小豆島霊場巡礼日記(その4)

小部の旅館を早朝に発ち、峠を越えて吉田へそして福田に向かいます。最初の豆坂峠(標高340m)まで2.14k、吉田庵まで4.5k、そこから福田庵までは1.73kの行程です。
例によって猪除けの柵を開けて山道へ。石の多い歩き難い道、急坂には小豆島へんろ道特有の鉄パイプの手摺が設けられています。これが足弱の私には大きな助けとなるのです。1kほどで山の鞍部に出て、道は緩やかになります。小部の街と海が展望できます。


山道の入口


急坂

 道標


石の多い道


小部の展望

 道標

 峠

(余文:なお、昭和初期の国土地理院地図を見ると、この峠の少し南側にも峠道があり直接福田へ通じています。この道の方に「豆坂」と表記があるのです。吉田ダムの建設により、南側の峠は廃道化し、吉田に通じる道が豆坂とよばれるようになったと思われます。)
峠からの下りも石の多い道で膝に応えます。830mで吉田ダムの湖畔へ。
ここからダムを右に見る道。当然、ダム建設(1996年竣工)以降の新しい道で、コンクリートが流してあったり鉄パイプ橋が付けられたり。浮石も多く気持ちのよい道とは言い難い。
やがて反対側からは「立入禁止」標示のゲート。
ダム堰堤(堤高74.5m)に沿って階段を下る。逆に上ることを考えれば我慢できようが、ここも気が滅入るようなへんろ道。


峠からの下り道の地蔵

 吉田ダム


ダム湖畔の道

 吉田ダム

 ゲート(振り返る)

 堰堤の下り道(階段)

吉田の青い海が見えてくると82番吉田庵(本尊 薬師如来、納経 84番) 弘法大師の創建と伝える。本尊は特に眼病に霊験あらたかと古くから住民に尊信を集める。

 吉田庵

ここから次の83番福田庵に行くへんろ道は、少し戻り橋を渡って公園の中を過ぎ、いざり坂(標高200m)を越える道。距離は短いがこのいざり坂は極め付きの急坂。石も多くはない土道と聞きますが、豆坂を越えてきた私の膝は悲鳴を挙げています。
吉田の集落に出て福田港までのバスを待つことにします。

  いざり坂を望む(山の鞍部)

83番福田庵(本尊 薬師瑠璃光如来、納経 84番) 本尊薬師瑠璃光如来は恵心僧都作と伝える。

 福田庵、後方の山の鞍部が「いざり坂」

 雲海寺へ

 雲海寺へ

84番雲海寺(本尊 如意輪観音) 行基菩薩の開基、弘法大師の霊場開創と伝える。

 雲海寺

雲海寺境内に 85番本地堂(本尊 弁財天、納経 84番)。本尊弁財天は、当地 葺田八幡神社の本地仏であったが明治の廃仏毀釈により遷移された。本尊弁財天は恵心僧都の作と伝えられる。

 本地堂


雲海寺、本地堂


寺より福田港展望


福田港を出てゆくフェリー

(また余文)福田から当浜(あてはま)への道として、海岸線に沿った国道が開設される以前は「めくら坂」とよばれる旧道(標高200mほどの峠越えの道)があったそうです。この道は、国道開設以降もへんろ道として採用されてきたようです。ところがこの道の中ほどにゴルフ場ができ通行が困難となったため、現在はへんろも国道を通るよう勧められている・・こんな話を聞きました。(この道、現在の地図にもゴルフ場の北と南に残っています。今は福田側の入口付近には手摺のあるコンクリート階段、微妙な位置に「→へんろ道」の石標があります。おそらくこれが「めくら坂」の入口でしょう。)
山に囲まれた入江の集落、この間の通行は船便が主体、舟が出せぬ時を考え峠を越える道を開く、車社会になり海岸線に沿った広い道を開く、交通量の増大に伴い峠の下を最短距離で繋ぐトンネル道を設ける・・こういった道の変化の過程は随所でみることができるように思います。(四国の高知県清水から大月に至る道でも同様の経緯を読み取ることができます。)


福田~当浜の海岸、小島

 福田~当浜の海岸、採石場

福田、当浜間のゴルフ場の直前、国道のヘアピンカーブをバイパスする、短いへんろ道があります。へんろ道の途中には比較的新しい不動堂があったりします。この道、私には古くからの道ではなく、国道開設後に歩きへんろのために設けられたバイパス路(不動堂も近くから移設された)のように思えてならないのです。

 短いへんろ道

 短いへんろ道、草の中の道標

86番当浜(あてはま)庵(本尊 千手観音、納経 3番)親寺(納経所)なぜ3番観音寺なのか・・3番に行けばわかります。この札所、国道より少し入った所にあり、小豆島霊場の中でも一際寂しさを感じるところかも。

