晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

神無月の終わりに 10/31

2011-10-31 | 日記・エッセイ・コラム

2011.10.31(月)曇

 10月は実りの月で、米作りをしていた母は一番好きな月だと言ってました。田舎に住まいしたお陰で、新米の美味しさの他に栗、柿、むかご、椎茸、自然薯、黒豆の枝豆など味わうことが出来ました。今年は口にしていないのですが、マコモや松茸なども季節ではあります。
 実りの秋とは言いますが野菜だけは端境期でもあり、自前の畑でとれたのは秋ナスとホウレンソウ、ネギぐらいです。もう少しすれば白菜、大根、馬鈴薯などの収穫となり楽しみでもあります。
 いつか云ってましたが、10月は壊れ物の月でもあるのです。カメラ、プリンタ、一輪車、眼鏡、かみさんのパソコンなどが壊れ物いりな事この上もありません。Img_3834

リサイクル屋さんで貰ってきたボロ輪号も底に穴が開いてしまった。
それにしても3年間よく働きました。感謝感謝。


 そういう意味で早く終わって欲しい月だったのですが、最後に車のキーの無線が壊れました。電池切れかと思い交換したのですが、結局基盤が壊れていて、見積もりをすると一万円近くかかるようです。昔は一つひとつ鍵を掛けていたので、要するに慣れだけの問題かなと思います。結構不自由を感じるのですが、運転席のロックで全ロックが出来るので、昔より便利になっています。キーレスロックという便利さが果たして一万円の価値があるものなのかという問題になりました。
 結局修理はしないことになりました。車の扱いでいろいろ便利なものが出てきました。例えば間欠ワイパー、パワーウィンドウは安全性という意味でも値打ちのあるものだと思いますが、無きゃー無いで済むような無理矢理便利装置があるもんだと感じさせられる事件でした。
 とにかく壊れの10月が終わってほっとしています。

【作業日誌 10/31】
作業庫整理

今日のじょん:怖がり家系のじょん君、ひょろひょろと生えた草が怖くてボールが取れない。腰が引けてるでしょ。でも最近ちょっと勇気が出るようになってきた、よしよし。
P1000154 P1000155

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雨読 いび郡の地名(2) 10/30

2011-10-30 | 雨読

2011.10.30(日)雨

 私が心配した金属Vs農耕というような論評は杞憂に終わりました。なぜなら本書が地域を分担した多くの研究調査執筆に携わる委員に委されたところに因があるようです。つまり単独の、頑迷とまで言える強い意志によって書かれた書ではなくて、様々な意志の集合であり、最終的な編者がその意志を尊重しているところにこの本の素晴らしい成果が現れているという風に考えます。
 逆に各地域の記事によって地名の成り立ちに対する考え方のアンバランスが目立ちます。つまりその地名に対し深い探究と調査を重ねられ、物的証拠まで見つけ出された例もあれば、旧来のおそらく付会であろう伝承をそのまま採用されている考証もあるということです。
 例えば徳山村西谷にある戸入(とにゅう)、門入(かどにゅう)の地名についての研究です。伝承では「門を入り、戸に入る」という意味で、村が西谷から開けていったということが言われています。調査員はこの伝承に疑問を持ち、入=丹生の古文書なども発見し、ついには「こうもり穴」「弘法穴」という水銀鉱山を発掘するに至っています。地名から現物の遺跡を発見するという素晴らしい成果を出しています。
 伝承をそのまま採用している地名考証は沢山ありますが、例えば揖斐川町清水の糠吹(ぬかぶく)です。金工地名の研究者ならすぐに気がつく地名なのですが、本書では「鎌曽(かまそ)と呼ばれる上流の淵に籾殻(糠、ヌカ)をまくと、地下をくぐって遠く二里も離れた”糠ボコ”に吹き出る」という伝承を糠を地下水に替えて地名由来としています。
  春日村谷山の泣尾(なきお)では、尾が尾根、尾根の末端とまで解明していながらも、”泣き”を飢饉に苦しんだ人の涙に比定したのはどうかなと思います。私は”泣き”は”薙ぎ”で急峻な崖と解釈するのですが。
 また、池田町般若畑の武者穴については、漢字の意味から敗戦の武者が隠れた岩穴という説から脱することなく、古墳の横穴石室まで辿り着きながら、六請、無所=墓所という意味に気がついていないようです。Img_1212
 



 綾部市五津合町の睦志(むし、旧虫村)には鎌倉権五郎景政を祭神とする若宮神社があります。この地を「西丹波秘境の旅」澤潔氏は無所(むしょ)=墓所と解き、谷川健一氏は昆虫の虫と解いています。私は金工地名と考えています。  


 このように非常に優れた考証と稚拙な考証が混在しているところが本書の特徴であり、一人の頑迷な学者により妙な方向へ引きづり込まれるような専門書よりもずっと子供たちのためになる書物であります。
 中に一般の方が、自らが住まいし耕作する地域の小字にもならない地名について考証されている文面がいくつかあります。これが実にこまめに勉強され、調査されて、下手な地名学者よりもずっと明解に考証されています。故郷の地名を考えるということが如何に自らの郷土愛、これから育っていく人たちの郷土愛を育むものかということを思い知らされた一冊です。おわり

【作業日誌 10/30】
作業庫整理

今日のじょん:桜井さんにむかごを頂いた。私はこれが好きで、ビールのアテには最高だ。芋好きのじょんも食うかなあと思ったら見向きもしない。しろーとやなあ。P1000158

