沖縄慰霊の日 軍隊は住民を守らない 今こそ沖縄戦の教訓後世に/琉球新報社説 ほか

2010-06-23 09:58:07 | 沖縄
今から65年前の1945年6月23日、アジア太平洋戦争末期に沖縄で繰り広げられた日米最後の激しい地上戦が事実上終結した。
 県援護課によると、沖縄戦の全戦没者は20万666人。日本軍9万4136人(県出身将兵2万8228人含む)に匹敵する約9万4千人の民間人が犠牲になった。
 政府はことし5月21日、沖縄戦の定義について、国内「唯一の地上戦」としていたこれまでの表現を「国内最大の地上戦」と言い換えた。
 樺太でソ連軍による避難船への攻撃や陸上での無差別攻撃により、計約3700人の民間人が死亡したとされるからだ。
■「唯一の地上戦」
 日本軍は住民に対し、米軍への投降を許さず、軍民が一体となって沖縄戦に突入した。
 住民は米軍の攻撃で犠牲になっただけでなく、自国軍によるスパイ視、壕追い出し、幼児の絞殺、強制的な死に追い込まれた。沖縄戦研究者は、民間人の犠牲者数は軍人を上回ると指摘している。
 沖縄戦とは、日本の領土で自国軍によって多数の住民が死に追いやられた唯一の地上戦と表現しても過言ではないのではないか。
 「国内最大の地上戦」という定義では、無残で残酷な実相が伝わらないのではないかと危惧(きぐ)する。
 沖縄戦から導き出された住民側の教訓として、私たちは「軍隊は住民を守らない」「命どぅ宝(命こそ宝)」と繰り返し主張してきた。
 一方で、国家や軍の論理からみた教訓がある。住民側から見た沖縄戦像とはまったく異なる。私たちが最も警戒すべきものだ。
 戦争を指揮する大本営は、米軍の沖縄本島上陸直後の4月2日「結局敵に占領せられ本土来寇(らいこう)は必至」(「機密戦争日誌」)と判断し首相に伝えた。日本軍の組織的戦闘が終わる直前の6月20日には「沖縄作戦の教訓」をまとめた。
 この中で、兵器を持たない沖縄召集の防衛隊員などには、急造爆雷を担がせて戦車に体当たりさせ、降雨時と夜間に斬(き)り込ませるのが有効と指摘している。生還を求めず「統帥の外道(げどう)」と言われた航空機による特攻と同じ発想だ。
 米軍は熾(し)烈な戦闘で、太平洋戦争を通じ最多の戦闘神経症患者が発生した。米軍の教訓は「部隊は2週間以上、第一線にとどめておいてはならない」というものだ。それほど激しい戦闘に住民がさらされていたことになる。
 最後にマスメディアに関する教訓がある。45年6月29日付「読売報知」は「特記すべき新聞社の奮闘」という見出しで、安倍源基内相との一問一答を掲載した。
 安倍内相は「ことに沖縄の新聞社が敵の砲爆撃下にありながら一日も休刊せず友軍の士気を鼓舞していることなども特記すべきである」と述べている。
 国家が戦争遂行のために言論の自由を奪い、新聞を統制し、戦意高揚に利用することに成功したと語っているに等しい。裏返せば真実を伝えられなかった新聞の敗北宣言である。新聞の戦争責任を忘れてはならない。

■過去に目を閉ざすな
 総務省統計局によると、沖縄に住んでいる65歳以上のお年寄りは約24万人(2009年10月1日現在)。県全体の17・4%に当たる。県人口の8割以上は、戦争を知らない世代だ。
 琉球新報が県内5大学の学生を対象にアンケート調査を実施したところ、正しい戦没者数を答えられた学生は3分の1以下だった。戦争体験者がどんどん減る今、沖縄戦とどう向き合うのか問われている。
 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危機に陥りやすいのです」
 今から25年前、旧西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、ドイツの敗戦40周年を記念して行った演説の一節だ。
 菅直人首相は、慰霊の日の23日に来県し、米軍普天間飛行場の県内移設について沖縄県側と話し合う意向を示している。
 沖縄にとって6月23日は、過去と向き合い、天寿をまっとうできずに無念の死を遂げたすべての死者を追悼する大切な日だ。菅首相にヴァイツゼッカー氏が語った率直で普遍的な思いは届くだろうか。
 私たちはこれから生まれてくる命、子どもたちの未来に責任を負っている。23日は沖縄の地から世界に非戦を誓う日としたい。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163926-storytopic-11.html

