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稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

【餃子対決】大阪王将と餃子の王将はどちらが旨い?

2019年08月31日 | 食べ物の話など
以前から気に気になっていたこと。
大阪王将の餃子と餃子の王将の餃子はどちらが旨いのか?

店に行って食べるとどちらも旨い。
大阪王将へ行ったら「やっぱり大阪王将が旨い」と思うし、
王将の餃子へ行ったら「いやいや王将の餃子のほうが旨いかも」と思う。
どちらも旨いのだが、はたして食べ比べたたらどちらのほうが旨いのか?

で、両方のお店に行き、餃子の持ち帰り。2人前ずつ。





餃子の王将のほうが気持ちだけ安い。
箱代が10円と20円で倍も違うぞ!










大阪王将は6個で140グラム。



餃子の王将は6個で150グラム。



左が大阪王将、右が餃子の王将。
大阪王将のほうがラー油が少し多い。



大阪王将。比較的、肉が多い感じがする。



餃子の王将。比較的、白菜(キャベツ?)が多そう。


【結論】

最初のうちは味の違はわからない。どちらも旨い。
食感は大阪王将はもちもち、餃子の王将のほうがシャキシャキした感じ。
大阪王将の皮はモチモチ感がある。最初は大阪王将のほうが辛勝かな?

食べ続けると、大阪王将は若干の肉の臭みが感じられるようになった。
餃子の王将は比較的あっさりしているのか臭みはまったく無かった。
もちろん、両方とも、ニンニクの臭いと味はそこそこある。

結論としては、少し安いのと、ちょっぴし量が多く、
最後まで飽きの来ない「餃子の王将」の餃子の勝利だった。

でも、お店に食べに行くなら、
大阪王将のほうが総合的に旨いような気がする。

以上、個人的な感想なので、悪しからず。

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余談だが、冷凍の「餃子の王将」対「味の素の餃子」対決もやった。
こちらは「味の素の餃子」が一般受けする普通の餃子で、
ガツンとした旨さを味わえるのは「餃子の王将」だった。

同じ餃子でも、自家用車とSUVの違いぐらい差がありジャンルが違う。
よって味の好みは分かれると思う。
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木曜会定例稽古(2019年8月29日)

2019年08月30日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時から21時20分まで。今年29回目。参加人数15名ほど。
雨。暑さはひどくは無いが湿度が高く蒸し暑い。

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素振りは左手と右手が糸で繫がっているように。
対角線の動き。左手で上げて右手は添える。
左のヒカガミは伸ばしたまま。左足で送り出すように。
打った瞬間に右手の力を抜くと冴えが出る。
右足を出すときはつま先から出す。膝が先に出ると馬足になる。

切り返しは飛んではいけない。
右足を出して振り上げ、左足を引き付けて打つ。(下がる時は逆)

竹刀の握りは右手も左手も「金づちで釘を打つ手」になるように。

右足を前に出しそのまま打つ。
右足を引いたり左足を引き付けたりしない。
右足を出した時は身体が前に出ない。前傾しない。

打つ前の予備動作は(余程の腕前があれば別だが)必要である。
予備動作=つま先を出す、もしくは膝を出す。(踵を下ろして腰を入れる)




【感想・反省点】

この2ヶ月ほどは故障のためほとんど稽古をしていない。
稽古不足なのか、打ちに強度も冴えも無く剣先がぶれる。
右手に力が入っているのがわかるが身体が言うことを聞かない。

打てる間合いまで入るのはわかるが、
実際の稽古でそこまで入ると相手のほうが先に打って出てくる。
やはり「自分の打ち間までどう入るか」が最大の課題であろう。
課題のある稽古は楽しい。剣道への取り組み方が変わってくる。

ここ木曜会はベースキャンプ。
迷ったらまた戻れる剣道の港である。
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友人の荒井康充君が亡くなった。(2019年8月28日)

2019年08月29日 | つれづれ


小学校同級の友人から「荒井君、亡くなったって知ってる?」
って電話があったのは27日の夕方だった。

ちょうど「小さい 白い にわとり(昭和36年の国語の教科書から)」の
ブログを書き終えたところで、小学校時代を思い出していたところだったので、
本当に驚いてしまった。

小さい 白い にわとり(昭和36年の国語の教科書から)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190827/

文中にも書いた、奈良女子大学文学部附属小学校は、
1年生から6年生までクラス換えは無く、そのまま6年間持ち上がる。
だから、卒業時の38名の名前は、今でも順番に全員の姓名を言えるほどである。
名前を聞けば、性格も思い出も、走馬灯のようによみがえる。

荒井康充(あらいやすみ)は、小学校、中学校、高校と、
ずっと一緒に過ごした幼馴染である。
昭和30年10月11日生まれ。

2017年の夏頃に膵臓癌で余命半年と宣告された。
2019年8月26日に亡くなる。28日通夜、29日告別式。

高校2年生の修学旅行の班「7組1班」は今でも時々集まる仲間だが、
荒井は班でこそ無かったが、付かず離れずずっと付き合ってきた。

「7組1班」のラインに先ほど書いた内容
-------------------------
昨日はお疲れ様でした。
昨夜は、家に帰ると誰も居なかったので、ロウソクを灯し献杯。
荒井のことをあれこれ思い出していました。
小学校時代のあれこれ。
中学校では同じ柔道部で稽古したこと。
高校時代も剣道部の横で荒井は柔道の稽古していたなあ。
それから付き合いあったっけか?
荒井の自宅でマージャンしたのは大学の時だっけ?

