晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

あやべ水無月まつり 7/22

2017-07-22 | 文化に触れよう

2017.7.22(土)晴れ

 花火大会の季節である。西村さんがバーベキューを催してくれるおかげで毎年の参加となっている。さすがに歳をとって今年はお誘いがないのかなと思っていたら、バーベキューはできないが居酒屋で飲んで花火を見ようということになった。この日だけは綾バスの臨時便が出るので、ゆっくり飲めるわけだ。 さて出かけようと言うとき朗報が入った、花火観覧の招待券が手に入ったということである。

招待券もらっちゃった、ビール付き

過去に何回もこの花火を見ているが、神宮寺町の高台から眺めているので、本来の花火の醍醐味が無かったのである。
 駅近くの居酒屋で仕上げて、会場の丹波大橋に向かう。おそらく綾部の街が最も賑わう瞬間だろう、こんなに人が居るんやと驚く。

いそいそと居酒屋を出る

大橋下の会場ではセレモニーが始まっており、いよいよ点火というときであった。椅子席は埋まっており、ブルーシートの席へ急ぐ、ここだと寝っ転がって鑑賞できる。
 川面を渡る涼しい風があり、いただいたビールを飲みながら最高の花火鑑賞だ。やっぱり花火は下から見るもんやなあ。


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最勝河原-6 7/22

2017-07-22 | 上林たんけん隊

2017.7.22(土)晴れ

 佐比の葬地はいったいどのあたりだったのだろうか?平安京道祖大路(佐井通り)の南端であり、現在の吉祥院西ノ庄を冠する地域と思われるが委細は不詳とある(角川地名辞典)。葛野川(桂川)を挟んで乙訓郡となりそこには渡しがあったとされ交通の要所でもあったようだ。賽(さい)が地域の境界、生死の境界を表す言葉であることから佐比の地名が着いたと考えられる。
高山寺には西院の河原旧跡とあるが元々淳和院跡であり、賽の河原の体をなすのはもっと後世であろう。
 ところが角川地名辞典、佐井通りの項に次の文章がある。
 この大路を(佐井通りのこと)京南に延長し、桂川につきあたった現在の南区塔の森付近は紀伊郡佐比里・佐比河原と呼ばれた葬送の地で、佐比寺という寺院や橋もあった(三代実録)
 古地図を見ると下佐比里は十条から十一条の間にあり、佐比寺もこの範囲にある。ところが上佐比里、佐比津というのはそこから南に延びていて、十三条まで続いていて、西国橋という橋もみえる。つまり佐比の地は吉祥院から塔の森までの相当広い範囲であったわけだ。葬地でもあり牧でもあったというから納得できる。
 塔の森と言えばそのほとんどが市の下水処理場となっているが、塔の森の起こりと言えば、かつて後鳥羽院に仕えた主殿(とのも)というものが居住していて、主殿村(とのもむら)と称していた、それが転じて塔の森となったということだ。(沿革取調書)
 この地が葬地であれば、そのまま塔の森と考えてもいいのではないだろうか。千本通りが千本(多くのという意味)の卒塔婆が立ち並んでいることから来ているように。つづく

【今日のじょん】ビフォアアフター
 年に一度府道の草刈りが行われるので刈らないで残しておいた。例年より遅いようでジャングルみたいになってきたのだが、先日ようやく草刈り隊がやってきた。へたくそな草刈りだがまあ一応は刈り取られた。
 

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最勝河原-5 7/17

2017-07-17 | 上林たんけん隊

2017.7.17(月・祝)晴れ

 日照山高山寺は「賽(西院)の河原」の旧跡と言われる。三途の川の河原にある賽の河原がなぜここなのか。本尊が子安地蔵というと言うこともあるが、西院(さい)の地名と言うこともあるだろう。西院は淳和院の呼び名であって、これはこの世とあの世の境となる賽(さい)とは無関係だと思う。ところが少し西に平安京の道祖(さい)大路(現在の佐井通り)があるものだから話は余計複雑になる。

