晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

神子峠から菅坂峠(2) 5/21

2017-05-21 | 上林たんけん隊

2017.5.21(日)晴れ

 
    地図は二万五千丹波大町、東舞鶴   

 神子峠取り付きから尾根道を登る。関電の送電線保守道でもあるのできれいに整備されている。15分で339mのピークの鉄塔の肩に出る。植林もあるが、主に闊葉樹の気持ちのよいところである。特にこの時期は新緑で周りの空気までグリーンに染まっているような感じを受ける。

 鉄塔の肩から先は道も景色も最高。
 気持ちよく歩いているとやがて孟宗竹の竹林となる。孟宗竹というと人の居住という感じがして不思議な気持ちになる。このあたりに人が住んでいたとは思えない。小高いピーク状の所に出て、竹のピークと名付けた。まだ主稜線には出ていないとみてどんどん進んでいくが、整備されたこの道は妙に高度を下げていく。左手に送電線が見え、右手の尾根がだんだん高くなる。どうやら間違っていそうだ。整備された道は魅力的だが、要注意だ。間違ったと気づいたら元のところに戻ること、これが鉄則だ。竹のピークに戻ると、ピークの右手に踏み跡がある、踏み跡と言っても獣の踏み跡で人の通った気配はない。竹のピークを回り込んだところが神子峠であった。と言っても道標があるわけでなし、お地蔵さんや祠があるわけでなし、なんとなく気味悪い道が白滝方面に下っているだけだ。かつて多くの村人が行き来した峠とは信じられないほど荒れている。

 これが神子峠か。
 そしてここからの道も実に人間の気配のない、おそらく獣によってかろうじて残された道である。三国岳、胡麻峠を巡る稜線とはまるで雰囲気が違う。踏み跡も定かでないし、目印となるテープも少ない。稜線がなだらかなだけに余計迷いやすい。常に地図とコンパスを見ながら進むこととなる。それでも白地に赤のテープと青のテープは登山者の残したものらしく信頼できる。ところがどうでもいいような所にはよく目立つが、ここ一番迷いそうな所には見当たらない。これは気のせいだろうか。
 ルートファインディングならず、テープファインディングしながらすすむと、やがて460mのピークの下に沼地があり、池のピークと名付けたところに出た。地学の小滝先生が、水梨の東の山に湿原があるという記事をブログに書いておられる。ここは水梨の西になるが、これも珍しい地形ではないのだろうか。今度会ったら写真をご覧いただこう。

湿原というより沼である。

【今日のじょん】

 体重が黄信号、恐ろしい薪の量、ゴーヤが植えられるのを待っている。

 
 

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神子峠から菅坂峠 5/20

2017-05-20 | 上林たんけん隊

2017.5.20(土)快晴

 市茅野の若丹国境、長谷口峠から始まったかんばやしトレールの探索もようやく中上林水梨まで踏破した。アプローチやエスケープルートも含めての調査なのですこぶる時間もかかっている。八代峠から菅坂峠までの尾根道はまだ未公表だが、新しい情報である今回のルートを先に紹介する。

 2017.5.16(火)曇り
 メンバー 工忠照之 小原英明

 ゲストハウスクチュール発 10:35
 神子峠取り付き      11:00    発 11:10
 送電線鉄塔下       11:25    発 11:30
 竹のピーク        11:40
 迷って竹のピークに戻る  12:00
 池のピーク        12:30    発 12:35
 鹿ネットのピーク・昼食  13:00    発 13:35
 送電線鉄塔        14:10    発 14:15
 旧道出合         14:30
 スタート地点       15:10    発 15:15
 クチュール着       15:45

