沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い/海鳴りの島から  ほか

2010-06-23 09:36:58 | 沖縄
名護市屋我地の平和祈願祭/海鳴りの島から
 6月22日の午後2時から屋我地島饒平名にある慰霊の塔で、屋我地地区平和祈願祭が行われた。
 私の母は沖縄戦当時屋我地島で生活していた。生まれは今帰仁村の玉城なのだが、1936年頃に祖父が家屋敷を売って屋我地島にわたり、1950年代初め頃まで我部の前垣で暮らしていた。沖縄戦の2年前に祖父が病死し、祖母は女手一つで3名の子供つれて戦火をくぐっている。戦争中の母の体験の一部は、『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK新書)に書いた。
 1944年10月10日の空襲で屋我地島は、海峡をはさんで向かいにある運天港や愛楽園の施設が米軍の集中爆撃にあい、大きな被害を受けた。母から何度か空襲の時の体験を聞いたが、防空壕の一つに爆弾が落ちて、同じ字の14名が犠牲になったという。
 10・10空襲の三日後、で相談の結果、17キロほど離れた源河山に避難したが、生活が不便なため一ヶ月ほどで島に戻ったという。地上戦が始まってからは班の人が森の中に造った壕に入り、多くの住民が2ヶ月余りそこに隠れていたという。

 稲嶺市長のあいさつや議会代表の「追悼の辞」のあと、遺族代表の大城豊重氏が「平和宣言」を行った。

 平和宣言。
 われわれが住んでいる世界を、平和で安全なものにしたいというのは、人類共通の願いである。特にわれわれ沖縄県民は、さる第二次世界大戦で20万余の尊い命と、貴重な文化遺産のほとんどを失い、戦争の悲惨さ、残酷さを身をもって体験した。
 われわれは敗戦を機会に、二度とこのような悲惨な戦争をしないことを、全世界に向けて誓い、平和な暮らしを生活の第一の目標としてきた。
 しかしながら、国家や民族間の武力抗争は後を絶たず、今なお世界の各地で戦争が行われているのが現状である。本来、平和な島であるはずのこの沖縄においても、未だに多くの軍事基地が存在し、われわれの平和を犯している。われわれは軍事基地及び兵器を必要とする軍隊こそが、人類の平和を阻害する最大の要因であることを、みずからの尊い体験を通し知っている。 
 それ故にわれわれは、戦争放棄と世界恒久平和を宣言した日本国憲法の精神と、非核三原則の権利を再確認し、戦争に結びつくすべてのものを否定していかなければならないと考えている。
 よって名護市民は、ここに人類共通の目標である平和を達成するため、努力を傾ける決意を宣言する。
 平成22年6月22日 第33回名護市平和祈願祭
 遺族代表 大城豊重

 続いて屋我地小学校と同中学校の代表が「平和の誓い」を述べた。小学校児童会代表の上地さんの「平和の誓い」を紹介したい。

 平和の誓い。
 私たちにとって戦争とは、関係のない遠い遠い昔の話だと思っていました。昔はアメリカ軍の飛行機が何百機と飛び、空一面飛行機に占領され、多くの人が逃げ、走り、意味もなく人がどんどん死に、犠牲になっていることを、写真集や平和学習で学んでいます。
 でも、私たちは、本当の戦争の恐ろしさ、怖さは体験していないので、どんなものなのか分かりません。でも、これだけは知っています。戦争をして得をした人など一人もいないと思います。
 このような悲しくて意味のない戦争が、二度と起こらないように、平和な世界になるように、多くの友達と仲良く手を取り合い、悲しい戦争を二度と起こさないように頑張りたいと思います。
 屋我地小学校児童会長 上地みき