高山寺には立派なお地蔵さんがあって、地蔵詣りで賑わったそうだ。
 なにが複雑かって、洛中洛外の境でもないのに道祖大路が通っていること、淳和院が西院(さいいん)と呼ばれていること、高山寺に賽の河原旧跡があること、最勝河原の三昧(火葬場)が存在したこと等である。もちろん時代的には差異があるのだけれど、共通するのは葬地としての西院界隈を思わせることである。
 西院界隈の三昧として確実に存在した最勝河原は中世以降の葬地であると考える。京師五三昧のうち最勝河原と四塚の狐塚は平安京の洛内である。従ってこの2カ所は比較的新しいと「京師五三昧考」の勝田至氏も書いておられる。ところが京都地名研究会編の「京都の地名検証」佐比川(右京区)の項に「平安時代の初期は、西院付近は葬送の地であり、その後平安京の右京は次第に荒廃し、広い河原となり、人々はその河原を西院の河原と呼び云々」とある。794年に平安京が遷都され、淳和天皇は833年に譲位し淳和院に住居したという。これは将に平安時代の初期であって、西院の地が葬地であるはずがないと思えるのである。
 ネットで「賽の河原」や「西院」を調べるとやはり平安時代から西院は葬送の地と書かれているものが多い。その根拠とされているのが貞観13年閏8月28日付の官符となっている。こんな正式の文書で言われているのなら仕方ないなと思っていたところ、角川の地名辞書にこの官符のことなどが書かれていた。
 佐比(さい)が葬地であることは違いないのだが、それは西院ではなくて、道祖大路(佐井通り)を南に下がり洛外に出たさらに南、現在の南区吉祥院あたりになるという。ようやく探し当てた古地図には上佐比里、下左比里、佐比津などが描かれ、佐比寺という寺院まで描かれている。この地こそ平安時代の葬地であったわけだ。「京都の地名検証」の著者は西院とこの佐比を混同してしまったのではないだろうか。
 道祖大路の南の端に佐比があると言うことは、元々佐比があって、その真北に道祖(さひ)の通り名が付けられたのではないだろうかと想像もするところである。つづく

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蘇洞門めぐり 7/14

2017-07-14 | 日記・エッセイ・コラム

2017.7.14(金) 
 小浜から望む久須夜ヶ岳の北方海岸にある蘇洞門(そとも)は何年も前から憧れていた。行こうと思えばいつでも行けたのだが実際には何か機会が無ければ行けないものだ。同じ小浜湾にある蒼島だって、年に一度の祭礼があることを知って、島に渡る漁船に乗せてもらって初めて実現したわけだ。 家族で日帰りでどこかへ行こうということになり、蘇洞門に決めた。チャンスというのはそういうものである。
 在野の民俗学者、安間清氏が書かれた「柳田國男の手紙・ニソの杜民俗誌」に蘇洞門を訪れた一文がある。(2010.9.5参照)
「昭和二十四年七月の終わりに近い日、そのころ居った京都府福知山市の学校の仲間数名と、ほど遠くも無い福井県の若狭の海岸蘇洞門の奇勝をたずねたことがあった。」に始まるのだが、その当時は本郷から遊覧船が出ていたそうで、氏は蘇洞門の風景より反対側にある大島の村々に興味をおぼえ、そしてニソの杜の研究に没頭することとなる。遊覧船に昭和24年当時の雰囲気はないだろうが、蘇洞門の景色は一緒だろう。12時出航遊覧船に飛び乗る。最初は左手に大島半島の景色が見える、安間氏もこんな感じで眺めていたんだろうなあと感慨にふける。右手の最終集落泊(とまり)を見送るとやがて松が崎の岸壁が現れてくる。泊は誰々が泊まったからという伝説、鎌の腰岩は鎌の柄に似ているからとか放送が流れる。遊覧船だから仕方がないがもう少し科学的な説明が欲しい。

右手が久須夜ヶ岳だから左のピークが小山だろうか?半島は内外海半島       
 このあたりの半島側に小山(こやまというのでどう書くのかわからないのだが)という山があって、山当ての山だという、しかもタングステンやモリブデンを産出していたということである。(山当てとは目印とする山を結んでその角度から航路や漁場を測る方法)遊覧船からの山容はわからないが、沖に出ると姿のいい山なのかもしれない。鉱物については初耳であるが調べてみると内外海鉱山(うちとみ)といって、銅、タングステン、モリブデンなどが産出されていたそうだ。日本地方鉱床誌をひもとくとウラン鉱もあったそうで、その真向かいに大飯原発があるのもなにか皮肉な感がする。
目と鼻の先にある大飯原発