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雨読 いび郡の地名(1) 10/29 

2011-10-29 | 雨読

2011.10.29(土) 晴

 私の持っている地名に関する書物の中で好きな本が二冊あり、一冊は「とちぎの地名を探る」塙静夫著(2010.9.7、8雨読参照)であり、もう一冊が本書です。両方とも地名探究の姿勢が真摯で、方向は違っても著者編者に明確なポリシーがあることがその理由です。前者は地名を防災に活かそうという意志であり、後者は子供たちに郷土愛を高めようという意志です。
 「いび郡の地名」揖斐郡教育会編集発行 昭和63年1月発行 定価無し 購入価1,800円
 本書は大津の古本屋さんに通って買い求めたものです。基本的に1,000円超の本は買わないことにしていますが、私が本を発行するとしたらこういう本にしたいと思わせるもので、3回通ってやっと購入したものです。P1000156 
 揖斐郡教育会とは岐阜県揖斐郡(いびぐん)の揖斐川町、大野町、池田町の三町の自治体や教育関係者の役員等が主体となって、郡内の小中学校の教育に関する事業を行っている団体のようです。なお、発行当時は揖斐郡は三町六村で構成されていました。
 会の事業として、故郷を見直そう、故郷を愛そうという目的で、ふるさと教育シリーズ、「揖斐川」「道」を発行してこられ、第三集として「いび郡の地名」が発行されたのです。従って一般的な書物とは違い、小学校高学年以上を対象とした教育書といってよいでしょう。
 揖斐郡は岐阜県の西端にあり、滋賀県と接しています。井塚政義氏「和鉄の文化」で言うところの伊吹《ねう》地帯(伊吹山を中心とした産鉄地帯)に属し、古代の金工地帯であります。このことが本書を求める一つの理由でもありました。
 歴史や民俗の書物を多く読んでいると、古代の文化について、金属を重視する見方と農耕を重視しする見方があることに気付きます。地名などを扱うものも同様です。金属派の中には何でもかんでも金属に関係づけるひともあったり、逆にアンチ金属派は大金工地帯を扱っていても完全に金工地名を無視したりする人もあります。このことは従前からあらゆる機会に紹介してきました。
 さて本書は、古代の大金工地帯を扱う地名の本が、云ってみれば専門家でない方々によって編集されているのです。一体どのような内容になっているのか、これほどわくわくして開いた本は近年にないことです。つづく

【作業日誌 10/29】
タマネギ植えつけ50本
倉庫、ガーデンシェッド整理

今日のじょん:3本目のキヌガサダケが開いた。初回のものより小さく鉛筆ぐらいの太さだ。残る壺は3個どうなるかなあ。じょんも嗅ぎまわっているが、別のものらしいP1000127P1000151

グラバの先に着いているのは壺の破片。

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大栗峠考(11) 10/28

2011-10-28 | 山・峠

2011.10.28(金)快晴

 志古田道が弓削道に京街道の座を譲った最大の理由は、車馬の通行に対応できなかったということだと考えます。谷道、あるいはトラバース道であるが故に広い道幅が確保できない、仮に造ったとしても崩壊地形のため維持が出来ないということです。そして地形図から述べたように、勾配のあり方が車馬に適していないと言うことです。
 逆に弓削道はだらだらと続く尾根道なので広い道を造ることが可能で、崩壊の度合いも少ないので傾斜のある箇所では道をジグザグに刻むことによって車馬の通行を可能にしていると考えられます。道が使われなくなった現在でも崩壊することなく、往時の形を維持していることはそのことを証明しています。
 ただ、志古田村、長野村の銘のある慶応年間建立の地蔵さまが峠に存在していることは志古田道が完全に使われなくなっていたと言うことではなく、車馬以外の徒歩による通行は盛んに行われていたと想像します。若狭、舞鶴方面の行き来は車馬でない限りこの道が圧倒的に有利であることは明白です。手荷物のみの旅人や修験者などは当然志古田道を使用すると思われます。
 これ等のことは志古田道を歩いてみてより明確にできることと思っています。いまだ歩いていない時点では想像の域を超えない説であります。

考察(4)三角形の不規則な峠の謎
 以前に紹介した大栗峠の略図を見ていただければよくわかりますが、峠は奇妙な三角の道になっています。このことについて「北山の峠(下)」金久昌業氏は一頁をさいて論評し、倒れていた石柱は地蔵さまの向かいに立っていただろうと結論づけておられます。私は当初はそう思っていましたが、現在の位置にあったとしてもおかしくはなく、礎石状の石が散乱していることもあって現在地に立っていただろうという説を述べました。弓削から登って志古田に降りる人はありません、だから左に行けば志古田に降りてしまいますよと云っているのでしょう。また、和知から登って志古田に降りる人が左辺の道を辿ったとき志古田に降りる方向を示すということも考えられます。P1000077
 
北面(上辺)から見たところ、右の凹みが左辺の道となります。小山の向こうが地蔵さまの石室。


 地形的に考えると志古田から鞍部を乗り越えて、地蔵さまの前を通り和知に下るのが基本的な峠の道でして、三角形の左辺、上辺の道は不自然ではあります。
 しかしこういう変則的な道がついている峠は憶えがあります。どこの峠かと云われると明確に答えられないのですが、登山道などで本来の峠と違う部分を通るものがよくあります。それはなぜかというと、そちらの方が歩きやすかったり、近道だったりするからです。多くの人が歩き出すと、新しい道が本道になって古い地蔵さまや道標が脇になってしまうのです。
 これと同じことが大栗峠にも起こったのではないでしょうか。本来の峠道は志古田から和知にむかう地蔵さまの前の道で、やがて弓削、山田からの道が尾根筋(三角形の上辺)を通って合流し、車馬が弓削方面から上がってくるようになって、近道というか通りやすい道(左辺)ができたのではないでしょうか。Img_3364
 
東から撮影(7,24)右から左に志古田道、中央から右上に弓削道、小山の向こうが近道(左辺の道)