 今回の山行は主稜線を辿ることが第一ではあるが、田辺(西舞鶴)と上林を結ぶ三つの峠の一つである神子峠(みことうげ)を通ることも楽しみの一つである。田辺からは最も遠回りになるのだが、山道は最も短いようで、案外利用する人も多かったのではないだろうか。
 クチュールからは市野瀬橋を通らずに水梨に向かう山沿いの道を行く、おそらくこれが旧街道なのだと思うのだが、あいにく古い地図を切らしていて確認できない。わたしは当初この峠が小吹峠だと勘違いしていた。峠名の由来を調べていて、小吹という地名はどこにも無く、岸谷に木挽口(こぶきぐち)という地名があるのだ。寛政11年丹波国大絵図には神子峠と書かれていて、これが正解なのだ。神子(みこ)は上林側の地名であり、リゾートの建物があるあたりが神子である。つづく
  
 クチュールの下にシャガの群生がある、市茅野のには負けるがなかなかの景観だ。

 
 府道からいきなり神子峠の取り付き、鉄塔まで尾根を登る。

 
 

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超多忙続く 5/10

2017-05-10 | 日記・エッセイ・コラム

2017.5.10(水)曇り

 ゴールデンウィークは好天が続き、世間は盛り上がったようだが当方は芝張り一色でくたくた。張り終えた後も草刈り、木こり、薪割り、グランフォンド準備で超多忙、パソコンの前に座る時間も気力もない状況だ。とりあえず芝張りの様子をお知らせしよう。
 芝生広場に高麗芝を張って9年目、雑草や苔も増え、特に白樫の木陰になるところは苔が著しく、芝も薄くなり絶滅状態。昨年から野芝に切り替えて10㎡ずつ張り替えている。野芝は目も粗く見た目はきれいではないのだが耐陰性、耐雑草性は抜群である。昨年は野芝、野芝と姫高麗芝の混植、姫高麗芝を2㎡ずつ植えて比較試験をした。結果全野芝が優秀な様子で、今年はすべて野芝で対応したところである。芝生広場に7㎡、ドッグランどに3㎡を張ることにした。野芝は近隣のホームセンターでは売ってないので、ネット通販で12,000円あまり、真砂土と目土が3,600円、しめて16,000円の経費。

木の陰になるところが見事にはげてくる。ドッグランども桐の木の下は高麗芝が育たない。

 そんなわけでGWの丸四日間を芝張りに費やす。疲れたけれどやり終えた後の満足感は誰にもわからない。

 芝生広場と、ドッグランど入り口、桐の木の下を張り終える。
おまけは桐の花、昨年まで二つ三つだったのが今年は満開。辛抱する木に花が咲く、金本阪神みたいですなあ。

 

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今日のじょん特集-1 5/3

2017-05-03 | Dog

2017.5.3(水・祝)晴れ

 ブログの更新が途絶えてしまって、ご心配をおかけしている。当方すこぶる元気なのだが、なにしろこの間超多忙な日々を過ごし、パソコンの前に座ると5分と持たない状態だったのだ。稚拙な文章ながらも集中力が無ければ書くことができないし、ノートに書かれた原稿を入力するのももどかしい状況だった。
 この間、新しい水道検針700件(11日間)、木こり10日あまり(継続中)、寿命延ウォーキング講習会2回、あなしら原稿書き、草刈り1ラウンド、水泳2日、じょんの医者通いなど強烈な労働で、QPゴールドのみながらの毎日だったわけ。我ながらよくやってると褒めているのだが、以前なら熱出してひっくり返ってるところだろうが元気にやれるのはやはり寿命延ウォーキングのおかげかなと思っている。ただ連休明けに来ると思っていた、芝生10㎡が「今日発送しました」の連絡となり、当惑している。それに14日のグランフォンドのエイドステーションの準備も始めなくてはとプレッシャーのかかる毎日である。
 いいわけはこのくらいにして、来じょんいただいたワンちゃんたちの様子は皆さんお待ちのことと思うのでとりあえず順次公開いたしたい。
大江からいらしたトイプのゆずくん、5才。