40過ぎに心斎橋で二人で酒を飲んだこと。
50過ぎに偶然、職安であったこと。
小学校1年生から今まで、ずっと付かず離れずの荒井でした。

小鳥飼って可愛がってたって聞いた時に涙が出ました。
あいつ、ええかっこしいで、弱音は見せなかったけど、
きっと寂しかったんやと思います。
昨年の1月20日に生駒で飲んだことも、ラインで皆と繋がっているという話も、
荒井の妹さんは知ってましたよ。嬉しそうだったって。

癌やというのは知らなかったけど、
ああやって、突然荒井のこと思い出して、電話番号調べて連絡したのは、
今から考えたら虫が知らせたみたいなものかも知れない。
ホンマにご冥福をお祈りします。(;_;)
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友人が亡くなるというのは本当に辛いもので。
みんな、元気で長生きしてくれって、心からそう思います。


(小学校6年生、右端が私、中央が荒井)


(中学校の柔道部、右上が私、右下が荒井)

生駒高校ミニ同窓会(2018年1月20日、「7組1班」+荒井で集まった)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20180121/
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No.64(昭和62年6月5日)

2019年08月28日 | 長井長正範士の遺文


○臍下丹田に力を入れることを知っていても、ぬくことを知らない。
自然体の剣道には陰陽上下がある。この事は大変大切であるからあえて加筆しておく。
これに関連した項目は№8.9.10.24.30を見て頂きたい。

○呼吸についても以前お話したように(№6. №30)大切なことなので、もう少し具体的に述おく。
呼吸には吐き息、吸う息、含み息がある。(№10)剣道の最高の呼吸は含み息である。
含み息は胸式や腹式での呼吸をするのではなく殆んど呼吸していないように見えるが、
実は空気を含んでいる口の中だけで呼吸する。これを含み息というのである。

だからフッと出られるのである。このことを先師から習い長年研究して来たのであるが、
これは竹刀剣道で相手を打とう打とうと思って力んでおっては到底含み息で打てない。
一刀流のハッとした瞬時の応じ技の時、思わず打って出た時にのみ含み息で打っている
ことに気がついて、この含み息こそ最高の呼吸だと此頃になって感じている。

但し初めて一刀流を習う時、ともすると先に攻めることを忘れ、
相手が打って来たら、その起こりがしらを打ってやろうと思い、
どうしても待ちの稽古になりやすい。

待ちの稽古は心ばかり動いて迷ってしまう。
これは一刀流の切落の精神に反するもので、含み息どころではない。
一刀流の「一つ勝」は最も高度な先々の先で切落されているのである。
この切落は三年で出来ると小川忠太郎先生は仰ったが、
ひるがえってみると、愚鈍な私は一刀流をやり出してから17年経つが
未だに満足出来る切落が竹刀剣道で表現出来ないでいる。

ただ1年に2~3回、ハッとした瞬間、思わず打って出た無意識の面なり甲手の技を、
あとになって、なんであんな技が出たのであろうと自分でも不思議に思うことがある。
こんな時は恐らく含み息でフッと出たのであろうと思っている。
これを良いことにして再び切落の技を出してやろうと考えていると絶対に出来ないのである。

さて世間でよく言われる言葉に、含みのある人(慈愛のある人)だ、
何事もよく弁えて(わきまえて)心大きく包み入れてくれ、含蓄のあるお方だと言う、
この含みのある人という言葉は剣道から来た言葉である。

次に止め息であるが、これは相手が攻めて来て、打ちを出そうと瞬間、
それに対して応じ技が出ない時、即ち瞬間打たれやしないかと心が動きハッと受け身になり、
己れが竹刀をあげた時は必ずと言って息を吸うている。
こうなるときまって打たれるのである。

この時迷わずハッと瞬時息を止める。
そうすると無意識に竹刀の先を相手の、のど元へつけて構えている姿勢になっている。
言いかえれば迷えば瞬間止め息をすることである。
然しいつまでも止め息で力んでは技も止まり、そのあとに打たれる事必定、
止め息ははあくまで瞬間で迷いの心をぐっと押さえるに用いるのである。
その他の場合には止め息はしない。

○剣道は自分の修養のために行うものである。
ことは前回№63に述べたが、修養のためには自己を減却して修行しなければならない。
スピードと力で叩くことばかり考えて練習することが剣道を考えているのは間違いである。
もう少し守りを中心に考えねばならない。
あらゆる形は皆、己を守るために作ってある
(この守りは打たさないようにする受け方の意味と勘違いしないように)
この形を中心にして竹刀剣道の修錬を積めば、自らその眞理をつかむ事が出来るであろう。終り
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小さい 白い にわとり(昭和36年の国語の教科書から)

