唯物論者

唯物論の再構築

唯物論17(人間5)

2012-11-10 10:36:02 | 唯物論

 人間とは意識であり、その存在は自由である。ただしその自由の根拠は、意識の内部には無い。意識の自由の根拠は意識の外部に存在しており、それは意識にとって自由を保証する権利として現われる。ところが意識にとって自らの自由は、アプリオリに自らの権利であり、意識の外部世界に自らの自由について許可を請う必要も無いし、自由を得るために俗世の世話を受ける必要も感じていない。そもそも自由とは、制約を持たないことである。もし自由に規則があるのなら、それは自由ではない。このような意識の言い分は、意識が意識である限りにおいて常に正当である。逆に言えば、意識が意識としての資格を無くす限りにおいて、すなわち意識が物体化する限りにおいて、それは単なる傲慢であり、嘘となる。しかしこの正当性に従い自由の根拠を意識内部に認めるなら、意識の受動性は全て捨象され得るし、意識は純粋な能動性になる。当然ながらこの意識は既に、アプリオリに世界から切り離された自己原因となる。サルトルはこのような純粋な能動としての意識を、現在そのものとして、さらに行為そのものとして理解した。つまり自ら所有する過去を切り離し、存在としての未来を構築する意識こそが、行為としての現在だと考えられた。
 一方で、意識が自らを過去から切り離すことは、意識自らの自由の足場を失うことでもある。行為の理由は意識のうちに動機として存在し、動機とはすなわち意識の過去だからである。このようなジレンマに対して、自らの足場を確保しながら、その足場を切り離す一つの考え方として、意識が自らの過去を無意識の中に隠匿するというフロイトの精神分析学がある。しかしサルトルは、無意識のうちに動機を見出すこの考え方を拒否している。この方法では意識の自由が無意識の自由に転じてしまい、意識が無意識に支配されてしまうからである。つまり意識としての自己が、無意識と言う他者の奴隷に成り下がるからである。そこでサルトルは、過去を表現する動機の代わりに、現在を表現する動因という言葉を用意した。動因とは過去を持たない刹那的な動機のことである。それは、無意識という背後世界の錯覚を避けて、サルトルが最初に逃げ込んだ先である。それによりサルトルにおいて行為は、過去の動機に従うのではなく、現在の動因に従うこととなった。ところが過去から切り離された行為は、動機を持たない無方向の運動にすぎない。そしてこのような無方向な行為が目指す目的も、恣意的な未来でしかない。

 このような刹那的な実存主義の代表者は、実際にはサルトルではなく、カミュである。人間の自由が過去の支配からの離脱であれば、人間の行為に対していかなる解釈の余地も有り得なくなる。そのとき人間の行為に対する全ての解釈は、行為主体にとって無意味なものとして現われる。つまり世俗的な行為解釈の全ては、「異邦人」の主人公が嘲り笑ったように、行為主体にとって単なる戯画でしかない。自らにおいて理解できない自己を、赤の他人である世間が理解できるわけが無い。それを知り得ると考えるのは、行為主体からすればただの不遜だと言うわけである。すぐわかるように、この絶対自由の論理は、不可知論と同じ構造を持っている。不可知論は、対象の背後的実体を前提にして、認識対象の不可知を宣言した。同じように刹那的実存主義も、自己の背後的実体を前提にして、意識の絶対自由を宣言している。物自体について誰も知り得ないのと同様に、意識本体について誰も知り得ないのである。そしてこの論調の欠陥も、不可知論と同じところにある。知り得ないはずの物自体の存在を不可知論者が知っているように、実は刹那的実存主義もまた自らの刹那の動機の存在を知っている。言い方を変えれば、不可知論は物体が見えているのに、その見えたことを信じない。刹那的実存主義もまた動機が見えているのに、その動機の存在を信じていない。
 刹那的行為では、その恣意性が意識の自由を体現している。しかしその自由は無根拠なままに留まる。この観念論的自由は、権利を持たない自由であり、可能なだけで現実的効力を持たない。簡単に言えばそれは、人間の自由ではなく、単なる時間推移にすぎない。この結末は明らかに、ハイデガーではなく、フッサールの現象学への回帰である。しかし人間の行為に対するこの不可知論は、虚偽である。行為主体は自ら動機を知っており、動機とは常に行為主体の過去だからである。言い換えるなら、現在は常に自らの過去に基礎を持っている。したがってここでの不可知論は、個人の内面を他者が知り得ないというだけに留まる。そしてこのことは、例え行為が偶然に支配されていたのだとしても、偶然の支配を許した点で行為主体は既に責めを負う必要があるのを意味する。つまり「異邦人」の主人公は道義的責任を持っており、その罪に応じた罰を受ける必要がある。もちろんその罪に対する道義的責任は、無軌道な主人公を生み出した社会全体も等しく負っている。