ゲリラ戦、住民監視担う 「中野」出身42人 活動実態明らかに
沖縄戦当時、沖縄本島北部や八重山などの離島に配置されていた陸軍中野学校出身者の活動や組織概要の全体像が22日までに初めて明らかになった。沖縄に配置された同校出身者は42人。山中のゲリラ戦を担う遊撃隊(護郷隊)、住民監視などを行う離島残置諜者、戦況を把握するための情報を送る大本営陸軍部直轄の特殊勤務部隊の3組織に分かれて活動した。名護市教育委員会が出身者の生存者らへの聞き取りや資料収集などで明らかにした。
 中野学校出身者の沖縄戦への関与は断片的に分かっていたが、県内外の関係者の証言によって裏付けられ、初めて体系的に整理された。調査結果は本年度中に名護市史資料編にまとめられる。
 護郷隊は本島北部の14~19歳の少年を1944年10月~45年3月ごろに複数回召集、第1護郷隊(第3遊撃隊)と第2護郷隊(第4遊撃隊)を組織した。西表島でも護郷隊が組織された。隊員は約8百人。山中でゲリラ戦の訓練をした。米軍上陸後に162人が犠牲になった。
 離島残置諜者は偽名を使い、青年学校の教師などとして離島に1人ずつ配置され、住民監視や遊撃戦要員の育成などを担った。大量の食糧を確保し、敗戦後も何年かけても米軍と戦う任務を負っていた。大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊は3~4人で一つのグループをつくり、大量の食糧を確保して山中にこもった。1日に3~4回大本営に情報を送っていた。同部隊に動員された県出身者から「3年分の食糧を持って山に入った」などの証言も得た。
 名護市教委文化課市史編さん係の川満彰嘱託員は「中野学校出身者がどんな役割を担い、何をしていたのか。戦場に巻き込まれた元護郷隊の生存者らが抱える疑問に応えるためにも、解明する必要があった」と説明。多くの少年が戦死したことに「日本軍の兵力不足などにより配置換えがあり、地の利を得ない山中でゲリラ戦を強いられて多くの犠牲者が出た」と日本軍の計画性のなさを指摘した。(宮城隆尋)

<用語>陸軍中野学校
 スパイや秘密戦(ゲリラ戦)の要員を育成するため1936年7月に設立。45年の廃止まで2千人余が教育を受けた。1944年から沖縄に配置された出身者は、マラリア禍を生んだ波照間住民の強制移住や、本島周辺離島での米兵捕虜殺害などに関与したとされる。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163932-storytopic-145.html