2019年08月27日 | 詩や短歌など




小さい 白い にわとりが、みんなに むかって いいました。

「この むぎ、だれが まきますか。」

ぶたは「いやだ。」といいました。

ねこも「いやだ。」といいました。

いぬも「いやだ。」と いいました。

小さい 白い にわとりは、ひとりで むぎを まきました。


小さい 白い にわとりが、みんなに むかって いいました。

「この むぎ、だれが かりますか。」

ぶたは「いやだ。」と いいました。

ねこも「いやだ。」と いいました。

いぬも「いやだ。」と いいました。

小さい 白い にわとりは、ひとりで むぎを かりました。


小さい 白い にわとりが、みんなに むかって いいました。

「だれが、こなに ひきますか。」

ぶたは「いやだ。」と いいました。

ねこも「いやだ。」と いいました。

いぬも「いやだ。」と いいました。

小さい 白い にわとりは、ひとりで こなに ひきました。


小さい 白い にわとりが、みんなに むかって いいました。

「だれが、パンを やきますか。」

ぶたは「いやだ。」と いいました。

ねこも「いやだ。」と いいました。

いぬも「いやだ。」と いいました。

小さい 白い にわとりは、ひとりで パンを やきました。


小さい 白い にわとりが、みんなに むかって いいました。

「このパン、だれが たべますか。」

ぶたは「たべる。」と いいました。

ねこも「たべる。」と いいました。

いぬも「たべる。」と いいました。

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ここで話は終わっています。

昭和36年、小学校1年生の国語の教科書に載っていた話です。
七五調のリズム感のある文章と、納得のいかない結末の印象は強く、
今でもそのままソラで言えるほどです。
娯楽の少なかった時代だったので活字に飢えていたのでしょう。
国語の教科書は、繰り返し何度も読んでいました。

奈良女子大学文学部附属小学校の星組。担任は小川先生でした。
授業ではサラリと流されたような気がします。
大岡裁きを期待していたのに、そこの記憶が無いからです。
「あとは自分で考えなさい」ということだったのかも知れません。
当時は、なんて理不尽な! 全部自分で食べれば良いのに・・と思っていました。

それから60年近く経ってしまいました。
人生、いろんな事がありますから、その節々に「小さい白いにわとり」を思い出します。
「これはどういう意味なんだろう」などと考えることもあるのです。

世の中、理不尽なことはたくさんあります。

「なぜ自分だけが苦労しなくてはならないのか・・」という憤りだとか、
「自分の苦労など、誰もわかっちゃいないんだ」という諦めだとか悲しみだとか、
そんなことは、数えきれないぐらいに経験してきました。

しかし立ち止まって考えてみれば、自分だって「小さい白いにわとり」ではなく、
犬や猫や豚であった事もたくさんあったはずです。
ただ気が付いていないだけなのです。

それに、もしかしたら、
犬は犬で、にわとりに出来ない仕事をしてきたかも知れない。
猫も、豚も、それぞれ、他の者にはわからない苦労をしてきたのかも知れない。

そう思うと、この「小さい白いにわとり」の話は、
働く喜び、そう「端(はた)を楽にする」喜びの話のような気もするのです。

この話は「白い小さなにわとり」からの一方的な視点での話で、
犬や猫や豚の視点で見ると、また違った話になるのでは無いだろうかと思うのです。
犬も猫も豚も、鶏に劣らない働き者なのかも知れないのです。

もちろん、中には本当の「なまけ者」がいて、
まったく働かずに食うだけの者がいるかも知れません。
それでも、ここには、麦を育てパンを焼き、皆で分かち合える余裕があるのです。
皆で分かち合える余裕がある豊かな土地・・が前提条件だと思うのです。
そうであれば一見役立たずに見える「なまけ者」も、
皆を和ませる役割、潤滑剤や緩衝材のような立場なのかも知れません。

-------------------

ただ一つ疑問は、「小さい白いにわとり」は、いつも「誰が撒きますか?」
「誰が刈りますか?」「誰が挽きますか?」「誰が焼きますか?」と聞いています。
これらの仕事が「小さい白いにわとり」の専任の仕事だとすれば、
このような問いかけにはならないはずです。

そこが、ずっと引っかかっていた疑問です。

自分しか出来ない(または、自分に任された)仕事なのに、なぜ問いかけるのだろう?

なぜ、黙って刈って、黙って挽いて、黙って焼いて、最後に
「おいしいパンが焼けたよ~!」「皆でパン食べようよ!」と言わなかったのでしょうか?

そこが「小さい白いにわとり」に感じた唯一不明な部分なのです。

もしかしたら「白い小さなにわとり」は、その節々に、
「あんた達、自分の仕事をきっちりやり遂げているの?」と、
暗に、かつ厳しく、それぞれの良心に問いかけていたのかも知れません。

全員、躊躇することなく「食べる」と言ったのは、
それぞれが自分の仕事を、誇りをもって成し遂げていた、ということなのでしょう。

-------------------

とりもいぬも、ねこぶたも、
じょうだんめかして ぐち いいながら
えがおで パンをたべました。
コメント (8)
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愛洲氏顕彰祭・剣祖祭(2019年8月25日)

2019年08月26日 | 剣道・剣術
令和元年度(第38回)愛洲氏顕彰祭・剣祖祭

小野派一刀流長正館として毎年参加している。
今年は都合のつく者が少なく2組だけの参加。
前日24日の宿泊は定宿の南伊勢町神津佐の民宿「海晴」。

今年は、大和柳生新陰流さんと山中念流さんと同宿である。
相方は広島の柳生新影流さんと別宿で宴会だそうな。
(これを失念していて海晴さんには大迷惑をおかけしてしまった)


(宿泊した民宿「海晴」)


