「敏麿伝」を続ける。
「文久3年、遂に意を決して夜陰に乗じて脱走し、吉備京摂に向かう。しかし、同志の多くは大和一揆に殉国の操を全うして潔くたおれたるを以って、その筋の掣制厳しく、あるいは吉備の地に潜み、或いは三田尻の忠勇隊に通じ、或いは松山にかくれて種々活動をなせり」
志士活動についてはこれだけの記述しかない。
「古市村庄屋芝八代記」の八代芝雄左衛門の章にはもう少し詳しく書かれているので、重なる部分もあるが、引用する。
「師矢野杏仙先生は、人格高潔にして頗る経綸の志をいだき、皇家を尊び時勢を卑しみ、最も雄左エ門の才器を愛して特に培養薫陶懇到にして尊王論を注入す。これに加え、土州の浪士西春松(西修)と号する老叟ありて儒を以って自ら許し、年耳須に達すといえども壮者の気力を備え、40年来皇国内に負笈行幸し、水戸義士に意を通じ、大に尊王の論をなす。西春松、また雄左衛門を愛し、天下の形成を論じ天下の志士は杏仙、春松を尋ねてここに来たり、雄左衛門を会せしめ、かつ、これらの志士を宿泊せしむ。嘉永6年黒夷来航以来、世の様、いよいよ異体を呈しきたり、西、矢野の両氏雄左エ門を国家のためにはからしめんと益々鼓舞す。雄左エ門、漸次に疎豪磊落となり、家政を顧みず、一小村吏に甘んずるを得ざるにいたり、大に国家のため、奔走せんと決するに至れり」
敏麿に最も大きな影響を与えた人物として、矢野杏仙と西春松の二人の存在は大きい。一方は、長崎にも遊学し、世界事情にも詳しいだろう蘭医、一方は、全国を歩き、特に水戸の尊王論の信奉者。二人の危険だが堂々たる大人によって教育されたら、どんな少年でも変身せざるをえない。それにしても思うのは、この四国の山奥に、日本の政治を熱く論じる個性的な知識人がいた、というのも江戸時代のおもしろさだ。当時は、全国各地、各村に在野の学者、教育家がいた、子供は、その人によって個性的に教育された。幕府を倒したのは、こうした各地の個性的なな教育であり、えねるぎーだ。学校教育からは、権力を倒す思想もエネルギーもでてこない。おっと、横道にそれた。続ける。
「この前後、土州藩津野山近傍の有志吉村虎太郎、坂本龍馬、上岡肝修、松山深蔵、那須俊平、那須真吾、千屋金策、田所荘介等の名士、尊王攘夷を唱え、陸々脱走す。由来、古市は土佐街道の要衝なれば、これらの志士は西、矢野両氏を尋ね来たり、したがって、雄左衛門も紹介され、かつ、志士のために便利をはかれり。
然して、志士との交通も繁くなり、交際も広くなり、雄左衛門の心、ますますおどれり。ある日、吉村虎太郎は西春松老を尋ねきたり、雄左衛門も加わり、密議をこらし、雄左エ門方に一泊して去れり」
吉村虎太郎が敏麿の家に泊まったことを伝えている。これは、あるいは天誅組挙兵前ではなかろうか。
「これより先、矢野杏仙師の門人にして、雄左エ門と同門親友なる玉川尚綱も脱走して長州三田尻にありて、忠勇隊に入り、三条前中納言実美卿及び五郷に奉仕して名を壮吉郎正章と改む。この人、あるとき、微行して矢野杏仙師方に来たり密議するところあり。雄左衛門も来たり会し、相約するところあり。玉川氏の勇壮なる様を見て、大いに刺激せられ、いよいよ夷を決するにいたれり。
しかし、ここはおかしい。三条実美が長州に落ちたのは禁門の変のあとだ。このころは、敏麿はすでに脱藩している。玉川が脱藩したのは元治元年、敏麿のあとだ。ただ、医者修行をしていた玉川は矢野杏仙の門人であり、敏麿とは親しかったにちがいない。
「ちなみに、玉川氏は、土州松原の医師にして英俊の男なり。後に、津山往来と号し、後、井出法之と改め、後に井出玉章となり、民政に兵営に数々の功勲をなし、明治23年ごろには陸軍省1等監督正五位なりし」
玉川氏については、「明治維新人名録」にはのっていなかったので、生没年や詳しい経歴はわからない。ただ、大岡昇平の「天誅組」の冒頭、吉村虎太郎が脱藩するとき、玉川が馬でおいかけてきて吉村を関所まで送る場面が描かれている。
ついでながら、この大岡昇平の「天誅組」には吉村と玉川が土居村の矢野杏仙の家に泊まって語り明かした、という一文がある。そこには当然、雄左エ門もいたにちがいない(笑)。
