「広島女児殺害事件」司法官僚によって行使される人事権は全国の裁判官たちに絶大な影響力をもつ

2010-08-07 | 死刑/重刑/生命犯

〈来栖の独白〉
 憲法76条3項は「すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される。」と裁判官の職権行使の独立を認めている。
 が、ここ(当該事件裁判)で私が見たものは、司法制度改革へ舵を切った最高裁に逆らうものは出世の道から外される、という「官僚司法」のありようであった。
 司法制度改革とは、核心司法、拙速裁判である。最高裁は「当事者が立証しようとしていない点まで立証を促す義務はない」とし、本件の精密な審理を望んで地裁へ差し戻した楢崎康英高裁裁判長を家裁へ転任させている。

広島女児殺害事件差し戻し控訴審判決 他国の前歴加味せず 精密司法から核心司法へ
光市母子殺害事件(差戻し)・広島女児殺害事件控訴審裁判長だった楢崎康英氏が山口家裁所長・・・ 
〈来栖のつぶやき〉2009/10/14
 家裁とは・・・。しかも、広島家裁ではなく、(広島管区)山口とは。何があったのだろう。60歳ということだが、定年は65歳だ。光市事件差し戻し控訴審・広島女児殺害事件控訴審判決では、メディア・世論に評価されたと私は受け止めていたが。
 追記 2009/10/16Fri.
 本日、広島女児殺害事件上告審判断があった。高裁へ差し戻しということである。
 楢崎さんには、相手が悪かった。裁判員参加という不合理な制度を推進する大本山に立てついたような格好になった。楢崎さんは精密司法(1審へ差戻し)に「死刑」を展望していたのかもしれないが、最高裁の拙速志向(核心司法)とは相容れなかった、ということか。核心司法によって本件のように、今後いのちを得ること(死刑回避)になるのならいいけれど。 
 ところで、本件上告審判決報道に際して、おやっと感じたことがあった。2審判決をあれほど自信もって論評(多くは高評)した評論家さんたちだったが---但し、肝心の判決内容、被告人にもたらすであろう不利益(死刑)については、欠落した論評---今回は私の見たところ黙して語っておられないようだ。最高裁の権威、無謬性をひたすら信じ安心しておられるのか。こんなことでは司法改革などできはしない。
 昨年だったか、東海テレビ「裁判長のお弁当」に登場した元裁判官下澤悦夫さん。若い頃、「青年法律家協会」に所属し、退会・退官勧告に従わなかったので、地方の家裁・簡裁を転々とさせられ、生涯一裁判官で終わった。「そりゃぁ、上に行きたいって気持はありましたよ。だけど・・・」と語っていた。ご自分の信念を曲げてまで・・、ということだろう。清廉な人格でいらっしゃると感服した。
 楢崎さんの場合、高裁刑事部で裁判長まで務めた人である。所長ポストであれ、家裁への異動はどうなのか・・・。存分に腕が振るえるとは思えない。簡裁であっても、同様である。
 「裁判官の独立」につき憲法は“良心に従い独立してその職権を行い、日本国憲法及び法律にのみ拘束される”と、謳っている。が、新藤宗幸著『司法官僚』〔裁判所の権力者たち〕(岩波新書)の中に、次のような文脈があった。
司法官僚は全国の判決や訴訟指揮の情報を集める。それをもとに行使される人事権は全国3500名の裁判官たちに絶大な影響力をもつ。10年ごとの再任の有無、昇級、転勤を司法官僚が決める。事務総局が召集する「合同」と呼ばれる研究会も下級審の裁判内容を遠隔操作する結果を生む。
 裁判とは社会で周縁においやられた人々の、尊厳回復の最後の機会である。必死の訴えをする人々に遭遇したとき、裁判官は全人格的判断をもって救済に当たるべきだ。しかし、人々の目にふれぬところで、裁判官の内面までゆがめ、その存在理由をあやうくしているシステムがあるのだとすれば大問題である。
 政権交代とは闇を打破る時代のことであろう。本書の提言にかかる裁判所情報公開法などによって司法の実態にも光が当てられ、真の改革が着手されるべきだ。

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<広島女児殺害>検察が上告断念へ 差し戻し審で無期懲役
8月7日0時20分配信 毎日新聞
