因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

unks第5回公演「二本の二人芝居」より『命を弄ぶ男ふたり』

2014-09-22 | 舞台

*岸田國士作 公式サイトはこちら 新宿ゴールデン街劇場 23日まで
 文学座の若手俳優によるユニットの公演で、上田桃子と増岡裕子の二人芝居、別所文+竹内銃一郎作『かごの鳥』の交互上演が行われる。
『命を弄ぶ~』は、なぜか数回みており→1,2 さらに風琴工房公演も観劇したが、ブログ記事がない。「書きにくい演目」なのだろうか。

 開場が告げられて中に入ると、すでに眼鏡の男(細貝光司)が板付きになっている。場内は薄暗いが、小さな劇場で観客がすぐ目の前にいる状況での板付きは、お互いに居心地の悪さがある。そこに顔を包帯でぐるぐるまきにしたもうひとりの男(斉藤祐一)がやってきて、物語がはじまる。

 男たちはいずれも死ぬつもりで鉄道線路の土手にやってきた。こんな時間にこんな場所にひとりでやってくるだけで、相手の目的がわかる。戯曲には男ふたりに名前はない。「眼鏡」、「繃帯」と、あたかも記号のように記され、それぞれ「センチメンタルなことは嫌いな男ですがね」(繃帯)、「人一倍物事を考える方」(眼鏡)と、自分の性格の特徴を分析してみせる。
 応用化学の研究中に薬品が爆発して顔に大やけどを負った繃帯には愛らしい許嫁がおり、やけどの跡がある顔をみてもなお、彼を愛していると泣くのだという。
 一方、眼鏡にも恋人がいたのだが、俳優をしている彼に女優との醜聞が起こり、それを悲しんで亡くなったというのだ。
 ふたりとも自分を心から愛してくれる恋人がいる、あるいはいたにも関わらず、その愛を受けとめ切れずに死のうとしている・・・という解釈で合っているのかしら。
 というのは、何度見てもふたりの男が死ぬまで追いつめられていることが理解できないのである。ほんの少し歩けば踏切があるところまで来ていながら、ふたりとも実にいきいきとよくしゃべり、自分の心を冷静に分析して、相手の気持ちを慮る。消耗していまにも死にそうどころか、活力に溢れているといってもよいくらいだ。
 これは岸田國士のなかでは、たとえば『屋上庭園』や『驟雨』などのリアリズムの芝居ではなく、『風俗時評』のような一種の寓話劇ととらえるのが妥当であろう。

 これがつまづきになると舞台を楽しむことはむずかしいのだが、今回は幸いにも、「改めて言い分を聞いてみよう」と前のめりでみることができた。いや、それでも理解できたとは言えないのだが。

 もしかすると、ふたりの男はひとりの男であり、「死にたい」と「死にたくない」、あるいは「死んではならない」という葛藤に苦悩しているのではなかろうか。自分の人生にはもう希望はないが、君はこれからどんな仕事でも恋でもできる、だから死ぬのはよしたまえと諌めながら、自分は相手の手を振り払って線路に飛び込もうとするも、思わずなのかわざとなのか、失敗してぬけぬけと戻ってくる。
「命を弄ぶ」という題名そのものであり、彼らは自分の命であってそうでないような、「何かに弄ばれている」とも言えよう。
「こうなると命なんていうものは、誰のもんだかわからなくなるね」という繃帯の台詞が、あとになって効いてくるのである。

 上演後、本編に発想を得た『90年後のおまけ』(斉藤祐一作)がつづけて上演される。今度は富士山の火口付近に、やはり自殺志願のふたりの男が訪れるという物語だ。

 台詞のひとつもおろそかにできない本編の直後であるにも関わらず、若い俳優はエネルギーがありあまっているのか、まさに現代版『命を弄ぶ男ふたり』もなかなかおもしろかった。 片方の男が演劇をやっているという設定もあって、舞台俳優業の裏事情や本音などもいささか自虐気味に描かれていて客席をわかす。もうひと息、刈りこんで凝縮した舞台になるのではないか。

 文学座という老舗の劇団に所属すると同時にユニットを結成し、公演を重ねることがどれほどの労苦を伴うものなのかはわからないが、どうかこれからもさまざまな作品に取り組み、試行錯誤しながら継続してほしいと願っている。

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