☆気温、湿度、気分によって場所を変えます
写真の左から、♂5歳コッコ(黒子)、♂6歳ブシ(武士)、そして♀5歳チャ子(茶子)です。
我が家のネコ達は夜行性です。昨日の朝方、南側の膝窓から入る陽を浴びながら眠っていました。
血が繋がっている3匹は非常に仲が好くて、私は大助かりです。
ブシは大柄で貫禄十分。自分でも親分か兄貴分と思い込んでいる節があります。
穏やかで甘ったれのコッコがブシを敬い慕う様子に、いつも私はホトホト感心させられています。
♂にしては体が小さいコッコは寝るときもブシに凭れるのですが、ブシは嫌がらずにされるままです。
チャ子は独立心が強固で、今は布製の現代風「ねこちぐら」の中で寝ています。
手編みで藁製の本物「ねこちぐら」を買ってやりたいけれど私には高価過ぎ、二の足を踏んで化繊の物に代用しました。
代用品は本物のねこちぐらの10分の1の値段です。本物は2万円ちかく、これは2千円で御釣りが来ました。
写真の左から、♂5歳コッコ(黒子)、♂6歳ブシ(武士)、そして♀5歳チャ子(茶子)です。
我が家のネコ達は夜行性です。昨日の朝方、南側の膝窓から入る陽を浴びながら眠っていました。
血が繋がっている3匹は非常に仲が好くて、私は大助かりです。
ブシは大柄で貫禄十分。自分でも親分か兄貴分と思い込んでいる節があります。
穏やかで甘ったれのコッコがブシを敬い慕う様子に、いつも私はホトホト感心させられています。
♂にしては体が小さいコッコは寝るときもブシに凭れるのですが、ブシは嫌がらずにされるままです。
チャ子は独立心が強固で、今は布製の現代風「ねこちぐら」の中で寝ています。
手編みで藁製の本物「ねこちぐら」を買ってやりたいけれど私には高価過ぎ、二の足を踏んで化繊の物に代用しました。
代用品は本物のねこちぐらの10分の1の値段です。本物は2万円ちかく、これは2千円で御釣りが来ました。
☆正しかった私の幼い頃の記憶
東京の下町で生まれ、東京の山の手で幼少時代を過ごし、少女時代に一家で池袋に移り、結婚して北区に住み、離婚して豊島区に戻った翌年外国に行き、英語圏3か国に10年間滞在して帰国し、京都上賀茂に4年間を過ごしてから池袋に舞い戻った私。
小学1・2年生の時お向かいの同い年の男の子から聴いた或る言葉を、折に触れて思い出していました。
母を送ったあと気持ちの整理がついたころ、記憶の真偽の程を彼に会って確かめたい気持ちが嵩じました。
小学校5年生のとき我が家は引っ越しまして、彼とは別れ別れになっていました。
引っ越しのトラックの上から近隣の子供達に手を振って別れを惜しんでから、実に幾星霜!