 その後も網掛け岩だの亀岩だのいかにも観光地らしい名の名勝が続き、有名な大門・小門に着く。ここでは船が着岸し、5分間の上陸ができるのだ。これはなかなかいいサービスだと思う、全員、と言っても十人もいないが、写真を撮ったりして楽しむ。
網掛け岩、大門・小門
 日本ジオパークには入ってないが、もう少し地質のことや岩石のことを案内していただければもっとよかったという気がするのである。
 

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最勝河原-4 7/11

2017-07-11 | 上林たんけん隊

2017.7.11(火)晴れ

 西院村から最勝河原に向かう道になぜそんなにこだわるのだろうか。一種ノスタルジアかもしれないが、この道はひょっとしたら平安時代から有るのかもしれないぞという思いと、明らかに官製の道ではなくて庶民の道だという思いがあるからだ。なにか古い地蔵でもないものかと思いつつ歩いたのだが、なにせあの雨ではつぶさに観察することもできなかった。
 古文書によるとこの道の斜めから水平になるところ、現在の西大路蛸薬師の部分に東西十間余り、高さ三間あまりの小山があり、小竹飯山(イヒヤマ)と呼ばれていると書かれている。東西18m、高さ6mの小山なら、こりゃあ古墳だろう。明治25年陸地測量部の地図にも竹林の記号がある。もしこの山が古墳なら発掘調査されているかもしれないが、そこまで調べるすべもない。また古文書に地蔵堂(高山寺)から上に2,3町行けば松林があり、深夜に女の声がしたなどという怪談話がある。かつて高山寺から直接北に向かう道(現在の西土居通り)があったかどうかわからないのだが、前述の陸地測量部地図にも文久2年の京都指掌図にもその道は見当たらない。どちらも西院村からの道のみが描かれている。
 
京都指掌図(文久2年)と陸地測量部(明治25年)地図
 陸地測量部地図で最勝河原、鶴林の両三昧(火葬場)はどう表されているかと言えば、三条西土居に平べったい建物が表されているだけで、六角近くまで空き地になっている。実は最勝河原も鶴林も享保4年(1719年)に断絶しているのである。従って文久2年(1862年)の地図にも建物は見られない。鶴林の火葬場が鳥辺野の南無地蔵から建仁寺門前へ、そして最勝河原の隣に移ってきたように、都市化や神社、禁裏などの建築にともなって移動させられた。最勝河原は元々この地にあったようだが、断絶の後は七条河原口の七条道場金光寺に合併させられたようである。
 四条通りに面する高山寺は「賽(西院)の河原、西院の地蔵」で有名で現在まで残っている史跡である。何年もこの前をとおり通勤していたのだが、今回初めて境内に入った。わたしの記憶では40数年前には山門は開放されていなかったように思うのだが、、、。

日照山高山寺山門

【今日のじょん】フークに会いに行こうとプレート田村さんに行く。ところが生憎去勢の手術で入院していて会えなかった。でも保護犬の雪路と夢路が来ていてじょんは結構喜んでいたみたい。(保護されて4日目とか)


 


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最勝河原-3 7/8

2017-07-07 | 上林たんけん隊

2017.7.8(土)晴れ
 最勝河原の河原は紙屋川ではないかと思っている。1975年に郵便局に就職したときは郵便課の配属で差し立て(全国に郵便物を送り出す)と配達(区内の配達)の区分が主な仕事であった。退屈な作業なのだが、区内の通りや地理は憶えられるし、全国の市名や郡町名を憶えることが自動にできた。紙屋川という地名をわたしが憶えているのは紙屋川という通り名か河川名が配達区分の地図上に載っていたのだと思うのだが、現在の地図や地名辞典をみても中京区内には現れない。配達区分図の左上、西ノ京の北の方に紙屋川の記載があったように思う。ところが紙屋川通りという通りは見つからないし、紙屋川は無くてあるのは天神川である。そしてその天神川は現在のところ、太子道付近から西に流路を取り、天神川通りに沿って南下しているのである。角川日本地名大辞典をみると、天神川は流域によって様々に呼ばれ、かい川、かえ川(柏川)、荒見川、仁和川、神谷川、西堀川、高陽川、鳥羽川など多彩である。太子道あたりまでを紙屋川と呼んだそうだ。やはり最勝河原の川は紙屋川であったかと思ったが、天神川(紙屋川)の流路はあまりにも離れすぎている。ところが平安京造営時に朱雀大路を挟んで、東堀川(現堀川)と西堀川が開削されたと書かれている。堀川とは名のとおり人工に掘られた河川、つまり運河のようなものであるが、どうやらこの西堀川が御土居の西あたりを流れていたらしいのだ。明治25年の仮製図では太子道付近で二分し、一つは西大路四条下るあたりまで南下していた、とあるのでそれが西堀川の痕跡であろう。
 三条から西土居通りを下がっていくと六角通りに出る。東に進み後院通りを越えると六角獄舎跡がある。ここは宝永年間に移転したものだが、西円町にあったとされる右獄は平安時代に遡るものである。これらが直接最勝河原とは関わりは無いが、太子道にあった西土手刑場は関わりがあったと考えられる。
 六角西土居のすぐ西に斜めに西大路に向かう細い路地が見える。升目に沿って道路がある京都では何か不思議な感がする。いかに洛外とはいえ気になるなあと思っていたところ、「京師五三昧考」の最勝河原の略図に斜めの道路が記載されていることに気づいた。



