晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

和洋中Concertに行く 3/25

2017-03-26 | 文化に触れよう

2017.3.25(土)曇り

 府立工業のマンボウジャズクラブのコンサートが厚生会館であったので予定していたのだが、月刊えふさんの招待券が当たって、遊'sさんのスプリングコンサートにいくことになった。陳曼麗(二胡)北垣かおり(箏)美市川五左衛門善久(piano)の和洋中コンサートである。曼麗さんは綾部在住で地元ではよく知られた奏者だがわたしが聴くのは初めてである。

 今回一人での参加なので美市川さんの側に陣取る。二胡もよかったが、特に箏がこんな風に演奏できるのかと驚いた。ジャズナンバーはセントトーマスのみだったがなかなかのものだった。沢山の曲を聴かせていただき、葉加瀬太郎のエトピリカや情熱大陸など一気に演奏されたのは迫力だった。今年は文化に触れようシリーズのスタートが遅かったが、暖かくなってきたので頑張ろうゼ。

【今日のじょん】先日ニューモモが久々に来た。かみさんがだっこしてたらじょんの態度がヘンなこと。

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9才なにがめでたい? 3/21

2017-03-21 | Dog

2017.3.21(火)雨

 昨日じょんが9才の誕生日を迎えた。兄妹のマーブルとくるみちゃんが亡くなって4年近くの月日が流れたことになる。兄妹の死は実に衝撃的であった、死因もそのきっかけも同様であったことが大きくのしかかる。病名は自己免疫性溶血性貧血、きっかけは混合ワクチンである。この子たちのためにとやっていることが逆にその命を縮めているとしたなら、いったい僕たちはどうすればいいのだ。と言うわけで混合ワクチンの接種は以来控えている。ところが昨年秋頃から妙に元気が無い、病院に連れて行くとミネラルバランスがよろしくないということで点滴を施す。元気になったんだけど、副腎皮質ホルモンの分泌が低い、赤血球の値が低いという結果が出た。最も恐れていた貧血の値が過去最低となっていた。ステロイドの投与が始まり、もう3ヶ月目だろうか、数値もそこそこに上がり、食欲旺盛、元気に迎えた誕生日である。
 この間の心配料と医療費、費やした時間を考えると、なにがめでたいという感もあるがやっぱりめでたいのだ。じょんの元気な誕生日を祝してかみさんと二人でしまだ屋さんで盛大に祝杯を挙げる。「なにがめでたい」というのはじょんの言かもしれない。


9才誕生日の記念写真、右手のシートは何なんだ。

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丹後震災90年 3/19

2017-03-19 | 引地考

2017.3.19(日)快晴

 北丹後地震(推定M7.3)は1927年(昭和2年)3月7日18:27に起こった。今年で90年となるので丹後では様々な催しが行われている。多くのイベントが既に終了しているが、最も興味があったのが今日の「歩いて辿る丹後震災の記憶」である。日曜日の企画で参加しにくいこともあったのだが、午前中で終わること、縦貫道の開通で1時間あまりで峰山まで行けるというので参加した。峰山高校の地学研究部が震災の資料などを探し出すなど熱心に活動されたそうで、今回有志の高校生4名と顧問の先生とで案内していただくこととなった。

全性寺で挨拶をしてスタート、震災記念館はヘルメット着用

 手作りの「歩いてたどる丹後震災街歩きマップ」には当時の写真や絵画、気象データや被害状況表など大変参考になる資料が揃っている。
 北丹後地震は地震の規模としては兵庫県南部地震(1995年M7.2)と同等で、峰山での死者は1103名、丹後全体では2925名と言われているから峰山に人口が集中していたことがわかる。峰山での家屋の倒壊率は98.8%ということだから、街は壊滅状態である。
 辿った先は、全勝寺、丹後震災記念館、呉服町、古殿町、峰山小学校で、震災直後の写真で確認できるところである。90年前ここでとんでもない震災があったということが実感できる場所である。峰山高校の生徒さんたちが丁寧に説明してくれて、震災復興歌なども披露していただいた。

