虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿5

2008-03-01 | 宇和島藩
「敏麿伝」を続ける。
「文久3年、遂に意を決して夜陰に乗じて脱走し、吉備京摂に向かう。しかし、同志の多くは大和一揆に殉国の操を全うして潔くたおれたるを以って、その筋の掣制厳しく、あるいは吉備の地に潜み、或いは三田尻の忠勇隊に通じ、或いは松山にかくれて種々活動をなせり」

志士活動についてはこれだけの記述しかない。
「古市村庄屋芝八代記」の八代芝雄左衛門の章にはもう少し詳しく書かれているので、重なる部分もあるが、引用する。

「師矢野杏仙先生は、人格高潔にして頗る経綸の志をいだき、皇家を尊び時勢を卑しみ、最も雄左エ門の才器を愛して特に培養薫陶懇到にして尊王論を注入す。これに加え、土州の浪士西春松(西修)と号する老叟ありて儒を以って自ら許し、年耳須に達すといえども壮者の気力を備え、40年来皇国内に負笈行幸し、水戸義士に意を通じ、大に尊王の論をなす。西春松、また雄左衛門を愛し、天下の形成を論じ天下の志士は杏仙、春松を尋ねてここに来たり、雄左衛門を会せしめ、かつ、これらの志士を宿泊せしむ。嘉永6年黒夷来航以来、世の様、いよいよ異体を呈しきたり、西、矢野の両氏雄左エ門を国家のためにはからしめんと益々鼓舞す。雄左エ門、漸次に疎豪磊落となり、家政を顧みず、一小村吏に甘んずるを得ざるにいたり、大に国家のため、奔走せんと決するに至れり」

敏麿に最も大きな影響を与えた人物として、矢野杏仙と西春松の二人の存在は大きい。一方は、長崎にも遊学し、世界事情にも詳しいだろう蘭医、一方は、全国を歩き、特に水戸の尊王論の信奉者。二人の危険だが堂々たる大人によって教育されたら、どんな少年でも変身せざるをえない。それにしても思うのは、この四国の山奥に、日本の政治を熱く論じる個性的な知識人がいた、というのも江戸時代のおもしろさだ。当時は、全国各地、各村に在野の学者、教育家がいた、子供は、その人によって個性的に教育された。幕府を倒したのは、こうした各地の個性的なな教育であり、えねるぎーだ。学校教育からは、権力を倒す思想もエネルギーもでてこない。おっと、横道にそれた。続ける。

「この前後、土州藩津野山近傍の有志吉村虎太郎、坂本龍馬、上岡肝修、松山深蔵、那須俊平、那須真吾、千屋金策、田所荘介等の名士、尊王攘夷を唱え、陸々脱走す。由来、古市は土佐街道の要衝なれば、これらの志士は西、矢野両氏を尋ね来たり、したがって、雄左衛門も紹介され、かつ、志士のために便利をはかれり。
然して、志士との交通も繁くなり、交際も広くなり、雄左衛門の心、ますますおどれり。ある日、吉村虎太郎は西春松老を尋ねきたり、雄左衛門も加わり、密議をこらし、雄左エ門方に一泊して去れり」

吉村虎太郎が敏麿の家に泊まったことを伝えている。これは、あるいは天誅組挙兵前ではなかろうか。

「これより先、矢野杏仙師の門人にして、雄左エ門と同門親友なる玉川尚綱も脱走して長州三田尻にありて、忠勇隊に入り、三条前中納言実美卿及び五郷に奉仕して名を壮吉郎正章と改む。この人、あるとき、微行して矢野杏仙師方に来たり密議するところあり。雄左衛門も来たり会し、相約するところあり。玉川氏の勇壮なる様を見て、大いに刺激せられ、いよいよ夷を決するにいたれり。

しかし、ここはおかしい。三条実美が長州に落ちたのは禁門の変のあとだ。このころは、敏麿はすでに脱藩している。玉川が脱藩したのは元治元年、敏麿のあとだ。ただ、医者修行をしていた玉川は矢野杏仙の門人であり、敏麿とは親しかったにちがいない。

「ちなみに、玉川氏は、土州松原の医師にして英俊の男なり。後に、津山往来と号し、後、井出法之と改め、後に井出玉章となり、民政に兵営に数々の功勲をなし、明治23年ごろには陸軍省1等監督正五位なりし」

玉川氏については、「明治維新人名録」にはのっていなかったので、生没年や詳しい経歴はわからない。ただ、大岡昇平の「天誅組」の冒頭、吉村虎太郎が脱藩するとき、玉川が馬でおいかけてきて吉村を関所まで送る場面が描かれている。