(25日は早く到着したので付近を散策した)


(M氏とYちゃんの演武での打方のYちゃん)


(Yちゃんと私の演武、今度は私は打方)


(小野派一刀流「陰の構え」)


(演武が終わって)


(下で食事をして記念撮影)


【感想・反省点】

カメラの設定を間違えていて良い写真が撮れなかった。

相方は、突然の通風の発作で、演武も出れず、
城跡(山の上)にも行けず、急遽、Yちゃんのダブルヒッターとした。

Yちゃんとは初めての演武である。
演武としては悪くは無かったと思う。
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「水平の行者 栗須七郎」吉田誠宏のこと

2019年08月25日 | 剣道・剣術


長井長正先生の師は吉田誠宏だが、ネットで調べてもなかなか出てこない。
たまたま、廣畑研二著「水平の行者 栗須七郎」に、
吉田誠宏の記述があることをネットの検索で知り古本を取り寄せてみた。

コトバンク(https://kotobank.jp/)より

栗須七郎 くりす-しちろう
1882-1950 大正-昭和時代の解放運動家。
明治15年2月17日生まれ。小学校代用教員をへて逓信省の職員となる。
日露戦争に看護兵として従軍。大正4年差別事件をおこした故郷和歌山県の村長を辞任においこむ。
11年全国の創立に参加,中央委員をつとめた。
昭和25年1月21日死去。67歳。自伝に「水平の行者」。


廣畑研二著「水平の行者 栗須七郎」
第二節 細田剣堂と撃剣修行(133-134頁より抜粋)
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生駒山麓に道場を構え悠々自適の日々を送っている吉田誠宏が、若き日、堀正平とともに道具一式を担いで武者修行の旅に出たのは、明治四十年のことだった。北陸をまわったのち宇都宮の矢田貝弥三郎をたずね、水戸・東武館に立ち寄ったあと上京して有信館を訪れている。(30頁)
この思い出話をわたしが聞いたのは、亡くなる二年前である。生駒山麓の氏の自宅を取材でたずねたときで、それが数回目の訪問だった。(中略)氏は水平運動に共鳴してみずからも差別と闘ったり、この地に施療院をかまえて独自の施術で多くの重症結核患者を救ったり、剣道の精神を実社会で生かそうとつとめた人物だった。段位称号に目の色を変えている昨今の剣道家たちとは生き方を異にした。(231頁)堂本昭彦「中山博道有信館」

吉田誠宏は、剣術家として剣道界では知られた人物である。しかし、水平運動との関わりはまったく知られていない。吉田は、1920年代前半期に、大阪芦原警察署の剣道教師をしていたこともあるので、と水平運動の情報を早くから知り得る立場にあったといえる。また、吉田が武者修行のために「有信館」を訪れた時期は、栗須が「有信館」に通った時期とも重なる。さらに、後年「水平道舎」の書生となった鄭承博は、生駒山麓の仙人のような剣術家について記憶していた。栗須がこの仙人を訪問するときに、生駒山に同行したことがあるというのである。ただし、現時点ではこれ以上のことは分かっていない。生駒山麓の施療院とはいかなるものであったのか、吉田の水平運動との関わりはいかなるものであったのか、生駒の仙人は吉田誠宏であったのか、光を当てるべき人物とその思想と行動は、未だ発掘されていないのではないだろうか。
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文中の「生駒山麓の氏の自宅」の場所は、現在の東大阪市善根寺の山よりである。
聖和道場という剣道場とご自宅があった。(今は剣道場としては使われていない)

生駒山麓の施療院とは「孔舎衙健康道場」のことで、
現在は、近鉄石切駅近くに「パンドラの丘」として跡地が残る。

吉田誠宏先生の私設の結核療養所の跡地で下に詳細がある。

吉田誠宏先生について(2018年11月16日)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20181116/

全国武者修行記念と彫りこまれた木刀(昨日のブログにある素振用の木刀のこと)は
長正館に伝わって現在、私が保管している。
(この木刀についてはいずれまた紹介します)