六角通りから路地の入り口。


路地を出たところから蛸薬師通りを望む、東から来た蛸薬師通りとは直角に交わらない。
 その位置から推察すると、西土居通り六角あたりから南西に走り、蛸薬師通りから真西に向い佐井通り(平安京佐比大路)に突き当たっているのだ。現在の地図に照らし合わせると、斜め下半分が西大路通りに埋没しているが、西大路蛸薬師西側が北に跳ね上がっていて、六角からの斜めの道につながるようである。つづく

【今日のじょん】親鳥がびっくりするのでじょんを近づけないようにしていたのだが、覗いてみると巣はすっかりからになっていた。そんなすぐに孵化して巣離れするものなのか。やっぱり蛇に襲われたのか?なんとも悲しい気分になる。
空の巣はさみしいもんだぜ、そんなのカンケーねえ。

 
 

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最勝河原-2 7/7

2017-07-06 | 上林たんけん隊

2017.7.7(金)晴れ
 1975年(昭和50年)中京郵便局に就職した。現在は三条東洞院にレンガ造りの立派な建物となっているが、当時はその建築中の仮の局舎で、西ノ京星池町にあった。近隣の月光町などとともにおしゃれな地名だったが、京都の下町という風情の場所だった。長岡京市から通っていたわたしは通勤に苦労した。二条駅の裏手に局舎はあったのだが、線路を渡れるところが無く、出世稲荷のあたりまで大きく迂回して歩かなければならなかった。阪急四条大宮から2Km弱あったのではないか。そこで考えたのが、西院で降りて自転車で通うことだった。西院の高山寺の東に郵政の独身寮があって、そこに自転車を置かせてもらうことができた。古い木造の寮でいずれ廃止になるというので2,3名の居住者しか居なかったようだが、寮母さんが居て賄いもしていた。

 西院有料自転車駐車場となっているこのあたりがかつての郵政西院寮、右手は高山寺
 そこが西土居通りで、北へ三条まで登り、両洋高校の前を通って2年間ほど通った。最勝河原や鶴林のあったあたりを毎日通っていたわけだ。三条西土居の北側には教宣寺というお寺があり、その周りに市営住宅が立ち並んでいる。このあたりにはかつて無縁墓地が有ったそうで、近世のどのあたりまで使用されていたかわからないが、二条城の堀にはまって死んだ者の死骸を「三条辺御土居外」にさらしたという古文書(嘉永元年)がある。これがこの無縁墓地を表しているようだ。(日本中世の墓と葬送・勝田至著)
 さてこの教宣寺の西にいくつかの石柱を見つけた。大雨の中、読み取るのも困難な状況なのだが一番手前の石柱に「西高瀬川」と彫られている。わたしは常々かつての火葬場には河川あるいは水路が付きものではないかと考えている、ましてや最勝河原という限り、河原であるはずだ。現在この地には川も水路もない、かつての河川や水路は何であったのか調べる必要を感じていた。
 
 三条北側にある教宣寺、その西側に「西高瀬川」の標柱がある。

 後から調べたことだが、この西高瀬川は最勝河原の河川ではないことがわかる。西高瀬川は幕末から明治に開発されたいわゆる運河で、桂川の清滝道三条を水源とし、三条通を東進し、千本の西で南下するルートを通っている。桂川からの木材や農産物を市内へ持ち込む役割を果たしたようだが、壬生や西ノ京に材木屋、製材所が多く残っているのはその名残と言うことだ。では最勝河原の河原が表す河川はいったい何だろう?
つづく