 他のワンちゃんと遊ぶ機会が無いというので、じょんも参加した。
最初はワンワン怖がっていたが、仲良くできて大喜び。

宮津からお越しの柴のももちゃん、6才

とっても人なつっこくてかわいいのだ。やまちゃんとこのアトムと親戚。

シーリーハムテリアという初めての犬種、アムくんもうすぐ7才

すごく元気なんでびっくり、元々は優秀な猟犬だとのこと、なるほど。なんかテリアらしくないなと思ったらカットの仕方なんだって、、、。


西舞鶴からお越しのラッキーくん1才。かわいいですねえ。

もっと以前で紹介できていないワンちゃんも次回紹介しますね。 

 

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続・丹後震災90年 4/14

2017-04-14 | 引地考

2017.4.14(金)快晴

 3月19日の「歩いてたどる丹後震災の記憶」(峰山町)に続いて丹後古代の里資料館(丹後町)の企画展示を見に行く。丹後震災90年の行事もこの展示(16日まで)で終了する。この間、郷村断層の見学を含め三度丹後を訪れたが、今日が熊本地震の一周年というのもなにか因縁めいたものを感じる。
 大宮まで縦貫道が開通し、丹後はすごく近くなった。天気もよく、桜も満開なので丹後王国食のみやこで昼食をとる。贅沢な食事をしようと思ったら、ドッグカフェがあるので、じょんも一緒に行く。園内もペット可なのだが、ドッグカフェにはドッグランが併設されている。とにかくじょんはワンコの匂いがいっぱいで大喜びだ。

 たっぷり遊んだ後丹後古代の里資料館に向かう。琴引浜からの海岸沿いの景色は絶好の天気とあって、春の海が最高だ。資料館は神明山古墳のすぐ側にあって、古代丹後の一つの中心地と言っていい場所だ。いつか遺跡巡りもしてみたいのだが、今回の目的は丹後震災である。震災の展示というのは難しい。震災に関する公的文書や断層に関する論文集、震災誌などが展示されているが、そのものをガラス越しに見たって何の意味も無い。その内容を説明した資料がほしいわけだ。
 写真や絵は臨場感があり、震災の悲惨さを伝えている。時代が時代だけに地震断層や地形変化の写真や資料は多くない。天然記念物として指定された郷村断層の三カ所がよくぞ残されたと思う。

 配布されたパンフレットは上手にできていて地震の内容とか被害の状況、写真や記録も多く掲載されていてわかりやすい。(写真右)

 帰りにお気に入りの宇川温泉よし野の湯に入る。お湯の質がよく(アルカリ性単純泉)日本海が一望の広い湯船に浸かって海を眺めていると、渡来人が小舟に乗ってやってくような雰囲気がしてくる。
 こんなすてきな温泉なんだが、かみさんが出てくるなり、「もう二度とこーへんで」と怒っている。何でも女湯は殺風景な庭しか望めないつまらない浴室だそうだ。男女毎日入れ替わっているそうだが、もう三回訪れているがいつも同じ浴室である。わたしの運がよほどいいのか、彼女の運が悪いのか、次は浴室を確認してから来てみよう。


 
こんな風景が望めるのだが、、、、

*地震関連の記事が「引地考」に含まれているのは間違いではなく、「引地考」の連載が始まればわかることなので、お楽しみに。
 

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マスター入院説流れる 4/9

2017-04-09 | 日記・エッセイ・コラム

2017.4.9(日)雨

 3月25日からブログを更新していなくて、色々ご心配を掛けております。さすがに死亡説は流れていないのだが、入院説はあるそうで驚いた。おかげさまですこぶる元気でいるのだが、とにかく超多忙で、夜パソコンの前に座ると3分で眠ってしまう始末、ビタミンの不足かなあとQPゴールドを飲んでいる。
 なにが忙しいって、寿命延ウォーキング教室を始めたこと、薪の材料を提供していただけるところが2カ所あること、新しい地域で水道検針が始まったことなどである。

