カエルが楽しく笑う庭

両生類を主体として彼等を取り巻く都会の自然環境と、投稿者のつれづれなる思い

<big>諸行無常</big>

2014-10-17 10:33:38 | 日本の美
☆秋深くなって

気温・湿度が快適な頃合いになると、フッと高校生の時に目にした古典文学が想い出されます。

「平家物語」の出だしが口をついて出てきます。

「方丈記」も然り。

美文調と内容の濃さに惹かれ、若い脳で暗唱した文章を記憶から引き出しながら空んじます。

それにしましても、今日も美しい秋晴れ。

栄養指導で示された朝食献立一式を揃えて食し、腹八分目を満たした心地好さ気分でPCに向かいました。

この境地を感謝せずにはいられない思いです。

生活上の煩雑さに毎日追いかけられ、カーッと頭に血が昇ることは屢々ですが、

「待てよ」と自分に言い聞かせて調息します。

「ここが、我慢のしどころ」と肚を括くります。

「秋の快適さを忘れずに、前進しよう、前進あるのみ」、と決意します。



 

 ☆   ♪


往来に面した御子守地蔵尊前の板切れ裏に今朝も居た小ヤモリを、意を決して御地蔵様の裏にソオッと移しました。

私の手に張り付けた小さな吸盤の感触を、一瞬感じました。

細くて体長3センチばかりの小さいヤモリの赤チャンです。

自然が呉れた嬉しい経験。見ても可愛い、触っても可愛い、小ヤモリちゃん。

諸行無常感に脳を占領されていた私が、思いがけず頂いた無上の仕合わせな感触でした。

自然現象よ、有り難う! 小ヤモリちゃん、有り難う! 

これからもアタシは頑張って生きて行きますから、オマエも頑張って生き続けて頂戴ね。












<big>つもり違い 十二訓集</big>

2014-10-09 18:47:04 | 日本の美
☆衝撃的な訓戒集です




   1  高いようで    低いのが     教養

   2  低いようで    高いのが     気位

   3  深いようで    浅いのが     知識

  4  浅いようで    深いのが      欲皮

   5  有るようで    無いのが      反省

   6  無いようで    有るのが      七癖

   7  多いようで    少ないのが     分別

   8  少ないようで   多いのが      無駄

   9  厚いようで    薄いのが      人情

  10    薄いようで    厚いのが      面皮

  11  強いようで   弱いのが      根性

  12  弱いようで   強いのが      意地


                        
                             仏教大学 宗教部 







兵庫県宝塚に御住まいの85歳を超えた教養人から送られた写です。

この12訓集を読んで、心が痛いくらいの衝撃を受けました。

反省させられることが多い内容に、襟を正して読み入りました。

何か心の中を見透かされるような感じがしました。

心したいものです。




 


<big>月日は百代の過客にして......</big>

2014-07-01 11:31:49 | 日本の美
☆家の周りの、目まぐるしい変遷

Dsc_4131Dsc_4130614_616Dsc_4124_2今年はキュウリの良い苗に恵まれました。

屋上菜園を手掛けている方からの助言で、早々と本格的な苗を4本購入しました。

あれよあれよ、という間に成長して2階の窓に届くぐらい伸びています。

収穫した本数は既に20本近くです。

それが、揃いも揃って立派なキュウリ様々なのです。

熟成を見計らって、知人や近隣の方々に贈って喜ばれています。

水やり加減と風通しを心がけているだけで、何と私は今や「キュウリの御大尽」になった気分で、とても愉快です。

肌にトゲトゲのあるものに、トゲが全く無いキュウリもあることを初めて知りました。

充分に冷やしてから、御味噌を付けて頂くのが最高!





<big>願いと祈り</big>

2014-02-19 08:32:19 | 日本の美
☆願いと祈りは一生ついてまわるのですね






私の子供時代の願いは単純なものでした。

家の庭では、綺麗な花が咲くこと花に美しい蝶が来ること好きな昆虫に会えること。

家の外では、遠くへ行っても迷わずに家に帰ることができること。

学校では、絵が好きなように描けること作文が思うように書けること好きな男の子の姿が見られること、などでした。




小学6年生当時の或る日、バス停で和服姿の高齢女性を見掛けた時の衝撃は大きなものでした。

小柄でシャンとして、足袋下駄を履き大地にシッカリと立って、バスが来るのを静かに落ち着いて待っておられました。

その時の光景は今でも鮮明に私の脳裡に残っています。バス停の場所も覚えています。

初め、その婦人は私の目に異質な人間のように映りました。

そして次に、「歳を取ったら私も、あゝ成るんだ」と漠然と感じました。

その後で直ぐに、「そうだ、いつか私も歳を取ってオバアさんになる!」と気がついた時の驚きったらありませんでした。

「その時のために私がしなければならないことは?