 広島市で05年11月、小学1年の木下あいりちゃん(当時7歳)が殺害された事件の差し戻し控訴審の判決(7月28日)で、殺人と強制わいせつ致死などの罪で無期懲役を言い渡されたペルー国籍のホセ・マヌエル・トレス・ヤギ被告(38)について、広島高検が最高裁への上告を断念する方針を固めたことが、関係者への取材で分かった。
 検察側は死刑を求刑していたが、過去の判例に照らして適切な上告理由がないと判断したとみられる。8月11日が上告期限で、遺族は上告を要請していた。刑事訴訟法の規定で、被告が上訴した場合は原判決より重い判決を出せないため、死刑は適用されないことが確定する。
 広島高裁は先月28日の判決で、無期懲役とした1審判決を支持。死刑を求めた検察側と、「犯行時の責任能力に問題がある」として殺人と強制わいせつ致死では無罪か刑の減軽を求めた弁護側の控訴を、いずれも棄却していた。
 1審の広島地裁は06年7月に無期懲役(求刑・死刑)の判決を出したが、広島高裁は08年12月、1審の訴訟手続きを違法として審理を差し戻した。09年10月の最高裁判決は1審手続きを適法とし、高裁に差し戻していた。


【政治家の金銭感覚】 田中良紹の「国会探検」 
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小沢一郎氏裁判 13回公判《前》/4、5億円の現金を手元に置くのは以前からそうしていた/(12)~(16)
 〈来栖の独白2012/01/11 Wed.〉
 当然のことながら、指定弁護士の努力にもかかわらず、「水谷」の文字は遠く、出てこない。
 しかしながら、私は強い不安を禁じ得ない。
>現金を手元に置くのはずっと以前からそうしていました。4、5億円の現金が元赤坂にいつからあったかは分かりませんが、かなり前からあったと思います。
>4億はビニールパックであって、紙袋に詰めて渡したということだが、事務所の金庫には、紙袋に入った状態であったのですか?
>それは記憶しておりません。
>金庫から出してから紙袋に入れたのですか?
>ですから具体的な状況は記憶しておりません。紙袋であったのか、私が詰めたのか、明確な記憶はありません。
>金庫から億単位の金を出したことはないんですよね?それなのに具体的な記憶がないんですか?
>具体的な個別の記憶はありません。
>1億は10キロと重いものだが、紙袋に入れて新聞に見れなくするという作業を、どうして秘書にさせないんですか?
>四百数十万円の金利について・・・それが私個人の口座から・・・、この事件まで知りませんでした。
>平成19年に4億は返された?
>しばらくして返してもらったと思います。
>4億円を借りる書類だということは分かっていましたか?
>書類を正確に見たかどうかは分かりません。サインしろと言うからしたということだと思います。

 これらの言葉に幾人の国民が共感するだろう。「国民の生活が第一。」とのフレーズが、私の胸に空疎に響く。4億円といえば巨額であるが、「4億円を借りる書類」について「書類を正確に見たかどうかは分かりません。サインしろと言うからした」と言う。
 「私の関心事は天下国家のこと」と云いながら「1億は10キロと重いものだが、紙袋に入れて新聞に見れなくするという作業を、どうして秘書にさせないんですか?あなたは忙しいのに」との指定弁護士の質問に「私のプライベートな資金ですので、それについて秘書に金庫についても秘書にはさせておりませんでした」と答え、然るに、「土地を購入する際の四百数十万円の金利について・・・それが私個人の口座から出ていたというのも、この事件まで知りませんでした」などとも云う。
 「疑惑」に関与していないとの主張に走りすぎて、破綻したか。裁判とは恐ろしい生きものだ。このような陥穽が待っている。
 元々検察は小沢氏を有罪に持ち込みたかったわけではない。小沢一郎という政治家の政治生命を断てば、目的は達せられる。
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小沢一郎氏「お見舞いに歩くのが政治家の仕事なのか?お悔やみを申し上げるのが政治家の仕事なのか?」 
 〈来栖の独白2012/01/04 Wed.