  三角形といっても歩けば数歩の石室を囲んでいるだけの道だから、地蔵さまの裏を通る人も、一服を兼ねて地蔵さまにはお詣りしたことでしょう。
つづく

【作業日誌 10/28】
オクラ種採り、タマネギ床作り

今日のじょん:あまりに天気が良いので河原に降りる。夏場は草が多くて歩けないので今季初めてだ。まだちょっとおっかなびっくりみたいだ。P1000146_2

 
 

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大栗峠考(10) 10/27

2011-10-28 | 山・峠

2011.10.27(木)晴

 志古田道が崩壊地形であることは「北山の峠(下)」金久昌業著の記述でもわかります。
「前略 特に上粟野側の尾根道と志古田への谷道が荒れていた。道はあるのだが生え込んでいるいるのでブッシュの中を行くに等しく、志古田への谷道などは高巻きの斜面の道だったので、路肩の崩壊が激しくとても通れたものではなかった。」
 これは昭和55年春、和知、綾部両山の家を結ぶハイキング道が整備させる以前の志古田道について書かれています。大栗峠の項を何度も読み返しているといくつかのことがわかって来ます。一つは金久氏は55年春の志古田道整備以前に志古田道を通っておられること、それによって上記の文章が書かれていると言うことです。そして弓削道を下られて本文章を書かれたのは昭和55年春、夏だろうと思われます。道路整備以降のことが書かれ、本書の発行が55年11月だからです。このことは今回の考察にはあまり関係ないかも知れませんが、道の様子や樹林の状態がその当時のものとして考えられるのは大変参考になります。北山の数多の峠を歩かれた日時が書いてないのは非常に残念なことです。
 今ひとつ重要なことに気付きました。文中に「地蔵様の背面には慶応の建立銘が刻まれている。」というのを見つけました。初めて大栗峠を訪れたときの写真を見ると、左側の地蔵さまには確かに「慶応??丑歳 六月日」の文字が読み取れます。しかし、右側の地蔵さまはどうかわかりません。私はこの二体の地蔵さまは倒れた道標の石柱や城下道分岐の石碑よりも古いものだと勝手に解釈していました。Img_3361

慶応云々の文字が見えます。(2011.7.24撮影)


 「右 志古田 わかさ」とあることをもって志古田道が元々京街道の本道である根拠の一つとしていたのですが、もし右側の地蔵さまも慶応の建立だとしたら、台座の銘を以て根拠とすることは出来ないことになります。つまり既に弓削道が本道となっていたと思われる寛政、文政よりも新しい時代に造られたものとなるからです。いずれにしても再度訪問し、建立年を確認してから考察することにいたします。
 随分横道にそれましたが、本題に戻ります。志古田道が崩壊地形だからといって、街道が崩壊して使えなくなったわけではありません。その都度志古田や長野の村人によって補修整備がなされたと思います。それでも本街道の座を弓削道に奪われた理由は、あの弓削道の車馬通行可能な道巾の広さと傾斜にあると考えます。P1000091
 
これは稜線上ではなく尾根の途中です、如何に広い道かわかります。


 すなわち人が手荷物、腰弁当、大きくても天秤棒で往来する時代には狭くて不安定な道でも効率的に歩ける道の方が良かったのですが、経済流通が発展し荷車、牛車、馬車の必要が出てくると様相は変わってきます。
 つづく(大栗峠考(9)は2011.10.25)

【作業日誌 10/27】
倉庫片付け、ひとつの倉庫を整理するためには車庫、作業庫、ガーデンシェッド、物置などみんな片付けなければなりません。疲れるぜ。

今日のじょん:朝寝坊して忙しいときに限ってうんPに時間がかかる。場所を決めるまでうろうろうろうろうろ、五分ぐらいはうろついている。イライラ。P1000136 P1000137

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秋のキヌガサダケ 10/26 

2011-10-26 | 日記・エッセイ・コラム

2011.10.26(水)曇、晴

 10月13日にキヌガサダケの壺を見つけ、何時咲くかと観察を続けていましたが、一向に咲く気配が無く、一時は蛇の卵かなあなどと不安になったりしました。発見から2週間近くたった今日見事に?咲きました。?なのは何とも小さいのです。しかもあの白いレースが無いのです。壺だけは充分な大きさがあるのですが、なんとも白け気味の出現です。P1000132
 
10cmにも満たない。


 やはり気温が低いので 成長しないのかな、壺から孵ってくるというか開花するのも時間がかかりすぎです。レースが無いのも気温のせいかなあ、それとも虫がいないので必要がないのかなあなどといろいろ想像しています。
 それでも一応証拠写真を撮ろうと近づくと、少し向こうに白いものが見え、腐った倒木をかき分けると立派な大きさのが一本出ていました。しかしレースはやっぱりありません。違う種類なのかなあとさえ思ってしまうのですが、レース以外の部分は全てキヌガサダケで間違いありません。あの鶏糞のような臭いもいつもどおりです。P1000133
P1000126 
もう一本と壺2個を発見。



 そういえば昨秋改心の道で見つけたのもレースはありませんでした。既に溶けてしまっていたのかと思いましたが、どうやら最初から無かった様です。
 調べてみると梅雨時分と秋に出現するのは普通だそうです。秋だから大発見ということでは無さそうです。その後壺も2個発見し、これからまだまだ出てきそうです。2本とも収穫し、いつものように乾燥しました。グラバは水に溶いて撒いています。P1000135
夏のように一気に咲いて無くなると言うことはありませんので、興味のある方はいつでも見に来てください。夕方までしっかり残っているようです。

【作業日誌 10/26】
倉庫片付け

今日のじょん:佐々木さんが来て尺八を一曲聴かせてくれた。じょんが出てきて盛んに首をかしげている。何じゃこの音は、、、と思っているのかな。P1000131_3

 