私が短期大学に通っていたころ、突如として成長した彼が私の弟の手引きで我が家の庭に現れたことが一回だけ有りましたっけ。
「暫くです!」と彼は私を真っ直ぐに見詰めて、ひどく私を狼狽えさせました。
私は当時、アルバイト先で知り合った大学卒で体育系の背が高くてhandsomeな男性と親しい友人関係にありました。
訪ねてきた彼は背が低くかったので、全く及びでない印象から思わず冷たく彼をアシラッタことを覚えています。
(一般的に女性は、特に私は時として心にも無く男性に冷淡な態度を示すことがあります)
*彼の出身小学校と卒業大学が分かっていましたので、連絡先が判明しました。
当時の住まいから遠くない御薬師さん前で落ち合うことが、私でもビックリする程うまく電話口で取り決めまられました。
とうとう出逢った瞬間、お互いを直ぐ見付けました。30年以上も経っていたのに......。想像してたより彼は若々しくて、安堵したのを覚えています。
御薬師さん近辺は彼の縄張りらしく気安く案内してくれた喫茶店の椅子に腰掛けて開口一番、
「僕は、君にプロポーズしたんだよなあ~」と思い出すように照れ笑いしながらハッキリと言いました。
「キミと結婚すれば好かった!!!」とも、残念そうに付け加えてくれました。(何故か私は、理由を訊きそびれました。)
想えば、小学1・2年生の時お向かいの家の図書室の中で、お互いに気に入った本を読んでいたとき彼が突然
「大きくなったら、ケッコンしようね!」と改まって私に言ったのです。
当時の私は「ケッコン」って何のことだかサッパリ分からなかったのですが、本がイッパイある家と彼が好きだったので「ウン」と言って首を縦に振りました。
彼が悪いことを言う筈が無いし、彼が言うのだから「ケッコン」って悪いことでは無さそうだし、と咄嗟に考えたからです。
特に、『大きくなったら......』という言葉は魔法の言葉のように私の耳に響きました。
子供時代に予想する未来は途方もなく大きくて、計り知れない期待感に満ち溢れています。
そののち、彼の「ケッコン」という言葉の響きが私の心に強烈な印象を残し続けました。
*喫茶店で逢って以来、彼に逢っていません。
彼は長男で、同居している病弱な御両親を介護していたようです。
頭の良い女性と結婚して御子さんも何人か居るようでした。詳しいことは何も訊ねませんでした。
私は、ただ私の記憶の真偽を確認したかったからです。
10歳にもならない男の子でも軽はずみに意思表示をしないことを知ったとき、私は驚愕し感動しました。
彼は、単に「オマセ」さんだったのかも。ご両親は小学校の先生でしたから。
でも、楽天的に考えますと......
『オマエは器量が今いち』(亡き父の言葉です)だけれど、気立てが良くて可愛い女の子だったのかしら? と
独りで悦に入ることができる此の実話は、今でも私の大切な想い出の一つです。
*思い返すたびに痛感するのは、彼の誠実さです。御両親は共稼ぎで働いて定年後に敷地が広い一軒家を購入し、長男家族と同居して仕合わせに生活していらしたようでした。
彼は御両親から受けた恩義と愛情に充分に応えられる性格の持ち主。『誠実』さに溢れている彼を、遅くばせながら秘かに心の中で賞賛している私です。
東京の下町で生まれ、東京の山の手で幼少時代を過ごし、少女時代に一家で池袋に移り、結婚して北区に住み、離婚して豊島区に戻った翌年外国に行き、英語圏3か国に10年間滞在して帰国し、京都上賀茂に4年間を過ごしてから池袋に舞い戻った私。
小学1・2年生の時お向かいの同い年の男の子から聴いた或る言葉を、折に触れて思い出していました。
母を送ったあと気持ちの整理がついたころ、記憶の真偽の程を彼に会って確かめたい気持ちが嵩じました。
小学校5年生のとき我が家は引っ越しまして、彼とは別れ別れになっていました。
引っ越しのトラックの上から近隣の子供達に手を振って別れを惜しんでから、実に幾星霜!
私が短期大学に通っていたころ、突如として成長した彼が私の弟の手引きで我が家の庭に現れたことが一回だけ有りましたっけ。
「暫くです!」と彼は私を真っ直ぐに見詰めて、ひどく私を狼狽えさせました。
私は当時、アルバイト先で知り合った大学卒で体育系の背が高くてhandsomeな男性と親しい友人関係にありました。
訪ねてきた彼は背が低くかったので、全く及びでない印象から思わず冷たく彼をアシラッタことを覚えています。
