私の好きな遍路道(2) 土佐

私がお勧めする遍路道(つづき)
土佐



右に山左に海・・徳島と高知の県境から室戸岬まで40kにも及ぶこの単調な道は四国の遍路道の中でも最も特徴的な道であるかもしれません。
野根で高知に通ずる旧街道であった野根山街道を分けると、それより先は西に通ずる古道、旧道は見られません。無理やり一つあげるとすれば椎名の先、昔「日置坂」と呼ばれた道がありその一部は昭和の始めまで旧国道として使われていた道。
今は鎌でも持たないと通行困難な道となっていますが、途中から日吉神社の参道に繋がり国道に下りることができます。もちろん通行をお勧めできる道ではありません。

1、奥の院四十寺への道、それから・・ 地図:土佐「室津・四十寺付近

東寺(最御崎寺)は最初四十寺山山頂にあったと言われます。そのため24番奥の院とも。
四十寺へは以前稲石寄りの入口から上っていましたが、その後南側に新道が開かれました。どの市販の地図にもその道筋が正確に示されることのない不思議・・
もう一つ、昔26番金剛頂寺の奥の院であったとされる池山神社への道。御神体も山下に下され、金剛頂寺でも参拝を勧めません。かなり荒れた道で、どうしてもということであれば、地元の道情報に十分注意されますよう。(該当遍路日記は「平成24年秋その3」他。)

2、神峰寺への道、まっ縦と四国のみち。 地図:土佐「神峰寺付近

唐浜から神峰寺への道は古くより「まっ縦」と呼ばれました。今はその大部分が車が通れるヘアピンカーブの舗装道に変わり、呼び名から想像するほどの急坂ではありません。むしろ、残された昔からの土道は大事に維持してゆきたい道だと思わせられます。
江戸時代の記録に見られる神峰寺の本堂(観音堂)は今の神峰神社の本殿そのもの、または同所ですから神峰寺を越えてそこまでは歩きたいものです。そこまで行けば山頂(標高570m)にある展望台まではあと少しです。展望台からは左手に羽根岬、行当岬さらに室戸岬、右手には八流、手結岬そして高知の浜まで見渡せる絶景が得られます。
神峰神社に上がるもう一つの道は安田からの「四国のみち」。唐浜からの道より2倍近く長くなりますが、急坂が無く上るに楽な道です。間下から上がる道が合流すると丁石も見られるようになります。安田川上流地域からの古くからの参道であったと思われます。
(該当遍路日記「3巡目第3回その1」他)

3、琴ケ浜の浜の道、段丘の上の殿様道。 地図:土佐「赤野付近」「夜須付近

今は安芸の市街から西は海岸を通る自転車専用道路が遍路道に充てられています。その道は夜須の手前まで繋がっています。
自転車の通行は少なく実質的には歩道であり、土佐くろしお鉄道、ごめんなはり線の赤野駅を過ぎ琴ケ浜付近の松林の中と砂浜に沿った道は素晴らしい道です。
しかし、当然のことながら江戸時代以来の道はこの道ではありません。高知に通ずる街道であり、「殿様道」と呼ばれていた道。現在の国道より更に一段高い段丘上を通っていました。この旧道は寸断されながらも残っています。八流の段丘上の畑中の道や茶屋もあった手結山付近の道などです。
そういう道を畑にいる地元の人に尋ねながら歩いてみるのもよいものだと私は思います。
(該当遍路日記「平成24年秋その3」他)