「全国武者修行記念」とある。


「呈長井先生」とある。長井先生とは長正館の創立者、長井長正範士八段である。


その下に「七十六才 誠宏作」とある。

奈良の宝蔵院流のホームページにも、
西川源内先生が吉田誠宏先生のことを述べらているので、
せっかくなので、ここに紹介しておきます。

https://hozoin.jp/060201nishikawa.html

「西川、あまり強くなるなよ」と吉田誠宏先生にはよく注意されていました。より抜粋
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 生駒山ふもとの吉田誠宏先生のもとに稽古に行くようになったのは、川崎重工業に入ったころだったかその前からだったか、ちょっとと記憶が定かではありません。先生の聖和道場はできていないころです。稽古は近くの公民館を借りて行なわれていました。古賀先生、宮崎茂三郎先生など京阪神地区の先生方が多くいらっしゃっていましたね。掘正平先生もお見かけしました。誠宏先生は武徳会講習科の出身ですが、教員養成所二期生の堀先生とはほほ同期にあたり、親しかった。そんなことから堀先生もときどき顔を出されていたようです。
 風呂たき兼雑用係が私の役割でしたが、大先生がたのお世話をすることが嬉しく、毎回、ほとんど欠かさず通っていました。
 いろんな先生から稽古をいただきました。誠宏先生ですか? もちろんです。当時、私は、当たる盛りというか、とにかく打てばぽかぽか当たるんです。ところが稽古が終わって挨拶にいくと「西川、あんまり強くなるなよ」と先生はおっしゃる。毎回、そうです。強くなるなとは、いったいどういうことなんだ……。そのころの私は、機会とみたらすかさず打たなければいけないと思っていました。ですから誠宏先生のおっしゃる深い意味は解るはずもありません。しかし何度となく言われているうち、さすがに少し考えるようになりました。
 先生は、相手の心が動かないところでいくら打っても、それは当てようとするだけの無理な打ちでしかない、相手の心を動かし、そこを打つ、それが理合にかなった剣道の打ちである、理合を考えて稽古をしなさい、と言っておられたのです。理合にかなった稽古というのは心の問題が大きなウエイトを占めています。その心を先生は「強くなるなよ」という言葉で説かれていたのです。
 理解するまで多くの時間を要しました。一、二年? いや、もっとです。
 私は仕事で出張するときは剣道具を担いで出かけ、行ったさきざきで稽古をしていました。およそ全国を廻ったといってもいいでしょう。東京では必ず妙義道場へ出向き、持田盛二先生や佐藤卯吉先生に稽古を頂戴しました。講談社の野間道場が再開されてからはもちろんそちらの朝稽古に参加しました。このような点の稽古の集積が私の剣道修行でもあったというわけです。
 出張から帰ってくると、日曜日にはまた誠宏先生のところで稽古です。理合の重要さが少し解ってきたころでしょうか、先生に稽古をお願いすると、今度はさっぱり打てなくなりました。いくら攻めても先生の心を動かすことができず、したがって打つべき機会が見出せないのです。それどころか、こちらの心の動きが先生の心にすべて映っているらしく簡単に打たれてしまう。結局、掛かり稽古から、打ち込み、切り返しの稽古になっていました(笑)。年齢ですか? そのころ私は、まだ40歳にはなっていなかったと思います。ええ、ですから私が心の問題を真剣に考えるようになったのはずっと早いころからです。
 柳生の正木夜道場で行なわれていた中堅指導者講習会、私はあの講習会の講師を第7回から30年以上にわたって務めました。主として心の問題を取り上げて指導しましたが、どうしたわけか講習生は乗ってこなかった。なぜだろう、と考えました。理由は講師と講習生の年齢の差にあったようです。何人かは熱心に聞いていました。心の問題に気がつけば剣道が一段とむずかしくなり、同時に奥深さも面白さも新たになります。講習会で興味を示したその何人かがどんな剣道に変わったか、できるなら見てみたいものですね。
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調べるにつけ、吉田誠宏先生の生き方、人生観、
剣道に対しての姿勢がわかってきたように思うのである。

(この項、未完につき、追記、書き換えの可能性あります)
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No.63(昭和62年6月5日)

2019年08月24日 | 長井長正範士の遺文


○修養とは
ひとことでいうと、自分の欠点に打勝ってゆくことをいう。
そして心の修養の位で攻めるも道の大切なところである。

さて我々剣道を修行する者は、物の大切さを考えると同時に
自分の肉体の大切さを考えねばならない。
そして健全なる肉体から生ずる心の持ち方を修養してゆくのである。

○日本は世界位置長寿の國といわれているが、女性が80才、男性が75才まで伸びており、
誠に結構な話であるが、それでよろこんでいてよいのであろうか。

それ等の老人達に長生きして幸せかどうかを聞いてみると、
その殆どの人達は思いやりのない社会で生きてゆくのが、
とても淋しいと言っているようである。

故に一家族の肉親愛を外へ広げてゆく、即ち人間愛まで高めてゆくことこそ大切である。
これには先ず自分の住まいの手近な地域社会のお互いを助け合いをし、
やがては大阪人なら大阪を愛し(郷土を愛し)近畿を愛し、
日本国民を愛するまで輪を拡げ、愛国精神に目覚めなければならない。
ここに剣道の意義があるのである。
実に剣は愛なりと言いたい。

○感謝謝恩について。
曽て(かって)吉田誠宏先生と八幡の円福寺へ修行に行った時のお話。
雲水は食事のあと、茶碗を拭く。
これはどれだけ綺麗に食べても、のりが三粒分ぐらい残るので勿体ないからである。
だから水で洗わないのである。

雲水は三勺の米でお粥一人分である。三合の米をお粥にして十人で食するのである。
吉田先生が曽て禅の修行に始めて入られた時、雲水が食事したあと、
そのお粥を食べられるのであるが、おも湯ばかりで、米粒一つも残っていない。

よくもまあこんなに上手に最後の米粒まで掬って(すくって)食べたものよと感心し、
腹ペコペコでそのおも湯ばかり飲んでた。
ある日のこと、おも湯を飲もうとしていたところ、炊事係の雲水が
「吉田さん、川へ行って来なさい」と言われたので、
何んのことか判らないまま、すぐ近くの小川へ行ったところ、
何んの変わったことも無いので、暫く思案していたが、ハッと気がついたのである。

そこに百姓さんが、大根や葉っぱを洗うところがあって、
そこに葉っぱの切れはしや、黄色い葉っぱを捨ててある。
これを見て「ああ、そうだ、これを拾うてこいと暗示してくれたのだと喜こび、
持って帰って、きざんで、おも湯の中へ入れて炊いて食べようとしたが、
如何に腹ペコでも水くさくて食べようがないと思った時、
雲水が黙ってひとつまみの塩を茶碗の中に入れてくれた。