(一般的に女性は、特に私は時として心にも無く男性に冷淡な態度を示すことがあります)
*彼の出身小学校と卒業大学が分かっていましたので、連絡先が判明しました。
当時の住まいから遠くない御薬師さん前で落ち合うことが、私でもビックリする程うまく電話口で取り決めまられました。
とうとう出逢った瞬間、お互いを直ぐ見付けました。30年以上も経っていたのに......。想像してたより彼は若々しくて、安堵したのを覚えています。
御薬師さん近辺は彼の縄張りらしく気安く案内してくれた喫茶店の椅子に腰掛けて開口一番、
「僕は、君にプロポーズしたんだよなあ~」と思い出すように照れ笑いしながらハッキリと言いました。
「キミと結婚すれば好かった!!!」とも、残念そうに付け加えてくれました。(何故か私は、理由を訊きそびれました。)
想えば、小学1・2年生の時お向かいの家の図書室の中で、お互いに気に入った本を読んでいたとき彼が突然
「大きくなったら、ケッコンしようね!」と改まって私に言ったのです。
当時の私は「ケッコン」って何のことだかサッパリ分からなかったのですが、本がイッパイある家と彼が好きだったので「ウン」と言って首を縦に振りました。
彼が悪いことを言う筈が無いし、彼が言うのだから「ケッコン」って悪いことでは無さそうだし、と咄嗟に考えたからです。
特に、『大きくなったら......』という言葉は魔法の言葉のように私の耳に響きました。
子供時代に予想する未来は途方もなく大きくて、計り知れない期待感に満ち溢れています。
そののち、彼の「ケッコン」という言葉の響きが私の心に強烈な印象を残し続けました。
*喫茶店で逢って以来、彼に逢っていません。
彼は長男で、同居している病弱な御両親を介護していたようです。
頭の良い女性と結婚して御子さんも何人か居るようでした。詳しいことは何も訊ねませんでした。
私は、ただ私の記憶の真偽を確認したかったからです。
10歳にもならない男の子でも軽はずみに意思表示をしないことを知ったとき、私は驚愕し感動しました。
彼は、単に「オマセ」さんだったのかも。ご両親は小学校の先生でしたから。
でも、楽天的に考えますと......
『オマエは器量が今いち』(亡き父の言葉です)だけれど、気立てが良くて可愛い女の子だったのかしら? と
独りで悦に入ることができる此の実話は、今でも私の大切な想い出の一つです。
*思い返すたびに痛感するのは、彼の誠実さです。御両親は共稼ぎで働いて定年後に敷地が広い一軒家を購入し、長男家族と同居して仕合わせに生活していらしたようでした。
彼は御両親から受けた恩義と愛情に充分に応えられる性格の持ち主。『誠実』さに溢れている彼を、遅くばせながら秘かに心の中で賞賛している私です。
☆初めて接した西洋の妖精物語!
私が「雑草横丁」と呼んでいる我が家の植込みで咲いている小花の群れです。
亡き父が殊のほか愛していたミヤコワスレ、亡き母が好きだったキク 科のモクシュンギク(木春菊)、そして私が特に香りに惹かれる庭薺(ニワナズナ)= sweet alyssum の寄せ植えを写しました。
空き家になった御向かいの家に引っ越して来たのは小学校二年生と幼稚園前の男の子を持つ若い教師夫妻でした。
上の男の子と私は同じ年齢でしたが別々の小学校に通っていました。私の兄弟達は越境入学させられていたからです。
幼い二人にとって、そんな事はどうでも好いことでした。
馴染みのある部屋が模様替えされて壁際に幾つもの書棚が置かれ、所狭しと本が並べられていた事を鮮明に覚えています。
子供向きの分厚い翻訳本が数多くあって本好きの私を虜にしました。
或る日、選んだのは白くて厚い表紙の本でした。
http://kaeru-mt.blogzine.jp/keientaitaityou/cat5713716/
この時に読んだ妖精話の記憶だけを頼りに、6年前に粗筋を書き起こした西洋の妖精物語です。
今でも好きな妖精話と此の本に遇う機会を提供してくれた彼とは、それ以来ズウ~ット私の記憶の中だけで繋がっていました。
表題は忘れましたので、私が勝手に「妖精の目薬」としたものです。
* この話を書くにあたって幼い頃に読んだ本を探しましたが、残念ながら見付けることができませんでした。
私が「雑草横丁」と呼んでいる我が家の植込みで咲いている小花の群れです。