【今日のじょん】舞鶴で真鯛の尾頭付きが安かったので塩焼きにした。じょんが好きなんだなこれが、、、。
 
 

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最勝河原-1 7/6

2017-07-06 | 上林たんけん隊

2017.7.6(木)晴れ

 台風3号崩れの大雨の中を京師五三昧の一つ、最勝河原を訪ねる。三昧とは葬送の地、都市部では特に火葬場を表し、鳥辺野、千本、最勝河原、四塚、中山の大きな三昧が京師五三昧と呼ばれている。旧いものでは中世にまで遡ると言われるが、今回訪れた最勝河原などは新しい方になるそうだ。
 五三昧を訪ねようとしたきっかけは、穴虫の地名考証による。穴虫は穴ムショであり火葬場を意味するという仮説を立てたのだが、地方に多く存在し都市部に見当たらないのが気に掛かっていた。火葬場というのは中世近世とも都市部が主流であり、都市部の葬地をめぐってなにかヒントがつかめないかというものである。
 最勝河原と四塚は現役時代に通勤路であったり、仕事のテリトリーであり、くまなく見知っている所なのだが、歴史的な視点では見ていなかったので再度訪れたいと思ったのである。
 最勝河原は三条河原ともよばれ、普通は鴨川沿いを想定するのだが、古の人々も勘違いをしていたそうである。最勝河原の葬場は西土居通り(現在の西大路の東の通り、平安京の西堀川小路)三条下がった西側にあったとされている。ちょうど京福嵐山線(嵐電)が西大路から南進すべく東南に湾曲するあたりと思われる。
 実はここにはもう一つ鶴林という火葬場が隣接しており、古地図に二件の建物が南北に並んでいるということである。なぜ火葬場が鶴林なのかと不思議に感じるが、実は鶴林はもともと鳥辺野の南無地蔵にあったものが建仁寺の門前に移り、やがてここに移ってきたものであり、名前の由来は鳥辺野にあると思うが今のところ定かでない。
 市バスで西大路を下ってきて西大路三条で下車する。本当は太子道で降りて西土手刑場のあったあたりや、処刑者の末期の水を汲んだといわれる壺井地蔵(中京区壺井町)を訪ねたかったのだがこの雨では気乗りがしない。

西大路三条北東側から、猛烈な雨で動けない。
西大路三条東入る北側から、手前の路地が西土居通り。
同じ場所から南側、公共の施設が建っている、鶴林はこのあたりとわたしは思っている。

つづく

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暁斎展 7/4

2017-07-04 | 文化に触れよう

2017.7.4(火)雨

 台風による大雨の中を京都に行く。まずは立命館の国際平和ミュージアムで開催されている「DAYS JAPANフォトジャーナリズム写真展」、これは9日までの開催なので本日がチャンスだ。昨年の草津キャンパスでの写真展は撮影が許可されていたので紹介することができたが、今回は撮影不可なのでタイトルで紹介しよう。

1.戦下で生きる人々 2.パレスチナ占領から50年 3.豊かな暮らしの向こう 4.困難の中で生きる

 戦争の写真はインパクトのあるものだが、3.の中の「処分されるペット」「ダーティツーリズム」4.の「硫酸に焼かれる女性」「福島 放射能の檻」は強烈に訴える作品だった。
立命館国際平和ミュージアムはキャンパスの外の市街地にある。
 さて大雨の中を西院に向かう、「日本中世の墓と葬送」(勝田至著)にある京師五三昧の最勝河原を訪れるためだ。雨が一段ときつくなり満足のいく訪問はできなかったが、内容は次回に報告する。

 雨のために外を歩くことが困難になり、美術館「えき」KYOTOの暁斎展を見ることにする。河鍋暁斎(きょうさい)は幕末から明治にかけて活躍した天才絵師で、水墨画から浮世絵、仏画まで幅広く描いているが、擬人化した動物や妖怪など、見ればああこれかって気がつくだろう。仏画の隣に春画が展示されていて、らしさがうかがえる。わたしが好きなのは動物を擬人化させて社会を皮肉っているような絵で、充分楽しませてくれる絵がたっぷりと展示されている。こちらは7月23日までなので興味のある方はどうぞ。

お土産に買ってきた百鬼夜行図のファイルと化々学校の絵はがき

【今日のじょん】
うんPのために入り口のコニファーに近づくと雀大の鳥がばたばたと飛び出してきた。様子が変なので目をこらすと、なんと巣を作って卵を抱いていたようだ。蛇が多いところなので幹の根元に忌避剤を置いておいたのだが、無事に孵ってくれいよ。