 市長や遺族、生徒代表などの献花のあと、遺族と参加者の焼香が行われ、戦後65年の屋我地島の平和祈願祭が終わった。
 『沖縄「戦後」ゼロ年』にも書いたが、沖縄戦が終わってしばらくして、当時小学校1年生だった母の弟が事故で亡くなった。祖母はショックから一ヶ月ほど働くこともできず、幼い妹と祖母を小学校5年生の母が支えて生きていた。それが母にとっての「戦後」の始まりだった。屋我地島は私にとって祖父や叔父が亡くなった場所であり、祖母や母が戦前、戦中を生き、「戦後」を生き始めた場所として思い入れがある。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/2e97e9903560376e97838014f88465e8

「沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い」/海鳴りの島から
 6月19日(土)の午後6時から読谷村文化センターで「沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い」が開かれたので聴きに行った。主催はNPO法人沖縄恨(ハン)之碑の会。韓国から来沖した権水清(グォン・スチョン)氏が、父親が日本軍に徴用されて沖縄戦の犠牲となったことや、9歳で母親も亡くして親戚に引き取られ、畑仕事などに追われ学校に行けなかったこと。成人してからは主に工場や建設現場で働いてきたが、1989年に腰を痛めて力仕事ができなくなり、今はアパートの警備をしながら暮らしていることなど自らの半生を語りつつ、心に抱き続けた父への思いを語った。会場で配られたパンフレットには、権氏の思いがこうつづられている。

〈幼い頃にあまりにも厳しい生活が始まったので、どこにも心の便りにすることができない異郷をさまよいながら住みました。そうしたのできちんと学ぶことができず、ただ食べていくことに気をつけるしかありませんでした。夢中でいきながらも、子供心に父がまだ生きて帰ってくるような気持で、死亡の申告もせず生きてきました。どこにでも、生きていたなら、いつでも帰ってくるだろうと思いながら生きてきました。故郷の善山にも母のお墓だけあって、父は仮の墓もこしらえないままで〉(8ページ)。

〈慶尚北道英陽郡に沖縄につれられてきた姜仁昌さんと、日本の方々の努力によって造られた『ハンの碑』というものがあります。後で、その場所に父の名前が書いてあることを見ました。
その夜、寝ようと横になったのに睡眠ができませんでした。私としては、もしかしたら、という期待もありましたが、碑に刻まれた名前も確認して、厚生省からの記録が来たのに、お亡くなりになったように、(内容が)来ましたので、心が異常でまったく寝ることができませんでした〉(9ページ)。

〈年をとるにつれて、もっともっと母と父の姿が懐かしくなりますが、二人とも私が幼い時に亡くなったし、そのうえ、写真もないので、両親の姿を描くことができません。
個人がみずから進んで、父親の生死を確認し、遺骨を探すということには限界があり、あまりにも力がかかるのを知っています。韓日両国政府は、不当に犠牲になられた方々の生死を確認し、遺骨を探すのに努力しなければならないと考えています。私のような遺族の要望が実現することを期待します〉(10ページ)。

 続いて太平洋戦争被害者補償推進協議会代表の李煕子(イ・ヒジャ)氏が「遺族たちは今」という題で話をした。沖縄の阿嘉島で12人の仲間が日本軍に処刑されるのを目撃し、証言した姜仁昌(カン・インチャン)氏が、沖縄行きを待望していたが体調不良で参加できず、今容態がとても悪い状態にある、と語って声が詰まり、最後まで話を続けられなかった。
 実際に強制連行や沖縄戦を体験された人たちが、高齢のためにみずから語ることができなくなりつつある。集会の中では、遺族が証言を行う時代になりつつあると言われていたが、権氏のように親を戦争で亡くした遺族は、子供でも65歳以上になっている。
 親がどこで、どのように死んでいったのか。その遺骨はどうなったのか。子として一番知りたいことはそれであり、親の遺骨を自分の手で葬り、供養したい、という思いは65年経っても変わらないことを、権氏の話を聞きながら切々と感じた。それが適わないことのつらさ、悔しさ、苦しみは、戦時の混乱だけでなく、朝鮮半島から強制的に連れてこられ、戦争の犠牲になった人たちの記録や調査を、日本政府がなおざりにしてきたことによって生み出されている。時間は限られている。権氏が語っているように、生死の確認や遺骨探しは個人の力では限界がある。政権交代に意味があるというなら、日本政府は早急に対処すべきだ。