 当浜庵へ

 当浜庵

岩ケ谷へ


岩谷の海岸

当浜の先、国道を行くと左手に「大坂城築城残石 八人石」の表示。その少し先右手に地蔵菩薩があり、「観音寺参道」の表示。これが「洞の観音」として知られる観音寺への道。一応アスファルトを流した車道となっていますが、果たして寺まで行けるのかどうかちょっと心配になる道ではあります。
すぐ岩谷へ。

87番海庭庵(本尊 十一面観音、納経21番)本尊十一面観音は安阿弥作と伝える。島随一の名品であるとも。(小豆島霊場に多くの仏像を残した安阿弥(あんあみ)は快慶とも称する、鎌倉時代を代表する仏師)

 海庭庵

橘へ
城ヶ島への希望の道が開ける美しい岬。昭和41年、歌舞伎役者市川団蔵がこの世の最後の宿とした「たちばな荘」があります。ふと思いは巡ります・・ 

 橘港

88番楠霊庵(本尊 地蔵菩薩、納経 13番)  打止めの札所であるが、多くのへんろにとって結願の札所とはならない。

 楠霊庵

 庵前の店。この辺り食堂などの店は少ない。覚えておきたいお店。

ここより橘峠を越えて安田に向かいます。その晩、安田の宿の主人の話「2年位整備していない。荒れとったろう・・」。

 橘峠への入口

 荒れている

 地蔵と供養塔。
供養塔には「奉納 大乗妙典日本廻國供養」文化八年の銘。相当古い六十六部供養塔。

 草木深し。

 池畔の道。(水は涸れている)

 大師堂。


峠へ。小豆島特有の鉄パイプ手摺。


峠(標高175m)

 岡ノ坊へ

 安田の街。

12番岡ノ坊(本尊 地蔵菩薩、納経 13番) 本尊は六地蔵。昔、坊の傍は海辺であったという。

 岡ノ坊

13番栄光寺(本尊 無量寿如来) 本尊は恵心僧都の作と伝える。薬師堂には行基菩薩作と伝える薬師如来、内陣には多くの仏像を祀る。

 栄光寺

 栄光寺

安田の宿に入ります。
                                      (12月7日)


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小豆島霊場巡礼日記(その3)

小豆島の霊場巡礼が途切れてもう2年以上の歳月が経ってしまいました。その間、新型コロナ禍のため広島県外に出ることも躊躇われましたし、それに私自身加齢による足腰の衰えも著しく、思いを残しながらもそのままに・・
このところ新型コロナも少々油断しているようですので、足腰をさすりながら、省力型の巡礼旅を再開することを思い立ちました。
歩けるところまで・・実際、寄ることのできなかった札所も多く残りましたが、半日歩きで5日間、土庄港を発ちそこ戻ることができました。これはその記録です。

さて、場所はやや不適当な感じもありますが、ここで小豆島の神社について触れておきたいと思います。自身の備忘のためとも・・
小豆島霊場が開かれて以来、その構成要素の一つであった神道(神社)は明治の神仏分離により大きな変換を迎えます。それまで札所であった13の神社・別当寺がそこから外されることになったのです。10番亀甲八幡宮(内海八幡宮)、その別当寺9番八幡寺。35番亀山八幡宮、その別当寺34番保寿寺。52番富丘八幡宮(本地仏を移し旧八幡宮として存続)、その別当寺51番宝幢坊として存続)。59番天満宮。63番大木戸八幡宮。66番伊喜末八幡宮、その別当寺67番瑞雲寺。71番瀧宮天王宮(現八坂神社)。85番葺田(福田)八幡宮、その別当寺83番神宮寺。
これらの神社の多くは立派な社叢を持つものが多く、小豆島の人々に敬われ守られてきたと言われます。特に挙げれば、滝ノ宮八坂神社、伊喜末八幡宮、富丘八幡宮、亀山八幡宮、亀甲八幡宮。
機会があれば、未参の札所と共にお参りしたい所です。


    岡山新港を発つ

    小豆島へ


小豆島北西の海


小豆島大観音

牛の肩の辺りに当るでしょうか、小高い平原に沿った道を歩いていました。北西の海辺には蕪埼や千振島の影、後方には先ほどより小豆島大観音の姿が。この観音像、スリランカの佛歯寺より分与された佛歯をお祀りするとか。近年は「しあわせ観音」として親しまれているようです。
この度の巡礼の最初の札所は、76番奥の院三暁庵(本尊 弘法大師、納経 76番) 通称笠松大師。弘法大師巡錫の伝説、霊跡をもつ。
庵の周囲は散り残った紅葉が美しい。偶に居られた庵主さんからお声をいただきます。私は大師堂前に座って暫く紅葉を眺めていました。


三暁庵へ

   三暁庵の紅葉         

   大師堂

西に「夕陽ケ丘」と標した道。夕陽の素晴らしさを想像させるに十分です。


夕陽ケ丘


歓喜寺への道

 歓喜寺へ

77番歓喜寺(本尊 如意輪観音) 行基菩薩の開基、本尊如意輪観音も行基作と伝える。読経を始めると何処からか磬の音。恐縮します。

 歓喜寺

緩やかな道を下って屋形崎へ。古い宝篋印塔や地蔵が並ぶ道です。
76番金剛寺(本尊 不動明王)  行基菩薩の開基、宝暦元年、竜厳上人の再興と伝える。本尊不動明王は弘法大師の作と言われる。