悲しみなお深く 32軍「多くの敵」 対馬丸撃沈の10日前に打電
 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される10日前の1944年8月12日、沖縄守備軍・第32軍が、米軍の攻撃が激化し南西諸島海域が危険な状況であることを東京へ暗号無線で打電していたことが、このほど米側の無線傍受記録で明らかになった。米軍の攻撃に遭う危険性を知りながら対馬丸による疎開を強行した無謀さが裏付けられた。沖縄国際大学の吉浜忍教授は「日本軍は戦略上の分析力に欠け、組織として末期症状だった」と分析している。
 米側が傍受した32軍の暗号無線は「南西諸島近海で数多くの敵の潜水艦の活動が活発化している。この地域の供給を断つことを重要視しているとみられる」と打電している。対馬丸は打電から10日後の22日に魚雷攻撃によって沈没した。
 同記録は沖縄関係者が乗船し戦時中遭難した嘉義丸、湖南丸など26隻について、県公文書館が米公文書館から取り寄せた資料から見つかった。文書は船舶名ごとにファイルされ、延べ2千枚以上に上る。
 米軍は攻撃する船の無線を1年以上前から傍受し解読していた。吉浜教授は「44年ごろには米軍が制海権を握っていた。輸送船を攻撃することで、日本軍の物資の供給を断つという作戦だった」と指摘する。
 軍命による南洋からの帰還や疎開、本土の軍需工場に行くため船に乗り、米攻撃の犠牲となった県関係者は約3500人と言われている。戦闘要員以外は補償がなされていない。
 戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)会長代行は「海の底で眠っている犠牲者の戦後処理はなされていない。今後も政府に補償を要望する。風化させてはいけない」と訴えている。(知花亜美)
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 1944年8月12日 那覇発東京あて 南西諸島近海で数多くの敵側潜水艦の動きが活発化している。この地域の供給を断つことを重要視しているとみられる。5日は宮古丸、7日には同じエリアでサクラ丸、9日にはボオコ丸、6日には薩摩半島沖合でショウナン丸が攻撃で沈没した。10日には大東島で2隻の発動機船が7発の魚雷で沈没。敵側潜水艦の攻撃は小さい船に対してさえも直接的である。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163935-storytopic-145.html




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「慰霊の日」に 悲しみと鎮魂と怒りと/沖縄タイムス・社説
梅雨が明け、灼熱(しゃくねつ)の太陽が島を焦がす。65年前の6月。鉄の暴風がこの地を吹き荒れた。

 「すでに沖縄を見捨てたのだ」

 久米島で山中を逃げながら、住民への情報伝達に当たっていた農業会会長の吉浜智改(ちかい)さん(当時59歳、享年71歳)は日記(久米島戦記)にそう記した。

 天皇臨席の最高戦争指導会議は1945年6月6日、「本土決戦方針」を決定した。国会がそれを承認したとの情報に接し、政府が沖縄戦に見切りをつけたと察した。

 「生き延びるのだ。どんなことがあっても生き延びるまで苦闘を続けるのだ。民族の滅亡があってたまるものか。国会が見捨てたからといって我々沖縄民族の全てが無意義にして無価値な犠牲になってたまるものか。自存せよ」

 山中で息をひそめる絶望の淵(ふち)にあって、気力を振り絞るように郷里への憂いをつづったのだろう。

 政府が本土決戦方針を決めたその日、太田実海軍中将は「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と大本営に打電。住民の献身的な戦闘協力と戦禍の惨状を伝え、将来沖縄の犠牲が報われるよう求めた。

 豊見城の海軍司令部壕で太田中将が自決したのは13日のことだった。その日、東京両国国技館で7日から始まった夏場所の千秋楽が行われていたのだ。日本相撲協会によると、戦災の中だけに取組は非公開だった。当時の朝日新聞に千秋楽の結果が小さく報じられている。

 吉浜さんは「大相撲大会とは何たることぞ」「国難ここに至れる」と憤る。

 沖縄で住民が生死の境をさまよっていたときに、東京では大相撲興行があるという目がくらみそうな深いギャップ。吉浜さんの日記には「捨て石」にされたことへの激しい恨みがにじむ。

 戦後も本土との深い溝は埋まらない。

 52年、日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約で沖縄は切り離され、米軍占領は戦後27年も続いた。