亡き父が殊のほか愛していたミヤコワスレ、亡き母が好きだったキク 科のモクシュンギク(木春菊)、そして私が特に香りに惹かれる庭薺(ニワナズナ)= sweet alyssum の寄せ植えを写しました。
空き家になった御向かいの家に引っ越して来たのは小学校二年生と幼稚園前の男の子を持つ若い教師夫妻でした。
上の男の子と私は同じ年齢でしたが別々の小学校に通っていました。私の兄弟達は越境入学させられていたからです。
幼い二人にとって、そんな事はどうでも好いことでした。
馴染みのある部屋が模様替えされて壁際に幾つもの書棚が置かれ、所狭しと本が並べられていた事を鮮明に覚えています。
子供向きの分厚い翻訳本が数多くあって本好きの私を虜にしました。
或る日、選んだのは白くて厚い表紙の本でした。
http://kaeru-mt.blogzine.jp/keientaitaityou/cat5713716/
この時に読んだ妖精話の記憶だけを頼りに、6年前に粗筋を書き起こした西洋の妖精物語です。
今でも好きな妖精話と此の本に遇う機会を提供してくれた彼とは、それ以来ズウ~ット私の記憶の中だけで繋がっていました。
表題は忘れましたので、私が勝手に「妖精の目薬」としたものです。
* この話を書くにあたって幼い頃に読んだ本を探しましたが、残念ながら見付けることができませんでした。
☆伊達チャ子♀(独眼です)が風邪で入院しました
チャ子は野良猫出身です。仲好く並んで日向ボッコをしている隣の黒子(コッコ)は実の兄弟です。
我が家に引き取られてから5年近くにもなるのに飼い主の私とチャ子とは、今だに私の手の甲とチャ子の鼻先挨拶だけ。抱っこなんて、只の一回もありません。
この数ヶ月というもの異常低気温のせいか、重症の目ヤニが絶えなくて私は心配で心配でなりませんでした。
飼い猫に詳しい友人と相談して移動用の硬化檻を購入し、その中で餌をたべさせることを試みました。
用意して三日目に新しく購入した大型で取り扱いが容易な檻に入ったのを見届けて、直ちに収監しました。
それからが大変! 私の心臓はドキドキの早鐘状態で取る物も取り敢えず、友人が依頼してくれたtaxi で施設が完璧な犬猫病院へ向かいました。
taxi の中でも私の慌て振りは止まずチャ子の緊張状態が心配で心配で、不安は募るばかりでした。
人間不信が強いチャ子の取り扱いに困り果てた至れ里つくせりな獣病院の優秀な担当獣医師をして、「また来ても、診て上げられるかどうか?」と言わしめた強烈な反抗精神の持ち主! 「僕を信頼してくれないのです!」と心底から困った様子でした。
かくして、チャ子は一泊で退院と相成りました。
過度の緊張からか、入院してから飲まず喰わずに加え排泄皆無。これでは帰宅した方が良い、という診断で退院を余儀なくされたのです。
彼女を引き取りに行きますと、低い声で「ウーウー」と唸りながら檻の中で人間を威嚇しているチャ子の目の周りは相変わらずヤニだらけ。「どうしても目の周りを拭かしてくれなくて......」と説明した若い獣医師。
そうでしょうとも! 5年前に化膿した左目摘出に当った年輩の獣医師が「この子は、酷く心を傷つけられています」と重ねて強調された言葉を思い出しました。
幸い、繰り返される単なる風邪と診断されました。レントゲン検査も血液検査結果も正常と判明した3キロ半の♀ネコです。
”人間を容易く信用してくれないチャ子ちゃん。動作が敏捷で気が強いチャ子ちゃん。仕方がありませんね。これから何があっても、私がオマエの一生の面倒を看ましょう” と心の中で言い聞かせました。
*一泊だけ外泊したチャ子にチョッピリ威張り散らしている親分株の「ブシ」が、帰宅後のチャ子を暫く監視し続け行動を牽制していました。
チャ子は野良猫出身です。仲好く並んで日向ボッコをしている隣の黒子(コッコ)は実の兄弟です。
我が家に引き取られてから5年近くにもなるのに飼い主の私とチャ子とは、今だに私の手の甲とチャ子の鼻先挨拶だけ。抱っこなんて、只の一回もありません。
この数ヶ月というもの異常低気温のせいか、重症の目ヤニが絶えなくて私は心配で心配でなりませんでした。
飼い猫に詳しい友人と相談して移動用の硬化檻を購入し、その中で餌をたべさせることを試みました。
用意して三日目に新しく購入した大型で取り扱いが容易な檻に入ったのを見届けて、直ちに収監しました。
それからが大変! 私の心臓はドキドキの早鐘状態で取る物も取り敢えず、友人が依頼してくれたtaxi で施設が完璧な犬猫病院へ向かいました。