 金剛寺

金剛寺では次の札所藤原寺までの道筋を北側の県道に案内していますが、私は旧道を選びました。民家の間、畦道、森の中・・細い変化に富んだ道の連続、草木の陰にへんろ道札を見たりします。


藤原寺への道

 藤原寺への道

 藤原寺への道、へんろ道札

番外 藤原寺(とうげんじ)(本尊 波切不動、納経 46番多聞寺) 大正10年土建業の藤原氏が私財を投じて建立した寺といいます。現在無住。納経所も最近変わった様。

  藤原寺

 藤原寺の紅葉

見目から小海へ海岸の道(県道)を行きます。途中「女風呂橋」と刻まれた短い橋があります。昔はここに風呂があったのでしょうか。
小海で右折、王子神社とその鬱蒼とした社叢を過ぎると、大阪城石垣の石切場として知られる宮ノ下丁場跡があります。ここは江戸期の初頭、豊前小倉の細川家が石垣石の採取場としたことに始まると考えられ、その後江戸後期以後の石材の需要の拡大まで、厳しい統制に置かれたとされます。見上げれば崩れかからんばかりの石山・・

 雲胡庵へ

 王子神社社叢


宮ノ下丁場跡

庄屋屋敷前の高札場跡を過ぎ「大坂城石垣石とびがらす丁場跡」の石碑の前、立派な石垣、土塀と四脚鐘楼門が見えてきます。
78番雲胡庵(本尊 聖観音菩薩、納経 77番)


雲胡庵前、丁場跡石標


雲胡庵

 雲胡庵


庵前の道標

庵前に「へんろ道」、「旧へんろ道 鳴滝不動尊参道」の石標。現在、鳴滝不動尊までは少し南に車道が通じています。旧へんろ道は途中から廃道となっているかも・・
県道に出ると道の駅。大坂城石垣残石記念公園となっています。見学者はいない。売店のおねいさんも手持ち無沙汰。

 大坂城石垣残石記念公園

県道に沿って暫く行くと琴塚の手前に「山之観音」の道標示。右手舗装山道3.1kで「子安観音寺本坊」通称「山の観音」(80番奥之院とも)に通じています。
田井に入り79番薬師庵(本尊 薬師如来、納経 80番) 本尊は恵心僧都の作、庵は豊臣秀吉の建立と伝わります。

 薬師庵

ここで、長野から来られた遍路姿(笈摺)の方にお会いする。(島の北、東の道で出会った唯一人の遍路)この人は巡礼より歩くこと自体に興味があるらしい。「今日は池田まで・・」などと驚かせる。後の道で2回ほどお会いすると「いやー、道が悪い・・厳しい・・」を繰り返していたこと。
大部(おおべ)の80番観音寺(本尊 聖観音菩薩) 安産子宝の観音で子安観音と呼ばれる。

 観音寺へ


観音寺

 観音寺、巨大な稚児大師像

新しい立派な本堂、ご住職が太鼓を打って読経。隣の信徒会館でうどんの接待を受ける。大黒さんはお若く気さくな人のよう。次の恵門ノ瀧の道のことが話題になります。「私たちも車でしか行ったことないけどねー・・」とか。


小部を望む


小部の沖の「小島」


砂の浜(「千鳥ケ浜」)

小部(こべ)の旅館の並びが見えてきます。ここより恵門ノ瀧へのへんろ道の始まり。


小部の港遠望


参道の始まり。「古不動道 八十二番」の道標。道標に八十二番とある理由は不明。(恵門の瀧は今は81番の札所)

 猪除けの柵を開けて入る。

 土道に入る。


一旦車道に出て、また土道に入る。

 土道の出口。(振り返る)

土道は勾配も急で大小の石で覆われており極めて歩き難い。私はその大半を避け、併行する車道を歩かせていただいた。
土道を出たところは広場、その先に長い石段が続きます。


石段

 石段途中の地蔵


右 地蔵尊、左 鐘楼門

 鐘楼門

龍宮型の鐘楼門にはロープが張られ「通行禁止」の標示。この先に鎖場がありそこを攀じ登って本堂に達すると聞いています。私には無理、本堂の姿を見ることはできませんが、ここより遥拝することにしました。(後で聞くと、石段の右側の車道を歩き本堂下へ、そこから鎖場とそれに併行して石段があり本堂に達することができるそう・・やや残念)
81番恵門ノ瀧(本尊 不動明王、納経 80番)。小豆島の山岳霊場では、役行者や蔵王権現の伝えを聞くことがありません。(56番行者堂が役行者を本尊とするのみ)それは小豆島の霊場が比較的新しく(平安後期以降)開かれたものであるとみてよいのでしょう。                                       
                               (令和3年12月6日)

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