「文久3年、遂に意を決して夜陰に乗じて脱走し、吉備京摂に向かう。しかし、同志の多くは大和一揆に殉国の操を全うして潔くたおれたるを以って、その筋の掣制厳しく、あるいは吉備の地に潜み、或いは三田尻の忠勇隊に通じ、或いは松山にかくれて種々活動をなせり」
志士活動についてはこれだけの記述しかない。
「古市村庄屋芝八代記」の八代芝雄左衛門の章にはもう少し詳しく書かれているので、重なる部分もあるが、引用する。
「師矢野杏仙先生は、人格高潔にして頗る経綸の志をいだき、皇家を尊び時勢を卑しみ、最も雄左エ門の才器を愛して特に培養薫陶懇到にして尊王論を注入す。これに加え、土州の浪士西春松(西修)と号する老叟ありて儒を以って自ら許し、年耳須に達すといえども壮者の気力を備え、40年来皇国内に負笈行幸し、水戸義士に意を通じ、大に尊王の論をなす。西春松、また雄左衛門を愛し、天下の形成を論じ天下の志士は杏仙、春松を尋ねてここに来たり、雄左衛門を会せしめ、かつ、これらの志士を宿泊せしむ。嘉永6年黒夷来航以来、世の様、いよいよ異体を呈しきたり、西、矢野の両氏雄左エ門を国家のためにはからしめんと益々鼓舞す。雄左エ門、漸次に疎豪磊落となり、家政を顧みず、一小村吏に甘んずるを得ざるにいたり、大に国家のため、奔走せんと決するに至れり」
敏麿に最も大きな影響を与えた人物として、矢野杏仙と西春松の二人の存在は大きい。一方は、長崎にも遊学し、世界事情にも詳しいだろう蘭医、一方は、全国を歩き、特に水戸の尊王論の信奉者。二人の危険だが堂々たる大人によって教育されたら、どんな少年でも変身せざるをえない。それにしても思うのは、この四国の山奥に、日本の政治を熱く論じる個性的な知識人がいた、というのも江戸時代のおもしろさだ。当時は、全国各地、各村に在野の学者、教育家がいた、子供は、その人によって個性的に教育された。幕府を倒したのは、こうした各地の個性的なな教育であり、えねるぎーだ。学校教育からは、権力を倒す思想もエネルギーもでてこない。おっと、横道にそれた。続ける。
「この前後、土州藩津野山近傍の有志吉村虎太郎、坂本龍馬、上岡肝修、松山深蔵、那須俊平、那須真吾、千屋金策、田所荘介等の名士、尊王攘夷を唱え、陸々脱走す。由来、古市は土佐街道の要衝なれば、これらの志士は西、矢野両氏を尋ね来たり、したがって、雄左衛門も紹介され、かつ、志士のために便利をはかれり。
然して、志士との交通も繁くなり、交際も広くなり、雄左衛門の心、ますますおどれり。ある日、吉村虎太郎は西春松老を尋ねきたり、雄左衛門も加わり、密議をこらし、雄左エ門方に一泊して去れり」
吉村虎太郎が敏麿の家に泊まったことを伝えている。これは、あるいは天誅組挙兵前ではなかろうか。
「これより先、矢野杏仙師の門人にして、雄左エ門と同門親友なる玉川尚綱も脱走して長州三田尻にありて、忠勇隊に入り、三条前中納言実美卿及び五郷に奉仕して名を壮吉郎正章と改む。この人、あるとき、微行して矢野杏仙師方に来たり密議するところあり。雄左衛門も来たり会し、相約するところあり。玉川氏の勇壮なる様を見て、大いに刺激せられ、いよいよ夷を決するにいたれり。
しかし、ここはおかしい。三条実美が長州に落ちたのは禁門の変のあとだ。このころは、敏麿はすでに脱藩している。玉川が脱藩したのは元治元年、敏麿のあとだ。ただ、医者修行をしていた玉川は矢野杏仙の門人であり、敏麿とは親しかったにちがいない。
「ちなみに、玉川氏は、土州松原の医師にして英俊の男なり。後に、津山往来と号し、後、井出法之と改め、後に井出玉章となり、民政に兵営に数々の功勲をなし、明治23年ごろには陸軍省1等監督正五位なりし」
玉川氏については、「明治維新人名録」にはのっていなかったので、生没年や詳しい経歴はわからない。ただ、大岡昇平の「天誅組」の冒頭、吉村虎太郎が脱藩するとき、玉川が馬でおいかけてきて吉村を関所まで送る場面が描かれている。
ついでながら、この大岡昇平の「天誅組」には吉村と玉川が土居村の矢野杏仙の家に泊まって語り明かした、という一文がある。そこには当然、雄左エ門もいたにちがいない(笑)。