その美味しかったこと、生涯その味は忘れられない。
有難くて涙が一杯出たのである。
私はお膳のお粥を前にして思わず先生のお話に心を打たれ、
とどめなく涙を流したのである。

その時のお粥の塩加減のよさ、温かさ、とろっとしたねばりの美味しさは
今も口中に残って忘れる事が出来ない。
禅宗では、このことが、即ち健康に対する精神的な救われになってゆくのである。
感謝報恩の生活をしてゆく。そこに人生のよろこびある。

○吉田誠宏先生の一日。
午前6時起床、寝床で体操、発生げいこ。道場参拝、四股(しこ)を踏む。
打込台に対す。静中動あり、動中静ありを修業する。大木太刀で素振りする。
(この素振用の木刀は誠に重いもので、椿の古木で作られたもの)
朝食、畑仕事、夕方道場へ参拝、後、午前に同じ。
夜10時就寝。睡眠時間は8時間である。以上が先生の日課であった。
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木曜会定例稽古(2019年8月22日)

2019年08月23日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時から21時20分まで。今年28回目。参加人数20名ほど。
相変わらず暑いが盆前よりはマシかも。

少し思うところがあり前回からは詳しくは書かない。
悪しからず。

---稽古前---
S山さんの七段審査のビデオより師匠のアドバイス。
123の足捌きではなく111という細切れの足になっている。
気迫が足りない。腹が出来ていない。ソワソワした感じに見える。
すりかぶりをしっかりやって前に体重がかからないように。


(1で入って前に体重がかかっている悪い例)


(1で入って左足でしっかり立って、いつでも打てる体制)

---稽古---
面を着けずに素振り、2人組での竹刀打ち。
(すりかぶりから、1、2、3から、攻め入りの工夫から)

懸かり手が123と足を出す。
受け手は懸かり手の123のどこでも良いので打つ気配を見せる。
受け手が気配(目を見る)を見せたら懸かり手は間髪を入れずに面を打つ。

最後の15分間で、面を着け3人組み。
右足スイッチから、起こりを打つ稽古。
切り返しで終了。

---お話より---
構えが即打つ体勢になるかというとそうでも無い。
構えから予備動作にどう移るか。
腰から入る。足を出していつでも打てる体勢。左足の踵は下ろしている。
動作として攻めを表す(前足に体重がかかりやすい)のではなく、
「気の攻め」として相手に通じるには、いつでも打てる体勢になっていること。

相手によって変わるので、相手のクセをよく見て判断すること。
123の一歩目は小さく。下がるクセの相手には追い込むように。

遠間で構えた時の構えと交刃の間での構えは違う。


(拡大)


【感想・反省点】

足を出には出すのだが、打つ体勢になっていないことはよくある。
漫然と足を出したら相手のほうが、すかさず打ち込んでくることもある。
打ち気にはやってしまうと、いつの間にか前かがみになってしまったりもする。
きょうの稽古方法は良い。普段の稽古でも取り入れたい。

師匠より「粕井さんはここに来て5年ぐらいになるかなあ」と言われた。
調べたら、平成22年(2010年)1月からほぼ毎週来ているのがわかった。
足掛け10年にもなるのだ。しかし10年の修行の割にはまだまだ未熟である。

しかしながら、理屈(理論)で剣道するのは良いことだ。
迷った時に、戻れる基本があることは良いことだ。
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長正館定例剣道稽古(矢田中学校、2019年8月21日)

2019年08月22日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
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【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
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本日は鍵空け当番?で18時半には到着した。
夏休みなので学校には誰も居ないようだ。
体育館の中は蒸し風呂状態。窓、扉を開け、扇風機を回す。
少しはマシになりつつあるかな?

稽古は11人。うち小学生3人、中学生2人。
稽古は準備運動のあとは、木曜会に準じた素振りを行う。
そのあと二人一組で竹刀打ちの稽古。

休憩のあと面を着けて二足一刀の面打ち、切り返し、基本打ち。
残り10分ちょっとは自由稽古とした。
私は面を外して子供の指導。


(みなが次々と集合する前)


(剣道形稽古)


(基本稽古)


(地稽古)


(地稽古)


(稽古終了)


【感想・反省点】

---本日の指導---
切り返しの刃筋は斜め45度であること。
切り返しの元立ちは一刀流の陽と陰で受けること。
発声は剣先が触れ合う前まで。
打ち間は案外と近いこと。
肩を使った打ちをすること。
体幹を鍛えて姿勢を崩さずに打つこと。
基本打ちでも相手のレベルに応じて難易度を高くすること。
応じ技は、自分から一歩入ること。打ってきたから応じるのでは無い。
打ったあとの肩残心の方法。

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たいして身体を動かしていないのにマジでバテた。
久々の稽古のせいもあるがエアコン三昧の生活のせいでもある。
着替える前から汗だくだったが稽古を始めると滝のような汗が出る。
皮膚にたまった塩分が目にしみる。稽古不足だと目にしむ塩辛い汗が出る。
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工房・・・静かな時間