 


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夏来たりなば 6/30

2017-06-30 | 日記・エッセイ・コラム

2017.6.30(金)雨

 梅雨と一緒に夏が来た。居座る梅雨の集中豪雨で被災の西日本の方々には申し訳ないのだが、日本海側のこの地方は5月、6月が一番いい季節なのだ。特に今年は梅雨が遅く、乾燥して暖かい日が続いた。湿気の多いこの地方ではこの時期の湿度が最適である。連日芝や花に水をやる日が続いたが、ついに梅雨がやってきて、湿度もぐんと上がってきた。
 暑さ寒さが歳とともに応えるようになるのだが、それなりに工夫して暑さを楽しむ心構えが大切だ。ビール、シャワー、そうめん、冷麺、氷、団扇、麦わら帽子いろいろあるぞ。

先日天童から送ってきた佐藤錦もよかったが、昨日はサーキさんに千葉のスイカをいただいた。う~む、これは夏の醍醐味だ。

スイカとビール、たまりませんなあ。じょんはなんこつにまいっているのだ。

そろそろクールシャンプー、クールボディソープに変えようか。

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MAF定期演奏会 6/24

2017-06-25 | 文化に触れよう

2017.6.25(土)曇り

 昨年は美術展、観劇、映画、コンサートなど文化に触れる機会が多かったのだが、今年は何かと忙しくて機会が少ない。越前竹人形も「越後つついし親知らず」が演目だったのだがこれも都合で行けなかった。そんな中で楽しみにしていたのが今回の演奏会だ。
 地方にいるとクラシックコンサートの機会は少ない。京都でならいくらでも機会があるのだが、京都にいる頃にはちっとも行かなかったのだから、皮肉なもんだ。
 MAF管弦楽団は舞鶴、綾部、福知山地方の演奏者を集めたアマチュアの楽団である。入場料が安いのがいいが、アマチュアだからいまいちかなあと思いつつ参加したのだが、楽団員の多さと熱心さに感激し、楽しい時間を過ごさせていただいた。


ペア割引で1,200円、これは安い。

 ブランデンブルグ協奏曲第3番、吹奏楽のための第1組曲(G.ホルスト)、歌劇「ウィリアム・テル」序曲、喜歌劇「天国と地獄」序曲が前半にあり、メインはブラームスの交響曲第3番である。
 こんなに大勢の楽団員がどうやって練習されるのだろうとか、これだけの人数をまとめるのは大変だろうなあとか、演奏会の後は打ち上げでもされるのかなあとか下世話なことばかり考えるのもちょっと楽しみ。
来年も37回の定期演奏会を中丹文化会館でされるそうだから、期待しておこう。
 さてこれも文化のひとつかなと思うものが送られてきた。天童の初荷のさくらんぼである。もちろん佐藤錦なんだが実においしい。じょんのびに来られたらお裾分けできるかも、、、。

無くなったらごめんね。

 

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大トチ探訪 6/20

2017-06-20 | 寿命延ウォーキング

2017.6.20(火)晴れ

 3ヶ月、5回に渡って開催してきた寿命延ウォーキング教室の修了行事として、君尾山の大トチを訪ねる。当初二王門駐車場から歩く予定だったが、体力的に個人差があるのでキャンプ場まで車で行くこととする。
 メンバー:小原、大槻、川北夫妻、引原、清水の6名と国方、阪田は先行
 

 キャンプ場出発 10:10
 林道分岐点   10:30
 作業道終点着  10:40、10分休憩
 大トチ着    11:00、40分昼食
 キャンプ場着  12:25

 歩数 約5600歩

 熱中症、ダニ対策等のお話の後歩き始める。ダートの緩やかな登りで、全員快調に歩く。途中弥仙山から改心の道が望める絶好のポイントがある。改心の道を歩くイベントは熊出没のため昨年中止されたが今年はどうなんだろう。自然とインターバルウォーキングができる絶好のコースだけに是非開催してもらいたい。