 東日本大震災と政局ということについて、短く感じたことを述べてみたい。
 昨年の民主党代表選、或いは先ごろの多数の民主党議員の離党・新党結成の折、「東日本で被災して多くの国民が苦しんでいるときに、政治家は、勢力・権力争いに明け暮れて・・・」との批判をメディア上で何度も目にした。(略)「今更来ても遅い。震災直後の惨状を見れば、党内で足の引っ張り合いをしてる場合じゃないと気づいてもらえたはず」と不満を漏らす女性の声が載っている。生活に切羽詰った被災者たちの感情として当然かなとも思うが、果たして、そうか。いや、これほどに困窮を極めた今日だからこそ、政治にしっかりしてもらわなくてはいけないのではないか。そんな気がする。
 小沢一郎さんは、以下のように言う。以下のように言いながら、小沢一郎という政治家のやさしさ、熱さは、公判を含めた過密日程の間隙を縫って被災地を訪れた。
 “マスコミ自体も、政治が何をすべきか、政治家が何をすべきかと(報じない)。お見舞いに現地を歩くのが政治家の仕事なのか? お悔やみを申し上げるのが政治家の仕事なのか? というふうに私はあえて憎まれ口をきくけれど、やはり政治の役割というのは、そういうことではないと思う。このような深刻な事態をどのようにして克服していくか、そのためには政治の体制はどうあるべきなのか、政治家はどうあるべきなのかと考えるのが、本当に国民のための政治家のあり方だと私は思っている。そういう意味で、今後もいろいろとご批判は頂きながらも、私の信念は変わらないので、その方向で頑張りたいと思う。
 これは、媚びない姿勢がなくては言えない言葉だろう。またその前提として、日々の生活に窮する民の惨状を知り、それゆえに、政治の果たす役割が「国民の生活が第一。」と見極めた確かな眼がなくては、言えない言葉だと思う。確かな眼とは、「本物の政治家の眼」ということだ。
 当然のように、このような政治家が国民に理解されることは稀である。剛腕などと云われ、嫌われる。「災害があればいち早く現地に駆けつける」という動きの良さもないので、不可解である。ポピュリズムとは対極にある。
 この種の政治家は、国民からの人気がないばかりではない。既得権益といった旧弊にとらわれないので、官僚からも嫌われる。おまけに要領が悪いゆえ、エンタメ(メディア)に貢献するところなく、嫌われる。
 国民(検審)・官僚・メディアから嫌われれば、行き着く先は決まっていよう。かくて小沢一郎氏は、地元から帰京すれば、10日、11日の裁判(東京地裁 公判)が待っている。被告人質問である。
 東日本大震災という未曽有の苦難のなかで、この国はかくも、有為な政治家の手足を縛った。
 ところで、ここからは余談になるので後日に稿を改めたいと思うが、昨年より深く憂慮している一事がある。4月にも判決といわれている、小沢一郎さんの裁判である。
 陸山会事件登石郁郎裁判長の判決で思い知らされたが、裁判長には裁判長で、縛りがかけられているということだ。登石裁判長の下した判決は、郷原信郎氏のような専門家は無論のこと、私のような素人がみても、おかしな判決だった。なぜ、このような恥ずべき判決文を書かなければならなかったのか。まかり通ったのか。
 新藤宗幸氏はその著『司法官僚』〔裁判所の権力者たち〕(岩波新書)の中で、次のようにいう。
司法官僚は全国の判決や訴訟指揮の情報を集める。それをもとに行使される人事権は全国3500名の裁判官たちに絶大な影響力をもつ。10年ごとの再任の有無、昇級、転勤を司法官僚が決める。事務総局が召集する「合同」と呼ばれる研究会も下級審の裁判内容を遠隔操作する結果を生む。