taxi の中でも私の慌て振りは止まずチャ子の緊張状態が心配で心配で、不安は募るばかりでした。
人間不信が強いチャ子の取り扱いに困り果てた至れ里つくせりな獣病院の優秀な担当獣医師をして、「また来ても、診て上げられるかどうか?」と言わしめた強烈な反抗精神の持ち主! 「僕を信頼してくれないのです!」と心底から困った様子でした。
かくして、チャ子は一泊で退院と相成りました。
過度の緊張からか、入院してから飲まず喰わずに加え排泄皆無。これでは帰宅した方が良い、という診断で退院を余儀なくされたのです。
彼女を引き取りに行きますと、低い声で「ウーウー」と唸りながら檻の中で人間を威嚇しているチャ子の目の周りは相変わらずヤニだらけ。「どうしても目の周りを拭かしてくれなくて......」と説明した若い獣医師。
そうでしょうとも! 5年前に化膿した左目摘出に当った年輩の獣医師が「この子は、酷く心を傷つけられています」と重ねて強調された言葉を思い出しました。
幸い、繰り返される単なる風邪と診断されました。レントゲン検査も血液検査結果も正常と判明した3キロ半の♀ネコです。
”人間を容易く信用してくれないチャ子ちゃん。動作が敏捷で気が強いチャ子ちゃん。仕方がありませんね。これから何があっても、私がオマエの一生の面倒を看ましょう” と心の中で言い聞かせました。
*一泊だけ外泊したチャ子にチョッピリ威張り散らしている親分株の「ブシ」が、帰宅後のチャ子を暫く監視し続け行動を牽制していました。
☆記憶の糸を手繰(たぐ)って
今日は四月には削ぐわない低い気温で、おまけに雨まじりの寒い日でした。
私庭の満開のオオムラサキツツジの花房は、冷たい雨に叩かれて首を垂れていました。(状況写真です)
考えてみますと、私が幼かった日々の記憶の中にある年輩者の殆どは既に故人になられました。
生まれた人は誰でも鬼籍に入るので、これは当たり前のことなのですが。
お向かいの家の御主人は確か九州出身の方でした。子供だった私の目から見ても人格者に見えました。
私の両親は御夫妻を尊敬していたに相違ありません。
小学校に入学して初めて貰った通信簿を、お向かいの家の旦那さまに御見せしたのは只の一回だけ。
何故ならば、通信簿を御見せした年に急逝されたからです。今では、見て頂いて本当に好かったと思っています。
母から通信簿を見せるように言われたとき、私には厭だとか、恥ずかしいとかいう感情はサラサラありませんでした。
木の御門の呼び鈴を押して立派な御庭に入って、縁側の外から縁側に座った旦那さまに手渡して見て頂きました。
両親に見せたように、ごく自然に見せました。通信簿を手にされた御姿と御顔の表情と言葉が、朧げながら鮮明に思い出されます。
結婚されて小さい御子さんがある一人娘さんの三人家族と同居されて居られましたから、5・60歳代ぐらいだったのかしら?
黒っぽい御着物を召された旦那さまの端正な横顔が、今でも目の奥に浮かびます。
家の大黒柱を失った二世帯家族は間もなく何処かへ引っ越されてしまって御屋敷は空き家となり、暫くのあいだ私の心にポッカリと穴が空いたようでした。
今日は四月には削ぐわない低い気温で、おまけに雨まじりの寒い日でした。
私庭の満開のオオムラサキツツジの花房は、冷たい雨に叩かれて首を垂れていました。(状況写真です)
考えてみますと、私が幼かった日々の記憶の中にある年輩者の殆どは既に故人になられました。
生まれた人は誰でも鬼籍に入るので、これは当たり前のことなのですが。
お向かいの家の御主人は確か九州出身の方でした。子供だった私の目から見ても人格者に見えました。
私の両親は御夫妻を尊敬していたに相違ありません。
小学校に入学して初めて貰った通信簿を、お向かいの家の旦那さまに御見せしたのは只の一回だけ。
何故ならば、通信簿を御見せした年に急逝されたからです。今では、見て頂いて本当に好かったと思っています。
母から通信簿を見せるように言われたとき、私には厭だとか、恥ずかしいとかいう感情はサラサラありませんでした。
木の御門の呼び鈴を押して立派な御庭に入って、縁側の外から縁側に座った旦那さまに手渡して見て頂きました。
両親に見せたように、ごく自然に見せました。通信簿を手にされた御姿と御顔の表情と言葉が、朧げながら鮮明に思い出されます。
結婚されて小さい御子さんがある一人娘さんの三人家族と同居されて居られましたから、5・60歳代ぐらいだったのかしら?
