感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路道の石道標
四国の遍路道には多くの古い石道標(「道しるべ」)が残されています。
角柱のもの、自然石のもの、地蔵の台石や常夜灯に刻まれたもの・・など種々。
道標の設置企画者、スポンサー、これは一般には願主、施主と呼ばれていましたが。願主として知られる人をあげると、まず江戸初期の僧「真念」、江戸前中期の木食僧「佛海」、江戸中後期の「武田徳右衛門」、「照蓮」、「聖心」、江戸後期の五島、「川のや政吉」(「政吉の手指し」で知られる)、そして明治から大正にかけて240基以上の道標を設置した「中務茂兵衛」。また、地域を限定した願主として、今治の「清道」、小松の円柱石で知られる「和田屋利平」、西條の「すし駒」こと日野駒吉、等々・・
石の表には、歩く方向を示す「右、左」、「指差し」や「手指し」、「〇〇寺 従是(ここより)〇里〇丁」など。数少ないながら、遍路への注意事項や、願主や施主の遍路への思い、亡き親族への想いを伺わせる刻文もあります。
その途上、こういった「道しるべ」に出会い、古の遍路人の思いに接することは遍路歩きの楽しみの一つであると、私は強く思います。
大正、昭和に入ると、道標の設置は少なくなっているように思えますが、逆に特定の場所に集中して独自の標石を設置する人も現れます。(例えば、昭和初期の益田喜一(アワ益田)、昭和30年代の中尾多七(あの線描き矢印と「へんろ道」だけの簡素な・・)など)多くの方々のお叱りを覚悟の上で、上記の私の勝手な思いに免じて、大正期以降の標石についてはできるだけ省かせていただきたいと・・
結果、記載した石道標等は明治初期以前に設置されたと思われるものを中心とし、極一部大正期までのものを含むことになりました。
また、元の設置場所が不明で博物館などに保存された道標等については除いています。
江戸期、明治期に設置された主要な石道標(寺への丁石は含まない)に中務茂兵衛道標を加えてその諸元を国(県)ごとに示します。
道標(阿波、徳島県)
道標(土佐、高知県)
道標(伊予、愛媛県)
道標(讃岐、香川県)
急ぐ遍路の途上、道標の刻字を読み取り記録しながらの歩行は大変なことです。(劣化により読み取り難い刻字も増えていますし・・)
道標の諸元の多くは、Webにより提供される情報に頼っています。情報提供の諸兄、お許しのほどを。
公的機関の調査データなどは地元の図書館などに拠れば得られると思いますが、それもさぼり勝ち。もしそういう機会でもあれば、諸元内容の修正、追加を行いたいと思ってはおります。これも、ご容赦。
なお道標の設置場所については「遍路道地図」に示しています。お役立てくださればうれしく思います。
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誰・時代は読めません。太龍寺と平等寺への手の矢印は見えます。四国の道になっています。今は遍路で大石神社の近くに行く人はほとんどいないので写真に撮っているのを見たことがありません。
道標の一覧表の文字が小さくてよく読めないので、もしかするとすでにリストに載っているかもしれませんが。
不十分な道標リストで申し訳ありません。
阿瀬比の県道南側では、遍路小屋直南の茂兵衛道標と大根峠に向う道の真念石を載せています。太龍寺と平等寺への指差しが見えるところからすると、ひょっとすると茂兵衛道標かと・・