ついでながら、この大岡昇平の「天誅組」には吉村と玉川が土居村の矢野杏仙の家に泊まって語り明かした、という一文がある。そこには当然、雄左エ門もいたにちがいない(笑)。


市村敏麿4 思想

2008-03-01 | 宇和島藩
谷本市郎の「敏麿伝」を続ける。

「はじめ、土居村の国手にして学者たりし矢野杏仙および土佐浪士西春松に皇謨文武を学び、特に尊王論を注入培養薫陶せられたり。由来、古市村は土佐街道の要衝にして土佐浪士の往来繁く、殊に矢野、西両氏を尋ねる諸氏多く、従って、これら諸浪士との交わりは、両氏の鞭撻と相応じて尊王攘夷の思想を深め、土州津野山近傍の大庄屋吉村虎太郎を初め、上岡謄治、松山深蔵、那須俊平、同信吾、千屋金策、田所宗介、玉川壮吉等と共に国事に奔走せしが」とある。

まず土居村の矢野杏仙が敏麿の師ということになる。文化8年の生まれ、若くして長崎に遊学した蘭医。明治2年8月59歳でなくなる。坂本龍馬、吉村虎太郎、那須俊平など土佐の志士たちが、矢野の家に泊まったのは事実のようだが、何も史料は残っていないそうだ。蘭学者が尊皇攘夷?とは思うが、村田蔵六など蘭学者でありながら尊皇攘夷に組みしたものもいるし、当時の尊皇攘夷は、今、想像するような古臭いものではなく、最新の新思潮であったのかもしれない。

土佐浪人西春松となると、さっぱりわからない。老儒者だろうか。土佐南学というヤツ?

隣村ともいってもよい土佐高岡郡の庄屋たちの影響もあるにちがいない。土佐天保庄屋同盟の精神だ。これは土佐勤皇党の流れにつながるという。土佐勤皇党の首領武市瑞山は、平田篤胤の書を愛読したそうだ(当時の志士の必読書だったのかもしれないが)。市村敏麿も平田派国学を愛したのは想像できる。名前もそうだが、墓も神式でやっている。

いや、本からだけでなく、一身の利害を顧みず、時勢を批判し、世直しを叫ぶ土佐の新しい若者たちの出現(宇和島藩にはいない)に影響されたことが一番大きかったかもしれない。

名前が出てきた土佐の志士の履歴を少し書いておく。

*上岡胆治(文政6-元治元年)
土佐高岡郡津野山出身 庄屋 妻は吉村虎太郎の姉。土佐勤皇党に参加。文久2年勤皇党弾圧の報を聞き、9月脱藩、三田尻へ。忠勇隊。禁門の変で被弾し、切腹。42歳。

*松山深蔵(天保ー元治元年)
高岡郡能津出身。土佐藩士。文久3年8月18日の政変後、千屋菊次郎と脱藩。禁門の変では忠勇隊隊長として戦う。天王山で切腹。28歳。

*那須俊平(文化4-元治元年)
高岡郡梼原村に住む。土佐藩士、郷士。元治元年脱藩、忠勇隊に参加。禁門の変で戦死。58歳。

*那須真吾(文政11-文久3)
土佐藩士。安政2年、那須俊平の養子となる。土佐勤皇党に参加。文久2年、吉田東洋を暗殺して脱走。文久3年、天誅組の挙兵に参加。鷲家口の戦いで戦死。35歳。

*千屋金策(天保14-慶応元年)
父は高岡郡の庄屋。医学を志していたが、土佐勤皇党に参加。元治元年脱藩。禁門の変に出陣。慶応元年、美作国の関所で守兵に賊子され、同志とともに、斬殺。旅宿で自刃。23歳。兄の千屋菊次郎も天王山で自刃している(28歳)。

*田所荘介(天保11-元治元年)
土佐藩士。代々、海部流砲術をもって藩につかえる。江戸に出て五年間修行。藩の砲術師範役。文久3年、武市瑞山の下獄で脱藩。忠勇隊に参加。禁門の変のあと、忠勇隊の小隊長となるが、隊内の一部と意見が合わず、自刃。25歳。

*吉村虎太郎(天保8-文久3)
12歳で父の後を継ぎ、高岡郡北側村の庄屋となる。安政6年梼原村番人大庄屋。
間崎哲馬に師事、武市瑞山の門に出入り。土佐勤皇党加盟。文久2年2月、長州へ。同年3月脱藩、伏見義挙に。土佐に送還される。文久3年天誅組総裁。戦死。27歳。
敏麿はこの人と一番交流があったのではないか。梼原の庄屋であったこと、何度も土居を往来しただろうこと、天誅組の挙兵。敏麿に脱藩の決意をさせたのは、天誅組への参加だったのだから。