たまるばっかりで一向に片づかない薪の山
 得意の肉体労働なんだが、こう重なってはつらいものがある。特に薪は切って運んで玉切りして割って積んでの無限の作業なので大変。でもこうしてやることが一杯有るのは幸せなことかと思っている。

 花の遅い上林にも花の季節がやってきた、ところが何もかも一時になったのでなんかもったいない気がする。じょんじょん桜は2歳の時に植えたのでもう7年になる。

 

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和洋中Concertに行く 3/25

2017-03-26 | 文化に触れよう

2017.3.25(土)曇り

 府立工業のマンボウジャズクラブのコンサートが厚生会館であったので予定していたのだが、月刊えふさんの招待券が当たって、遊'sさんのスプリングコンサートにいくことになった。陳曼麗(二胡)北垣かおり(箏)美市川五左衛門善久(piano)の和洋中コンサートである。曼麗さんは綾部在住で地元ではよく知られた奏者だがわたしが聴くのは初めてである。

 今回一人での参加なので美市川さんの側に陣取る。二胡もよかったが、特に箏がこんな風に演奏できるのかと驚いた。ジャズナンバーはセントトーマスのみだったがなかなかのものだった。沢山の曲を聴かせていただき、葉加瀬太郎のエトピリカや情熱大陸など一気に演奏されたのは迫力だった。今年は文化に触れようシリーズのスタートが遅かったが、暖かくなってきたので頑張ろうゼ。

【今日のじょん】先日ニューモモが久々に来た。かみさんがだっこしてたらじょんの態度がヘンなこと。

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9才なにがめでたい? 3/21

2017-03-21 | Dog

2017.3.21(火)雨

 昨日じょんが9才の誕生日を迎えた。兄妹のマーブルとくるみちゃんが亡くなって4年近くの月日が流れたことになる。兄妹の死は実に衝撃的であった、死因もそのきっかけも同様であったことが大きくのしかかる。病名は自己免疫性溶血性貧血、きっかけは混合ワクチンである。この子たちのためにとやっていることが逆にその命を縮めているとしたなら、いったい僕たちはどうすればいいのだ。と言うわけで混合ワクチンの接種は以来控えている。ところが昨年秋頃から妙に元気が無い、病院に連れて行くとミネラルバランスがよろしくないということで点滴を施す。元気になったんだけど、副腎皮質ホルモンの分泌が低い、赤血球の値が低いという結果が出た。最も恐れていた貧血の値が過去最低となっていた。ステロイドの投与が始まり、もう3ヶ月目だろうか、数値もそこそこに上がり、食欲旺盛、元気に迎えた誕生日である。
 この間の心配料と医療費、費やした時間を考えると、なにがめでたいという感もあるがやっぱりめでたいのだ。じょんの元気な誕生日を祝してかみさんと二人でしまだ屋さんで盛大に祝杯を挙げる。「なにがめでたい」というのはじょんの言かもしれない。


9才誕生日の記念写真、右手のシートは何なんだ。

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丹後震災90年 3/19

2017-03-19 | 引地考

2017.3.19(日)快晴

 北丹後地震(推定M7.3)は1927年(昭和2年)3月7日18:27に起こった。今年で90年となるので丹後では様々な催しが行われている。多くのイベントが既に終了しているが、最も興味があったのが今日の「歩いて辿る丹後震災の記憶」である。日曜日の企画で参加しにくいこともあったのだが、午前中で終わること、縦貫道の開通で1時間あまりで峰山まで行けるというので参加した。峰山高校の地学研究部が震災の資料などを探し出すなど熱心に活動されたそうで、今回有志の高校生4名と顧問の先生とで案内していただくこととなった。