2019年08月21日 | つれづれ
ともかく安らぐ部屋である。
食事が終わって就寝までの時間はここで過ごす。

テレビは嫌いなので工房にテレビは置いていない。
というか、地上波がデジタルに変わった日から私のテレビには何も映らない。
もっとも、22才で独り暮らしをし始めてから42年間、NHKとは契約していない。
もっぱら情報は新聞とネットからである。

音楽を聴きながらパソコンをいじっている。
部屋の明かりは小さな吊り下げ電灯と百均で買った電池式ローソク2個。

ほどよくエアコンが効いた工房で、
バーボンのロックなど飲みながら静かな時間が流れている。

私の至福の時間

いろいろ考えている時が多いのだが、
何も考えたくない時もたまにはある。
眠ったままのオーディオを設置するかどうかは思案中。


(暗くして、小さな電灯と擬似ローソク2個)


(百均の電池式ローソクは安全で雰囲気も良い)


(電球の笠は使い捨ての鍋焼きうどんのアルミ鍋)

このアルミ鍋は、自由に折り曲げが出来るので、光の調整が出来て案外便利だ。
今のところ、これ以上のものが見つかっていない。廃物利用の優れもの。
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No.62(昭和62年6月1日)

2019年08月20日 | 長井長正範士の遺文


ままを受け入れ、生かしたのです。人の失敗を許す心、とがめない心は、
まさにすべてを受け入れることの出来る開かれた心と言えましょう。

○利己心は心を曇らせる。
我々の心には」、こうしたい、ああもしたい、これが欲しい、
あれが欲しいというような、さまざまな欲求があります。

それ自体は善でも悪でもありません。然しともすると他人や社会の利害を考えないで、
自分の欲求だけを満足させたいとする自分中心の心が働きやすいので、
これ等は利己心と言えましょう。

相手の立場に立ち、相手を理解し、受け入れる心を開かれた心というなら、
閉ざされた心はこの利己心と言えるでしょう。

人を非難したり、妬んだり、自分をよく見せたいというような気持も利己心です。
これは仏教でいう煩悩にあたるでしょうか。

物や名誉、権力などを限りなく欲しがる心、このような利己心をもっていると、
物事を正しく見、正しく考え、正しく行動することが出来なくなります。
その結果、失敗しても「すみません」という素直にあやまることが出来なかったり、
人の善意を「有難う」と素直に受けとれなくなってしまいます。

更に、自分の間違いを正す勇気も持てずに、
色々と理屈をつけては自分の立場を貫こうとします。
然もそれが正しいことだと思い込んで人に痛みや、苦しみを
与えているのにも気ずかないことが多いのです。
人生のさまざまな悩みのタネはこの利己心が作っているのではないでしょうか。

○利己心を取り除いていく
「論語」の中で、門人が孔子の人格をたたえて
「意なく、必なく、固なく、我なし」と述べています。

「意」とは自分の考えだけで判断するということ。
これは自分勝手な考え、自分本位の行動が全くなく、どのような場合でも
相手の立場を思いやって行動することの大切さを述べています。
つまり自己にとらわれる心、利己心を取り除くことが大切だということでしょう。

では私たちの心を曇らせている利己心を取り除いていくにはどうしたらよいのでしょう。
それには先ず一つの例をとって話してみたいと思います。

○ここにガラスのコップの中に墨汁が一杯入っているとします。
その中へ、少しずつ綺麗な水を注ぎ込んでゆくうちに、
やがてコップの中は綺麗に澄んだ水へと変わっていくます。

かりにこのコップを私たちの心とします。中の墨汁は利己心です。
すると注ぎ込む綺麗な水は一体何でしょう。
それは相手の立場に立ち、相手を受け入れる素直な心、開かれた心と言えるでしょう。

例えば人を育てようとする低い、やさしい心、すべての人に対する深い思いやりの心です。
人に満足や安心を与える心、人の長所や功績を認め、欠点があれば補っていく温かい心です。
これ等を道徳心、又は慈悲の心とも言えます。
このような考えから自分の閉ざされた心がだんだんと開かれ、向上し、
思いやりにあふれてくれば、相手のよい点がよく見えてくるものです。

以上はニューモラル(新しい、これからの道徳)の教えであり、
私自身、一刀流の切落の精神と相まち剣道即実生活の實を挙げたく、
これからも益々修養を重ね剣は愛愛なりの精神を体得すべく
皆さんと共に精進して行きたいと思っております。
この項 終り
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とんぼ堂の工房で雑材整理(2019年8月17日~18日)

2019年08月19日 | つれづれ
大まかな物を片付けたのが5月の連休中で、
そのうちに、やろうやろうと思っていた細かい物の整理は、
根っからの怠け者気質のせいで足元は散らかったままだった。

あまりにひどいので、この土日に工房の片付けをした。
二日間も家に居たのは何年ぶりだろう。
10年ぐらい前、インフルエンザで寝込んだ時以来かも知れない。

今回は、工具やビス、部品などの細々したものの整理。
工具は用途別に、釘やビスなども種類と大きさ別に分類していく。
「いつか使うのではないか?」というようなものは今回思い切って廃棄処分にした。

単純な作業だが単調で時間はかかる。
しかし好きな音楽を流しながらなので苦にはならない。

これでようやくスッキリ片付いた。


(分類してパーツ入れに入れていく)