......歳を取っても世のため人のために役立つオバアさん、世間から尊敬されるオバアさんになることだ」という啓示が閃きました。

それからというもの、私の生き方は此の時の決意が根底に在るようです。




ですけれど、意志だけで事は成就しません。

願いが大きいと自力だけでは間に合いません。

その時に役立つのは祈りなんですねぇ。

いつしか私は自分の能力の限界を知って、ひたすら祈ることにしました。

ですが、厳しい今年の寒さと同じように祈願成就も厳しいもんだ、と痛感しています。

私が酷寒の季節で祈るのは、野生生物たちの身の安全です。

カエルさん達もヤモリさん達も昆虫達も無事に冬を乗り切って欲しいと、切に願い祈るこの頃です。




















<big>東京都中野区の哲学堂公園:最終篇</big>

2013-11-05 23:03:15 | 日本の美
☆高く、広く、深く、を追求した仏教哲学者=井上圓了氏の世界が此処にあります



Dsc_2184_1Dsc_2200_2Dsc_2197_2見る角度を変えて執拗に六角堂を追写しました。

手前左の高木はシダレザクラでしょうか。春はサクラが一杯です。

哲学堂のサクラは、黒土地面に映えて得も言われない美しさです。

哲学堂圖書館記の石碑は左右から守る幼児達の朔像付きです。

ススキの合間から地面を這うコケが見え隠れしています。












Dsc_2219_19Dsc_2181_13Dsc_2229哲学堂の鬼瓦は独自の意匠を持っています。

まるで天を突くような不思議な形に驚かされます。

三角堂です。これも風変わりな建物です。

お終いは幽霊門という別名を持つ妖怪門(=哲理門)です。

すべて圓了氏の創案としたら氏は宇宙的天才偉人と言えましょう。





<big>秋さめ降る東京都中野区の哲学堂公園 その1</big>

2013-11-02 20:22:39 | 日本の美
☆小雨に濡れる哲学堂公園は美しい



Dsc_2175_2Dsc_2185_3Dsc_2194_11今日は、所属している写真倶楽部の撮影会の日でした。

池袋から中野駅へ向かうバスに乗って行きました。

哲学堂の赤い六賢台は何時見ても洒落た建物です。

屋根の庇から雨垂れを受ける横断溝の自然石が雨に濡れていました。

地面を這うコケの緑が一段と鮮やかでした。














Dsc_2208Dsc_2228Dsc_2263紅葉の盛りが近い木の葉の色が見事です。

哲学の哲の字が入った屋根瓦が並んでいます。

脇には、風情がある竹林が茂っています。

黄花コスモスの花弁が小雨の水滴を含んでいました。

可憐な花でも持ちこたえる優しい小糠雨(こぬかあめ)でしたから。







<big>大丈夫 心配するな 何とかなる</big>

2013-07-06 01:57:57 | 日本の美
☆なんと頼もしい御言葉!

Dsc_0748_10「大丈夫 心配するな 何とかしよう」と私は置き換えたいです。


「何とかなる」、のを待つのは堪え難いので。


本当に一休さんが言って下さったのかしら?


言って下さりそうな御言葉ですよね。


娑婆は心配ごとばかりで、私とて悩み事が絶えません。


ああ、なんて嬉しい御言葉なのでしょうか?







<big>アメリカ先住民の肖像</big>

2013-05-31 22:01:36 | 日本の美
☆消え行く文化の目撃者

Dsc_0232The Edward S. Curtis Collection offers a unique glimpse into Curtis's work with indigenous cultures.

The more than 2,400 silver-gelatin photographic prints were acquired by the Library of Congress through copyright deposit from about 1900 through 1930.

About two-thirds (1,608) of these images were not published in Curtis's multi-volume work, The North American Indian.