全性寺で挨拶をしてスタート、震災記念館はヘルメット着用

 手作りの「歩いてたどる丹後震災街歩きマップ」には当時の写真や絵画、気象データや被害状況表など大変参考になる資料が揃っている。
 北丹後地震は地震の規模としては兵庫県南部地震(1995年M7.2)と同等で、峰山での死者は1103名、丹後全体では2925名と言われているから峰山に人口が集中していたことがわかる。峰山での家屋の倒壊率は98.8%ということだから、街は壊滅状態である。
 辿った先は、全勝寺、丹後震災記念館、呉服町、古殿町、峰山小学校で、震災直後の写真で確認できるところである。90年前ここでとんでもない震災があったということが実感できる場所である。峰山高校の生徒さんたちが丁寧に説明してくれて、震災復興歌なども披露していただいた。

峰山高校の皆さんに感謝
 高台にある丹後震災記念館は現在耐震の関係で入館できないのだが、特別にヘルメットを着用して入館させていただいた。5枚の絵画が残るばかりだが、当時の惨状を伝える貴重な資料である。
 京丹後市立図書館の震災関係図書の展示や丹後古代の里資料館の企画展示「丹後震災90年」はまだ引き続いて開催されているので、再度丹後を訪れてみたい。


【今日のじょん】今日愉快なワン客が来じょんした。マルチーズとダックスのミックス、1才の師匠、シーズー6ヶ月の弟子。どっちも女の子だって、、、え゛~

走り回っていっぺんに入らないのよね。

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高杉探訪-5 3/17

2017-03-17 | 歴史・民俗

2017.3.17(金)曇り

 金堀坂の坑道跡がどの時代のものかわからないのだが、少なくとも丹波に多く存する近年のマンガン坑ではなさそうだ。仮に古代に遡るものとして想像を逞しくすれば、考察というより妄想に近くなるが敢えて描いてみたい。
 そもそもこの地を訪れたきっかけは別所の地が産鉄の地であり俘囚の移配置でもあり得るという柴田弘武氏の説に惹かれてのことである。氏はゴウドの森にある不寝大明神を、「タタラ師が三日三晩寝ずにタタラの火を見続けることを意味する」などと無理にこじつけようとしているが、不寝大明神は大門垣内の山中にあった不寝の森にあったようで、ここは関所というほどではないが番所があったと言われている。不寝の神が番所にあるのは当然で、これを産鉄に結びつけるのは見当違いと言わざるを得ない。ただゴウドの森にある毘沙門天はその祠を開けたところ、棟札を発見し、毘沙門堂が別所から移設されたことがはっきりした。


ゴウドの森と不寝大明神
毘沙門天が金属に関わる信仰を持っていることは柴田氏もご存じのはずで、氏はこの祠を見落としておられることは明らかである。

毘沙門天と毘沙門堂の棟札

 毘沙門堂の棟札の発見により、別所が金属に関係する地だというかすかな思いは出てきたのだが、坑道跡や鉄滓など具体的な証拠を見つけたいと、薬師谷、高杉周辺に足を伸ばしたのである。
 高杉に入る橋のたもとで出会った笑顔のご老人西山さんは、夕暮れ時の時間にもかかわらず高杉の伝説や、地理のことを教えていただいた。特に保井谷の件はわたし自身も驚くべき結果であった。
 この地を訪れる前に井脇の別所(京丹波町瑞穂)を調べていた。折からの京都縦貫道の工事中で核心部に入ることはできなかったのだが、瑞穂町保井谷でマンガン鉱が掘られていたことを聞いていた。保井谷という地名は京北町にもあり、ここもマンガン鉱山に関係しているようである。高杉にも保井谷という小字があるので、西山さんに「保井谷にはマンガン鉱を掘った跡がありませんか?」と聞いてみた。西山さんは驚いた様子で、かつてマンガン鉱が掘られていたこと、あまり質のいいマンガンではなかったことなど話していただいた。近代の丹波における小規模なマンガン鉱脈の発見には地名、特に谷名が参考とされていたのではというわたしの予想は実に見事に的中していた。保井谷、足谷などにはマンガン鉱山が多いのである。もちろん他の探索方法もあるのだろうが、山師たちが地名を参考に山に分け入ったことは想像に難くない。
 そして弘法大師堂の奥に古い竪坑があるという情報をいただき、これぞ探していたものが見つかったと小躍りするほどのうれしさであった。弘法大師、竪坑といえば古代金属の象徴的な関連物である。つづく