坂本龍馬(天保6-慶応3年)
この人は書くまでもないでしょう。

庄屋時代、敏麿と交流があったとされる志士はすべて土佐人、そして、玉川壮吉をのぞいてあとは、みな戦死するか自殺するか暗殺されている。


市村敏麿3 庄屋芝八代記から

2008-03-01 | 宇和島藩
今回は、「市村敏麿翁の面影」におさめられている「古市村庄屋芝八代記」から書いてみる。

第一代芝徳之丞(寛文10-元禄7まで25年庄屋職)
  寛文10年、古市、伏越、中津川村の庄屋になる。
この人、少年のころからの鉄砲の名手(稲田流の小筒)で、あるとき、伊達宗利が領内巡行のとき、宗利に列をなして空を飛んでいる鶴を打ち落とすように命ぜられ、見事に打ち落として褒美をもらったという。その後、まもなく病気にかかり死亡。死の床の周りには鶴の羽毛がたくさん落ちていたので、鶴の霊にたたられたのではとうわさされる。

徳之丞には嗣子がなく、そのため、親友であった中津川組頭塩崎八之丞の子供を養子にして後を継がせる。また、塩崎八之丞のヨメさんがなくなると、徳之丞のヨメさんを妻にむかえたというから芝家と塩崎家のつながりは濃い。後年、明治3年、野村騒動の首謀者は、この塩崎八之丞の子孫、塩崎鶴太郎(鶴というのも妙だ)であり、その騒動の説得にあたったのが、芝家の子孫、市村敏麿ということになる。

第二代芝治左衛門(元禄7-享保17まで39年庄屋職) 特記事項なし
第三代芝治左衛門(享保17-享保20まで4年間庄屋職)特記事項なし。

第四代芝祐左衛門武昭(享保20-安永まで42年間庄屋職)
「天性活発侠気にして、文辞に通じ、強きをくじき、弱きを助くるを好み、かつ、武道を修め、剣、柔術に通ず。なかんずく、棒にいたっては伊達家士中、この人に勝れる者まれなりという」

この人、資本を投じて田地を開墾するが、隣村の二宮荘右衛門という庄屋兼代官役を勤める者に、隠し田だと役所に讒言され、ために隠居。隠居後は、邸内に2階建ての高層の隠宅を立て、いつも2階から往来を見ていたので、村民は「黒隠居が見る」と恐れたそうな。この祐左衛門には男子なく、宇和島の神官の息子を養子にして後を継がせる。

第五代芝祐左衛門武正(安永5-享和3まで28年間庄屋職)。
養子(神官の息子)。「分限に応ぜざる奢侈ありて、養父より譲られし莫大の財産を費消し、-略ー妾をおき、本宅におらむこと多かりしという。これによりて、財政不如意となりしという」

第六代芝治左衛門武延(享和3-文政11まで庄屋職)
「天性温順柔和にして常に観世流謡曲を好み、また角力は甚だ巧にして、その名を得たり。父祐左衛門が家伝の財産を多く費消しかつ、弟九平沢次郎等に分与したるため、家系不如意となりしにより、恒に農事に怠らず、勉励す」

妻は伊達氏の一門弾正殿の家司河野九郎兵衛の長女モト。
河野助九郎はえん者のために主家を離れ、寺子屋業で世を過ごす。この妻がすこぶる美人の聞こえあり、かつ、秀才にして能弁なり、と書く。

いよいよ敏麿が小さいころ接したおじいさん、おばあさんの登場です。
なお、このおじいさんの次女ひさ(敏麿の父親の姉にあたる)も美人の聞こえ高く、宇和島藩筆頭家老松根図書の妾になる。松根図書が亡くなった後は、再び実家に帰り、他に嫁ぐことなく、敏麿たちを訓育し、老後も宇和島の敏麿拓で明治12年に73歳でなくなっている。敏麿の生母は嘉永2年に難産のため死亡しているので、その後は母代わりになったかも。
宇和島藩家老松根図書は幕末史によく登場する(サトーの日記にも出てくる)有名人物だが、この松根図書はその本人かその親父かまだ調べていません。

第七代治左衛門武治(文政11ー嘉永7)
「七代治左衛門は、土居の二宮庄右衛門貞義の薫陶により少年の頃より弁舌爽快すこぶる風采あり、庄屋の職務上怠慢なきも配下3村窮民多く、官府に乞うて、その経済の改革をなしたるに下相村庄屋宇多賀源左衛門と不快になりて、同人のかすめるところとなり、官の都合宜しからざるを察し、勇退」