4、高知近郊の古道、点々。 地図:土佐「赤岡付近」「土佐山田付近」「国分寺付近」「高知市内」「五台山付近」「峰寺付近

赤岡から28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺そして31番竹林寺への遍路道の道筋は基本的には今も昔も変わりませんが、高知近郊の道整備により江戸時代以来の古道は新道の辺りに細切れの状態で残されることになりました。古道の傍らには古びた標石がその存在の証のように残されています。その道筋を辿ってみましょう。
野市の石家で国道を離れた道は烏川の左岸沿い切石山の麓を経て今も大日寺の手前に残る土道に繋がっていました。今はこの道の一部は「のいちウオーキングトレイル」の一部ともなっています。
大日寺を出た道は物部川を今の戸板島橋の南、蓮光院地蔵堂の所で渡っていました。松本大師堂の辺りは真念石も残る昔からの道筋と思われます。
「へんろ石」の字名の語源、天文3年の標石から国分川河畔の文化7年の地蔵まで古道の断片が残ります。
国分寺を出た道は笠ノ川川を渡り岡豊城址の北で北山道(土佐北街道)に繋がっていたようです。北山道は今の県道384号の直道の周囲を南から北へ、定林寺の山裾の道です。
善楽寺から五台山へは高知城下を迂回する道と直接行く道の二筋。
五台山へ直行する道は土佐神社のお旅所を左折、国分川を渡り田辺島地蔵堂へ、次舟入川を渡り高須へ。ここからは今の遍路道の通り五台山への上る山道です。
竹林寺の先もちょっと加えておきましょう。
32番禅師峰寺への道は下田川土手を行き芦ケ谷の大師堂を経て、今の十市小学校の横から山道を登るのが古い道のようです。
大日寺から高知の市街地を掠めて禅師峰寺まで古道を辿ってみました。間違いがあるかもしれませんが・・古道を訪ねて右往左往するのも楽しいものです。なお地図上では細赤点線で示しました。(該当遍路日記は「平成24年秋その4」他)


5、青龍寺への峠道、塚地峠、龍坂他。 地図:土佐「塚地峠付近」「青龍寺付近

清滝寺から36番青龍寺ヘ行く道は先ず塚地峠を越えます。昔は宇佐坂とも呼ばれていたようで、多くの標石、遍路墓が残ります。峠の下りにはやや稚拙な彫りながら摩崖仏も見られます。
今は峠のすぐ上に展望台、茶臼山への登山道にも繋がります。
浦ノ内湾口を宇佐大橋で渡りますが、昔は当然、井ノ尻の渡し。
青龍寺へは大師堂を経て龍坂を越えます。この峠にも丁石や遍路墓が残ります。新四国仏が並ぶ道を行き青龍寺。寺の石段は江戸期の貴重な遺構。ここから奥の院不動堂、虚空蔵菩薩への道も趣あるいい道。
一つ峠道を加えておきましょう。昔、福島の先は「埋立」の地名が残るように崖で海岸の道はありませんでした。青龍寺を打ち戻った遍路は陸路の場合、灰方坂を越えていました。この道、峠までは茶臼山へのハイキングコースの一部になっており整備されています。
なお、灰方の先横波までの古道、高祖への峠道、立目への峠道はいずれも通行困難と思われます。
(該当遍路日記は「平成24年秋その5」)

6、岩本寺への峠道、焼坂、添蚯蚓坂、大坂。 地図:土佐「須崎・安和付近」「久礼付近」「七子峠付近」 

澄禅はカトヤ坂(角谷坂)の峠から見渡して「谷ヲ隔テ向ニ焼坂トテ跡ノ坂ニ十倍シタル大坂在リ・・土佐無双ノ大坂也・・」と書き、そのそえみみず坂にかかり「焼坂ニオトラヌ坂ヲ一里斗モ有ント思シキヲ越テ・・」と続けています。足の強い江戸時代の人にても、この辺りの坂がいかに厳しいものであったかが分ろうというものです。
その時代、土佐往還と呼ばれた主道は、焼坂、添蚯蚓(そえみみず)坂を通る尾根越えの道であったのです。その厳しさを和らげるため、後に大坂道が開かれたと思われます。
焼坂は遍路道を芯としてヘアピンカーブを繰り返す未舗装の車道が取り巻くという不思議な形態の道。この車道は明治期に開削された県道であったようです。
遍路道は近年の台風で損傷を受けました。その道の復旧はボランティアの手に委ねられている様です。最近の気象条件の厳しさに対応したルートの変更が望まれているのかもしれません。考えさせられます。
添蚯蚓坂はその入口付近を高知自動車道が交差し、階段の道になっているのが残念ですが、まさに土佐最長の峠越えの土道です。標高409mの最高点の少し手前に、あの高田屋嘉兵衛が建てた海月庵の跡があります。そこにあった聖心の標石は岩本寺境内に移されています。
添蚯蚓坂に比べ大坂道は急坂区間が短く、ずっと楽な道です。この道は坂道よりもそこに至るまでの花と緑が溢れる人里の風情が堪能できる道であるという気がします。
(該当遍路日記「平成25年秋その2」「3巡目第5回その1」他)