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高杉探訪-4 3/10

2017-03-10 | 歴史・民俗

2017.3.10(金)雨 考察編-1

 両丹日日新聞1991年(平成3年)7月17日に「金探しの夢膨らむ洞穴ー金山跡など6カ所巡る」というタイトルで紹介されている。紙上では金山跡と呼ばれ終戦直後まで金鉱石が掘られていたと書かれている。薬師堂からの坂道が「金堀坂(かねほりざか)」と呼ばれていることは事実だが、金が産出していたかどうかはわからない。

「終戦直後に大阪の業者がノミやハンマーで金鉱石を採取し、小さなトロッコで運び出していた」と63才の清水甚太郎さんの言が掲載されている。俄に信じられないような話だが、ご存命なら89才である、なんとか確認できないものだろうか。三和町史にはこの坑跡についての記事は無く、菟原村誌にも見当たらなかったと思う。今回お借りした「高杉観光ガイド」(上田喜重郎著・1985年)には次のように書かれている。
 「(薬師堂の)左側の道を府道の方に降りる坂を、金堀坂と申します。昔、金を掘った所で、深さ六、七間の横穴がございます。銅か鉄かは昔のことでわかりませんが、沢山出た様子はございません。此の道は旧道で寺ヶ谷口に、左友渕、右山と書いた石柱が立っています。」
 6,7間の横穴とあるが、新聞には「奥行き約7m、突き当たりには4mの竪穴がある」と書かれている。地元の人の聞き取りもすべて竪穴とされており、坑道入り口が埋められたのも子供たちに対するこの竪穴の危険性からということである。
 なんとか採鉱された金属と時代を確認できないものかと思うが、埋められた坑道を掘り出す必要もあり、かなり困難な状況だ。一応小滝先生に相談してみようとは思っている。つづく

小滝先生が「福地山の自然遺産」に書かれたチャートのしゅう曲は坑道から200mほど先である。
 
【今日のじょん】
 
 久々に水泳に行って、じょんものんきに散歩したのが3月7日。その夜から悲劇が始まって下痢、軟便の連続でビオフェルミンも効果無く、今日はじめて病院に行く。じょんの話やで。じょんの調子が悪いと一家の歯車がガタガタになるので、とにかく早く治ってくれい。

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高杉探訪-3 3/2

2017-03-02 | 歴史・民俗

2017.3.2(木)曇り

 坑跡の洞穴についてはHさんからおおよそのところは聞いていたが実際見つけてはいなかった。清水さんについて薬師堂の前の広場から細い道を下っていく。この坂道は金堀坂(かねほりざか)と呼ばれる旧街道だ。清水さんも「あれっどこやったかなあ」と洞穴が見つからない様子、何年も訪れていないとやむを得ないところだ。


   前回(12月3日)来たときの写真、左は薬師堂から金堀坂、右は府道から上部に金堀坂をのぞむ。
 尾根状のところを回り込んだ右手に八分目が土と草に埋もれた坑道入り口が現れた。これは誰かに教えてもらわなければ見つからない。それにしても古代の金属を研究して10年近く、身近なところで昭和より古いだろう坑跡を見たのは初めてである。