 サルトルは、過去が行為の動機として現れるのを嫌い、未来の側に行為の動因を規定する役割を託した。結局サルトルは、過去の動機に対抗して生み出した刹那的な動因を捨てて、再びハイデガーの思索の後をなぞる形で、意識に対する未来の規定的優位、すなわち行為に対する目的の規定的優位へと落ち着いて行く。「存在と無」におけるサルトルの記述では、過去と未来、または動機と目的の間で、相互の規定的優位の扱いがとぐろを巻いて動揺している。その弁証法的な動揺は、過去の捨象を完了させた途端に過去の事実性を持ち出し、未来の規定的優位を完了させた途端に未来の無根拠に対して自ら突っ込みを入れるという具合である。ただしサルトルは一貫して、過去および即自存在を、人間の自由に対立する忌まわしき汚物のように捉えている。その嫌悪ぶりは、カントが経験論および唯物論に対して示した態度と共通している。カントとの違いがあるとすれば、サルトルにおいて意識の自由を根拠づける過去が、常に理念に対する反面教師の形で現われる点である。つまり過去とは時代劇の悪代官であり、未来と言う名前の水戸黄門を引き立てるために存在する。しかしこの発想は、予定調和の成立を前提にした目的論的逆転である。別に悪代官は、水戸黄門の威光を示すためにこの世に生まれてくるわけではない。したがってこの発想は、過去を悪とみなし、未来を善とみなすだけの子供じみた勧善懲悪に終わる。人間論が反逆に価値を見出すだけに終わるなら、サルトル版の造反有理が目指すのは、終着点の無い革命の永続であり、共産主義ではなく無政府主義でしかない。
 サルトルは行為の無動機を前提にして、逆に未来から個人の動機を再構築することを考えた。そして彼は、その再構築した過去に状況と言う名称を与えた。なるほど人間の行動パターンを見ると、彼が試みた遠回りの動機構築は有効に見える。人間的意識は、アプリオリに自由であり、自己原因だからである。そして理想的な人間は、理念が先行する形で行動すべきである。またそうでなければ実存主義的人間は、サルトルの目指した政治的超人ではなく、カミュの無軌道な利己的人間に終わってしまう。ただし個人の動機を意識が再構築するというサルトルの考えは、結局観念論である。理念が先行する形で行動する人間の姿は、意識が再構築した状況から説明するのではなく、個人の現実的過去から説明すべきである。つまり行為の動機は、やはり過去において存在すべきである。

 サルトルの状況概念の有意性は、個人が自らの過去を無化するところにある。言い換えるとそれは、サルトルにおける理想的人間が、自らの過去を全て浄化し、その恩讐を越えて再出発するところにある。しかし人間の自由において問題とすべきなのは、過去の支配からの離脱ではない。人間の自由において問題とすべきなのは、悪の支配からの離脱、または虚偽の支配からの離脱である。過去の支配は、それ自体として必ずしも人間の自由に対立する忌まわしき汚物ではない。逆に人間の自由に必要な過去の権利は、堅持されるべきであり、その支配は継続されるべきである。なるほど過去の支配は、サルトルが思いみなすように、人間の自由に対立するかのごとく現われる。しかしその正体は、個体の生存に対立して現われる自然の姿であり、または個人の自由に対立して現われる国家の姿にすぎない。ただし一般的に国家による人間の支配だけが自由への対立物として現われ、自然による人間の支配は自由への対立物として現われない。例えば災害において身体的自由を失った場合でも、自由に対立して現われるのは、災害をもたらした自然ではない。人間的自由の脅威は、常に生活保障をできない社会の仕組み、正しく言えば、生活保障をできたはずなのに、生活保障を放棄せざるを得ない社会の仕組み、さらに言えば生活保障の原資を吸い取り、それを富者に譲渡する国家として現われる。したがって人間の自由における問題とは、一般的な過去の話などではない。それは対立して現われる二つの過去の問題であり、私の動機を凌駕する他者の動機の問題であり、具体的に言えば貧者の所有を支配する富者の所有の問題、すなわち貧者と富者の間で対立して現われる権利の問題である。
 唯物論者は、唯物論と観念論の基本的な対立図式に従い、サルトルの状況概念を切り捨てるべきである。なぜなら意識を規定するのは、理念ではなく、物質だからである。ただしその答えは、カミュ型の無軌道な人間の選択に進むわけではない。真理が物理的な過去として存在する以上、当然ながら人間は無軌道になり得ないからである。また個人は自らの私的過去に拘泥し、それを動機として行動する。ただしその答えも、カミュ型の利己的人間の選択に進むわけではない。真理が普遍的な過去として存在する以上、当然ながら人間は利己的になり得ないからである。この物理的かつ普遍的な真理は、貧者には貧者のための姿、富者には富者のための姿をして現われる。しかし物理的実在がいずれの姿で現象するかを規定しているのも、やはり意識などではない。
(2012/11/10)


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