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大栗峠考(9) 10/25

2011-10-26 | 山・峠

2011.10.25(火)曇、雨

 考察(3)なぜ京街道は志古田道から弓削道に代わったか。
 そのまえになぜ志古田道が本道であったかということを考えてみましょう。
 街道の要素というのはいくつもありますが、最も重要なものは効率よく歩ける、つまり楽に早く到着できるということではないでしょうか。その他には安全に歩けること、宿や茶店などの環境、治安の問題、川の渡しの問題など色々考えられます。
 今回弓削道を下っているとき、桜井さんが「こりゃあ志古田道の方が楽やなあ」とつぶやいておられました。私は志古田道をまだ歩いていないので感じはわからないのですが、地形図で見る限り志古田道が歩くには効率的なようです。地形図では上林川から大栗峠までどちらの道も距離も高低差も変わりません。ただ志古田道は谷沿いの道であり、平坦というか傾斜の緩い部分が2/3くらいあります。弓削道はその逆で平坦な部分は1/3で残りは尾根をキリキリ登って行くという感じです。300mの等高線は弓削道では丁度瀬尾谷への分岐辺りですが、志古田道では谷筋の緩傾斜が終わり始めた辺りです。このことは弓削道では終始坂を登るのに対し、志古田道は初めはだらだらと距離を稼ぎ、最後に一気に登るということでしょう。こちらの方が徒歩の場合効率的だと考えます。もちろん真の理由は他のところにあるのかも知れませんが、今思いつくのは以上のことです。Img_3363
 
志古田への降り口、上部まで植林されています。


 志古田には街道筋に茶店があったという言い伝えもあるようです。京街道なら当然のことだし、随分賑わったことでしょう。ところがこの志古田道には弱点がありました。
 それは崩壊地形であったことです。大栗という地名が”刳る(くる)”に由来する崩壊地形の地名であることは以前に紹介しました。公開されている地滑り地形のデータベースでは、志古田の谷の屈曲点、2万5千分の一地形図の238mの表示がある辺りの東斜面に大きな地滑り地形があることを示しています。小字大栗がこの地点に当たるのか確認は出来ていないのですが、少なくとも志古田道に係わる部分であることは間違いないようです。つづく


【作業日誌 10/25】
倉庫整理P1000122

棚は出来ましたが、整理には2,3日かかりそう。



 今日のじょん:お尻尾長いぞ。じょんの自慢は大きな尻尾とそれが器用によく動くことである。P1000115




 これはかみさんが帰ってきたとき、カーテンの下から覗いて尻尾振ってるところだが、尻尾が階段に当たってコンコンコンと音がしていて笑ってしまう。

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大栗峠考(8) 10/24

2011-10-25 | 山・峠

2011.10.24(月)曇

 考察(1) cの石柱について
 大栗峠考前編(1)~(6)でcの石柱はお地蔵さまの前の道にお地蔵様に向かってあったのではと推理しました。これは「北山の峠」の金久昌業氏の意見と同じで、現在の位置だと、弓削から登ってきた人に志古田への道を教えるのはおかしいというものでした。弓削から志古田に向かう人がこの峠を利用するとは考えられないからです。しかし今回峠を再訪して、この石柱は現在の位置にあったものと推理を訂正します。
 それはこの石柱と弓削、城下の分岐の石柱eが同時期に同一の人物によって造られたものであることが判ったからです。文政七年は1824年にあたる様ですが、寛政11年(1799年)の丹波國大絵図に既に弓削道が京街道の本道になっており、石柱の奉納者は明らかに弓削道を意識して寄進していると思われます。つまりこの石柱cは弓削道から登ってきた人に和知は右ですよ、左に行くと志古田に行きますよと教えているもので、和知に向かう人に左の道に行かないよう示していると考えます。
 それともう一つ、城下分岐の石柱の足下に段にでもなっていたのでしょうか、四角い石が数個見えます。同様に峠の石柱cの傍らにも一部石材が半ば埋まりながら存在しています。そういったものは当初予想したお地蔵さまの向かいには無いので、やはり現在倒れている位置に元々立っていたとするのが妥当でしょう。P1000086_2 P1000077
 
両方とも大きな石が周囲に散らばっています。



 ではなぜ倒れているのかということですが、大栗峠が街道として使われなくなった後に自然に倒れたのだと思います。以前に志古田道が崩壊しているため、そちらに行かないように倒して、移動させたという推理は(大栗峠考(3)2011.7.28)少し考えすぎであった様です。しかも現在の位置
にもともとあったとしたら、故意に倒す理由は考えられません。自然に倒れて、もう街道が使われていない時代であったとするとそのまま放置されたとして不思議ではないということです。石柱の辺り、かなり木の根がはってきています、これが原因かも知れません。
 
 考察(2)お地蔵さまの銘文について
 大栗峠考前半での考察の主題は、元々の京街道は志古田道でやがてその座が弓削道に代わったということです。その理由を今までに述べてきましたが、この二つの地蔵さまの銘文は新しい証拠を語っています。P1000082
 
台座の部分に銘が入っています。


 左側のお地蔵さまaの銘文では、上林側の志古田村、長野村と和知側の川合村が施主となっています。これは志古田道そのものの村名です。
 右側のお地蔵様bでは最下部まで読めなかったのですが、「右 志古田 わかさ
左 城下」と書いてあるようです。つまり志古田へ降りる道が若狭街道、高浜街道であったということです。城下(しろした)に向かう道も同じ頃にあったということも判りますが、利用するのは城下周辺、あるいはそれ以西の人々が利用したと思われ、若狭、舞鶴方面からの人は志古田道を使ったのでしょう。
 つづく