 この草むらの中に人がかがんで入れるほどの坑道が有る、ただし埋まっている。右はその遠望、坂を下りきったところに道しるべがある。
 見つけてしまうと、いつ頃に何を掘っていたのか知りたくなる。どのくらい埋まっているのだろうか、この穴の地権者は誰なのだろうか?など
と気になってくる。坑道の上の畑の持ち主さんにお目にかかる。「どうなんやろかなあ」ということだったが、まあ掘るとなってからでいいことだ。それよりも掘り起こして果たしてその年代や何を掘っていたかわかるかどうかだ。実はこの坑道のことは数年前から小滝先生に話している。素人のわたしでは判断付けかねないので相談してみよう。
 清水さんに薬師堂の盃状穴をご覧に入れる。当初誰もがおっしゃるように雨だれの跡と言っておられたが、現物を見て、「これは人工のものやなあ」とおっしゃっていた。お礼を言ってお別れして、ひとりで元の坑道跡に行く。その街道筋にあった道標やお地蔵さん、坑道の下のズリや周囲の景色も気になったからだ。
 お借りした冊子や新聞を大切に持ち帰る、こんなにワクワクした一日は久々であった


【今日のじょん】寒がりのじょんは夜な夜な毛布を掛けてもらっている。それが又カメムシ追って出てくるときもそのまんまだから笑えてしまう。

 

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高杉探訪-2 2/28

2017-02-28 | 歴史・民俗

2017.2.28(火)曇り

 薬師堂に盃状穴を見つけたことに気をよくして、春日神社にも見つからないか出かけてみる。もちろん何度も訪問して隅々まで調べていて見つかっていないのではあるが、、、。
 石材は新しいものやチャートの硬いものが多く、民家からも少し離れている。盃状穴の条件としてはすこぶる不利なところだが、拝殿右の20段あまりの石段は古い凝灰岩の石材であり、垣根や石垣にも古い石材が利用されている箇所もある。


 この石段は絶好なんだが、見つからない。
写真を撮りながら探していると、1台の軽トラが境内に入ってきた。作業服でカメラを覗きながらうろうろしている様子はどう見ても怪しい。
「写真撮ってるんですか?」
「いや、石にあけられた盃状穴という穴を探しているんです。」
「何ですかそりゃ」
てなわけで、ありのままを丁寧に説明する。
「そんなものを研究してノーベル賞でも狙ってるのか」
「いやあノーベル賞は無理ですけど、どうしても知りたいことがあるんです」
と言うわけで5年前の西山さんの件、縦穴坑跡や高杉郷土史の話をする。
「それならわたしのうちにあるからおいで」
探していた高杉村誌がいとも簡単に見つかった、軽トラの主はすぐ近所の清水さんといい、高杉の自治会長さんということだ。清水さん宅に伺うとずらりと資料が並んでいる。どうやら郷土の歴史、民俗に興味がありそうだ。「たかすぎ誌」と「高杉観光ガイド」をお借りすることができた。そして仏教大学歴史学部歴史文化学科の「歴史文化フィールドワーク」調査報告書なる冊子をいただき、例の坑跡に関する郷土新聞の記事を見せていただくことと相成った。(両丹日日新聞1991年7月17日号)

 新聞記事を見ながら感激していると、「よしっ、これから見に行こう」と坑跡に連れて行っていただくこととなった。予想外の展開にもう胸はバクバク、清水さんの軽トラに自転車でついていき、もとの薬師さんに立ち戻る。つづく

