなコメントをしてくれたことにすごく感謝している。

 戦争を知らない自分、子どもたち。
だからこそ、知ることを大切にしていかなければならないと思っている。

                      岬人(はなんちゅう)

映画「永遠の0」 ~亡くなった人の数だけ悲しい物語がある~

2014-01-15 | ブログ
 昨日のブログ内容に対して、愛媛県野村町渓筋に住む荻野君からコメントをもらった。
 彼は私が初任者として勤務した野村中学校に、ピカピカの1年生として入学してきた生徒。
口数は多くないが、何事にも誠実に取り組むまじめな生徒だった。
 
 その後20年ほど経って、介護士として妻の祖母を献身的にお世話してくれた関係もある。
フェイスブックでもつながっていて、地域においても消防団や体協で一生懸命に活動している姿を見ることができる。

 そんな彼からのコメント。 

『おいらの祖父も戦争に行った人でした…
帰ってきてうちの母は生まれましたが、妹さんが生まれて間もなくして、
祖父は病気を患って亡くなったそうです。
 母も幼くてあまり覚えてないみたいです。
そんなことで祖父がいなかったので祖父の存在というものがわかりません…

 小さい頃に聞いた話ですが、
祖母には婚約してた人がいたらしく、その人は戦争に行かれ亡くなられたそうです…
その後何かの縁で私の祖父と結婚されて、母が生まれたみたいでした…

 その祖母も亡くなりましたが…
1人で育てて大変だったと思うし、
戦争のことはあまり話してはもらえなかったけど、淋しかったのかなと感じてしまいます。』


 荻野君の先祖にも戦争によって悲しい物語があったようだ。
 戦争で亡くなった先祖に心をはせる。
これは、とても大切なことだと思う。
そんな物語をしっかりと聞き、後の誰かに伝えていくことが私たちの大切な役割でもある。

 今を生きている私たちは、実は生かされているのかもしれない。


                        岬人(はなんちゅう)

  

映画「永遠のゼロ」を観て

2014-01-14 | ブログ
 1月11日(土)午後2:30から、遅ればせながら話題の映画「永遠のゼロ」を息子と観に行った。
ぜひ観に行きたかった、息子に観せたかった。

 私の祖父に思いをはせる。
祖父金太郎は、終戦間近の5月、乗りこんでいた船を攻撃され海の底へ沈んでいったとされている。
そしてわだつみとなる。
 ただこれに関しては、どこで、どんな状況だったかは分かっていない。
父さえ、幼すぎて祖父のことはほとんど覚えていないという。


 家族4人で撮った唯一の写真。




 また戦地から家族に何通かの手紙や写真を送っている。





 祖父は、どんなにか残された家族のことが心残りだったことだろう。

 祖母にすれば、どんなにか帰ってきてほしかったことだろう。

 そんな状況が、映画の主人公宮部久蔵と残された妻松乃とひとり娘清子と重なって思えてならない。
映画に引きこまれながらも、常に亡き祖父金太郎と残された妻ミチエ、武久、千鶴子とを重ね合わせながら観ている自分がいた。
 若くして戦死した祖父であったが、祖父がいなければ父も私も武蔵ら子どもたちもいない。

 静かな涙がほほを伝い、流れ落ちる。
戦争により、映画「永遠のゼロ」のような物語だけではなく、亡くなった人の数だけさまざまな悲しい物語があったのだ。

 エンディング曲はサザンオールスターズの「蛍」。
それを聞きながらまた亡き祖父や祖母のことを重ね合わせていた。

 となりに座った息子はどんなことを思っただろう。
あえて聞くことはしなかった。
「お父さん、感動したなー。」
という声で充分だった。


 エンディング曲が終わり、1号館を出るとき、思いもよらない感動が待っていた。
出口へ向かう人の流れの中に、私の前を歩く2人の男女。
 1人は、杖をつき足を引きづりながら歩くご老人。
年齢は80歳をゆうに超えているように思えた。
 もう1人は、そのご老人を横で支えながら歩く60歳過ぎの女性。
たぶん娘さんだと思われる。

 娘さんとご老人の会話が感動的だった。
「若い人がこんなに観てもらえてうれしいね。」
という娘さんの声に
「そうじゃな。」
というご老人のひと言。
 きっと戦争を体験した方なのだろう。
そして生きぬいてこられた。

 頭を下げ、礼をしたくなるような気持ちになった。
「本当におつかれさまでした。ありがとうございました。」と。 

 大洲シネマサンシャインの外に出ると、
ちょうど西の空が夕日に染まっていた。
仏教でいうところの浄土がある方向。
 
 その夕日に照らされ、階段を下りていく先ほどのご老人の姿がまぶたに焼きついた。
私にとって永遠のワンシーンとなった。
                    

  岬人(はなんちゅう)