池袋から副都心線を利用して「明治神宮駅」経由で、暫く振りに千代田線「乃木坂」から徒歩6分の「写真歴史博物館」へ行きました。

何年振りでしょうか? この近辺の佇まいの変貌には、目を見張らされました。

東京生まれ育ちなのに、田舎から出て来たばかりのオノボリサンのような気分を味わったのです。

写真技師 Edward Curtis が手がけた特殊技法による美しい写真22点が、博物館に展示されてありました。

100年前のアメリカ先住民達の風貌、服飾、文化、生活等は非常に興味深いものがあります。

1500年頃から数百年の間に、西欧諸国から侵略した白人々種達から土地を剥奪され、移住を強制され、存在そのものさえ脅かされた先住民達の悲哀を滲ませているような表情に、私は深い遣り切れなさを感じました。

立派な羽飾りの被り物と衣裳は、途方もなく典雅でさえあります。

誇り高く、勇者の尊厳を漂わせていた善良な先住民達を、身勝手な侵略者達が迫害したり虐殺することが許されて良いのでしょうか?

直接には係わりのない私ですが、改めて強い憤りの気持ちでイッパイです。

いつも弱い者が負けて損をする悪習が、まかり通っていたのですね。

アメリカ建国は、祝うべきものでなく悲しむもべきものだということを知りました。

オーストラリア建国と全く同じです。先住民達を迫害して征服者達は広大な土地を略奪したという現実です。














<big>想い出の続き ー後編ー</big>

2013-04-28 06:02:11 | 日本の美
☆正しかった私の幼い頃の記憶
Dscn0209sweet_pea東京の下町で生まれ、東京の山の手で幼少時代を過ごし、少女時代に一家で池袋に移り、結婚して北区に住み、離婚して豊島区に戻った翌年外国に行き、英語圏3か国に10年間滞在して帰国し、京都上賀茂に4年間を過ごしてから池袋に舞い戻った私。

小学1・2年生の時お向かいの同い年の男の子から聴いた或る言葉を、折に触れて思い出していました。

母を送ったあと気持ちの整理がついたころ、記憶の真偽の程を彼に会って確かめたい気持ちが嵩じました。

小学校5年生のとき我が家は引っ越しまして、彼とは別れ別れになっていました。

引っ越しのトラックの上から近隣の子供達に手を振って別れを惜しんでから、実に幾星霜!

私が短期大学に通っていたころ、突如として成長した彼が私の弟の手引きで我が家の庭に現れたことが一回だけ有りましたっけ。

「暫くです!」と彼は私を真っ直ぐに見詰めて、ひどく私を狼狽えさせました。

私は当時、アルバイト先で知り合った大学卒で体育系の背が高くてhandsomeな男性と親しい友人関係にありました。

訪ねてきた彼は背が低くかったので、全く及びでない印象から思わず冷たく彼をアシラッタことを覚えています。

(一般的に女性は、特に私は時として心にも無く男性に冷淡な態度を示すことがあります)




*彼の出身小学校と卒業大学が分かっていましたので、連絡先が判明しました。

当時の住まいから遠くない御薬師さん前で落ち合うことが、私でもビックリする程うまく電話口で取り決めまられました。

とうとう出逢った瞬間、お互いを直ぐ見付けました。30年以上も経っていたのに......。想像してたより彼は若々しくて、安堵したのを覚えています。

御薬師さん近辺は彼の縄張りらしく気安く案内してくれた喫茶店の椅子に腰掛けて開口一番、

「僕は、君にプロポーズしたんだよなあ~」と思い出すように照れ笑いしながらハッキリと言いました。

「キミと結婚すれば好かった!!!」とも、残念そうに付け加えてくれました。(何故か私は、理由を訊きそびれました。)

想えば、小学1・2年生の時お向かいの家の図書室の中で、お互いに気に入った本を読んでいたとき彼が突然

「大きくなったら、ケッコンしようね!」と改まって私に言ったのです。

当時の私は「ケッコン」って何のことだかサッパリ分からなかったのですが、本がイッパイある家と彼が好きだったので「ウン」と言って首を縦に振りました。

彼が悪いことを言う筈が無いし、彼が言うのだから「ケッコン」って悪いことでは無さそうだし、と咄嗟に考えたからです。

特に、『大きくなったら......』という言葉は魔法の言葉のように私の耳に響きました。

子供時代に予想する未来は途方もなく大きくて、計り知れない期待感に満ち溢れています。

そののち、彼の「ケッコン」という言葉の響きが私の心に強烈な印象を残し続けました。




*喫茶店で逢って以来、彼に逢っていません。

彼は長男で、同居している病弱な御両親を介護していたようです。

頭の良い女性と結婚して御子さんも何人か居るようでした。詳しいことは何も訊ねませんでした。

私は、ただ私の記憶の真偽を確認したかったからです。

10歳にもならない男の子でも軽はずみに意思表示をしないことを知ったとき、私は驚愕し感動しました。

彼は、単に「オマセ」さんだったのかも。ご両親は小学校の先生でしたから。

でも、楽天的に考えますと......