(東側)
中央やや左の空色の道具入れは、ホワードで廃物処分になっていた古いもので、
別館売却の際に廃棄場から持ち帰って、現在も道具箪笥として現役で使っている。
あまりに古い物なので、もしかしたらフタバヤ時代のものかも知れない。
それなら私と年はあまり変わらないかも。


(西側)
左には木刀掛け、正面の上の棚にはキャンプに使う小道具が並んでいる。
上からは槍が吊り下げられている。
小太刀の一つがキッチンペーパーホルダー代わりなのはご愛嬌。


(南側)
額は、笹森順造第十六代宗家の直筆「修文錬武 為長正館 笹森順造」で、
2017年8月に、左の時計とともに、ゴミになるところだったのを持ち帰ったもの。


(北側)
少し大きめの道具類は分類してこの棚に収納した。
やや右下の大きなダンボール箱は、ホワードで使われていたケトポン(商品入れ)である。


(南側を外から撮影)
南側の外はウッドデッキになっていて、そのまま出られるのが便利。
切断、研磨、塗装などは、このウッドデッキの上で作業が可能である。
上の写真は、折れた小野派一刀流の大刀から小刀を削りだしているところ。

最近は、工房で一仕事をしてから東大阪の事務所に出勤している。
混んでいる時間を避けるため、20~30分遅く出るのだ、そう遅れることもない。
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No.61(昭和62年6月1日)

2019年08月18日 | 長井長正範士の遺文


◎朝げいこの皆さん、その後、京都大会や何やかやで暫く私の話をコピーして
皆さん、お渡し致しませんでしたが、4月17日(金)の朝、お渡し致しました分から
整理して漸(ようや)くまとめましたので、再びコピーしてお渡し致したいと思います。

ちなみに、今迄の№1から№60までひと区切りにし、第一編とでも致しまして、
№61からは新たに第二編のつもりで述べて行きたいと思いますので、
又、総論のような所から入ってゆきたいと思います。

○日本の国体ほど大宇宙の眞理に叶った国は世界中にない。
1、天照大神=天照(あまてらす)=太陽の事であります。
2、日本という國名と国旗、日の丸を考えて頂きたい。
3、神武天皇は武の神様であります。
4、日本は天皇と申し上げる。即ち天の皇(御子=皇)と言います。
5、他国は天皇という名称はありません。皇帝とか、大王、王、帝王という名称はあっても
天の皇(みこ)は日本の国だけであります。
この項は№26の国体の項に続いて心にとどめて頂きたい。

○心について
1、心から出た言葉は相手の心に響く。
2、心を磨けば顔も輝く。
3、心のたんれんした者は技が正しい。
4、心廣体胖(ひろし=寛大さの意)=四書の中の大学にある。
即ち心広ければ肉体も豊か(ゆたか)。心と肉体がひろくゆたかであること。
更に進んでは心せまく、わが肉体の煩い(わずらい)を、くよくよと気にしてはいけない。
病は気からと言われるように心を病に止めず心を大きくもってすれば体もゆたかになり病気しない。
ということで、これを額に書いて湯川胃腸病院の待合室の正面に掲げてある。
湯川院長のお兄様である、故、湯川秀樹博士の書かれたものである。
私はこれを見て大変教えられたのである。
流石、湯川胃腸病院の評判のよいのは、ここに在ると、
つくづく湯川先生の仁術に感銘を受けたのである。
とかく此頃の医者に気をつけなければならないのは算術の藪医者の多いことである。
心すべきである。
5、心は外に出すものではない。体内に安らかに納まっておらなければならない。
剣道で打とう打とうと思い続けて叩き合いするのは
心が外に表われ心が動き相手にも心を迷わせられるのを戒めねばならない。
昔からよく歌われている歌に“心とは如何なるものを謂うやらん、
墨絵に画きし松風の音”胸に手を当ててよくよく吟味すべきである。
心については№6、21等、再度読んで頂き修養のかてとして頂きたい。
尚、以前、口頭で言いましたが
“心とは心に迷う心なり、心に心、心変るな”
生涯修養である。次に心に関する一つの物語を記しておく。

○或日、ある寺の和尚が庭に咲いた由緒ある椿のひと枝を、小僧に命じて
茶人宗旦(千利休の孫で千家流茶道を創立した江戸時代の茶人)のもとへ届けさせました。
ところがどうしたわけか、椿の花は途中で落ちてしまったのです。
小僧はビクビクし乍ら、宗旦に自分の失敗を詫びました。
ところが宗旦は小僧を茶室に招き入れると、床の間に、利休作の竹の花入れをかけ、
その中に椿の枝を入れ、花入れの下に落ちた花を置きました。
そして薄茶一服を点じて「ご苦労さん」と、労をねぎらったというのです。

この逸話を聞いて某氏は、ほっと心に安らぎを覚えたのです。
労をねぎらうというのは相手を大切にする心の表れです。
宗旦はビクビクしている小僧さんの気持ちをすっぽりと包みました。
そして落ちた椿の花もそのあるが(この項 続く)

註:№53に昔の武士訓の心を紹介しておきました
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No.60(昭和62年4月12日)

2019年08月17日 | 長井長正範士の遺文
主なものを挙げてみると。



備考
まだまだ澤山あるが、このくらいにとどめておく。
何かの話のあやにもなれば幸いである。 この項 終り。
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