【作業日誌 10/25】
倉庫棚完成
倉庫整理初日

今日のじょん:照れ隠し。
カメムシ犬じょんはカメムシに異常に反応する。ワンワンワンときたら、「どこやいな」と言うと居所に案内する。こちらが見つけられないといつまでも吠えて目線で知らせる。今夜も急にワンワンと来たのでカメムシバスターを持って彼についてゆく。ところがいくら探しても見つからない。そのうちすごすごとすっこんでしまった。どうやら勘違いだったようだ。やがて何ヶ月もやってないごじら遊びを始めた。これはじょんなりの照れ隠しなのである。P1000117
 

コメント (2)
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大栗峠考(7) 10/23

2011-10-24 | 山・峠

2011.10.23(日)曇、雨

 地名や地史についての研究論文がウェブサイトで多く流れています。その中には大変熱心に研究されているものもありますが、明らかに他のサイトや文献のみを資料として編集されているものがあります。いわゆるフィールドワーク無しに机上で編集された研究論文です。そういったものは中身が無いか、あっても軽薄なもので少し読んでみればわかるものです。
 犯罪捜査の刑事ものの小説などに「現場百ぺん」という言葉が出てきます。何度も現場を訪ねて、自分の目で見る事によって新しい発見、新しいヒントが出てくるということでしょう。事ほど左様に今回の峠考も再度訪問することによって新しい発見、新しい構想がありました。従って前回までの考察が覆っていることもあります。それがアマチュア研究者の良いところであって、学者大先生のように持論を覆したからと言って命取りとなるようなことはないのです。
 さて、今回10月21日の大栗峠再訪で発見、あるいは再確認したことは次のとおりです。
 峠の岩室にあるお地蔵様左をa、右をbとします。またお地蔵さまの岩室の後ろに倒れている石柱をc、ハイキングコース整備時の看板をd、弓削道の山田方面への分岐石柱をeとします。
P1000120
わかりやすいように大栗峠の図を書きました。クリックして大きくして見てください。



aの台座にある銘文について
 施主 ワチ 川合 村中  カンバヤシ 志古田 村中 同 長野村中
 であり大栗峠考(1)(2011.7.26)でその後に文が続いているように書いていたが、以上の通りの文でした。P1000076





bの台座にある銘文について
 台座の前に大きな石の台があり、銘文が隠れて見えません。木切れなどで土を取り除いて限界まで読みました。これ以上はバールなど用いて石をどける必要がありますが、一応書かれていることは解読できましたので良いかと思います。
 右 志古 わか  左 城下  奉納地蔵口口P1000081
 
 右 志古田 わかさ と書かれているようです。



cの石柱の銘文について
 (表)    右 わち  左 志こた   上部に梵字あり
 (裏)    文政七申 十月吉辰
     本願
        山田村世話人中
        阿波国 行者 長治郎

P1000085





eの石柱の銘文について
 (表)   文政七申  右 ゆけ道
     南無大師遍照金剛
       十月吉日  左 志ろ下
 (裏) 願主 世話方中
         山田村 助左エ門
         阿波国行者長治良

 
 山田村 助左エ門とは念道の小林さんの親元の家系に当たるということで、今回裏書きを確認するよう頼まれていたところです。P1000087_2




つづく(大栗峠考(6)は2011.8.1)







【作業日誌 10/23】
倉庫棚作り
椎茸小屋草片付け

今日のじょん:朝起きてゆくと、階段の下でお座りして待っているのだがこの時だけ妙な声を出す。クンクンでもワンワンでもなく、「おうお~ん」というのに抑揚がついておとー、おかーに一声ずつ発するのだ。どうもこれは「おはよう」と言ってるようで、毎日云っていたらオームみたいにしゃべるようになったのではなかろうか。P1000113

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大栗峠再訪(2) 10/22

2011-10-23 | 山・峠

2011.10.22(土)曇、雨

 大栗峠では地蔵さまや石碑に書かれた事柄を調べたりして過ごしました。私にとってはいつものことでさしたる感動もないのですが、こういうことを初めて体験する人にとっては大変興味深いことのようです。書かれていた事柄はあらかた解明し、「大栗峠考(7)」以降で御紹介いたします。P1000079
 
倒れた道標、三角形の道の謎に迫ります。


 大栗峠から弓削道に歩を進めます。峠の北西にある681mのピークは大栗山と呼ばれています。大栗峠が志古田の小字大栗に由来し、その大栗峠から大栗山の山名が付けられているとしたら、大栗峠の頭と呼ぶべきではないかと思っているところですが、関西ではあまり何々の頭という呼び方はしないようなので致し方のないことです。弓削道はこの大栗山のピークの東側を巻いて行きます。植林の道で荒れることなく続いています。少し行くと間伐をするチエンソーの音が左手斜面の下から聞こえてきました。そこは和知の山かと思っていましたが、よく地図を見てみると何と浅原(あずら)の谷の源頭に当たるのです。
 大栗山を過ぎてから10分もしない内に山田、馬場、竹原方面に降りる道が分岐します。この分岐には「南無大師遍照金剛」と書かれた立派な石碑があり、、「文政七申十月吉日」という日付と「左志ろ下 右ゆけ道」とあり、長い年月にも欠けることもなく摩耗することもなく立っています。城下(しろした)というのは上林城の麓の村をさすのでしょうが上林風土記、城跡の項に「上林城跡 石橋・古城山・城下」とあるので、城下は馬場、山田辺りのことだと思います。P1000088
 
