戦時下の沖縄芸能 「ウチナーグチ禁止」監視、検閲大きな制限/琉球新報

2010-06-23 14:37:32 | 沖縄
戦後65年目の「慰霊の日」を迎えた沖縄。戦時中はウチナーグチを使うことが制限され、琉球伝統芸能も脚本、歌詞などの検閲を通さねばならなかった。文化に不可欠な土台である言葉を禁止された上に戦意高揚へつなげる劇や民謡も多く出るなど翻弄(ほんろう)された。当時の状況を芸能関係者や研究者らの話とともに振り返る。(古堅一樹)

 大阪の沖縄芝居小屋へ警察官が近づく。気付いた芝居小屋の入り口にいる係員が叫ぶ。「マヤーがチョーンドー!(猫が来たよ)」。その瞬間、座長の指示で上演中の芝居は中断し突然、琉球舞踊へ切り替わる。ウチナーグチで芝居が行われていないか監視に来た警察官がしばらく滞在し、帰る。係員が「マヤーヤ、ハイタンドォー」と一声掛けると芝居の途中から再開する。
 1940~46年ごろに大阪で公演した大宜見朝良舞踊団(大宜見小太郎らも所属)で見られた光景だ。同じ一座として舞台に立った小太郎氏の妻・静子さん(91)、小太郎氏の弟・八木政男さん(79)が証言した。
 当時、沖縄の人々はウチナーグチを使うことを禁じられ、標準語を強制された。ウチナーグチが基本の沖縄芝居も同様。42年には那覇署が真楽座(玉城盛義座長)へ演劇はすべて標準語を使うよう注意した。
 10代当時、大阪で公演した八木さんは「巡査や憲兵がウチナーグチで芝居していないか見に来たが、琉舞を見てもつまらんと帰っていく。客も味方だった。今だから笑える」と振り返る。
 大宜見朝良舞踊団の芝居小屋の近くに防空壕があった。静子さんによると、芝居中に空襲警報が鳴ると壕へ入り、解除されれば再び芝居を再開した。静子さんは「(娘の)順子を(背中に)おんぶしている時に空襲警報が鳴り(制止を)振り切って(別の)防空壕へ入ったこともある。(空襲が)終わって壕から出ると外にいた人は皆、亡くなっていた」と明かす。
 戦前は大阪付近の紡績工場へ出稼ぎに出る沖縄の人が多く沖縄芝居は数少ない娯楽。八木さんは「(当時の客は)いつ死ぬか分からないから見ておこうという気持ちだっただろう。内地にいるウチナーンチュは背景を見るだけで『ワッターやんばるに似チョーン』などと喜んだ」と語る。
 国民全体が戦争に巻き込まれる中、芝居も大きな制限を受けた。八木さんは実感を込め「平和だから新しい文化が生まれる。戦中は芸能界もいじめに遭った。戦争は絶対にやっちゃいけない」と強調した。
   
    

◆脚本に検閲 敵国の地名は「制限」
 故・大宜見小太郎氏らが大阪で沖縄芝居をする際、大阪府保安課などへ検閲用に提出した脚本が現在、国立劇場おきなわに保管されている。大宜見さん宅で1999年、2000年に相次いで確認され、琉球新報でも記事になった。その後、妻の静子さんが保存のため同劇場へ寄贈した。
 沖縄芝居は口立て中心だが、検閲のために脚本を書いていた。脚本には何らかの修正や注意がある場合は「制限」、特に修正点もなく上演を求める場合は「支障ナシ」との印が検閲官の名前とともに記されている。検閲後の有効期間も記されている。
 「制限」と押印された脚本のうち、43年6月の現代劇「まごころ 純情物語」は「十一行消ス」としてせりふ部分が線で消されている。消された部分は正確に読み取れないが、最後には「一、朱線ノ箇所削除 一、朱書ノ通訂正ノコト」とある。
 一方、44年3月に「支障ナシ」とされた現代劇「心の光」の脚本には「之は傷夷軍人の功績を廣く銃後國民に徹底せしめ同時に傷夷軍人に對する感謝優遇の念を養成せしめんがために書く脚本である」(原文のまま)と記されている。戦意高揚につながると判断されれば、積極的に上演を認めたことがうかがえる。
 沖縄の伝統芸能を研究する琉球大学の大城学教授は「言葉一つ一つに神経をピリピリさせていた印象。芝居で使う民謡の名称に『ハワイ節』というのがあると、敵国だからハワイ以外の名称を使うよう修正する検閲もあった」と紹介する。
 大城教授は「国民全員が戦争に勝つために頑張れという時代。演劇、音楽を含めてすべてが戦争へ真っしぐら」と指摘。「戦時中もそうだが、戦後も検閲があった。米国への否定的な内容はないかどうかチェックしていたと考えられる」と解説した。

◆「組踊も標準語を」 特高通達に関係者困惑
 組踊を上演する際は必ず標準語でなければ許可しない―。1942年に出された県特高課長からの通達が、戦前戦後の芸能を支えた真境名由康氏、島袋光裕氏らを困惑させた。
 真境名、島袋両氏と親交のあった歯科医の友寄英彦著「英彦のよもやま話」(79年発行)によると両氏から相談を受けた友寄氏が特高課長や早川元知事へ抗議した。当時の早川元知事は「琉球の国芸ともいうべき、組踊を標準語でやれ、とはもってのほかだ、僕から取り消すよう話しておくから」と激励したという。
 沖縄芸能研究家の崎間麗進さん(89)は「(真境名由康氏から)『むちゃなことを言われて非常に困った』と聞いた。県庁、警察の上層部は皆がヤマトンチュだから、自然に圧力がかかる。演劇の内容も軍隊を嫌うことはないかなどを確認していた」と語る。
 戦時中、40年10月には那覇署が玉城盛義氏らの真楽座、真境名由康氏らの珊瑚座へ安っぽい恋愛物の上演を排除するよう注意。44年10月10日の十・十空襲で両座の劇場も焼失した。
 崎間さんは「廃藩置県後は沖縄文化が否定的にとらえられていく」と解説。「民謡にも戦意高揚の歌がたくさんある。寸劇で兵隊バンザイする内容もあった。民謡も夫が出征した後も女性だけで家庭を守ることを歌う『出征軍人の妻』などがあった」と例を挙げた。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163936-storytopic-145.html


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