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【特集】徳川将軍家所縁の菩提寺「増上寺」と感動の徳川将軍家墓所参内(墓所内の宝塔画像一挙公開)

2010年10月08日 21時31分52秒 | 港区・歴史散策
徳川将軍家の菩提寺と言えば、東の上野寛永寺が最も有名ですが、もう一つ西の芝・増上寺も菩提寺として双璧をなすものです。徳川家の庇護の元、歴代6人の将軍が眠る増上寺ですが、かつてはこれだけの寺格として広大な寺領を有していました。
現在の芝公園全域と東京プリンスホテルの敷地そして御成門のある場所までが、かつての増上寺本山の寺領だったのです。さらに塔中と呼ばれる小院の寺領を含めるとそれはそれは上野寛永寺と並ぶほどの広さを持っていたのです。

増上寺大殿

かつての栄華を偲ぶものはそれほど多く残っていませんが、日比谷通りに面して将軍家の威光を示す立派な御門が目に入ってきます。その代表的なものが2代将軍秀忠公の霊廟前に置かれていた惣門(旧台徳院廟惣門)です。

旧台徳院廟惣門

実は、終戦間際の大空襲前まではこの増上寺境内の大部分に徳川将軍家の6人の将軍やその正室や側室、更には家門大名の霊廟が整然と配置されていました。その様子は壮麗で、まるで日光東照宮の陽明門がいくつも立ち並んでいたかのような美しさを誇り、その全ての建造物が国宝に指定されていたのです。
しかし、大戦末期の米軍による大空襲によりほとんどの霊廟建築は焼失してしまい、現在わずかながら霊廟に通ずる参道に置かれていたた惣門又は勅額門が残るだけとなってしまったのです。

戦災で荒れ果てたかつての将軍家の霊廟はその後しばらくは荒れるがままの状態だったのですが、日本の戦後復興の記念事業として東京オリンピック招致(昭和39年以前)が決定してから、増上寺周辺の再開発と整備が急がれたのです。その整備の一環でそれまで増上寺敷地内に放置されていた将軍家の陵墓の発掘調査が行われ、調査完了後に各将軍の宝塔をはじめ石燈篭などを一ヶ所に集めた場所が増上寺大殿の裏手に作られたのです。
これが徳川将軍家墓所なのです。

まず最初に申し上げておきますが、この墓所にはいつでも誰でも勝手に入れる訳ではありません。まず個人では入所はできません。実は先日この墓所に入る機会を得たのですが、それはある団体の一員として幸運にも入る事ができたのです。

増上寺大殿前を右に進み、黒本尊を祀る安国殿の脇を回りこむように裏側へと向かうと、わずかな傾斜のある舗装された坂道の先に歴史を感じさせる霊廟の門が現れてきます。

墓所入口の鋳抜門

鋳抜門の葵のご紋

この御門は銅製鋳抜門(いぬきもん)と呼ばれ、葵のご紋が配されています。もともとは6代将軍家宣公の宝塔前に置かれていた「中門」だったのを、現在の墓所の入口に移設したものです。この鋳抜門は通常は錠前で施錠され入ることが出来ないのですが、特別に団体で入場する際に増上寺の安国殿の僧侶が鍵をもって開錠してくれます。
大の大人一人でもやっと動かせる位の重い銅製の扉をおもむろに開けると、その先に見えるのは玉砂利が敷かれ、静寂の中で佇む幾つかの宝塔と石燈篭が整然と並ぶ異空間が広がっています。

墓所内の光景

足を踏み入れた瞬間に「凛」とした空気が肌に感じられるくらいな静寂な時と空間が流れています。
歴史の教科書で登場する徳川将軍家の歴代将軍の内、6人の将軍の宝塔(墓)が目の前に並んでいるのです。これらの宝塔には前述の調査発掘ででてきた遺骨を荼毘に付して、あらためて納骨しなおしているといいます。

墓所の一番奥に左右に並ぶ宝塔は、右に第2代将軍秀忠公とその正室江与が合祀された宝塔です。左には第6代将軍家宣公ご夫妻が合祀された宝塔です。めったに撮れない貴重な画像を一挙公開します。

第2代秀忠公とお江与の合祀宝塔 秀忠の享年54歳

第6代家宣公と正室の合祀宝塔

家宣公は5代綱吉公の甥にあたり、家光公の三男綱重(甲府宰相)の子です。将軍在位は僅か3年半。享年51歳

不謹慎かもしれませんが、来年2011年のNHK大河ドラマは秀忠公の正室江与(お江)を取り上げるとのことで、たくさんの訪問者がこの墓所を訪れるのではないでしょうか。とは言っても、個人では入所できませんのでご注意を!

そしてこの墓所の中で私が一番感動したのが幕末悲劇の若き将軍、第14代家茂公とその正室であつた皇女和宮(静寛院宮様)の宝塔が仲良く並んで置かれていることです。
特筆すべきは、家茂公の宝塔は石造り、一方静寛院宮様の宝塔は青銅製でその宝塔には16紋の菊のご紋章が彫りこまれていることです。

第14代家茂公宝塔

紀伊徳川家出身。時の大老井伊直弼の後ろ盾により12歳で将軍になる。弱体化する幕府が図った起死回生の公武合体政策により、孝明天皇の妹君・和宮様を正室に迎えたが、21歳の若さで急死した。

皇女和宮(静寛院宮様)の宝塔/青銅製

そして発掘された静寛院宮様の遺骨の胸の辺りに一枚の写真が大事に抱かれていたそうです。その写真は太陽の光を浴びた瞬間にあっという間に消えてしまったといいます。いまとなってはその写真に誰が写っていたのかはわかりませんが、静寛院宮様が心からお慕いしていた「方」がきっと写っておられたのではないでしょうか。
こんな話が伝わっていることを知るにつけ、幕末の公武合体策として無理やり降嫁させられた静寛院宮様が静かに眠っている場所の近くに、今、自分がいることの不思議さを実感した瞬間でした。

第12代家慶公宝塔

11代将軍家斉公の次男。老中の相談にうなずくばかりだったので、「そうせい様」と呼ばれていた。

第7代家継公宝塔

6代将軍家宣公の四男で、なんと4歳で将軍となった。家継が将軍となって翌年の1714年に大奥最大のスキャンダル事件「絵島生島事件」が…。この事件は家継の生母・月光院と家宣公の正室・天英院との間のどろどろしい確執からでっち上げられたものとされています。尚、家継公は8歳という若さで病死。そして家継の死で徳川宗家の血筋は途絶えてしまうのです。

第9代家重公宝塔

8代将軍吉宗公の長男。病弱なうえ、酒色にふけり大奥に入りびたっていた将軍として有名。さらに言語不明瞭のなんともたよりない将軍。享年51歳





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