 裁判とは社会で周縁においやられた人々の、尊厳回復の最後の機会である。必死の訴えをする人々に遭遇したとき、裁判官は全人格的判断をもって救済に当たるべきだ。しかし、人々の目にふれぬところで、裁判官の内面までゆがめ、その存在理由をあやうくしているシステムがあるのだとすれば大問題である。
 政権交代とは闇を打破る時代のことであろう。本書の提言にかかる裁判所情報公開法などによって司法の実態にも光が当てられ、真の改革が着手されるべきだ。
 ”
 ここでも“官僚”である。上の文脈によれば、小沢氏裁判で「無罪」と書いて大善文男裁判長個人に利するところがあるか。無い(だろう)。地方の簡裁か家庭裁判所へ飛ばされるのがオチであろう。
 前田元検事は「主任検事から『この件は特捜部と小沢の全面戦争だ。小沢をあげられなければ特捜の負けだ』といわれた」と証言している。裁判所にとって、被告人に利するか、はたまた長く利益を分かち合ってきた検察との仲を保つかを天秤にかけるなら、答えは歴然としていよう。
 そのことは、検察と一体となり走狗となって「小沢 クロ」と書いてきたメディアとっても同様である。ここで「小沢 無罪」が出たなら、メディアは、どう書けばいいのか。
 ことほど左様に、司法には司法の事情があり、裁判所と検察には判検(一体)の、検察とメディアには検察とメディアの、それぞれ譲れぬ事情がある。
 深く憂慮に堪えない。小沢氏無罪は、難しい。
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小沢強制起訴“黒幕”は最高裁事務総局  日本の司法を牛耳るエリート集団
日刊ゲンダイ2012年1月18日 掲載
 小沢強制起訴を主導したのは、検察ではなく最高裁だった――? 本当ならば仰天する話だが、ブログを中心に検察審査会のデタラメを追及してきた匿名ジャーナリストの「一市民 T」氏がこう告発する。
 「最高裁の中に事務総局という組織があります。ほとんど表に出てくることがなく、秘密のベールに包まれた組織ですが、実はここが小沢元代表をめぐる一連の裁判の“司令塔”なのです」
  事務総局に配属されるのは、将来を約束されたエリート裁判官ばかりだという。トップの事務総長は、ほぼ例外なく最高裁判事になり、「三権の長」の一角をなす最高裁長官にも、これまで6人が就任。現在の竹崎博允長官も事務総長経験者だ。T氏が続ける。
 「私はこれまで何度も検察審の事務局に足を運んで情報開示を求めてきましたが、最高裁事務総局からの通達で情報は公開できないという。そもそも、検察審の規定を作ったのも事務総局だし、検察審の人事や予算の管理、使用機材の選定なども事務総局が行っている。要するに、全国に165ある検察審は手足にすぎず、頭脳は事務総局なのです」
  岩波新書の「司法官僚~裁判所の権力者たち」(新藤宗幸著)には、こんな記述がある。
 〈日本の司法は、最高裁判所の内部に、巨大な権限を実質的に持つ司法行政機構=最高裁事務総局を整備してきた。そして一般の職業裁判官とは別に、一部のエリート職業裁判官を選別し司法行政に当たらせてきた〉
  戦後日本の司法行政を牛耳ってきたのが、事務総局のエリート集団だというのである。最高裁(広報課)はこう説明する。
 「確かに事務総局で検察審査会などの組織管理や、裁判所の人事管理は行っておりますが、エリート集団といわれても……。部署によっての優劣はありません」
  小沢公判は誰が見たって無罪確実の不毛裁判だが、最高裁が当初から関わっているとなると、話は別だ。
 「陸山会裁判で“ミスター推認”こと登石裁判官を裁判長に指名したのも事務総局だし、もちろん、小沢氏本人の公判判事も事務総局の差配です」(司法関係者)
  最高裁と検察が結託すれば、どんな人間でも塀の中に落とせてしまう。
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