『オマエは器量が今いち』(亡き父の言葉です)だけれど、気立てが良くて可愛い女の子だったのかしら? と

独りで悦に入ることができる此の実話は、今でも私の大切な想い出の一つです。








*思い返すたびに痛感するのは、彼の誠実さです。御両親は共稼ぎで働いて定年後に敷地が広い一軒家を購入し、長男家族と同居して仕合わせに生活していらしたようでした。

彼は御両親から受けた恩義と愛情に充分に応えられる性格の持ち主。『誠実』さに溢れている彼を、遅くばせながら秘かに心の中で賞賛している私です。




























<big>想い出の続き ー中編ー</big>

2013-04-26 04:53:06 | 日本の美
☆初めて接した西洋の妖精物語!


Imgp2045私が「雑草横丁」と呼んでいる我が家の植込みで咲いている小花の群れです。

亡き父が殊のほか愛していたミヤコワスレ、亡き母が好きだったキク 科のモクシュンギク(木春菊)、そして私が特に香りに惹かれる庭薺(ニワナズナ)= sweet alyssum の寄せ植えを写しました。

空き家になった御向かいの家に引っ越して来たのは小学校二年生と幼稚園前の男の子を持つ若い教師夫妻でした。

上の男の子と私は同じ年齢でしたが別々の小学校に通っていました。私の兄弟達は越境入学させられていたからです。

幼い二人にとって、そんな事はどうでも好いことでした。

馴染みのある部屋が模様替えされて壁際に幾つもの書棚が置かれ、所狭しと本が並べられていた事を鮮明に覚えています。

子供向きの分厚い翻訳本が数多くあって本好きの私を虜にしました。

或る日、選んだのは白くて厚い表紙の本でした。

http://kaeru-mt.blogzine.jp/keientaitaityou/cat5713716/

この時に読んだ妖精話の記憶だけを頼りに、6年前に粗筋を書き起こした西洋の妖精物語です。

今でも好きな妖精話と此の本に遇う機会を提供してくれた彼とは、それ以来ズウ~ット私の記憶の中だけで繋がっていました。

表題は忘れましたので、私が勝手に「妖精の目薬」としたものです。

* この話を書くにあたって幼い頃に読んだ本を探しましたが、残念ながら見付けることができませんでした。









<big>顔馴染みの飼い犬たち</big>

2013-02-13 20:56:13 | 日本の美
甲斐犬「虎太郎」とダックスフンド「チャオ」

Dscn1751_2Dscn1753_2Dscn1755虎太郎は、毎朝の散歩のとき我が家の前を通ります。

今年10歳になる利口な甲斐犬で、多くの犬達から崇められ親しまれています。

チャオもその多くのイヌ達の中の一匹で、虎太郎に会うと喜びを全身で顕します。

飼い主同士も仲が好くて、私は見ていて愉しいです。

5年もネコを飼っているのに未だにネコを抱っこできない私は、イヌに対しても臆病です。

チャオは近隣人に飼われていて毎朝のように顔を合わせますから私とは親しく、せがむと「お手」をしてくれます。

住いが近くでない虎太郎は私を良く知っていて、さっと寄ってきて私の手を嘗めてくれます。

昨日は丁度カメラを持っている時でしたので、飼い主さんと一緒に写真に収めました。

写真を見ますと、虎太郎はズット私を見ていてくれたみたい。

光った目が、こちらを向いています。

別れの挨拶をして遠くへ歩いて行っても、「虎太郎く~ん!」と呼びますと必ず振り返ってくれるのが、私には嬉しくて堪りません。





<big>絵が好き</big>

2013-01-30 21:31:16 | 日本の美
☆絵が、だ~い好きです


Dscn1608_2Dscn1616_3Dscn1613_3東京都豊島区「庁舎ロビー美術展」の最終日の午後2時過ぎに絵とデッサンを観ました。

ワタクシは絵画展を観ると、必ず好きな作品に出くわします。

色使いが美しくて、繊細さを感じさせる作品が好きです。

数年前わが家の改装を行ったとき、新装なった台所の壁面に先ず飾ったのがPaulo Klee 1915 250 Der Niestn です。

