宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

カズオ・イシグロ(1954-)『日の名残り(The Remains of the Day)』1989年

2017-05-18 21:30:12 | Weblog
プロローグ:1956年7月ダーリントン・ホールにて
A 私、ミスター・スティーブンスは、ダーリントン・ホールの執事である。
A-2 ここはかつてダーリントン卿の屋敷だった。召使いが28人いた。
A-3 今はアメリカ人のファラディ様が住む。召使いは4人。
B 私は、昔の女中頭、ミス・ケントンに会いに車で出かける。

一日目夜:ソールズベリーにて
C 偉大な執事かどうかは、「品格」による。
C-3 テーブルの下に潜んでいた虎を冷静に射殺した執事の「品格」。
C-4 自分の息子を犬死にさせた指揮官に対してさえ、私情を示さず、職業的礼節をつらぬいた父の「品格」。
D 私情を押さえ、職業的義務に徹することこそ「品格」である。

二日目朝:ソールズベリーにて
E 30年前、1922年、父は執事として、ダーリントン・ホールで働いていた。
E-2 女中頭のミス・ケントンが、この年、来る。
E-3 ミス・ケントンは20年前に結婚し、ミセス・ベンとなる。ただし、今は別居中。「この先の人生は虚無」と、手紙が来た。
F 1923年、ダーリントン卿が、ベルサイユ条約についての「非公式な」国際会議をダーリントン・ホールで開く。
F-2 フランスのデュポン様、、アメリカの上院議員ルーイス様、ドイツのエレノア・オースティン伯爵夫人、イタリアの代表。
F-3 倒れた敵をさらに足蹴にするようなフランスの行為を、ダーリントン卿は非難。
F-4 ルーイス様は、皆さんは「ナイーブな夢想家」で「アマチュア」にすぎないと非難。
G この年、父が死去する。私が、ダーリントン・ホールの執事を引き継ぐ。

二日目午後:ドーセット州モーティマーズ・ポンドにて
H 雇主の徳の高さで、執事の職業的威信が決まる。
H-2 私は、道徳的巨人、高徳の紳士であるダーリントン卿に35年仕え、そのことによって、人類に奉仕した。
H-3 私たちは、理想主義的世代である。

三日目朝:サマセット州トーントンにて
I ダーリントン卿は反ユダヤ主義の傾向があった。しかし、必ずしも親ドイツではない。

三日目夜:デボン州ダビストックム近くのモスクムにて
J 1932年、ファシスト団体黒シャツ隊の一員のキャロリン・バーネット夫人が、よくダーリントン・ホールを訪問。
J-2 「ユダヤ人の召使い2人をやめさせる」と、ダーリントン卿が言う。客人の安全と幸せのため。
J-3 女中頭のミス・ケントンは反対する。「2人は、6年仕え、信頼している」、「こんな屋敷にいたくはありません」と、ミス・ケントン。しかし、2人の召使いは、解雇された。
K 1年後、1933年、ダーリントン卿が、黒シャツ隊のキャロリン・バーネット夫人から離れる。
K-2 「2人のユダヤ人の召使いをやめさせたのは間違いだった」と、ダーリントン卿が言った。
K-3 「私は、臆病だったので、あの時、辞めなかった」と、ミス・ケントン。また「あの時、あなたが、取り澄ましていないで、悩んでいると言ってくれれば、楽だった」と私(ミスター・スティーブンス)に言う。
L 1935-36年、ミスケントンと私の関係の変化。
L-2 ある日、ミス・ケントンが、私の部屋に入ってきた。そこは、私のプライバシーと孤独を保障するはずの部屋。
L-3 その非礼に対し、ミス・ケントンとの毎日のココア会議(打ち合わせ会議)を中止する。ミス・ケントンは、ココア会議を再開したがったが、私は拒否した。
M 当時、ダーリントン卿は「民主主義は、過ぎ去った時代遅れのものだ」と述べた。
M-2 「経済危機を、独伊は行動で立て直した。赤色ロシアもそれなり。米ルーズベルトは大胆な一歩。これに対し英はダメだ。」と卿が言う。
M-3 「今は民主主義でなく行動だ!」とダーリントン卿。
N 「民主主義だからと言って、執事が、雇主の意見を検討したり、忠誠心を欠いたりしてはならない。」と私。
N-2 ただし、「もちろん凡庸な雇主には、同意しない。」
N-3 「ダーリントン卿の落ち度は、私の失敗ではない」:ミスター・スティーブンス(私)。

四日目午後:コーンウォール州リトル・コンプトンにて
O あの日、ミスター・ケントンが泣いていた。
O-2 英のコラムニスト、カーディナル様がダーリントン・ホールに来館。
O-3 この日、ミス・ケントンが「結婚を申し込まれている」と私に告げた。そして外出後、「結婚の申し出を受け入れた」と言った。私は、お祝いの言葉を述べた。
O-4 この日の夜、英首相、独の駐英大使リッベントロップ、英外相が、ダーリントン・ホールに来館。
O-5 「ダーリントン卿はナチに利用されている」、「卿はヒトラーの手先だ」、「ベルリンオリンピックが終わって、新たな独の企みが進行している」、「英国王のヒトラー訪問計画!」と、カーディナル様が批判する。
O-6 「ヨーロッパの平和のために、ダーリントン卿は行動している」とミスター・スティーブンス(私)。
O-7 この日の私は、執事としての「品格」を保ち職務を遂行したと勝利感を抱いた。

六日目夜:ウェイマスにて
P 2日前、リトル・コンプトンのローズ・ガーデンで、20年ぶりに、ミス・ケントン(ミセス・ベン)と再会する。2時間しゃべる。ミス・ケントンは美しく老いた。
P-2 ミス・ケントンは、何度も家出したという。4、5日家を出て、ベン家に戻る。夫は、分別があった。
P-3 娘キャサリンが結婚し、まもなく孫が生まれる。夫は、健康がすぐれない。
P-4 「これからの人生は虚無でない」とミセス・ベン。
P-5 「ミスター・ミスター・スティーブンスとの人生を考えたりもした」とミセス・ベン。「そんな時、家出した。」「私の悲しみは張り裂けんばかりだった。」
P-6 ミセス・ベンのこれからの幸福を願い、ミスター・スティーブンス(私)は、ミセス・ベンと別れる。
Q ダーリントン卿は、戦争中、ドイツとの関係について、ひどい事を言われ、書かれる。卿は、新聞を訴えたが敗訴。その後、卿は廃人も同様だった。
Q-2 ダーリントン卿が1953年に亡くなり、3年がたつ。
R 「うしろばかり向いていてはいけない。」「前を向き続けなくちゃいかん。」と、途中出会った男が、ミスター・スティーブンス(私)に言う。

《感想》
職業倫理への忠誠と、運命に対する諦念の物語。
カズオ・イシグロは、日系イギリス人で、5歳から英国在住。1982年、イギリスに帰化。
彼にとって、英国が母国であり、日本は他国である。「私はこの他国、強い絆を感じていた非常に重要な他国の、強いイメージを頭の中に抱えながら育った。英国で私はいつも、この想像上の日本というものを頭の中で思い描いていた。」(1991年)。
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