7、仁井田五社への四万十川沿いの道。 地図:土佐「影野付近」「仁井田付近」「窪川付近

七子峠から影野に下る旧道もよい道です。影野から岩本寺へ行く多くの遍路は国道56号を辿っていますが、もう一つの道として影野から右に道をとり四万十川の近くを通り仁井田五社(高岡神社)へ行く道(四国のみち)を私は勧めます。笹の越トンネルの手前に天然記念物「ヒロハチシャノキ」を見ます。
やがて壮大な四万十川河畔。秋には川の周りの田圃は黄金の稲穂とその狭間の彼岸花。
西川角には仁井田五社の一の鳥居があります。国道56号の平串に昭和に建てられた高岡神社の鳥居がありますが、仁井田五社への古くからの参道は西川角から四万十川に沿う道であったと思わせられます。素晴らしい道です。
(該当遍路日記は「3巡目第5回その1」)



8、市野瀬から伊与喜への道、国道か四国のみちか・・ 地図:土佐「峰ノ上付近」「拳ノ川付近」「熊井付近

市野瀬から伊与喜まで国道56号を通るか、あるいは伊与木川右岸の道(「四国のみち」)を通るか迷うところです。四国のみちの方が若干長くなるものの車の通行は少なく、神社や学校や人家が点々と見られ、生活の中に生きている道という感じがする楽しい道です。
最近は(途中からを含めて)こちらの道を通る人が増えているのかもしれません。一方、国道の方は昔の往還道の大方がこちらの道筋であったという大義を持ちます。
拳ノ川で川の流れに沿って道が大きく迂回する箇所は昔、辻越坂という峠越えの道があり一里塚が置かれていたようです。(その先一里の「シダ坂」にも一里塚があった)この峠越えの道、倒木などで通行困難な時が多いようですが、折角旧往還道を辿るのですから可能なら通りたいものです。
(該当遍路日記は「3巡目第5回その2」)

9、入野の浜の道、日が輝く・・ 地図:土佐「入野付近

鞭(ぶち)の大師堂を過ぎ、吹上川に架かる月見ケ橋を渡り入野松原の浜の道に入ります。昔の往還道も今の遍路道も浜より上がった段丘上の道ですが、できればもっと海辺に近い浜の道を歩きたくなります。
蠣瀬川河口までの約3kの間ですが、輝く海、波、静かにたゆとう入江、深い松原・・遠い昔に出会ったような情景のような素晴らしい道行きです。(私の日記「平成25年秋 その3」の写真でその片鱗を見てください。)きっと、外国人のサーファーにも出会えることでしょう。

10、伊豆田坂、開かれた昔の遍路道。 地図:土佐「津蔵淵付近」「市野瀬・成山付近

江戸時代初期、澄禅が「イツタ坂トテ大坂在リ、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。」と書いた伊豆田坂。台風の後の様子らしいとは言え、相当な悪路であったようです。その150年後の「四国遍礼名所図会」にも出てきますから遍路は必ず通る道であったのでしょう。それはこの先に真念庵が置かれたことも大いに影響したと思われます。
清水往還道の一部とも言われますが、その主道は立石、布と半島の海辺を周る道であった可能性もあると私は思っています。それはともかく、峠には茶屋も開かれ賑わっていたようです。
その道が、昭和34年の旧伊豆田トンネル開通以降半世紀に渡り忘れられた道となっていたと思われます。私は2010年、逆打ち方向で道なき道を尾根まで上り茶屋跡に到達しました。(遍路日記 3巡目第4回 その5) そしてその数ヶ月後、東京のMさんをリーダとする方々が草や竹を切り道標を整備し通れる道として整備されました。Mさんたちは今も整備を続けられています。ありがたいことです。でも、そのことに対する反発もあるようです。維持管理をどうするか、は土道の遍路道が抱える最大の課題かもしれません。