この絵を、今も毎日見てます。購入したのは1988年で豪州に住んでいた時でした。

赤色に塗った金属製の縁が、絵に良く似合っています。

何年見ても飽きません。

子供の絵のようだからなのでしょうか? 何時見ても新鮮です。

当時住んでいましたAustralia Sydney 下町の画材屋さんを覗いたとき目に止まった複製画です。

どうしても欲しくなり赤い枠を注文して購入しました。







<big>憤りと悲しみ</big>

2013-01-24 21:08:07 | 日本の美
☆何びとも、人の命を断つ権利を持ちません

北アフリカでのテロ行為報道をラジオで耳にして遣り切れない気持ちの日、用事で八丁堀へ出掛けました。

公園の日溜まりの中に、平和の象徴であるハトが群がっていました。

山茶花の強烈な赤い色が、この時ばかりは私の胸をグサリと刺しました。

亡くなった方々は見ず知らず、でも同胞である日本人です。

他人事と無関心でいられない災難に、慰めの言葉が見付かりません。

どうして人間は、無益な人殺しを止めないのでしょうか? 














Dscn1526_6Dscn1527Dscn0001

戦前の町並みが僅かに残る、東京の下町八丁堀一角です。

サラリーマンらしい人々が暖かい陽の中を歩いていました。恐らく昼食を摂りに行く途中であると思われます。

この当たり前の日常茶飯事が、日本に末永く続く事を祈るばかりです。



<big>今日お薬師さん(中野の新井薬師)の帰りに哲学堂(公園)へ行きましたーその1ー</big>

2013-01-06 21:23:10 | 日本の美
☆私が小学校へ入学して初めての遠足は、哲学堂でした。学校から歩いて行きました

哲学堂公園の歴史と特徴

【歴史と特徴】

『哲学堂公園』は、明治39年に精神修養の場として開設された、全国に例を見ない個性的な公園です。開設以後、哲学や社会教育の場として、古建築物の修復、整備が重ねられてきています。

公園の創設者は東洋大学の創立者でもある井上圓了博士で、井上博士の構想・デザインに基づいて、公園全体が哲学に由来する空間に分けられ、哲学に由来した名称がつけられた77の建物・施設が園内に配置されています。

昭和50年には中野区立公園となり、昭和63年には公園内の古建築物12棟を始めとした公園全体が中野区の文化財に指定されました。

中野区内でも有数の「花の名所」として親しまれている公園でもあり、毎年の桜の季節には大勢の花見客で賑わっています。


【開園時間】 午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)
【入園料】 無料

                     ー以上は引用文ですー

Dscn1437_2Dscn1445Dscn1467Dscn1468_6Dscn1469古建築の美しいこと! 木材の特徴を生かした造形空間の見事さに圧倒されました。

日本伝来の樹木との調和に絶句!

貴重な文化財を目にして、心地好い時を過ごしました。



<big>悪魔は夜来る?</big>

2012-07-29 22:47:20 | 日本の美
☆実は、ヤモリ君でした


Dscf2424_4ニホンヤモリの壁君は家壁だけでなく私宅の玄関扉のガラス戸にも、お出ましになることを今朝夜中に発見しました。

東京は立て続けの猛暑が続いています。余りの蒸し暑さに目が醒めたとき玄関のガラス戸に、何やら動く物体を発見。

音も無く移動しているヤモリ君でした。私は思わず「オーッ!」と親しみを込めて挨拶。

こんな珍客なら大歓迎!

ヤモリを薄気味悪いと思う人が居ようが居まいが、私には全く関係ありません。

私には当世の若い子女の大袈裟なツケ睫毛のほうが、ずっと薄気味悪く見えます。

器量の足り無さを厚化粧で補おうとする魂胆が見え見えのほうが、ずっと気味悪く感じていますから。

自然はいいですね。飾らないヤモリ君の動きは愛らしく、艶かしいくらい!