虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿23 矢部貞興の弁舌

2008-03-24 | 宇和島藩
この話は「市村敏麿翁の面影」の中の「役地事件一夜説」にある。

「従五位間島冬道氏、宇和島県令となり、明治5年2月初めて入県するにあたりて、その路次、大阪にとどまること5日、このとき、大阪府大属矢野貞興氏(城辺村にして、通称安芸三郎という。天性多弁、自ら蘇張をもって任じ、三寸不爛の能力はおそらく不世出なるものとうぬぼれたり。しこうして、もっぱら、世才に通じ、上にげいごうし、下を凌いで、これ利を図る、幇間在俗の才子。晩年、東京蓬莱社に従事したる行為の正邪は傷く世の知るところなり)、その旅館を訪ねて、間島氏を諄々、説動、切にいたる。その略にいわく。」

以下、現代調に改めて書く。

「それ、宇和郡の民情はややもすれば目上の者をあなどり、その命令を奉ぜず、この幣はおそらく他県に比類がありません。今、この難治の県を容易におさめ、治績をあげるために、妙策がございます。閣下のためにお話します。古来、各村には庄屋という村役人がいます。旧宇和島藩では、大参事徳弘五郎左衛門氏が、あやまって大属市村武の建議を受け入れ、庄屋職を剥奪し、なお過酷にも庄屋の私産(無役地)をも没収し、それを庄屋の跡役の給料にあててしまいました。世間の者は、みなこれを批判し、王安石が宋国を傾けたことに比しています。閣下、もし、閣下が、この政策をやめ、庄屋に庄屋の私産(無役地)を返還し、かつての庄屋を、民政に用いますれば、もとより、才知あり、勢力あり、村民を使役することに慣れたものですから、たちまち、その成績はあがり、閣下の名があがることはわたしが保証します。ねがわくば、閣下、政治の手始めにまず、この改正をなされませ」

間島氏、矢野氏の説に感服する。また、宇和島の人材について問うと、矢野氏は、自分好みの人材の名をあげて間島氏に教えたそうだ。
その後、大阪府大参事藤村紫郎氏(肥後藩士、脱藩して活動、のち、山梨県令、明治20年には愛媛県知事)、権大参事竹内綱(土佐藩士、自由党員、小松製作所創業者。吉田茂の実父、麻生太郎の曽祖父)もきて、矢野氏は宇和島の人傑だと賞賛し、矢野氏の説を支持したので、間島氏は、宇和島に着任すると、庄屋の無役地をすべて旧庄屋に返還したという。

矢野氏が間島氏を訪問したのは、背後に宇和島の庄屋たちの依頼があったにちがいない。矢野氏は庄屋代表として派遣されたことになる。つまり、もうこのころには、宇和島県では、庄屋の無役地問題が大きな問題になっていたことになる。

無役地問題。うーん、とうとう、ここにきてしまった。