峰山高校の皆さんに感謝
 高台にある丹後震災記念館は現在耐震の関係で入館できないのだが、特別にヘルメットを着用して入館させていただいた。5枚の絵画が残るばかりだが、当時の惨状を伝える貴重な資料である。
 京丹後市立図書館の震災関係図書の展示や丹後古代の里資料館の企画展示「丹後震災90年」はまだ引き続いて開催されているので、再度丹後を訪れてみたい。


【今日のじょん】今日愉快なワン客が来じょんした。マルチーズとダックスのミックス、1才の師匠、シーズー6ヶ月の弟子。どっちも女の子だって、、、え゛~

走り回っていっぺんに入らないのよね。

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高杉探訪-5 3/17

2017-03-17 | 歴史・民俗

2017.3.17(金)曇り

 金堀坂の坑道跡がどの時代のものかわからないのだが、少なくとも丹波に多く存する近年のマンガン坑ではなさそうだ。仮に古代に遡るものとして想像を逞しくすれば、考察というより妄想に近くなるが敢えて描いてみたい。
 そもそもこの地を訪れたきっかけは別所の地が産鉄の地であり俘囚の移配置でもあり得るという柴田弘武氏の説に惹かれてのことである。氏はゴウドの森にある不寝大明神を、「タタラ師が三日三晩寝ずにタタラの火を見続けることを意味する」などと無理にこじつけようとしているが、不寝大明神は大門垣内の山中にあった不寝の森にあったようで、ここは関所というほどではないが番所があったと言われている。不寝の神が番所にあるのは当然で、これを産鉄に結びつけるのは見当違いと言わざるを得ない。ただゴウドの森にある毘沙門天はその祠を開けたところ、棟札を発見し、毘沙門堂が別所から移設されたことがはっきりした。


ゴウドの森と不寝大明神
毘沙門天が金属に関わる信仰を持っていることは柴田氏もご存じのはずで、氏はこの祠を見落としておられることは明らかである。

毘沙門天と毘沙門堂の棟札

 毘沙門堂の棟札の発見により、別所が金属に関係する地だというかすかな思いは出てきたのだが、坑道跡や鉄滓など具体的な証拠を見つけたいと、薬師谷、高杉周辺に足を伸ばしたのである。
 高杉に入る橋のたもとで出会った笑顔のご老人西山さんは、夕暮れ時の時間にもかかわらず高杉の伝説や、地理のことを教えていただいた。特に保井谷の件はわたし自身も驚くべき結果であった。
 この地を訪れる前に井脇の別所(京丹波町瑞穂)を調べていた。折からの京都縦貫道の工事中で核心部に入ることはできなかったのだが、瑞穂町保井谷でマンガン鉱が掘られていたことを聞いていた。保井谷という地名は京北町にもあり、ここもマンガン鉱山に関係しているようである。高杉にも保井谷という小字があるので、西山さんに「保井谷にはマンガン鉱を掘った跡がありませんか?」と聞いてみた。西山さんは驚いた様子で、かつてマンガン鉱が掘られていたこと、あまり質のいいマンガンではなかったことなど話していただいた。近代の丹波における小規模なマンガン鉱脈の発見には地名、特に谷名が参考とされていたのではというわたしの予想は実に見事に的中していた。保井谷、足谷などにはマンガン鉱山が多いのである。もちろん他の探索方法もあるのだろうが、山師たちが地名を参考に山に分け入ったことは想像に難くない。
 そして弘法大師堂の奥に古い竪坑があるという情報をいただき、これぞ探していたものが見つかったと小躍りするほどのうれしさであった。弘法大師、竪坑といえば古代金属の象徴的な関連物である。つづく

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高杉探訪-4 3/10

2017-03-10 | 歴史・民俗

2017.3.10(金)雨 考察編-1

 両丹日日新聞1991年(平成3年)7月17日に「金探しの夢膨らむ洞穴ー金山跡など6カ所巡る」というタイトルで紹介されている。紙上では金山跡と呼ばれ終戦直後まで金鉱石が掘られていたと書かれている。薬師堂からの坂道が「金堀坂(かねほりざか)」と呼ばれていることは事実だが、金が産出していたかどうかはわからない。

