因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座公演『五十四の瞳』

2020-11-06 | 舞台
*鄭義信作 松本祐子演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 15日まで
 鄭義信作品を松本祐子が手掛ける舞台は、本公演を含め劇団内外合わせて7作めになるとのこと。特に今回は、何人もの俳優が鄭作品への出演を熱望したことが企画の出発点になったそうである。作り手同士の幸福な出会いの連なりが結実した熱い舞台だ。当ブログ鄭作品観劇記事→1,2,3

 物語の舞台である瀬戸内海の家島諸島のなかの西島は、採石業を唯一の産業とした小さな島だ。かつてこの島には、朝鮮人が作り上げた朝鮮学校があり、日本人の子どもたちも一緒に遊び、学んだ歴史があった。この小さな島の小さな朝鮮学校の教員室兼教師の居室で繰り広げられる敗戦まもない1948年から20年間に渡る人々を描いた2時間40分の物語である。
 
 教員室を訪れては何かと騒動を起こす4人の子どもたちは皆15歳、つまり朝鮮学校の卒業生である。彼らは朝鮮人3人と日本人ひとりで、むろん互いに民族の違いは意識しているが、笑っては泣き、喧嘩をしては仲直りを繰り返す仲間である。親たちも同様に、この教員室がひとつの拠りどころとなって、大人と子ども、教師と生徒という枠を超えた交わりがある。テンポのよい会話、適材適所の配役が活かされて、観客を劇世界へ引き込む。

 集中が途切れることなく最後まで楽しんだのだが、終始微妙な違和感を覚えた。冒頭、教師の柳仁哲(神野崇)が新任の康春花(松岡依都美)を連れてやってくるのだが、本土に妻が暮らす柳と、彼とは軽くひと回り年下の康との関係が早々に提示される。ふたりは最初にどこで出会い、そういった関係になったのか。そんな関係にある男女をわざわざ小さな島の学校で一緒に赴任させるとは、偶然の人事にしては不自然ではないか。神経を病む妻に翻弄される柳は、チェーホフの『三人姉妹』に登場するヴェルシーニンを思わせる。ぼやきや愚痴、泣き言を繰り返す情けない男であるのに魅力的な男性を神野が自然に演じているだけに、気になるところである。
 
 一方康は後半では前述の卒業生のひとりと恋愛関係にあり、一途な彼の気持ちに素直に応えられない葛藤が描かれている。この展開もいささか唐突であり、ふたりには「うまくいけばいいな」と自然に思わせる雰囲気があるだけに、過程を知りたくなるのである。

 そして最も気になったのは、本作の題名と、舞台の内容との関係性である。物語の舞台が瀬戸内海の小さな島の学校であり、「五十四の瞳」とくれば、壷井栄の小説『二十四の瞳』や映画作品が否が応でも連想され、27人の生徒をめぐる物語ではないかと予想、期待してしまうのは、安易に過ぎるのであろうか。しかし前述のように教員室にやってくる子どもたちは15歳の卒業生である。物語の後半になってようやく、康の台詞から「今ここには27人の生徒がいる。54の瞳が私を待っている」(台詞は記憶によるもの)と明かされるのみで、27人の子どもたちは幕外から挨拶する声、「遠足で汽車に乗ったときにこんなことを言った」という、いずれも間接的な描写に留まっており、その存在を確かに感じ取れるものではなかった。

 傷つけられた民族の怒りや悲しみとともに、血が滾るような力強さが鄭義信作品の魅力であろう。あでやかなチマチョゴリを纏った康春花が子どもたちに向かって「アンニョンハセヨ!」と叫ぶ終幕は、前述の違和感を吹き飛ばす迫力と情熱の塊が炸裂するようで、気持ちの良い一夜となった。素直に受け止めたいと思いつつ、「いや、それでもやはり」という気持ちが入り混じっている。
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