 「証言の集い」に参加する前に、久しぶりにチビチリガマを訪ねた。
 ガマに降りる階段近くの道に自転車に乗った中学生が四人いたのだが、私が降りたのを見てあとからついてきた。慰霊の日を前に学校で話を聞いてやって来たのだろうか。木が茂って薄暗いので降りようかどうしようか迷っていた、という雰囲気だった。金城実氏が制作した平和の像やガマをのぞき込み、携帯で写真を撮っていた。
 初めてチビチリガマを訪れたのは1985年の夏だった。当時は周りが開けていて道からガマの入り口を見下ろすことができた。今はガジマルが枝を広げて窪地を多い、気根の垂れた薄暗い空間は日常の時間から切り離されたようで、ガマの近くを流れる水音だけが響いていた。ガマの入り口で手を合わせて、「証言の集い」に向かった。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/4949544706b93eb06ed324da6f86ab8d
*写真多数あり。

海鳴りの島から・沖縄・ヤンバルより…目取真俊
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いつもの46° ドック型揚陸艦 軍事訓練・・・/辺野古浜通信
LSD-46 トーテュガ(ホイットビー・アイランド級) 15939トン 420名
座礁するかと思うぐらい、リーフ近くまで来てたと思ったら、戦車が出て来ました
http://henoko.ti-da.net/e2934327.html

【追記】戦車が上陸訓練。 リーフ内を荒らします。/辺野古浜通信
軍事訓練が行われていることにより、海草は荒らされ、サンゴは削られ、油が流れ、騒音がまき散らされます。

ジュゴンにとっても、その他の生物にとっても、良いことは何もありません。このような日常の中で行われている沖縄防衛施設局によるチャチなアセス調査とその後の「追跡調査」は、破壊のためのアリバイ工作以上のものではありません。

また、このような訓練の内容は次のようなことを示しています。
・海兵隊が「殴り込み部隊」であり、「侵略部隊」であり、日米安保にすら違反した存在であること
・上陸地点を空軍等によって確保された後に占領する部隊なので「沖縄にある必要のない部隊、日本本土でもグアムでも、何処にあってもいい部隊」だということ

ただ、日本がバカみたいにジャブジャブ『思いやり予算』をくれるから居心地の良く、戦争のドサクサ、日米の卑怯な取引の末、日本政府公認の居直り強盗を沖縄で行い、沖縄をレイプし続けるている・・・それが海兵隊であり、米国政府、日本政府です。

先住民族の地を民族自体を、このように好き勝手に蹂躙する様子を、これからは更に積極的に世界中に知らせ、米国内の世論を作っていくことが私たちの次のステップです。

国連差別撤廃委員会も認めた、基地の押し付けの差別、文化の破壊・・・公認された日本国と日本国民による差別と米軍の横暴を世界に発信しましょう。

参照:駐日米軍への「思いやり予算」の額 (ヤメ蚊弁護士さん、東京新聞の記事から)(村野瀬玲奈の秘書課広報室)
納税者として辺野古新滑走路建設に賛成できない3つの理由~主権者としての納税者意識が試されています!(ヤメ蚊さん)

http://henoko.ti-da.net/e2934354.html

辺野古浜通信


 『変えてゆく 』沖縄慰霊の日追悼式典・平和の詩/名嘉司央里(なか・しおり)さん(普天間高校3年) 
第2期・米軍基地をつくらせない署名活動にご協力を!/米軍基地をつくらせない市民の会
戦時下の沖縄芸能 「ウチナーグチ禁止」監視、検閲大きな制限/琉球新報
 [安保50年と沖縄]「主権深化」が先決では/沖縄タイムス6月21日社説
沖縄慰霊の日 軍隊は住民を守らない 今こそ沖縄戦の教訓後世に/琉球新報社説 ほか
辺野古区長、防衛相と面談 条件付き容認決議渡す/沖縄タイムス
沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い/海鳴りの島から  ほか

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