この石碑は桜井さんの今日の目標でもありました。


 この分岐を過ぎると尾根の上を右に湾曲しながら進む道で、弓削道の中で最も気持ちの良い道となります。この道は「北山の峠(下)」で金久昌業氏が絶賛しているので一部を紹介します。
 「この弓削側の尾根道の特長は、道が堂々と立派なことである。整備された立派さではなく、踏み込まれた高い格調と歴史の貫禄である。 中略  中間の突起を越す部分などには道巾が狭くなったりするところもあるが、その他は概ね車馬が行き来したと思われるような大きく掘れ込んだ道が尾根を曲折して貫いている。この道は樹木の美よりも道そのものによさがある道である。道の精髄というのだろうか。云々」P1000091
 
気持ちの良い尾根道。


 氏をして道の精髄とまで言わしめたこの尾根道、確かに車馬が通行できうる道巾、掘り込みは京街道の面目充分と云うところです。極上部は植林された林だったが、後は闊葉樹の林で、ところどころに紅葉有り、松林有りで変化に富んでいます。長年使われていないため、倒木が多く歩きにくいことが難点ですが、崩れたり、寸断したりしていないことは地形的に有利な点があったことと、道作りの巧さ、保守整備が行
き届いていたことが察しられます。
 地図ではさほど長く思えないのですが道がジグザグに造られていることと、倒木などで歩きにくいことが重なり随分長く感じられます。行けども行けども瀬尾谷(しょうだに)への分岐が現れません。既に通りすぎてしまって、弓削まで来ているんじゃないかと思われる頃、左に急激に降りる道に出合います。目印も道標もなく、怪しげですが道巾がしっかりあるので間違いないと思い、下って行くと大きな猪のヌタ場があり、林道にぽっかり出ました。P1000092P1000093

林道に出る手前の大きなヌタ場。林道は結構長い。



  ここからは三々五々、奥田幹生さんの生家を眺めたり、ゴンちゃんに挨拶したりして中尾さんの家に着きました。P1000095 P1000096
 
下って行くと前衛の山が大きくなってきます。

 

 瀬尾谷は府道方面から眺めると小さな谷の一つに過ぎませんが、瀬尾谷から府道方面を眺めると、弥仙山の前鋭峰が特異な姿を見せ、上林禅寺を中心に街並みが見渡せ、絶景かなという景色が拡がります。おわり
 以降は「大栗峠考(7)」以降で考察してみます。

【作業日誌 10/22】
いこいの村まつり、出店P1000102

来年は30周年ですって。



 今日のじょん:おとーはいこいの村まつりに出張で居なかったのだが、いつになく多くのお客さまがいらっしゃったようだ。最近はお客さまが来られると居間のドアから顔を出して挨拶するようになったのでじょん君も忙しいようだ。「かわい~」などと云われると嬉しいよーだ。本人、いや本犬も結構気い遣っているようで、お客さまの多い日はぐったり疲れて寝てしまう。
P1000109  
うまし夢みし。

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大栗峠再訪(1) 10/21

2011-10-22 | 山・峠

2011.10.21(金)晴

 秋晴れの一日を大栗峠(おぐりとうげ)に遊びました。ご存じ鳥垣の桜井(克)さん、土筆庵の井上さん、瀬尾谷(しょうだに)の中尾さん母娘と私の5人パーティです。ルートはいつもの鳥垣渓谷をスタートし、シデ山~大栗峠~弓削道~瀬尾谷としました。瀬尾谷に古民家を求め、20年間野菜作りや陶芸に通っておられる中尾さんにとっては最高のプレゼントになるかなと思っています。
 私の目的は大栗峠の地蔵さまに書いてある銘文を確かめること、倒れた道標の裏に書いてある銘を確かめること、そして弓削道を歩いてみて上林に於ける京街道の神髄を味わってみたかった事です。
  9:00 小野田橋集合
  9:20 おりと出発
 10:06 やすみと着        10:30 発
 11:00 林道広場着        11:20 発
 12:06 峠手前の稜線昼食   12:50 発
 13:11 大栗峠着         13:45 発
 13:55 城下道分岐着      14:00 発
 15:00 瀬尾谷道分岐
 15:10 瀬尾谷林道
 15:32 瀬尾谷集落中尾邸着

 小野田橋に集合して、桜井さんの軽トラでおりとに向かいます。おりとまで行ってみたいという佐々木さんがおりとの滝で記念撮影してくれました。後はいつもどおりの行進なんですが、中尾さんは慣れない沢歩きに苦労しているようです。P1000068 P1000069_3 P1000073
 



第三の滝、やすみと、林道広場


 林道広場まで来ると登りの疲れが吹き飛びます。いつものようにあの山が何、この山が何なんて論議するのですが、どれも怪しげな様子です。山の位置を知るために送電線の位置を見るのは何となく後ろめたくて、悔しい感がするのです。中尾さんの携帯電話にかみさんから通話があり、おとんぼパンと農協牛乳を買ってくるようにとのこと、うーむ興ざめ、なんのために携帯電話を手放したかわかりません。P1000075_2
 
林道に咲くリンドウなーんちゃって。



 林道終点まで行き、桜井さんはシデ山へのルートを確定するため、私たちは林道から如何に楽に稜線に出られるかを確認するために分かれました。
 林道は631mのピークにつづく枝尾根を越えたところにあります。そこから森林の作業道がやや下り気味に西に続いています。道はかなりはっきりしていて、やがては大栗峠、もしくは志古田道にぶつかると予想され、峠に向かうには最も楽な行程と思われるのですが、植林のため暗くて陰気で尾根をいくつも回り込むので距離的には長くかかります。山歩きを満喫するためには絶対に稜線を歩くべきなんだがと迷いつつ偵察をしていると、尾根道の桜井さんが合流したようで、戻るように声がかかりました。枝尾根を稜線に這い上がるとそこは西向きの稜線が南西に向きを変える地点でした。そこで弁当を拡げて昼食とします。秋の晴天の、爽やかな風が吹き抜ける山での弁当ほど楽しいものはありません。
 そしてそこから小さなこぶを三つ越えると、待望の大栗峠に着きました。P1000083
 