11、足摺遍路道点々。 地図:土佐「久百々付近」「大岐浜付近」「土佐清水付近

久万地崎辺りから眺望した久百々沖の岩礁、波、遠くの足摺の山影。この風景は足摺遍路道を巡る者に特別の印象を与えているようです。
続く大岐の浜。昔の砂浜はもっと沖に張り出していて、今と同じように浜辺の砂道と山道があったようです。山道は今の国道の東、「芝」の地名が残る辺りか。
ここはやはり浜の砂道を歩きたいものです。永遠のように繰り返し寄せてくる波の様をいつまでも眺めていたい。四国の遍路道の中でも最も素晴らしい道であると私は思います。(遍路日記の写真:平成25年秋 その4
以布利の港から遍路道へ。山道入口の仏海の地蔵の優しい表情。「道しるべ地蔵」とも呼ばれるように道標でもあります。「あしすりへ三り五丁」の刻字も見落とさぬよう。
県道27号と347号の分岐の先の土道。足摺遍路道で最長の(3kあまり)旧道です。道なりに海蔵院へ参るには必須の道ですが、上り下りを繰り返すかなりきつい道。海が殆ど見られないし、山道好き以外には勧められない道であるかも。

12、土佐清水から月山をまわる道。 地図:土佐「下益野付近
竜串付近」「小才角付近」「月山付近

土佐清水の街を出て落窪の海岸を歩くと見事な石の縞が並ぶのを見ます。化石漣痕だといいます。もっと近くで見たいと思っていました。
国道321号は落窪から三崎まで海岸から離れ内陸を通ります。この間の海岸は50mを越す崖。しかし海辺には浜もあります。昔の人はここを歩いたということを聞きました。私は、干潮の時間であることを確認して歩いてみました。
漣痕の直ぐ傍、岩、砂利、砂浜・・道はありませんが歩けます。当然、ここはお勧めはできませんけれど・・
下川口から大浦への道は、これまで三度姿を変えてきたと思われます。最初は入江の浦々を繋ぐ山越えの道、次は海岸の崖に沿う道、そしてトンネルの道へと。いずれの道も残っていて今も通れそうです。海岸の道は崩落箇所もあるようですが。
その最南端、灯台もある叶崎。岩に当たり渦巻く波は空気を取り込んで見事な明青色を呈します。この辺りでしかみることのできない波の饗宴です。
大浦から月山神社を経て赤泊の浜に行く道は、旧往還道を繋ぐ山道であったと思われような荒れた道。道標や地蔵をみることも稀なことです。土台、この月山神社を周る道、江戸期、明治期を通じて足摺打ち戻りに納得しない特別の遍路が何かを求めて辿った道であるように思えます。
赤泊の浜に立つとそこは寂しく何処か恐ろしい感覚を拭うことができません。それは西を向いた山影の浜の所為なのでしょうか。
(該当遍路日記は「平成25年秋その5」他)

13、三原から地蔵峠を越える道。 地図:土佐「市野瀬・成山付近」「地蔵峠付近

三原村上長谷にある特に著名な真念石、そこに「右遍路みち 左大ミつのときハこのみちよし」と刻まれ、また「道指南」には「上ながたに村しるし石 いにしえハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし」と記されています。この意味。39番延光寺行くには、左清水川を経るのが古くからの道筋であったが、今は右に行き地蔵峠を越える道が出来た。ただし、峠を越えた江の村の川(今の中筋川)が氾濫したときは左の古い道がよい・・と言っているようです。
地蔵峠を下る道は、平成15年「へんろみち保存協力会」によって復元された道、上記の右道です。右側が深い谷という地形から路肩が失われ易い道ですがよく維持されています。
峠の地蔵(?)も下った所の大師堂も独特の趣を持ち、見逃せないものだと思います。
この道の前、真念庵から上長谷の道で、私見ながら必見のものについて一言。
成川の手前の伊豆田神社。古式の石段は圧巻。成山峠道と出口の「政吉の手指標石」。その道に続く長谷川左岸の山際の旧道。
(該当遍路日記は「平成25年秋その7」他)