妻はアイ(吉田藩音地村庄屋の三女。バツ一)。敏麿(朝太郎)、次男、三女を生み、4人目の難産で死亡。42歳。後妻は伏越村万蔵の次女ヤスノ。ヤスノは二人の男子を産み、明治2年38歳で死亡。ヤスノ死亡後、治左衛門は、明治3年市村敏麿方に入籍、市村弥(ワタル)と改め、その好める漁猟を楽しみ晩年を安楽に終わる」

ついでに兄弟のことを書いておこう。先妻の産んだ子は3人。敏麿の次の男子は鹿二郎。のち、改め、中山富士太郎と名乗ったいうから、これは兄貴の影響が濃厚だ(敏麿も中山登次郎と名乗ったことがある)。大正12年83歳で死亡とあるのみで何をしたのかはさっぱりわからない。
三女チョウは、土佐に嫁ぐ。
後妻の産んだ4男三郎。芝家の家督はすべてこの三郎に譲った(敏麿は市村家を興こす)。裁判所に勤務したり、代言人になったりしているが、明治21年に28歳で死亡している。五男四郎は宇和島市の家に養子になるが放蕩無頼で離縁され、その後、獄吏、巡査などをし、行方不明、明治40年兵庫の城之崎で死亡していたことがわかる。41歳。
以上、おわり。


市村敏麿2 庄屋

2008-03-01 | 宇和島藩
谷本市郎氏が書いた「革新家市村敏麿伝」から少し書いてみる。
これはページ数24ページ。はじめの4ページほどが、家系や庄屋時代のことで、あとは、藩士に登用されてから、藩からの辞令や出張命令などの文書が大半を占め、大まかな事跡しかわからず、具体的な敏麿像は、想像するしかない。

一部、引用してみるが、言葉は、今風に変えたりしているところも若干あるので、そのままではない。

「天保10年2月15日宇和島領周知郷古市村庄屋治左衛門の長男として生まれる。
幼名朝太郎。
嘉永7年7月9日、父治左衛門隠居の後を継ぎ、年16歳を以って庄屋役仰せ付けられる。
安政2年正月元旦より、雄左衛門と改める。文久3年庄屋役を高田氏に譲りて、脱藩」

古市村とは現在の城川町土居にある。山奥にある。高知との県境にあり、宇和島市にいくより、高知の梼原町にいくのが近い。吉田藩の武左衛門一揆の大野村(現鬼北町)も近く、車で30分もあればいける。山奥だが、土佐からの往来が多く、ここはそのための宿場でもあったようだ。土佐からの脱藩者はここを越えて、瀬戸内に出た。

寛文10年、先祖の芝徳之丞が古市村他2村の庄屋役になってから、敏麿が脱藩するまで、八代、194年間、芝家はここで庄屋役を務める。芝家の先祖は、芝一覚という土佐の重臣だったようで、土佐の長曽我部とつながりがあるのかもしれない。

敏麿は、ここで嘉永7年16歳から文久3年26歳で脱藩するまで10年間、古市、伏越、中津川の庄屋役をつとめる。

この庄屋役時代の事跡として、次のことを伝えている。

・下相村庄屋宇多賀源左衛門に対し百姓不帰腹につきこの村の庄屋助役に任命される。

・横林村庄屋大野三郎左衛門に対し、百姓不帰腹で頻繁に故障が続くので、代官川名謙蔵から百姓の説得役を任命される。

・古市村と吉田藩の高野子村との争論が長年続くため、吉田藩奉行所へ出張し説明することを命ぜられる。

「百姓不帰腹」とは、村方騒動のことだろう。幕末になると、全国の村で庄屋の不正に抗議する村方騒動が頻発する。村方騒動というより、百姓の立場からいえば、これは村方の住民運動だ。村の中の貧富の格差、中でも庄屋役への百姓の不信感は根強く、明治3年には敏麿の運命をも変える野村騒動の爆発になる。

なお、代官川名謙蔵とは、伊達宗城に敏麿を推薦した人物で、「川名は、この時、口をきわめて賞賛し、彼は若年のころより庄屋役を勤め、文武に秀で、風采堂々、弁舌爽快、才気縦横、いかなる難事業も解決し、支配村は言うに及ばず、隣村の者も敬服せり」といった、と書いてある。

この時代の庄屋役は激務だったにちがいない。

なお、父親治左衛門は、上に出てくる宇多賀源左衛門との関係が悪くなって庄屋役を勇退したらしい(源左衛門の後見役にさせられている)。苗字帯刀許可されている。
明治後は、敏麿にひきとられ、明治13年に宇和島の敏麿の家でなくなっている。

家系や先祖についてもう少し続ける。