【今日のじょん】昨日からいくみちゃんが来てもうヒコヒコ。今日はシャンプーとお医者さんと大変な一日なんだけどいくみちゃんと一緒ならまあいいか。



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高杉探訪-1 2/27

2017-02-27 | 歴史・民俗

2017.2.27(月)曇り

 2012年10月、三和町菟原中の別所を調査している際に隣村高杉で西山さんというおじいさんに出合い興味深い史跡や伝説を聞いた。最も気になるのは、大師堂の脇に古い坑跡があると言うこと、保井谷にマンガン坑があったと言うこと、村のことを書いた冊子が各戸に配られたと言うことである。(2012.10.27参照)別所が鉄の産地だという柴田弘武氏の仮説に基づいて調査したこともあるが、高杉から友渕、草山温泉に向けての友渕川周辺に金属の匂いを感じていたところに絶好の情報だった。その後この方面を訪れることも無く、これらの情報も確かめる機会が無かったのだが、昨年渡りに船の水道検針のアルバイトが入ってきた。各戸を定期的に回るこの仕事は、その地の地理を知り、地元の方とも自然に話ができるという歴史民俗調査には格好の仕事なのだ。この間地理は憶え、歴史に詳しい人も紹介され、友渕の春日神社では盃状穴も発見した。例の坑跡の位置も聞き出したが現物は発見できていなかったし、かつて配られたという地誌の冊子も見つかっていなかった。そんな中、他の仕事が忙しくなり三和町での仕事が続けられなくなった。高杉も今日で最後という日(24日)坑跡の詳しい位置を聞き出そうとHさんを訪ねる。ところが不在で、やむなく薬師堂周辺の石仏や灯籠などに盃状穴がないものか見て回る。このあたりの石材はチャートの硬いものが多く期待薄の上、以前にも調査して見つけることはできなかったので期待もしていなかった。

高杉の薬師堂、元は藁葺きで趣のあるお堂である。
 薬師堂の南隣にある庚申様の石柱あたりを見ていたときである、半分壊れた手水鉢に盃状穴の跡がある。跡というほど旧いものでほとんどわからないままに穿たれているのだ。全身に悪寒が走り、震えが来るようだ。高杉にあれほど求めていた盃状穴が何度も見たはずの薬師堂に現れたのである。

つづく
【今日のじょん】積雪に埋もれていた景色が蘇ってきた。木々は折れ、芝はモグラに食いちぎられ、ネットや柱は雪の重みに押しつぶされてしまった。はげた塗装や折れ曲がった設備にどうしようかと途方に暮れていたときにお客様がいらした。やるっきゃないね、やるっきゃない。

こゆきちゃん(5
ヶ月)こはるちゃん(1才)西舞から来られました。


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靴の話-1 2/22

2017-02-22 | 寿命延ウォーキング

2017.2.22(水)晴れ

 ウォーキングの効果を最大限出すには、人類が二足歩行を始めてから今日まで最も長い期間歩いていた方法で歩くのが道理だと思う。それは裸足である。
 人類は最初から二足歩行しているわけで、二足歩行が始まったのは人類の祖先である猿人に始まっているということだから、300万年から400万年前には歩いていたわけだ。その間二足歩行に関する進化を続けてきたわけだが、そのほとんどというかすべてが裸足であったといっていい。
アルプスで発見されたミイラのアイスマンは靴を履いており、5,300年前には靴が存在したということになる。昨年ルーブル美術館展があって、6世紀から8世紀頃の庶民の生活が描かれていたのだが、わたしは彼らの足下ばかり見ていた。聖職者、有力者などはサンダル、まれに靴を履いているが庶民はみんな裸足である。日本だってわらじは相当古くから有ったようだが、靴は庶民の間では百年の歴史もないだろう。いずれにしても人類の二足歩行の歴史のうち靴が登場するのはほんの一瞬である。
 裸足で歩くことで最高のパフォーマンスを得られると思うのだが、その一瞬の靴履きの習慣のために現代人は裸足で野外を歩くことができなくなった。裸足と言えば1964年の東京オリンピックを思い出す。マラソン優勝者のアベベ・ビキラは裸足のマラソンランナーと言われていたが、実は東京オリンピックでは靴を履いていたのである。その前のローマオリンピックでは裸足で走り、見事に優勝している。では1960年頃のエチオピアでは裸足が常であったのだろうか。否、彼は「歴史を作るために」裸足で走ったそうである。マラソンの起源は紀元前450年頃といわれている。当時はおそらく裸足であっただろう、アベベが裸足で走ったのはきっとそのあたりを意識していたのだろう。それにしても裸足で優勝するとはなんとも強靱な足である。

    ぼくらはいつも裸足やで、ウムそれもそうだ。


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