14、有岡を通って延光寺へ行く道。 地図:土佐「有岡付近

地蔵峠を越えて江の村へ下った遍路の多くは新しくできた「中村宿毛道路」の側道など(協力会ルート)を経て平田に向かっているようです。
このルート、近道ではありましょうが、江戸時代以降多くの遍路が辿った道とはかけ離れています。このことに反発して古くからの道筋を紹介しておくことにします。それは、中筋川を越えて、有岡、焼米坂、長尾、車岡を経る国道を主体とした道です。
立派な神社もあり、多くの道標がすっかり姿を消した遍路を寂しげに待っているように思える道でもあります。
(該当遍路日記は「平成25年秋その7」)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

私の好きな遍路道(1) 阿波

遍路が広く一般の人々のものとなってくる江戸時代中期以降、多くの人が歩いた道、それは信心の道でもまた生活の道でもあったでしょう・・、そんな道を歩いてみたい。それが私の願望でした。
そして、そんな道に会うことができました。
阿讃国境の峠を越えて、阿波の1番札所からほぼ順打ち廻りで、讃岐の88番札所、番外大瀧寺まで、どちらかと言うと古道、旧道、
土道に偏した独断のお気に入り遍路道を紹介させていただきます。同時に地図も確認いただければ幸いです。
なお、該当する遍路日記はできるだけ最近の代表的なものを選びました。

阿波


                                          
赤線:土道 青線:舗装道 数字:札所番号     

1、大坂峠越えの道。 地図:阿波「大坂峠付近」
引田の先坂元より大坂峠を越える道(歩道)は三筋あります。新しい方から大正10年の開設、超ヘアピンカーブの車道。明治8年開設の旧道。これが今の遍路道です。それ以前の道筋は古道と呼ばれます。峠の手前、不動明王の辺りで旧道に併さります。文化庁「歴史の道百選」にも選ばれた道ですが整備は不十分。鎌でも持たないと全区間の通過は不可能でしょう。でも、丁石仏も残る唯一の峠越え道。旧道も含め推薦です。(遍路日記は「平成28年春その1」をご覧ください。)
阿讃国境の多くの峠道は阿波と讃岐の人々の生活と文化が行き交った道です。このことは平成28年春「阿讃国境の峠道」で書きました。大阪越はその最東端の道でもあります。

2、大山寺への参道、観音道。 地図:阿波「大山付近 

「阿讃国境の峠道」をご覧ください。大坂越の西、今も多くの遍路が讃岐から阿波に抜ける道として通る境目峠越(日開谷越)に至るまでに黒谷越、一本松越、大山越、宮河内越など枝道をを含め7つの峠越えの古道がありました。これらの道はその一部が遍路道として利用されたことはあっても、阿讃を渡る遍路道とはなりえませんでした。(現在最も一般的な大山寺参りの遍路道は大山越古道の一部を辿ったものと思われます。)
番外大山寺および奥の院への参道として最も魅力に富んだ道は泉谷より上る「観音道」と呼ばれる道です。奥の院まで往復すると13.8kと神宅より上る現在の一般的な遍路道より相当長くなりますが、時間に余裕のある向きにはお勧めします。
江戸時代後期以降開設、比較的最近整備された道ですが、地元の方々の熱心な管理に支えられていることもこの道に魅力を加えています。
(該当遍路日記は「平成28年春その2」)

3、10番から11番へ、吉野川を渡る道。 地図:阿波「鴨島付近」

10番札所切幡寺から11番藤井寺へ行く道。大野島橋と川島橋という二つの潜水橋で吉野川を渡り、その間の川中島「善入寺島」の道。
初めての遍路の多くが「ああ、四国だな・・」と感動する道ではないでしょうか。私もそうでした。
潜水橋を渡る自らの遍路姿を高台から見るシーンを思い描きます。できれば、古の粟島渡船場跡にも寄りたいものです。
(該当遍路日記「3巡目第2回その2」他)

4、焼山寺道その周辺。 地図:阿波「藤井寺・樋山地付近」「焼山寺付近

言うまでもなく四国遍路随一のへんろころがしの道。
基本的には尾根を辿る道ですが、今の道以外に旧道があったことは意外に知られていないかもしれません。そのため思い違いも生じます。例えば、長戸庵の手前に大師水という水場がありますがこれは新道の上。大師の時代はもちろん真念の時代もこの水場は無かったものと思われます。石堂の辺りは中腹に沿うのが旧道。
柳水庵の豊富な水、浄蓮庵の感動的な大師像、左右内の集落の梅の頃の美しさなどなど忘れ得ぬこと様々の遍路道です。
この道に交差する古道(地元の方の命名「麻名尾根古道」)があることもあまり知られていないことかも。
梨の木峠から焼山寺道旧道に入り長戸庵。三村境で旧道を離れ石鎚山、寒風峠を経て忌部山へ。石鎚山には鎖場、その北は今は廃村、伊予河野氏の一族が移り住んだ樋山地。歴史の証人のような素晴らしい道が地元の人々によって維持されているのです。遍路日記「平成27年春その後」をご覧ください。