やがて大トチへの作業道と君尾山林道の分岐点に着く。大トチの案内もあって間違うことはないが、左下の林道が気になる。広葉樹のなかなかよさげな道である。地理院地図の睦志に降りる道だろうか、いつか歩いてみたい。大トチへの道はやがて尾根上の作業道を歩く、そしてその作業道の終点で休憩する。
 ここから山道を下っていくが、急なところはロープが張ってある。ここにきてほとんどのメンバーは足下が怪しくなってくる。ズック靴やウォーキングシューズの人はグリップ力の問題もあるが、それ以前のバランスの取り方に問題がありそうだ。本人は年齢による筋力の衰えと思っているだろうが、わたしは筋力の使い方の問題だと考える。不安定な足場でバランスを保つのは慣れが必要である。舗装された平坦な道を歩いて筋力体力をつけたとしても山道は歩けないのではないだろうか。今後の指導におおきな教訓となった。

 這々の体で大トチに到着する。先行の阪田さんらが待っている。噂に違わず立派な栃である。中が空洞になっており、大きさを表すために中に何人か入ってもらう。大槻さん持参のカメラで記念写真を撮ってもらい、昼食とする。

 「冥土の土産ができたなー」なんて言葉が出るのは歳のせいか。やがて大トチに別れを告げて帰路につく。急登を登り終えるとホッとする。だらだらと世間話をしながら駐車場にたどり着く、綾部温泉に入湯して解散、みんな満足な様子だ。

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神子峠から菅坂峠(3)5/30

2017-05-30 | 上林たんけん隊

2017.5.30(火)晴れ

 池のピークからはやや東向きに向きを変えるが、尾根がだだっ広くてルートファインディングが難しい。といっても支尾根に迷い込むということはなく、歩きやすいルートを選ぶのが難しいということだ。一応ピンクのテープを巻いていく。広葉樹の気持ちの良いルートだが、蔦が絡まって痛々しい。やがて展望のきくピーク(450m)に飛び出る。遠く青葉山が望め、眼下には菅坂峠につづく旧道が見える。残念なのは鹿除けのネットで、檜の植林のため設けられたようである。ネットのピークと名付け、目途が立ったので昼食とする。

ネットのピークからの展望、右手に青葉山、左手に行く手の鉄塔が見える。
ネットは主稜線に沿って設けられているので、この脇をたどれば簡単に菅坂峠に着くだろうと思ったがそれは大間違いだった。ピークからすぐに道は途絶え、稜線上は背の高い草が生い茂っている。シデ山で教えてもらったオオバアサガラだと思う。獣道が舞鶴側に走っており、それをつなぎながら稜線から離れないように進む。ようやく道の消えた理由が解る。それはネットの仕業である。神子峠から北は訪れる登山者も少なく、主稜線の道(踏み跡)は実は獣達によって守られてきたようだ。ところがこの道に沿ってネットが設けられることによって獣がそこを避けて、通らなくなった。このネットは単に垂直に張られているだけでなく、足下に斜めに張られている部分が付属している。その部分がかつての稜線の道のようだ。獣に歩かれなくなった道は簡単に消滅してしまったということだ。

ネット脇の道は獣が通らなくなり消滅したようだ。

檜はそれなりに成長はしているが、世話がなされていないため用材となることは無いだろう。ネットは所々で倒木にやられて倒れている。大きな鹿がネットを飛び越えて逃げていった。そして子鹿がネットに引っかかって暴れている。なんとかしてやりたいが近づけば余計暴れるしどうしようも無い。離れたら落ち着いてはずれるかもしれない。「次来たとき、白骨になってるかも知れませんね」工忠君が心配そうだ。
 逃げるようにその場を離れて草むらを進んでいくと、何とも言えない獣の匂いというか生臭い血の臭いがするところがあった。二人とも黙ったままで通り過ぎたが、あとで目を合わせて確認する。「何やったんですかね」「なんか死んでたんかなあ」
 やがて正面に送電線の鉄塔が見えてくる。450mのピークの下にあるものだ。明るく開けているのでしばし休憩する。ふとズボンに目をやると無数のダニが這っている。あわてて払いのけ先を急ぐ。鉄塔には行かずその手前を迂回して進むと、踏み跡が現れて旧道に飛びでた。ネットのピークから後は何とも気味の悪いルートで、黄泉平坂(よもつひらさか)から脱出してきたような気分だ。おわり

旧道に飛び出てほっとする。

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神子峠から菅坂峠(2) 5/21

2017-05-21 | 上林たんけん隊

2017.5.21(日)晴れ

 
    地図は二万五千丹波大町、東舞鶴   

 神子峠取り付きから尾根道を登る。関電の送電線保守道でもあるのできれいに整備されている。15分で339mのピークの鉄塔の肩に出る。植林もあるが、主に闊葉樹の気持ちのよいところである。特にこの時期は新緑で周りの空気までグリーンに染まっているような感じを受ける。