 「核抜き・本土並み」を宣言した72年の沖縄施政権返還にしても、沖縄の負担軽減は伴わず、むしろ本土での基地整理縮小が先行した。

 現在も「抑止力」という実体のない言葉を使い、自らは責任から逃げ続けて安保の負担を沖縄に押し付けていることに政治は無頓着だ。

 菅内閣が発足した直後の世論調査で、米軍普天間飛行場を沖縄県内で移設することに過半数が賛成している。

 菅直人首相はきょう、沖縄全戦没者追悼式に出席する。仲井真弘多知事らと面談する予定だ。菅首相は追悼訪問を県内移設に理解を求めるスタートと位置付けている。

 しかし首相の口から聞きたいのは不平等な基地偏重の理由だ。構造的な「差別」に対する県民の怒りはかつてなく高まっている。

 「見捨てられたからといって沖縄民族の全てが無価値な犠牲になってなるものか」

 吉浜さんの言葉が65年の時を越えて胸に響く。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-23_7472/

刻む 兄の生きた証し 宮城絹子さん(61)=南風原/沖縄タイムス
戸籍も写真もなく満州で他界 移民史に名、礎に追加
きょう慰霊の日
 沖縄戦などで亡くなった人の名を刻む「平和の礎」に今年、戸籍も写真もなく、わずか3歳で亡くなった男の子の名が刻まれた。南風原町から満州(中国東北部)に移民した両親の間に生まれた新垣満雄ちゃん。兄の顔も知らない戦後生まれの妹宮城絹子さん(61)=南風原町=が奔走、知人が兄の名の記された南風原町史を見つけ出してくれた。それが65年後の「存在証明」につながった。「兄さんは生きていた。そのことを孫の世代も忘れないでいてくれる」と静かに喜んでいる。(金城珠代)

 満雄ちゃんが生まれたのは1942年。両親と祖母、叔父2人が満州開拓移民として中国東北部の臥牛吐(オニュート)に移り住んだ翌年だった。体が大きくたくましい子だった。満州で終戦を迎え、捕虜収容所で伝染病にかかり命を落とした。わずか3歳だった。

 戦後、仏壇に位牌(いはい)はあるが戸籍はなく、写真も残っていない。兄がどこかで生きているのではないかと願い、宮城さんは中国残留孤児が帰還する様子がニュースで流れるたび「(満州に)兄さんを置いてきたんじゃないの」と何度も母にせっついた。

 男の子がいないことを周囲から責められ続けた母は「満雄は病気で死んだ。満雄が生きていれば…」と4人の娘に何度も口にし、34年前に60歳で他界した。

 昨年2月、母の年を越え、体調を崩していた宮城さんは兄のことを知ろうと、南風原町史にある「開拓移民」の項目を夜中まで読みふけった。「自分たち(身内)がいなくなったら、兄さんの存在を知る人がいなくなってしまう」との焦りがあったからだ。

 南風原文化センターで学芸員を務める知人にそのことを話した5カ月後。知人が、町の移民史に載っている兄の名前を探し出してくれた。これで、礎に名前が刻める―。胸がいっぱいになった。「顔も知らない兄さんだけど、確かに生きていたんだ」と、名前が刻まれた活字を見て“兄の短い生涯”を確信できた。

 20日、夫と息子に付き添われて糸満市摩文仁の平和の礎を訪ねた。兄の名前が目に入ると、涙があふれ何度も何度も石に触れた。

 「兄さん、シーミー(清明祭)の時季になったら毎年ここに来るからね」。戦後65年たち、やっと兄の生きた証しを残し胸のつかえが下りた。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-23_7486/

戦争孤児 仲間しのぶ 沖縄市主催 初の慰霊祭 コザ孤児院
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-21_7434/


 『変えてゆく 』沖縄慰霊の日追悼式典・平和の詩/名嘉司央里(なか・しおり)さん(普天間高校3年) 
第2期・米軍基地をつくらせない署名活動にご協力を!/米軍基地をつくらせない市民の会
戦時下の沖縄芸能 「ウチナーグチ禁止」監視、検閲大きな制限/琉球新報
 [安保50年と沖縄]「主権深化」が先決では/沖縄タイムス6月21日社説
辺野古区長、防衛相と面談 条件付き容認決議渡す/沖縄タイムス
沖縄戦『強制連行犠牲者』遺族による証言の集い/海鳴りの島から  ほか


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