実りの季節 ~サンフルーツの収穫手伝い~

2014-01-13 | ブログ
 年が明け、ふるさと平礒では、いよいよ本格的な収穫の季節。
サンフルーツ・デコポン・3月の清見タンゴールと続く。

 小寒・大寒が訪れ、全国的には厳しい寒さが襲っている。
やはりここは南国四国愛媛。
しかも平礒は、冷たく強い北西風をよけるような地形になっている。

 今日は、午後から娘たちといっしょに、サンフルーツの収穫を手伝った。
場所は、ヒラバヤ。
 写真は、2011年(平成23年)のもの。

 

 

 偶然にも2011年(平成23年)の1月14日も同じ場所で収穫していたことを思い出した。
石井のおばちゃんもいた。

 

 娘たちは、小学校5年生だった。
 
 

 私の仕事は、収穫されたサンフルーツを畑から運び出し、
道路のトラックまでモノラックに乗せて運搬すること。

 農業の手伝いは、娘たちにとって、いいものだ。
 1つ目は、働く姿を目にすることができる。
そして共に働くことができる。
 働く厳しさ、喜びなど本物を感じることは、とても大切なこと。

 2つ目は、世代を超えてさまざまな話をすることができる。
特に祖父母や、石井のおばちゃんにいろいろな話をしていた。
それをうれしそうに大らかに聞いてもらえる。
安心できる時間になる。

 もちろん、祖父母は孫娘たちと話ができてそれはそれはうれしそう。

 そんな時間と空間が田舎の農家にはある。


              岬人(はなんちゅう)

 
 

一生青春・一生感動の叔父さん

2014-01-12 | ブログ
 昨日1月11日、1通のメールが届き、ビックリしている。
送り主は、松山に住む若松のおっちゃん。
年齢が、80歳を超えている。
 この喜久家プロジェクトブログを見てくれて送ってくれたようだ。

『明けましておめでとう若松です。
貴君も教育にまた故郷に頑張って活動されて居られる事に感動と頭の下がる思いです。
これからも奮励努力されん事、祈ります。

 叔父さんも加齢黄班変性症という思わぬ眼の病が発病。
道路白線や電柱などくねくね曲がって見える病気?

 一年前に夜分にウオーキング中に溝にはまり左手上腕骨折でいまだにリハビリ中です。

 車運転は市内を運転中です。
平磯までは少し考えているので暖かくなれば行きます。

 子供さんの成長祈っています。』




 叔父さんの瑞々しい心の若さと温かさに感動している。
 80歳を超えてもなお携帯を使いこなし、向上しようとする気持ち。
息子のような若造の私への応援メッセージ。

 将来の手本のような叔父さんである。 

 先週のブログ訪問者が、1575人の最多。
1日225人。
 その一人が叔父さん。

 叔父さんを含め先輩たち・先人たちが残してくれた日本・ふるさと。
私たちがしっかりと引きついでいかなければならない。


 そんなことを見えるカタチで、言葉や写真でお返ししていきたい。

                   岬人(はなんちゅう)


男たちの参拝

2014-01-11 | ブログ
正月をふりかえっている。

大晦日、家族で年越しの料理をいただいた後、
男たちには神社とお墓とお寺のお参りがある。

73歳になる父と私と高校1年の息子と3代そろってのお参り。
大切なしきたり。
これもいいものだ。

真っ暗な田舎の夜。
誰にも会わない。

神社は、シーンと静まり返っている。









まずは本殿の拝殿で参拝。
お光をあげる。



氏神様は、三社神社。



この奥にご神体がある。




なんていう、話を親子でそれぞれしながらお参り。

いいものだ。

残していきたい ふるさとの風景。

岬人(はなんちゅう)


初春の祈り

2014-01-10 | ブログ
 狭い意味での正月は終わったものの、1月15日の小正月をもって全ての正月行事が終わる。
明日11日は、こちらでは「お十一日(おじゅういちにち)」といって餅をいただく。

 今年の元旦は、非常に天気が良く新春にふさわしいものだった。
そんな元旦朝の風景を写真におさめた。

 

 

 「我が家の鳥居に飾っている注連飾り。」
 こちらでは縁起物の橙(だいだい)がなく、他の柑橘を飾っている。

 

 

 「新春の山茶花(さざんか)」



 「母の祈り」
 我が家の地神(じしん)様、鍾馗(しょうき)様を拝む母。
どんなことをお祈りしたのだろう。

 

 「娘たちの祈り」
 座敷の神様を拝む娘たち。
子どもながらにさまになってきた拝む姿。
何をお祈りしたのだろう。

 素朴な風景。
美しい風景。
田舎には、そんな風景が残っている。

 2014年(平成26年)初春のうつくしい風景だった。
                            
                           岬人(はなんちゅう)