大栗峠でワイワイ。



 数え切れないほどの峠を、車で、自転車で、歩いて越えてきましたが、一番好きな峠が小栗峠です。それは峠そのものの姿形もありますが、一番のお気に入りはお地蔵さんです。特に二つ並んだ左のお地蔵さんなんですが、写真を見ても自然に微笑んでしまうのです。今回も写真を撮ってきたのですが、実はそのようなことは起きない、おかしいなあと思って前回(7月24日)の写真と比べると、写真の角度、つまり目線が違うのです。前回のは斜め下から拝むように撮っており、今回は右上から見おろすように撮っているのです。お地蔵さまや仏さまは拝む角度があるんですねえ、仏師も彫師もそういうことを意識しているのかと感心するばかりです。P1000082 Img_3361 つづく

今回のお地蔵と前回(7月24日)のお地蔵。



今日のじょん:今朝は霧が濃いなあ、念道橋も他界との掛け橋のようだなあと感激に浸っていたら、なんてことはない、散歩の時間が早いだけだった。P1000064_2     
  

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洞峠(3) 10/20

2011-10-21 | 山・峠

2011.10.20(木)快晴

 中世の歴史には疎いので如何ともしがたいのですが、洞峠の山行の際に聞いた明智光秀と洞峠の関係、例えば本能寺の変に光秀軍の兵士が通ったかとか、紹介済みの二つの地蔵尊について光秀が作ったものとか云う話は果たして本当なのかという気がしています。明智光秀の丹波平定については綾部市史上巻第四章に詳しく述べられています。光秀が最終的に丹波に君臨したがために最初から最後まで光秀一人が丹波の平定に当たったかのように考えがちですが、綾部市史を読む限りそのようなことではなく、様々な武将が丹波平定に関わり最終的に光秀がその任に当たったと考えるのが順当ではないでしょうか。Img_3865
 
古屋公民館横の洞峠案内板。


 特に上林について見るとき、織田方の最初の侵入は元亀の侵入(1572年)といわれるもので、これは高田豊後守によって若狭側からなされたものであろうと云われています。君尾山光明寺も攻め落とされたと書いていますが、巷間では光明寺は光秀に焼き払われたと認識されており、奥上林村誌にもそのように書かれています。Img_5934
 
上林城趾の案内板。


 上林氏を制した高田豊後守は続いて位田城、栗城と綾部盆地に侵攻し、1587年秀吉の命で正式に上林を支配したそうです。(綾部市史、上林七里野ほか)
 一方光秀はというと亀山城、黒井城、矢上城など丹波の主勢力と戦い、上林などとは関わりが無いように思えるのです。ただ最後まで抵抗した山家城主の和久氏を攻め滅ぼしています。(1580年)ところがこのとき城主和久左衛門佐は行方をくらましてしまい、光秀は徹底的に探し出すよう下知しています。(御霊神社文書)
 光秀が上林に目を向けたのはこの時が初めてなのではという気がします。特に奥上林の谷間には光秀の意に沿わない土豪が多かったそうです。1579年睦寄町の金剛寺が焼き打ちを受けているのは光秀の意図するものでしょう。同年光秀本人が洞峠を越えているということも信長公記にあるそうです。その3年後に本能寺の変が起こるわけですから、光秀の手の者が洞峠を越えて駆けつけたということも無きにしもあらずということです。P1000029
 
光秀が洞峠を越えたことは確かなようですが、この地蔵尊を造ったというのは何とも言えない。


 光秀が上林に目を向けたのは丹波平定もほぼ完了した時分で、いわば残党刈りのような状況だったのではないでしょうか。上林においては戦国時代=明智光秀というふうに思われていますが、当の本人は上林についてさほど気にもしていなかったのではないでしょうか。
 丹波平定の総大将的立場であったこと、平定後の丹波を知行したこと、歴史的に有名人であることなどが明智光秀をクローズアップさせる主な原因だと思われますが、それ以外に上林に光秀を関連させる理由を思いつきました。つづく

今日のじょん:今日はサチが遊びに来たけれど、かみさんが留守で一緒に遊ばせてもらえなかった。チトいぢけてたけど、まあ致し方のないことだ。それにしてもサチは軽トラがよく似合う。P1000060

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洞峠(2) 10/19

2011-10-20 | 山・峠

2011.10.19(水)快晴

 洞峠山行も美山側に降りることなく帰ってきました。美山側に降りた人たちの「谷の景色もよかったよー」などという話にしまった、美山側にも降りてみたいなあという気がしています。道中二つの地蔵堂の他にこれという物もなく、峠の姿は古い峠を思わせるものだが、これといって地蔵さまや石碑など無く、物足らない感がしていたのです。帰ってから「北山の峠(中)」金久昌業著の洞峠の項を読んでいると、いろんなことがわかりました。
 氏が峠を登られたのは何時なのか定かでないのだが、本の発行が昭和54年というので、おそらく昭和40年代頃に登られたのでしょう。洞側は植林で針葉樹の道、古屋側は落葉樹の道と表現されている。同行されていた古屋の細見さんが、古屋側の山は村有林で、村中で植林したとおっしゃっていたがそのとおり、村から峠まですっかり植林されています。このことが峠道を陰気でつまらないものにしているが、経済状況、林業政策に由来するものだから致し方ないことなのです。P1000023
 