「終戦直後に大阪の業者がノミやハンマーで金鉱石を採取し、小さなトロッコで運び出していた」と63才の清水甚太郎さんの言が掲載されている。俄に信じられないような話だが、ご存命なら89才である、なんとか確認できないものだろうか。三和町史にはこの坑跡についての記事は無く、菟原村誌にも見当たらなかったと思う。今回お借りした「高杉観光ガイド」(上田喜重郎著・1985年)には次のように書かれている。
 「(薬師堂の)左側の道を府道の方に降りる坂を、金堀坂と申します。昔、金を掘った所で、深さ六、七間の横穴がございます。銅か鉄かは昔のことでわかりませんが、沢山出た様子はございません。此の道は旧道で寺ヶ谷口に、左友渕、右山と書いた石柱が立っています。」
 6,7間の横穴とあるが、新聞には「奥行き約7m、突き当たりには4mの竪穴がある」と書かれている。地元の人の聞き取りもすべて竪穴とされており、坑道入り口が埋められたのも子供たちに対するこの竪穴の危険性からということである。
 なんとか採鉱された金属と時代を確認できないものかと思うが、埋められた坑道を掘り出す必要もあり、かなり困難な状況だ。一応小滝先生に相談してみようとは思っている。つづく

小滝先生が「福地山の自然遺産」に書かれたチャートのしゅう曲は坑道から200mほど先である。
 
【今日のじょん】
 
 久々に水泳に行って、じょんものんきに散歩したのが3月7日。その夜から悲劇が始まって下痢、軟便の連続でビオフェルミンも効果無く、今日はじめて病院に行く。じょんの話やで。じょんの調子が悪いと一家の歯車がガタガタになるので、とにかく早く治ってくれい。

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高杉探訪-3 3/2

2017-03-02 | 歴史・民俗

2017.3.2(木)曇り

 坑跡の洞穴についてはHさんからおおよそのところは聞いていたが実際見つけてはいなかった。清水さんについて薬師堂の前の広場から細い道を下っていく。この坂道は金堀坂(かねほりざか)と呼ばれる旧街道だ。清水さんも「あれっどこやったかなあ」と洞穴が見つからない様子、何年も訪れていないとやむを得ないところだ。


   前回(12月3日)来たときの写真、左は薬師堂から金堀坂、右は府道から上部に金堀坂をのぞむ。
 尾根状のところを回り込んだ右手に八分目が土と草に埋もれた坑道入り口が現れた。これは誰かに教えてもらわなければ見つからない。それにしても古代の金属を研究して10年近く、身近なところで昭和より古いだろう坑跡を見たのは初めてである。



 この草むらの中に人がかがんで入れるほどの坑道が有る、ただし埋まっている。右はその遠望、坂を下りきったところに道しるべがある。
 見つけてしまうと、いつ頃に何を掘っていたのか知りたくなる。どのくらい埋まっているのだろうか、この穴の地権者は誰なのだろうか?など
と気になってくる。坑道の上の畑の持ち主さんにお目にかかる。「どうなんやろかなあ」ということだったが、まあ掘るとなってからでいいことだ。それよりも掘り起こして果たしてその年代や何を掘っていたかわかるかどうかだ。実はこの坑道のことは数年前から小滝先生に話している。素人のわたしでは判断付けかねないので相談してみよう。
 清水さんに薬師堂の盃状穴をご覧に入れる。当初誰もがおっしゃるように雨だれの跡と言っておられたが、現物を見て、「これは人工のものやなあ」とおっしゃっていた。お礼を言ってお別れして、ひとりで元の坑道跡に行く。その街道筋にあった道標やお地蔵さん、坑道の下のズリや周囲の景色も気になったからだ。
 お借りした冊子や新聞を大切に持ち帰る、こんなにワクワクした一日は久々であった


【今日のじょん】寒がりのじょんは夜な夜な毛布を掛けてもらっている。それが又カメムシ追って出てくるときもそのまんまだから笑えてしまう。

 

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