 鉄塔の肩から先は道も景色も最高。
 気持ちよく歩いているとやがて孟宗竹の竹林となる。孟宗竹というと人の居住という感じがして不思議な気持ちになる。このあたりに人が住んでいたとは思えない。小高いピーク状の所に出て、竹のピークと名付けた。まだ主稜線には出ていないとみてどんどん進んでいくが、整備されたこの道は妙に高度を下げていく。左手に送電線が見え、右手の尾根がだんだん高くなる。どうやら間違っていそうだ。整備された道は魅力的だが、要注意だ。間違ったと気づいたら元のところに戻ること、これが鉄則だ。竹のピークに戻ると、ピークの右手に踏み跡がある、踏み跡と言っても獣の踏み跡で人の通った気配はない。竹のピークを回り込んだところが神子峠であった。と言っても道標があるわけでなし、お地蔵さんや祠があるわけでなし、なんとなく気味悪い道が白滝方面に下っているだけだ。かつて多くの村人が行き来した峠とは信じられないほど荒れている。

 これが神子峠か。
 そしてここからの道も実に人間の気配のない、おそらく獣によってかろうじて残された道である。三国岳、胡麻峠を巡る稜線とはまるで雰囲気が違う。踏み跡も定かでないし、目印となるテープも少ない。稜線がなだらかなだけに余計迷いやすい。常に地図とコンパスを見ながら進むこととなる。それでも白地に赤のテープと青のテープは登山者の残したものらしく信頼できる。ところがどうでもいいような所にはよく目立つが、ここ一番迷いそうな所には見当たらない。これは気のせいだろうか。
 ルートファインディングならず、テープファインディングしながらすすむと、やがて460mのピークの下に沼地があり、池のピークと名付けたところに出た。地学の小滝先生が、水梨の東の山に湿原があるという記事をブログに書いておられる。ここは水梨の西になるが、これも珍しい地形ではないのだろうか。今度会ったら写真をご覧いただこう。

湿原というより沼である。

【今日のじょん】

 体重が黄信号、恐ろしい薪の量、ゴーヤが植えられるのを待っている。

 
 

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神子峠から菅坂峠 5/20

2017-05-20 | 上林たんけん隊

2017.5.20(土)快晴

 市茅野の若丹国境、長谷口峠から始まったかんばやしトレールの探索もようやく中上林水梨まで踏破した。アプローチやエスケープルートも含めての調査なのですこぶる時間もかかっている。八代峠から菅坂峠までの尾根道はまだ未公表だが、新しい情報である今回のルートを先に紹介する。

 2017.5.16(火)曇り
 メンバー 工忠照之 小原英明

 ゲストハウスクチュール発 10:35
 神子峠取り付き      11:00    発 11:10
 送電線鉄塔下       11:25    発 11:30
 竹のピーク        11:40
 迷って竹のピークに戻る  12:00
 池のピーク        12:30    発 12:35
 鹿ネットのピーク・昼食  13:00    発 13:35
 送電線鉄塔        14:10    発 14:15
 旧道出合         14:30
 スタート地点       15:10    発 15:15
 クチュール着       15:45

 今回の山行は主稜線を辿ることが第一ではあるが、田辺(西舞鶴)と上林を結ぶ三つの峠の一つである神子峠(みことうげ)を通ることも楽しみの一つである。田辺からは最も遠回りになるのだが、山道は最も短いようで、案外利用する人も多かったのではないだろうか。
 クチュールからは市野瀬橋を通らずに水梨に向かう山沿いの道を行く、おそらくこれが旧街道なのだと思うのだが、あいにく古い地図を切らしていて確認できない。わたしは当初この峠が小吹峠だと勘違いしていた。峠名の由来を調べていて、小吹という地名はどこにも無く、岸谷に木挽口(こぶきぐち)という地名があるのだ。寛政11年丹波国大絵図には神子峠と書かれていて、これが正解なのだ。神子(みこ)は上林側の地名であり、リゾートの建物があるあたりが神子である。つづく
  
 クチュールの下にシャガの群生がある、市茅野のには負けるがなかなかの景観だ。

 
 府道からいきなり神子峠の取り付き、鉄塔まで尾根を登る。

 
 

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