黒っぽい御着物を召された旦那さまの端正な横顔が、今でも目の奥に浮かびます。
家の大黒柱を失った二世帯家族は間もなく何処かへ引っ越されてしまって御屋敷は空き家となり、暫くのあいだ私の心にポッカリと穴が空いたようでした。
☆記憶の中のヤエザクラと故人とネコ
小学校5年生まで住んだ東京中野区の自宅前の御宅の庭に、八重櫻の大木が一本ありました。
春には美しい櫻の花が咲き、夏には太い幹に半透明のヤニが流れて、子供達の格好の遊び道具になりました。
お向かいの家の御主人は学者さんで、恰幅の良い見るからに立派な年輩の方でした。
私の両親と、とても懇意にしていたようです。
どういういきさつか私が小学校へ入学して初めて貰った通信簿を、その御宅の御主人に見せる羽目になったのです。
御宅へ伺って御見せすると、とても褒めて下さいました。
国語と絵画工作と体育だけが良かっただけでしたのに。
その時の御主人の御顔と御声が私の脳裡に貯まわれていて、今でも満開の八重櫻を見る度に懐かしく想い出されます。
或る日、品の良い奥様が私を納戸部屋に案内して下さいました。
押し入れの行李の中に、生まれたての子ネコ達が8匹ほど鳴いていました。
私が、初めて見た子ネコ達でした。
御主人も奥様も到に亡くなられましたが、麗しい思い出は私の記憶の中にシッカリと残っています。
小学校5年生まで住んだ東京中野区の自宅前の御宅の庭に、八重櫻の大木が一本ありました。
春には美しい櫻の花が咲き、夏には太い幹に半透明のヤニが流れて、子供達の格好の遊び道具になりました。
お向かいの家の御主人は学者さんで、恰幅の良い見るからに立派な年輩の方でした。
私の両親と、とても懇意にしていたようです。
どういういきさつか私が小学校へ入学して初めて貰った通信簿を、その御宅の御主人に見せる羽目になったのです。
御宅へ伺って御見せすると、とても褒めて下さいました。
国語と絵画工作と体育だけが良かっただけでしたのに。
その時の御主人の御顔と御声が私の脳裡に貯まわれていて、今でも満開の八重櫻を見る度に懐かしく想い出されます。
或る日、品の良い奥様が私を納戸部屋に案内して下さいました。
押し入れの行李の中に、生まれたての子ネコ達が8匹ほど鳴いていました。
私が、初めて見た子ネコ達でした。
御主人も奥様も到に亡くなられましたが、麗しい思い出は私の記憶の中にシッカリと残っています。
☆好きな寺院に詣でて甘茶を頂きました
東京都豊島区池袋に在る名刹の夕暮れ風景です。
訪れる人々が絶えた静かな時刻に、この寺院に来られたことを感謝しました。
古くて素敵な山門を入りますと、石畳の向こうに御本堂が見えます。
近づくと花に飾られた御釈迦様の誕生を祝う甘茶屋が目に入りました。お花以外は、すべて例年と同じ設(しつらえ)です。
大正年間に故あって文京区から移管された古い寺院は、幸い戦渦を受けずに残りました。
それゆえ、使われている寺院の御道具は当初からのものばかり。
旧式に右から左書きの木彫りの寺院名の揮毫と赤白の独特な形の紙かざりも、古刹に似合って可愛らしい。
素晴らしい御本堂前を独り占めできる静かな寺院で、博識な御住職から振る舞われた甘茶の美味しかったこと!