5、地蔵越、あずり越の道。 地図:阿波「徳島北部・地蔵峠付近」「あづり越付近

17番井戸寺から18番恩山寺へは徳島市街を通る遍路が多いと思われますが、市街地の西の小高い山、地蔵峠、あづり峠を越える道もよい道だと私は思います。
地蔵越の道は、車の往来がけっこう多い車道で土道が途切れるのが残念ですが、峠の最高点まで登れば天保2年の立派な地蔵に会えます。以前、毎朝参拝し清掃をすることを日課にしている91歳の矍鑠とした老人と出会った時のこと思い出します。
峠を下り潜水橋を渡れば、あづり越の道へ。峠には文政10年の大師宝号塔がありますが、古くから多くの遍路が通った道では無かったようです。しかし、地蔵越に続けて歩けば趣のある便利な道であると感じさせられます。あづり峠へのアプローチは付近の道路整備により以前とは
変わっているようです。地図も最近と思われるルートに書き替えておきましょう。(該当遍路日記は「3巡目第1回その2」)

6、取星寺への道、阿千田越。 地図:阿波 「立江寺、取星寺付近

19番立江寺から奥の院取星寺への道は、その一部を旧土佐街道の峠道、阿千田越が充てられています。地元の方の努力により古道の雰囲気を残す楽しい道となっています。
もっとも旧土佐街道の主道は山越えの不便さから、後には東の山裾を迂回する営倉経由に付け替えられたと言われます。いわば初期の旧土佐街道の名残り道なのです。
今は阿千田の峠の切通しの上を車道が走っており、取星寺へはこの道を経由するのが便利ですが、私はそのまま峠を下り旧土佐街道を左に分けて右の細道を進み、新四国仏の88番から1番へ辿り寺に至る道筋をお勧めします。この新四国仏は力の籠った大層立派なもので天保5年から25年をかけて建立されたもの。
なお、阿千田越の西にはもう一つの峠越え古道の古毛越があります。(阿千田越の遍路日記は「
平成24年春その1

7、大龍寺を越えて、復活したかも道、いわや道。 地図:阿波「鶴林寺付近」「大龍寺付近

20番鶴林寺から大龍寺に行く道は、もう真念の時代には大井を経て若杉谷川に沿う道(古道は右岸の道)が開かれていたようですが、その昔は加茂から尾根を上る道であったようです。このかも道は、平成24年、公認先達歩き遍路の会、地元のへんろ道の会などが市、町の協力を得て整備しました。その道は大龍寺を越えて、いわや道、平等寺道にまで繋がりました。
いわや道は大龍寺から阿瀬比に下る古くからの道。途中に龍の窟、不動の窟などの岩窟がありましたが、昭和30年代にセメント会社に売却され姿を消しました。悔やんでも悔やみきれぬことではあります。いわや道の26丁地蔵より左に道をとると石灰石採掘場の崖に29丁地蔵が残っているようです。
26丁から繋がる平等寺道の尾根越えの部分の道は、いわや道を阿瀬比まで繋げるために後に造られたものと思われます。
かも道は一宿寺の横より上ります。この道には大師像や観音の石室などが遺されていますが、特に貴重とされるのは室町時代の貞治年間の標石を再利用した丁石があることです。この四国最古の標石は、この道と鶴林寺の上り道にしか見られないものです。
かも道を上り大龍寺に詣でれば、足は自然にいわや道、平等寺道へと導かれます。下った阿瀬比の専念庵薬師堂、その周囲の大日如来像、庚申塔、徳右衛門標石など目を見張らせます。このお堂は現在の県道からは少し外れていますが、いわや道の終点の位置に
あったものと思われます。
(これらの道の該当遍路日記は「平成27年夏」)