洞峠美山側への降り口。


 そして峠から少し下ったところに小さな石室があって、おそらく仏様であろう石柱が中に置かれているということです。これには歩いていても気づかなかったし、案内もされなかった様です。既に消滅してしまったものかも知れないが、事前に知っていれば探しただろうし、形跡なりともあったかも知れないと残念に思うのです。氏はこの石柱について次のように書かれています。
 「少し下ると路傍の落葉の中に可愛らしい石室を見る。50センチ四方くらいの小さなものなので石の厨子と云った方がよいかもしれないが、苔むして古く気付かずに通り過ぎてしまうほど自然に同化している。中には石柱が置かれているが、多分仏様が彫ってあったのだろう。摩滅して形はなくとも仏様だとわかるのである。これはもう仏様でも石柱でもなく、この峠を越えた多くの旅人の祈りの凝集というものかもしれない。」なんと心を打つ文章ではありませんか。P1000026
 
古屋側で唯一展望の開けるところ、正面が「北山の峠」に天狗バタとある848mのピークだろうか。


 そして峠附近では戦後放牧が行われていて、木の柵なども残っていたそうです。
 奥上林村誌には、北桑田から牛二頭を連れて洞峠を越えて米の買い付けがなされていたことが書いてあります。
 というふうに私たちの想像を絶する人馬の行き来がこの峠にあったと言うことです。
 つづく(洞峠(1)は2011.10.16)

【作業日誌 10/19】
芝生張り替え1㎡
倉庫棚作り

今日のじょん:新カメラになりシャッターがすぐに降りるので、ジャンプしているところなどが撮りやすくなった。P1000016 P1000041 P1000044
 

コメント (2)
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じょん君ホノホノさんに行く 10/18

2011-10-19 | 日記・エッセイ・コラム

2011.10.18(火)快晴

 今夏はどこも連れてってませんので、福知山での眼鏡フェアのついでにホノホノさんに行きました。眼鏡が壊れた翌々日にこのようなフェアがあるとはなんとも偶然です。しかも紹介を戴いたやーとさんには先日の洞峠山行でこれも偶然に会ったのです。三城の眼鏡は高いでとしぶるかみさんを横目に、これだけ偶然が重なれば、買わざるを得ないだろうと納得させています。アウトレットとフェアの割引で、定価よりはうんと安く買えましたが、出来上がったあとの使用感がよければまずは正解と言うことになるでしょう。
 ホノホノさんは本当はDog Cafe&Plate TAMURAといいます。よーするにドッグカフェのお好み焼き屋さんです。マック隊長とマウイちゃんてーのがいて、ワンコの社会性というか社交性というか着けるのにはぴったりです。P1000046
 
ホノホノさんに行くとき、解るのですかねえ、凄く喜ぶのです。


 福知山の御霊神社の近く、浮世小路というまあ私なんぞは大好きなところにあるのがこれまた面白いところです。夜はお隣でスナックまういちゃんが営業しています。P1000047 P1000048 P1000059
 じょんも最初はおっかなびっくりでしたが、何度か通っている内にすっかり落ち着いて、自分の家のようにくつろいでいますが、それでも疲れるようで、夜は爆睡しております。

 【作業日誌 10/18】
芝生張り替え、1㎡P1000054 P1000055

 芝生広場のクローバーの生えた部分をじょんのび坂に植え替えました。


今日のじょん:本文登場でお休み。

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カメラがキタムラ 10/17

2011-10-18 | 日記・エッセイ・コラム

2011.10.17(月)晴

 14日にデジカメとプリンターを買いました。昨年の10月の記事にもあるのですが、とにかく10月は物が壊れるのです。昨年はエコキュート、カメラ、カーナビそしてかみさんまで壊れて入院してしまいました。今年はカメラ、プリンタ、かみさんのパソコン、そして私の眼鏡が壊れました。もっともカメラは壊れていたものをだましだまし使っていたわけですが、とにかくお金がかかる物ばかりで困りものです。
 さて、タイトルにあるようにカメラのキタムラで、パナソニックのLUMIX TZ20という最新の機種を購入しました。とにかくキャノンは三台のカメラが故障し、修理代が高くて修理できないという状態で、このメーカーだけは使いたくないという感じです。どこのメーカーでも同じなのかも知れないが、最近の機器は値段は安いがすぐに故障するという風で、修理を見積もると新規購入の七,八割の修繕費を取られるケースが多いようです。要するに新しく購入すればいいと言うことになるようですが、物を大切にする世代の我々にとってはちとつらいものがあります。
 さて新しいカメラですが、別にタイトルのように後から送ってきたわけではありません、店頭で買って帰ったのですが、タイトルは単なるシャレと思ってください。従前は128MBのSDカードを使って6,70枚撮れたと思ったのですが、今回20枚程度になりました。一枚当たりの使用バイト数が約4倍増えているようです。SDカードはあるから買わなくて良いですと言ってたのが、これじゃあ動画も撮れません。というわけで明日にでも容量の大きいSDカードを購入しようと思います。確かに画質も良くなっていますが、様々な機能が付いているようです。問題は写真の取り込みも付属のソフトも起動にすこぶる時間がかかることです。おそらく大容量のメモリを使っていることでしょう。終いにはパソコンまで買い換えなければならないような状況になるのでしょう。 カメラについては少し勉強して機能を使いこなさないともったいないという気になりました。P1000053_2

最新のカメラでも自分自身は写せません。今まで読んだことのないマニュアルも今回は読んでみますか。



 今日のじょん:最近あさの臭い嗅ぎが気になっている。先日は白樫の下、そこには犬でも猫でもない糞が落ちていた。連日サツキのところを嗅いでいる。そこには何も残っていない。散歩は八時前だが、道路の真ん中に枝の付いた栗のイガが落ちていた。隣家の石垣には柿の実の食べ散らかしが落ちている。猿の仕業と思われるが、夜には仕事しないので、早朝に来たようだ。なんともじょんも忙しい。P1000010_3 P1000015 P1000014  

 河原もプンプン。

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