甘くて苦い漢方薬のような一杯の甘茶は、一年分の薬効があるような気がしました。
「御釈迦さま、御誕生日お目出度う御座います!」
私は心の中で、小さく呟きました。
東京都豊島区池袋に在る名刹の夕暮れ風景です。
訪れる人々が絶えた静かな時刻に、この寺院に来られたことを感謝しました。
古くて素敵な山門を入りますと、石畳の向こうに御本堂が見えます。
近づくと花に飾られた御釈迦様の誕生を祝う甘茶屋が目に入りました。お花以外は、すべて例年と同じ設(しつらえ)です。
大正年間に故あって文京区から移管された古い寺院は、幸い戦渦を受けずに残りました。
それゆえ、使われている寺院の御道具は当初からのものばかり。
旧式に右から左書きの木彫りの寺院名の揮毫と赤白の独特な形の紙かざりも、古刹に似合って可愛らしい。
素晴らしい御本堂前を独り占めできる静かな寺院で、博識な御住職から振る舞われた甘茶の美味しかったこと!
甘くて苦い漢方薬のような一杯の甘茶は、一年分の薬効があるような気がしました。
「御釈迦さま、御誕生日お目出度う御座います!」
私は心の中で、小さく呟きました。
☆東京都内最古の寺の境内から、TOKYO SKY TREE が見えました
昨今、浅草界隈は活気づいています。
雷門、仲店、浅草寺境内は週末でもないのに、大層な賑い振りでした。
浅草寺の境内では、枝垂櫻とSKY TREE を背景にして嬉しそうに記念撮影をする人々がビッシリでした。
花曇りでしたが、うららかな陽気を御花見と洒落込んでいる人々が大勢いました。
外国からの観光客が、めっきり増えているみたいです。
浅草寺本殿へ通じる仲店の賑わいといったら、それはそれは半端ではありません。
人道の一方通行みたいな通路が、観光客と参拝者でぎゅうぎゅう詰めでした。
いつ行っても善男善女で賑わっている浅草の観音様です。
私は浅草寺のシダレザクラを堪能しました。
TOKYO SKY TREE は美しい塔です。
でも、塔の下になった地面のことを考えると私は複雑な気持ちです。
あの恐ろしく重そうな物体を支えている地下の地面は、一体どうなっているのでしょうか?
建築の物理学を全く知らない私は、此処でも要らざる心配をします。
私の杞憂を何処吹く風と、シダレザクラの木々は浅草寺を優雅に彩って咲いていました。
妖しく咲き誇る満開の櫻木に見入っていると浮世の憂さを忘れて、暫し桃源の世界に引き込まれる思いがありました。
注: 写真をclick して下さると拡大します。
昨今、浅草界隈は活気づいています。
雷門、仲店、浅草寺境内は週末でもないのに、大層な賑い振りでした。
浅草寺の境内では、枝垂櫻とSKY TREE を背景にして嬉しそうに記念撮影をする人々がビッシリでした。
花曇りでしたが、うららかな陽気を御花見と洒落込んでいる人々が大勢いました。
外国からの観光客が、めっきり増えているみたいです。
浅草寺本殿へ通じる仲店の賑わいといったら、それはそれは半端ではありません。
人道の一方通行みたいな通路が、観光客と参拝者でぎゅうぎゅう詰めでした。
いつ行っても善男善女で賑わっている浅草の観音様です。
私は浅草寺のシダレザクラを堪能しました。
TOKYO SKY TREE は美しい塔です。
でも、塔の下になった地面のことを考えると私は複雑な気持ちです。
あの恐ろしく重そうな物体を支えている地下の地面は、一体どうなっているのでしょうか?
建築の物理学を全く知らない私は、此処でも要らざる心配をします。
私の杞憂を何処吹く風と、シダレザクラの木々は浅草寺を優雅に彩って咲いていました。
妖しく咲き誇る満開の櫻木に見入っていると浮世の憂さを忘れて、暫し桃源の世界に引き込まれる思いがありました。
注: 写真をclick して下さると拡大します。