8、
平等寺から薬王寺までの古道を辿る。 地図:阿波「平等寺付近」「小野付近」「由岐付近」「木岐・久望付近」「日和佐付近

鶴林寺から土佐国境までの古道(江戸時代の遍路道)については、ある古地図の赤道に依ってそのルートを推定しました。(平成28年春その3「阿波の昔の遍路道」)
そのうち、鉦打から日和佐までの今の遍路道が山側の道(主として国道55号)と海側の道(主として県道25号)の二つがあるように、古道もまた山側と海側の二つの旧土佐街道の道筋です。上記の国道、県道と旧土佐街道とは近接してはいても、特に山越の道などで異なっています。それが古道として残された道を生む理由なのです。
古道の道筋を紹介することは現在の遍路道とは異なる道を推すことにもなり躊躇があります。古道好きの我儘とお許しください。
なかには私がその一部しか通行していない道も含まれています。通行はあくまで自己責任で、また不通箇所に当たれば引き返す・・よろしくお願いします。
まずは海側の古道を含むルートの紹介。
平等寺の先、月夜御水庵を出、西側の尾根道の月夜坂。地蔵、遍路墓、徳右衛門標石のある鉦打に下る。享保4年の薬師如来のある薬師堂の先より鉦打坂。この道は通行困難。県道を南下、貝谷より貝谷坂、松坂を越し田井へ。田井ノ浜を廻り苫越坂。この道通行困難。木岐の街、白浜の県道を経て昔「大坂」と呼ばれた旧山座峠越え、恵比須浜へ。小田坂を越え北河内へ、そして日和佐。
白浜からは「俳句の小径」、新山座峠を越ええびす洞を巡る海岸の道が今の遍路道。この道は輝く海、寄せる波を見る風景絶佳の道、旧山座峠越、小田坂越は古道への拘りでしかないかもしれません。
なお、恵比須浜先より日和佐に出る尾根道「後山越」も古道です。
次に山側の古道ルート。
海側の道を小野で分岐、星越峠は今も遍路道。その先、北河内谷川の右岸に沿うのが旧土佐街道。国道55号、一ノ坂トンネルの前まで、古道は荒れた所もありますが大方通り抜けることが可能です。
これらの道の該当遍路日記は「平成28年春その4」 「平成24年春その2」他です。

9、日和佐から牟岐へ、丹前坂、横子坂、ゲダノタオ 地図:「日和佐付近」「山河内付近」「辺川・白沢付近」「牟岐付近

日和佐から牟岐まで、今の遍路道は専ら国道55号ですが、旧土佐街道は山河内までは二つの道筋があったようです。丹前峠を越える道と横子峠を越える道。 丹前坂は丹前の玉木八幡神社の横から上ります。峠付近に荒れた所がありますが道筋は確かです。 横子坂は峠に地蔵と徳右衛門標石が並んでいます。残念なのは上りの道筋は古道ではなく、荒れた林道を辿らなくてはならないこと。 山河内から牟岐に行く国道55号とは別ルートがゲダノタオ越えの道です。古くからの主道ではないようですが、今は「四国のみち」。峠を越えて見える青い海には感動します。
(該当遍路日記は「平成24年春その3」 「3巡目第2回その3」)

10、海部の峠道、土佐国境の峠道、馬路越、居敷越、甲浦越。 地図:阿波「海部付近」「甲浦付近

牟岐から浅川までの「八坂々中 八浜々中」と言われる変化に富んだ小さな山と浜の道もよいものですが、ここでは海部の二つの峠越えの道、馬路越と居敷越を推しておきましょう。特に馬路越は旧土佐街道の主道の一部であり、まさに馬も楽々通ったであろう石垣を築いた広い道が残っています。ただ、道筋は一つではなく、古い道に迷い込まぬよう注意が必要です。 居敷越。峠まではよく整備された道、やや荒れた下りと出口の不明瞭なこと。しかし、順打ち方向では迷うことはないでしょう。 土佐国境の峠道が甲浦越(古目峠とも呼ばれる)。ここも旧土佐街道の主道です。私が通った数年前は良く整備された道でしたが・・
(該当遍路日記は「平成24年春その3」他)

 
 

 

 

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )