虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿15 明治2年

2008-03-13 | 宇和島藩
明治2年といっても、まだ明治政権が確立したわけではない。
ちょん髷、両刀をさした侍たちが歩き、殿様もお城にいる。政府といっても、軍隊はなく(薩長土肥の寄り合い)、金もなく、桂小五郎も、西郷も、まだ藩士。
戊辰戦争は、この6月まで続き(函館戦争)、全国に百姓一揆も頻発している。新政府の方針(開国)で、かつての尊王攘夷派の浪士も政府に不満の声をあげる。この年、大村益次郎が暗殺されている。世の中の帰趨はまだ、さだかではない。

この年の、敏麿の足跡を、いくつかの辞令書からさぐってみる。

「3月26日、外交掛を申しつけ、公用人助勤心得たるべきこと(京都)」

「4月17日、明18日出立、富田鉱之助とともに仙台表へ御使者あい勤むべきこと」

まだ、仙台への出張の仕事があったわけだ。

「6月7日、参政三輪清助病中、公議所出頭代勤いたすべきこと。ただし、宇和島藩目付役兼公用人の心得をもって、相勤められ候。」

公議所、この時期の政府が打ち出した窮余の一策ともいうべきもの。要するに、各藩から人を選抜して公議所(東京)でこれからの政策について議論をさせようというもの。
なにせ、この時期の政府の大きな方針としては、五箇条のご誓文の「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」だけだ。みんなで議論する、公議、というのは、幕末以来のひとつの政治のスローガンであり、理想だった。この時期には、上意下達よりも、下意上達が急務だった。なぜなら、上にはいい知恵がないのだから(留学経験者もまだほとんどいない)。この公議所は、かなり開明的な議論が活発になされたらしい。度量衡の統一、切腹の禁止、名前の名乗り方、廃刀論、エタの廃止、などなど。だが、その革新的な提言に政府も危惧を感じたのか、1年とちょっとで権限を縮小し、集議院と改称される。ともあれ、この公議所は、近代の議会の遠祖といえないこともない。当時としては、最も進歩的な議論が交わされたかもしれない。

「7月13日 十八藩密議に関し、出勤仰せ付けられ候こと」

これは何だろう。土佐藩が提起した四国会議のことではないかと思うがどうだろう。会議所を設け、四国の各藩(13藩)で情報交換をし、団結しようとする趣旨だ。明治2年に会議が行われているが、1年とちょっとで、終わる。

「8月17日 築地関門において、守衛士福井茂平治、五百木寛以下7人が大久保利通、副島種臣、大隈重信の三参議に対し、発砲狼藉せる事件に関し、取調役仰せ付けられる。」

これがわからない。容疑者の名前までがわかっているのだから、事実なのだろう。だが、この事件は、どこを探しても出てこない。ご存知の方は、ご教授願いたい。

「10月14日 中納言様御用向在られ、今日、出立、早追いをもって、仙台表へ差し遣わされ候につきこの段、申し達し候。」

またまた、仙台出張だ。

「民部省兼大蔵省監督権正に任ぜられる。」(敏麿伝)

何月からかはわからにけど、明治2年の後半(10月以降)ではなかろうか。伊達宗城が民部省の頭になっているからその関係もあるだろう。日本史総覧かなにかで、明治初期官員録を調べてみたら、たしかに、市村敏麿(市村武という名だったか?)という名前がありました。そのコピーは今、どこかへ消えてしまったので、他にどんな人がいたか確認できないのは残念。また、調べておこう。このころは、市村武と名乗ったようだ。
この時期の民部省は、まさに国作りの発動部隊となり、多士済々の士が集まる。
「おれたちは、神々だ。今、神話を作っているのだ」といったのは、民部省で働いていた大隈重信ではなかったか。

だが、市村は早く宇和島に帰りたがっていたようだ。年の暮れには帰国願いを出している。それが、親父の大病によるものか、他の理由によるものかはわからないけど。



宗城の孫 伊達順之助

2008-03-09 | 宇和島藩
幕末仙台藩藩主慶邦の世子は、伊達宗城の二男宗敦。20歳のとき、明治元年に世子になったらしい。世子になった直後にあの仙台藩の降伏、謹慎騒ぎだから、宗敦も大変だったろう。もし、主戦派が慶邦を擁して戦争を始めたら、勤皇派、帰順派は、この宗敦を擁して仙台城を襲う、なんて物騒な計画もあったらしい。

宗敦は、明治3年、仙台藩知藩事に任じられるが、翌年、廃藩置県で免官。宗敦は、その後、イギリスに留学。明治21年、男爵、貴族院議員になる。

その宗敦の6男が、順之助。拳銃と馬の名手で、大陸をかけめぐった風雲児となる。
「夕日と拳銃」など、いくつかの小説の主人公にもなっている。
昭和23年、上海の軍事法廷で、死刑になる。57歳。

ジャズを聴く(大塚善章)

2008-03-09 | 日記
昨日の夜、友達から誘われて、ジャズを聴きにいった。
箕面の市役所近くにあるカフェバー「場坐溜(バザール)」という店だ。
ここでライブ演奏があるという。チャージ料は3000円。うーん、高いぞ。

ピアノ奏者大塚善章(関西ジャズ協会会長らしい)、ベース(名前は忘れた、関西ジャズ協会の副会長らしい)、ドラム、名前を忘れた白い口ひげを生やしたお坊さんらしい(しかし、髪ははやしている)。大塚さんは、70歳を過ぎているそうだが、メガネ、ちょびひげをはやし、寅さん映画で初代おいちゃんを演じた人に似ている。あとの二人も60代だろう。あと、ギター奏者として若い人が参加していた。

店内は30人で満席。完全予約制らしい。
目の前で演奏してくれた。モダンジャズのような頭がいたくなるような曲目ではなく、なじみの曲をやってくれた。お客さんも年配客、私より年上が多い。
ジャズと酒とタバコはつきものだが、さすが、タバコはがまんした。今はこうなのかもしれない。たった一人の客をのぞいて、すっている人はいなかった。

リクエストをした。「黒いオルフェ」。あとで、しまった、これは、ピアノの曲ではないだろう。ボーカルか、吹奏楽器だろうと思ったが、やってくれた。
やはり、いいねえ。「危険な関係」もやってくれた。

今日は、家にあるジャズのCDを久しぶりに取り出して聞いている。

市村敏麿14 明治元年

2008-03-09 | 宇和島藩
仙台藩の降伏帰順は、宇和島藩使者が到着してから決定的になった、といってよい。仙台藩の主戦派の重臣たちは、辞任する。

9月10日、執政石母田但馬は、降伏の使者として、相馬口官軍総督先鋒へ出発。
途中、宇和島藩使者玉田貞一郎も同伴している。

石母田ら帰順使の一行を途中で銃殺しようと、主戦派重臣の松本要人らが計画していたそうだが、たまたま、偶然のこと(石母田が橋から落ち、着物を乾かすまなどおもわぬ時間がかかった)から、狙撃することができなかったそうだ(蘇峰、国民史)

官軍総督先鋒(肥後藩の米田虎之助)と石母田が会見。口頭で謝罪。夜、嘆願書を出せといわれるが、まだ用意はなく、石母田は、嘆願書の草稿をふところから出し、宇和島藩士に見てもらい、いそいで仙台に届けてもらう。

9月14日、改めて、正使伊達将監が嘆願書をもって、宇和島藩使者両人と共に、坂元に着く。

9月15日朝、伊達将監、石母田但馬、遠藤文七郎、桜田春三郎、宇和島使者玉田貞一郎、富田鉱之助、市村鐙次郎および、鷲尾右源太、斉藤友三郎等一行、坂元を発し、釣師浜に至り、午餐を喫し、民家に入る。そこで、総督府使番榊原に嘆願書を渡す。

9月17日、四条総督から仙台に入城する、世子は、官軍本営中村まで出頭するように、との命令書が届く。執政遠藤文七郎は、宇和島藩使者に、藩内、まだ騒擾の状あるゆえに、進軍の速度をおそめてもらいたい、と総督府に哀願してもらうように頼む。

9月26日、帰順の趨勢も決まったので、宇和島藩の使者は、まず一人が帰藩し、藩主に復命することになった。このとき、重臣一同の哀願書を宗城を通して朝廷に差し出してもらおうと、21名の重臣の署名入りの嘆願書を宇和島藩使者にわたしている。このときの使者は蘇峰によると、富田鉱之助とある。

10月7日、四条総督仙台入城。
しかし、官軍の仙台入城も戦々恐々の状態だったようだ。一歩、まちがえば、大藩だけに大内乱にもなる。

9月には、あの榎本、土方ら幕府脱走兵が仙台にいた。しつこく戦いを藩主に説いた。幕府元老中、板倉勝静、小笠原壱岐守もいる。主戦派の重臣、藩士も多い。有名なのは、額兵隊の星恂太郎がいる。田中正造の師となった新井奥遂も同志だ。
からす組の細谷十太夫(子母澤寛、大仏次郎、早乙女貢らが小説にしている)もいる。

なお、この時の総督府先鋒は、肥後藩だが、肥後の古庄嘉門の名も、「国民史」に出てくる。古庄嘉門は、たしか明治初期民部省にいて(?まだ確認してないが)、のち、敏麿の無役地裁判の担当官にもなる男だ。


「敏麿伝」には次のような一文もある。

「榎本釜次郎、軍艦を要して石の巻にある際は、四条総督の命により、薩長士、および、八藩の士と会し、大いに努むる処あり」

これが何かは今のところさっぱりわかりせん。

仙台が落ち着くまで、宗城の息子もいるだけに、敏麿は、何回も仙台と京都を往復したにちがいない。1いつまで仙台に関わっていたのだろうか。

「市村鐙次郎殿
遠方、御使者御苦労の至りに存じ、御酒一陶御魚一尾御慰労くだされ候事
11月30日                           八木静馬」

酒と魚一匹、たったこれだけかよー。

しかし、敏麿の奥州出張はまだ続く。こんな文書もある。

「12月4日 市村鐙次郎殿
田村右京様へ勅書持参御使者あい立て候よう岩倉様より、御達し相成り候につき、御人選をもって、そこもと様へ仰せ付けられ候はずにつき、早々引き取り出雲殿へ御うかがいならせ候段、御老中御指揮により御進達候なり。杉本角左衛門」

こんな文書もある。
「芝山内、奥州仮御殿へ打ち合わせの儀これあり候につき、至急出張これあるべき候   
              12月9日  宍戸平六  中村三蔵    」

「私儀、宇治環と変名候につき、この段御届け申し候なり。
12月9日  市村鐙次郎                     」



田村右京とは一ノ関藩主。伊達の一門にあたるのだろうか。また、勅書持参使者だ。一ノ関(陸奥)藩については、まったく知らないので、保留しておく。というか、こんなことに関わっていたら、いつになったら、無役地事件までたどりつけるかわからないからだ(笑)。

とにかく、明治元年は、こうして藩の使者としてこきつかわれていた。やれやれ、すまじきものは、宮仕えだ。

市村敏麿13 奥州へ

2008-03-08 | 宇和島藩
「敏麿伝」より

「仙台表へ勅旨持参使者として大早討出張、陸奥守様、朝命御遵奉これなく、王師差向につき、勅書持参ならびに恭順悔悟説得の使者として、前後7回大早討使者として仙台表に出張す。第一回、正使富田鉱之助、副使玉田貞一、市村藤二郎、第2回、正使玉田貞一、副使市村藤次郎、第3回、正使市村藤次郎」

伊達仙台63万石は伊達宇和島藩の本家だ(もっとも、伊達政宗の長男が宇和島藩主となり、仙台藩は、正宗の次男だが)。しかも、仙台の現藩主慶那の世子は、宗城の子供が養子になっており、他家のことがらではない。

仙台は、大変なことになっていた。
慶応4年 1月鳥羽伏見の戦い
     3月奥羽鎮撫総督、仙台に到着。  相楽総三処刑
     4月奥羽越列藩同盟        西軍 江戸入城
     5月仙台白河口の戦い       上野彰義隊を討つ
     8月、榎本武揚、土方歳三など幕府側の抵抗者多数が軍艦にのって松島        湾に停泊。

仙台にきた奥羽鎮撫総督の参謀世良修三(奇兵隊出身)は東北の士を軽侮し、暴慢なふるまいがあったので、反感を買い、とうとう仙台藩士が斬ってしまう。世良は会津を攻撃せよと督促する。だが、仙台はじめ、他の奥羽諸藩も、会津を攻撃するよりも、和平を朝廷に嘆願するが、無視され、仙台藩は奥羽列藩同盟の盟主になる。戊辰の壮絶な戦争は、長岡、会津、庄内で展開するが、仙台も白河口で西軍と戦うが、戦局は不利な情勢。同盟も壊滅状態。藩内に意見の統一はなく、主戦派と降伏派の二派に分裂。土方歳三などは、ここで大暴れしたかったかもしれない。榎本も土方も仙台藩主に抗戦を主張する。

敏麿は、7月に藩からの辞令を受けている。

徳富蘇峰「近世国民史 奥羽平定篇」になんと、わが宇和島藩使者が登場してくる。

9月、やっと藩論が講和に決まり、石母田但馬(勤皇派)が使者として総督に会いに行こうとするが、その途中で宇和島藩使者と会う。

「あたかも、御目付け丹野善右衛門がつきそえる宇和島伊達家の使者3人が来るに出会した。宇和島藩の使者は、御長柄頭玉田貞一郎、御近習頭富田鉱之助、平士市村鐙二郎だ。元来、宇和島の伊達家では、仙台伊達家へ遺すべき勅書を奉じ、家老桜田出雲を正使とし、玉田、富田、市村を副えて、仙台に差遣せられ、一行は、8日、岩沼に入り世子に謁して告ぐるところあり、世子より、仙台へ報告に及び、翌9日、玉田、富田、市村の3人は、仙台の御目付丹野と共に入仙せんとし、五軒茶屋までいたったのであった。
石母田は、まず三使に面会し、拙者はこれより相馬口総督府先鋒へ使者として参る者なり、貴意いかんと問うた。三使いわく、出会して何の礼を修めんとする。石母田いわく、講和の礼を修めんとす。三使いわく。降伏、謝罪の礼でなければ、官軍では受け付けない。総督は朝敵をもって仙台を待っている。講和などはもってのほかであると。ここにおいて、石母田は、さらに藩主の命を請うの必要を生じ、宇和島の使者に先立ちて引き返し、登城のうえ、三使を伺公の間に待たせ、藩主に謁見した」

石母田は藩主に伊達宗城の勅書を見せ、再び、執政会議を開くことにした。講和の使者から降伏、謝罪の使者になるということで、再度、意見の一致が必要になる。
会議はまとまらない。主戦派(松本要人等)は、講和でさえ不可なのに、ましてや降伏、謝罪などもってのほか、と反対。宇和島藩士はまたしきりに謝罪を求める。議論紛糾、結局、藩主に決断を仰ぐことになる。藩主は降伏を決定する。

なお主戦派の松本要人らは、宇和島藩士の入仙を聞き、途中で斬殺しようと計ったが、増田歴治等がこれを探知して、三使を保護し、増田宅に泊めた、と蘇峰は書いてある。

降伏を求める使者なんて、殺される覚悟がなくてはできないね。
つづきは、次回に。

市村敏麿12 慶応4年(明治元年)

2008-03-07 | 宇和島藩
慶応4年は戊辰戦争の年。
9月からはから明治と改元され、明治元年となる。
まず、この年の前半の仕事。

文書を紹介する。

慶応4年正月4日

「伏見において兵端相開き候につき、斥候相勤べき事
 鈴木震吉殿   市村鐙次郎殿  
                           御目付中」
鳥羽伏見の戦いの斥候役をつとめたわけだ。宇和島藩はこの戦いには中立を守る。

正月7日
「大急市村鐙次郎
 御用につき、大屋形様へ伺い奉るべきこと
 但し、薩邸御用相済候後へ心得べき。
                          お目付け  」

正月13日

「今般、松山藩ご征伐につき、応援出兵仰せ候ところ、その方儀、同地案内につ  き、即刻出立帰藩の上、ご老中指図を得候よう申しつけ候
 なお、林玖十郎へ委細打ち合わせ申すべきこと。
                           須藤但馬  」
松山藩は朝敵とされ、土佐藩に追討命令が下る。市村はその案内役をする。松山藩は戦わず、恭順の姿勢を表明。土佐藩が松山藩を管理します。
 
2月13日
「このたび、長崎表へ出張仰せ付けられ候。委細、同所において御目付け井関新吾 申し談じ相勤むべき旨、老中月番より申しわたし候。
                           三輪清助   」
長崎で汽船買い付けの仕事です。このとき、長崎でとった写真が、画像の写真です。

3月21日
再び大阪表へ出張
「各申告建言の趣、聞こし召され候、追って何分の思し召しあるべきために候。
 伊能下野                             」

5月6日には、家族を引き連れ宇和島城下に引越しをしている。その届けの文書もある。この日までは、古市村に家族はいたことになる。丸穂村へ引っ越した、とある。

7月には仙台への出張を命ぜられるが、また次回に。

市村敏麿11 続・慶応3年

2008-03-07 | 宇和島藩
「敏麿伝」に記載されている藩からの連絡文書は、敏麿の長男が大切に保管していたものだろう。慶応3年のぶんをいくつか紹介してみる。

「慶応3年3月3日
御目録 御着古御紋付御服
右屋形様より下され置かれ候、御小納戸へ承合い候よう申し達し候事
  中山登殿                       御小姓頭  」
宗城からほうびの品をもらう。

同じく3月には、「御内々御目見え以上のお取り扱い仰せ付けられ候」とある。

宗城と対面して話ができる身分になったわけだ。

5月28日

「ご時勢はなはだ切迫につき、大屋形様にもまたまた京都表ご召還仰せられ、畢竟、ご都合宜しき儀には候えども、ご賢慮の趣もこれあり、この節、ご不例ご申し立て、暫時、ご猶予中にこれありと、いづれにも遠からずご上京これなくては相すまざる次第につき、そこもと、江戸表御差立ての儀は先ず御差し止め、先ずもって、京都へ置かされ候はずにつき、京都の詰所の若年寄須藤但馬、お目付け西園寺雪江に御打ち合わせの趣もこれある候につき、早々、出京これあるべく、それにつき、旅用調度の儀は宍戸平六に聞き合わすべく、この段申し進ぜ候
   市村鐙次郎殿       安藤満蔵   

宗城も京都での重要な仕事が始まる。そこもとも京都で宗城のために働け、という指示だ。           」

6月30日
「尚尚大阪御留守居へも打ち合わせ相成り居り候につき、自然、御用金間欠等の儀も候はば、御同所宍戸次郎兵衛へ申し合わせべく成らせ候、この旨も申し候」
   市村鐙次郎殿       川名謙蔵              」

お金の心配も藩はちゃんとしてくれているんだね。

9月10日
「外交係助勤に仰せ付け候事
ただし、御留守居林玖十郎、外交掛加幡又一、鈴木震吉、申し合わせ相勤べく候
追って、中井弘蔵ならびに土居真一郎、外交掛関係候につき、これまた承知これあり候こと。
                  須藤但馬」

鈴木震吉は江戸の千葉道場で腕をみがいた剣客。宗城のガードマンであったかも。

中井弘蔵(または、中井弘)は元薩摩藩士、英国にいったこともある変り種、宗城に登用されて、幕末期、宇和島藩士として勤務。アーネスト・サトーの日記にもよく出てくる。後藤象二郎と仲がいい。

土居真一郎は、後年の土居通夫だと思う。下級武士で、脱藩。
大阪の通天閣の通は、この土居通夫からとったものだとされる。大阪財界の巨頭となる。むろん、後年の無役地事件には庄屋側、敏麿の反対に回る。後年、無役地事件の担当をした児島惟謙とも仲がいい。


9月11日
御国元より内密通し合いの儀もこれありつき、変名名をもって外交これありたし候
                        西園寺雪江
9月13日
私儀 多々助策と変名つかまつり候につきこの段御届けに及び候
                            市村鐙次郎

京都では、多々助策という名で活動したようだ。

坂本龍馬や中岡慎太郎とは会わなかったのだろうか。会っていてほしい(笑)

                        


市村敏麿10 慶応3年

2008-03-07 | 宇和島藩
慶応3年、新将軍慶喜の登場だ。慶喜はフランス公使ロッシュの支援のもとに幕政改革に着手し、幕府の権限回復に乗り出す。一方、薩長側は16歳の天皇を擁し、討幕挙兵を画策。陰謀と陰謀の戦い。一寸先も見えない政情。この年の10月、大政奉還。11月、坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺。12月、王政復古の宣言となる。

「敏麿伝」では、この年についてこう書く。

「慶応3年2月伊予守宗城公よりうちうち東下探索を命ぜられる。
宗城公には幕府は英仏に頼み、廃帝の意図あるを察せられ、幕府へ間諜の任たらしめんとし、うちうちお呼び出しにより、汝は今回、幕府に入り、国家に奉公せよとお盃を賜り、御手元金二分金200両を与えられ、汝が家族は、里正(庄屋)のうち最も懇切なるものを選び保護なさしむべし、と申されし(嘉喜村庄屋渡辺敬之助へ命ぜられる)。この時、おそばには、三輪清助、中井族之助、司計田手次郎太夫ほか2,3の小姓ありしのみ。然して後、汝は、古市村の旧庄屋なれば古市の村号をとって、市村氏となし、登次郎と改め赴くべしと」

伊達宗城にとっても、慶喜の腹のうちはわからず、ましてや、江戸の幕閣の動きはわからない。敏麿の松山探索で果たした有能さと効果を知った宗城は、より大きな任務に敏麿を使おうとしたのだろうか。
この年、はじめて市村氏と名乗る。古市村から市村をとったわけだ。しかし、家族、とりわけヨメさんの苦労が思われる。また、長期単身赴任だ。生活の保障はされているとはいえ、これではヨメさんもたまるまい。


「それぞれ符号等巨細に定められ機務の件々を含められる。登は、このとき、謹んで曰く、幕府の仕官は、金篇を用いるもの多し。苦しからざる儀ならば、登の名に金篇を加え鐙次郎とつかまつりたしと申し上げれば、宗城公、手をうってこは一段の思い宣なり、その地の風儀に連れざれば必ず人の疑いを惹き、別して一大事業はなるべからず。汝は機知にとみたりと聞きしが、果たして然りとて、自ら鉄扇を与えられたり」

殿様から、自分で名乗っていた中山登の登をそのまま使って登次郎となのるようにいってくれたのに、いや、鐙次郎の方がよいのでは、と言い返す。うーん、小癪なやつだ。しかも、こんな時、とっさに言えるなんて、とてもおれにはできないな(笑)

ここにおいて中山登は、市村鐙次郎となり、まず、松山に至り上村一心三軒家町敬徳寺等とはかり、郡中三谷なる福田寺方丈の添翰を以って山科氏の寡妾福島並びに禁中御用達医師新宮良民の枢機紹介により、幕府に入るべく方策を立て、8月末か9月始めに漸く京都に至れば、形成は急変し詰合参政須藤但馬、監察西園寺雪江、公用人会計林玖十郎等議して、もはや容堂公王政復古の建言以来、幕府の野心も充分暴露したる上は、むしろ東下探索をやめ、先ごろ、早討ちをもって、帰宇せし、外交方都築荘蔵の後役たらしめんとして、寺町外交役所に赴き、加幡又市、鈴木震吉等と共に外交の事に勤む」

しかるべき人の紹介状をもって下準備をしてから江戸に入ろうとしたということは幕府でもかなりの中枢に入り込もうとしたのにちがいない。しかし、9月ごろ、京では、薩長等の討幕挙兵の密約ができており、江戸の探索どころの話ではなくなる。めまぐるしく動く京都の政局こそが明日を決める。で、敏麿は京都の宇和島出張所に勤務することになる。

敏麿は藩士になってからは、伊達宗城の手足になって奔走させられるえわけだが、伊達宗城の動きを探ることが、この時期の敏麿の動きを知るには重要かもしれない。宗城には、「伊達宗城在京日記」という1級の維新史料があるそうだが、そんんなものまではとても手が届きません。

上に出てくる都築荘蔵とは、宇和島の維新の三功臣の一人とされる。後藤象二郎と共に、慶喜に大政奉還に賛成の言葉を進言したとされるが、敏麿より年下で、このとき、23歳。
アーネスト・サトウの日記にもこの人物はちょくちょく出てくる。廃藩と同時に官をやめて、故郷に帰るが、明治後の無役地事件では、敏麿の運動の反対側に立つ(宇和島藩の武士、庄屋はみんなそうだが)。弟は、末広鉄腸。自由党員で、有名なジャーナリスト。無役地事件には反対の立場。

あと、維新の三功臣とは、林玖十郎(西郷とともに、東征軍参謀になる。明治4年退官)、伊能友鴎(吉見左膳。宗城の股肱の臣、安政の大獄で、幕府より重追放)。

「敏麿伝」ではこのあと、例によって、敏麿に藩から与えられた命令文書がのせられている。

それは次回に。

市村敏麿9 藩士になる

2008-03-04 | 宇和島藩
谷本市郎の「敏麿伝」を続ける。

「慶応の始め、宇和島藩においては、広く人材を求めるの論大いに起こり、多数有才の士を召しだされしが、雄左衛門も遂に躍でられて士籍に登用されたり」

「始め、機密係という名目を称えられ、松山探索を命ぜられ慶応2年3月より11月頃まで松山にありて長州再討の時分等、油断無く松山探索に従い居たり」

このあと、慶応2年に藩から敏麿に与えられた指示文書が8通があげられている。
あて先は、中山登殿。慶応2年は、中山登という名前で通したようだ。
差出人は、川名謙蔵(周知郷代官)、三輪清助(参政)、安藤満蔵、徳弘五郎左衛門など。

藩からの最初の文書を提示しておこう。

「ご用向き之有りにつき、十日出勤の上、お目付け安藤満蔵へ密々届け出候よう、平常、懇意の間柄をもって、拙者より伝達取り計らいべく旨、松根図書殿より仰せられ候間、この旨承知之有り候 以上 
    慶応2丙寅2月3日

古市村登殿                      川名謙蔵    」

慶応2年は、1月の薩長同盟に始まり、6月から始まる第二次長州征伐、そして12月の孝明天皇死去(36歳)、そして全国、西も東も百姓一揆が爆発し、江戸も大阪もうちこわしにあった内乱状態だ。

松山藩は、佐幕派で、二度にわたる長州征伐でも先鋒軍として出陣。松山藩主松平定昭は、翌年には幕府の老中職につきます。

慶応2年の第二次長州征伐では、松山藩は、攻撃の一番手として周防大島を占領。長州は奇兵隊を送り込んで反撃、火縄銃しか持たない松山藩は、最新式の銃をもつ奇兵隊に敗北してしまう。

松山探索は、宇和島の隣藩である上に、幕府や長州征伐の動向を探る上で重要だったにちがいありません。

この年、英国公使パークスが宇和島を軍艦で訪問。宗城はダンスを踊ったらしい。
アーネスト・サトーの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)にはこの訪問についても書かれている。


市村敏麿8 脱藩後

2008-03-03 | 宇和島藩
脱藩後は、どうしていたのか。

「敏麿伝」では、「或いは吉備の地に潜み、或いは三田尻に通じ、或いは松山に隠れて種々活動をなせり」と記すのみ。

慶応元年、伊達宗城が藩内の人材登用策をとり、雄左衛門のことも聞き、代官、川名謙蔵は「庄屋職辞職後、姿をくらまし、京摂地方にありとの風説ありしが、目下、長州、或いは松山にありと聞こゆと奏上したり。宗城公は直ちに所在を探り、呼び戻すべく命ぜられたり」と書いてある。

「役地事件一夜説」(これは東京自由新聞の記事だろうか?わからない)は、無役地事件の経過を書いたものだが、この中で市村敏麿の経歴にふれ、そこで脱藩についてこういう記事がある。

「身を以って吉備の地に隠れしばらく潜匿し、長幕の一件おこるや(第一次長州征伐か?)、ひそかに三田尻の忠勇隊に通じ大になすところあらんとしたるも、長藩、議して恭順をとり、増田国司福原三太夫の首級を献じ、三条西東久世四条壬生の五卿太宰府に遷徒せらるるの報に接し、天を仰いで嘆息し、それより松山に隠れて時勢の転変をうかかげり」

はじめ、吉備にひそみ、後半、松山にひそむ。その間、長州の忠勇隊と連絡をとりあっていた、ということになる。

慶応2年正月には、伊達宗城に召しだされているので、慶応元年の暮れには、宇和島に帰っているものと思われる

敏麿が脱藩した文久3年後半から、元治元年、慶応元年という3年間は、草莽の志士、脱藩浪士にとっては、最悪最凶の年といってよい。
草莽が活躍できたのは、文久2年、3年、天誅組までだろう。8・18の政変で、長州藩は京都を追われ、京都政局は、薩摩、会津がリード、幕府がもりかえし、新撰組が志士を追いかけまわすという時代が続く。

池田屋事件、禁門の変(忠勇隊に参加した敏麿の仲間も戦死)、幕府の第一次の長州征伐と続く。しかも、外国艦隊にもやられ、攘夷ができないことも知る。長州藩の藩論も変わり、天誅組が頭にした中山忠光さえ、幕府をはばかってひそかに藩命で暗殺されてしまったほどだ。

桂小五郎は乞食に変装し、出石に隠れた時代だ。草莽にとって、命を維持するだけでも大変。地下活動せざるをえない。長州はすでに尊王攘夷の総本山で、倒幕勢力ではなくなりつつあった。草莽、脱藩浪士はたよるところがなくなった(この状況を大回転させたのが、あの高杉晋作だけど)。

慶応からは、もはや個人個人の草莽ではなくて、世の中は、組織、軍隊、藩の力で動く時代になりつつあった。敏麿が、藩からの出仕に応じたのも、こうした思いがあったにちがいない。

なお、忠勇隊とは、長州にいる脱藩浪士の集まりだ。土佐出身者が多いが、とにかく長州藩以外のものがここに集まった。はじめは真木和泉が総裁、隊長が松山深蔵、禁門の変で真木ら自刃したあとは、中岡慎太郎が隊長になっている。敏麿の友人、玉川壮吉もいる。だが、忠勇隊の名簿の中には、宇和島出身はなかったと思う。敏麿は、玉川たちとは連絡はしていたかもしれないが、忠勇隊には所属していなかったと思うのだが、どうだろう。1回か2回は顔を出したことはあるかな。
ちなみに、中岡慎太郎も、庄屋出身の大草莽だ。

なぜ松山にひそんでいたのか。松山は親藩で、幕府側の情報を探るには重要だったとは思うが、松山藩については何も知らないので、わからない。今度、調べておこう。

市村敏麿7 天誅組

2008-03-02 | 宇和島藩
前回、敏麿は、天誅組の決起に参加するため脱藩したと書いたけど、脱藩はその前から決意していたのかもしれない。でないと、庄屋職を高田氏に譲ったり、家督を弟の三郎に譲ったりするめんどうな手続きができないのではないか。準備期間がいる。天誅組決起の知らせは脱藩の実行の合図だったかもしれない。

大和行幸(天皇の攘夷親政=倒幕)が発表されたのが8月13日。14日、天誅組旗揚げ。大和行幸の露払いとしての先鋒軍だ。17日、挙兵。翌日の18日、政変(宮廷クーデター)で大和行幸は中止、天皇は過激な攘夷活動、ましてや倒幕などしたくない、といったのだ。天誅組は朝敵となる。9月25日には天誅組も壊滅。

吉村虎太郎からいつごろ知らせがあったのか。前からの約束なんかではない。急遽、8月に激を寄こしたのではないか。8月14日に吉村は母親に手紙を出しているから、同時に敏麿にも出したかもしれない。四国の山奥に連絡が届くには、かなりの日数がかかる。9月はじめに届き、即、脱藩したとしても、そのときには、吉村たちは敗残の身で吉野の山中をさまよっていた。敏麿が脱藩したときには、まだ政変の知らせは届いていなかったにちがいない。いや、仲間を助けるためにやはり脱藩するか?

長州藩の主導のもとに、朝廷は幕府に攘夷を求めた。外国と条約を結び、開港している幕府に攘夷を求める。それが天皇の意思だからと。もし、幕府が攘夷を断れば、朝廷の意を無視すると、討幕に切り替えられる。これ以上のいじわるな攻撃はない。今なら、国際常識として、そんなこと許されません、と政府にいわれれば、野党も国民もすぐおとなしくなるのに(笑)。

「天誅組」を書いた大岡昇平はこう書く。
「私は維新の志士は大嫌いですが、「天誅組」の連中は単純で嫌味がなく、またその悲惨な末路が同情を誘います」

徳富蘇峰
「およそ幕府に向かって公然兵をあげて抗戦を試みたるは、天保8年の大塩平八郎の大阪における一挙以来の出来事である。大塩の挙兵はわずか半日をいでずに平定した。それさえも多大の意義があった。いわんや尊王攘夷を旗幟として、幕府の官吏を誅りくすべく、その魁をなしたるものにおいてや。公然兵を挙げて、幕府に楯をついたのは天誅組が嚆矢だ」

寺尾五郎はこう書く。
「天誅組の成員は、その一人一人が草莽であり、全体を主導した者が終始吉村虎太郎であったことに象徴されるように、庄屋の主導性の強い草莽であった。それは伏見義挙とは異なり、いっさいの藩権力の支援なしに、ただ一人の藩籍を持つ者をもふくまず、ひとえに草莽のみが事を挙げた」と草莽の義軍として高い評価を与えている。そして、天誅組がスローガンとして「年貢半減」を唱えたことに注目し、これは庄屋経験者だからこそうちだすことができるスローガンだという。

天誅組には庄屋層の参加が多い。草莽とは、武士身分でないものが政治的発言をし、行動をする者をいうが、多いのが、庄屋層、郷士だ。しかし、商人、農民、相撲取りだっている。

長谷川伸は、「相楽総三とその同志」の前書きで「明治維新の鴻業は公卿と藩主と藩士と、学者、郷士、神道家、仏教家とから成ったのごとく伝えられがちであるが、それは実相ではない」と書き、「士農工商という呼称で代表している全日本のあらゆる級と層から出ているのが実相で、そういう観方をあまりにもしないわれらの習癖に無言の体当たりをしたい」意味で、この本を書いた、という。「明治維新には博徒すら起っている。さらに極端な例を引けば盗賊すら心身を清めてご奉公に精進した」「わたしは、わずかに相楽総三とその同志だけにかかっただけだが、詳密にもっと知ることを得たとしたら四民決起のありさまが、国民の胸に名曲のような響きを与えるにちがいないと思える」
長谷川伸は、ここでは天誅組については書いてはいないけど、天誅組は、四民決起の実相を知るひとつの例になるものだ。

なによりも吉村虎太郎の戦場での言葉が象徴的だ。傷を受け、籠で運ばれるとき、傷口を押さえながら、籠かきに、「辛抱せよ、辛抱せよ。辛抱を押したら世は変わる、それを楽しめ」といったと伝えられる。
吉村虎太郎には庶民の百姓の暮らしが頭にあったのだろう。尊皇攘夷の行動はかれにとっては、世直しであり、革命であった。これが天誅組の精神だった。
敏麿にとっても、また、他の多くの草莽にとっても同じ思いだっただろう。
しかし、討幕派の武士の中に、百姓の暮らしを考えていたものがいただろうか。








市村敏麿6 脱藩

2008-03-02 | 宇和島藩
「古市庄屋芝八代記」からの引用を続ける。

「芝雄左ェ門は脱走の意を決し、文久3年庄屋役を高田氏に譲り、芝氏の後事は、弟三郎に譲りおき、己は中山登之助武敏と改め、大和挙兵に加わるべくひそかに古市を脱走す。ちなみに、文久3年8月吉村虎太郎、藤本鉄石、松本健三郎、伴林光平等は諸国諸藩士と共に、中山忠光卿を奉じて大和に兵を挙ぐ。中山登之助武敏と改名して脱走せしに雄左ェ門は急ぎ京阪に向かえるも、途中、不幸にして吉備の中洲矢掛川の辺において病魔に犯され(熱病)、いたずらに日を延ばし、遂に間に合わず、切歯扼腕するもおよばず、病癒えて後、ひそかに松山に潜伏して太宰府及び三田尻に通じ、大いに国事に奔走するところあり。これより先、同志にして懇意なる宮内村二宮新吉、八幡浜山内玄道その他2,3の有志、国憲に触れて幽囚の身となり、官その同類を探ること急なり。武敏の身辺もまた危険に瀕したり」

まず、2,3人名について注記しておこう。
敏麿が庄屋職を譲った高田氏は、土居郷土史に出ている。天保6年北宇和郡泉村生まれ。15歳から行商を初め、勤倹力行して財産を造成し、28歳になって土居村大字古市にきて里正の家を継いだ。資性質朴、正直な人で、常にボロをまとって粗食、労働を尊んで範を地方に示し、好んで開墾し、植林をはじめ、一意専心、農事の改良をはかった」とある。明治後は、養蚕業を広め、地方蚕業界の始祖といっても過言ではない、と書いてある。大正5年、81歳で没。

芝家の家督を譲り受けた三郎については前に書いた。28歳で死亡。その子を厳という。厳は朝鮮でながく鉄道官吏をしていたが、病気のため辞職し、今治に帰り、大正12年死去。厳には子供がいなかったので、古市芝家は、10代厳までで断絶。

宮内村二宮新吉。詳しくはあとで書くつもりだが、明治の無役地裁判闘争の敏麿の同志となる。無役地事件に敏麿をひきいれたのはこの人であり、明治17年には、裁判のゆくすえを悲観して自殺する。国学者。

山内玄道 これがわからない。矢野玄道のことだろうか。矢野玄道は大洲の国学者で、有名な人だ。

さて、いよいよ天誅組だ。
敏麿を動かした精神は天誅組だろう。敏麿の心を知るには天誅組の心を知らなければならない。

いや、「虎尾の会」の主人清河八郎にとっても、天誅組は無関係ではない。
このとき、すでに清河八郎は暗殺されていないが、総裁になった松本健三郎は江戸での八郎の友であり、藤本鉄石は八郎の師匠筋であり、吉村虎太郎とも伏見義挙以来の仲間だ。しかも、八郎の親友、隻眼の安積五郎も軍師として参加している。

八郎が画策した伏見義挙は、薩摩藩の力を借りようとして失敗(寺田屋事件)。八郎は、浪人軍団を幕府によって組織させ、それを自分の手中におさめて(新徴組)江戸に帰るや横浜攘夷関東蜂起にそれを利用しようとしたところを暗殺される。

今度の天誅組は、2回目の伏見義挙といえるかもしれない。しかも、どの藩の力も借りず、草莽だけの決起だ。清河八郎が夢見、吉田松陰が遺言として残した「草莽決起」。それが実現する。吉村虎太郎が勇躍するのも無理はない。敏麿が家族も捨てて(ヨメさんは身重だったはず)、脱藩した気持ちもわかる。
たぶん、宇和島藩で志士活動のために脱藩したのはこの山奥の庄屋が第一号だっただろう。

天誅組については、次回に。

市村敏麿5

2008-03-01 | 宇和島藩
「敏麿伝」を続ける。
「文久3年、遂に意を決して夜陰に乗じて脱走し、吉備京摂に向かう。しかし、同志の多くは大和一揆に殉国の操を全うして潔くたおれたるを以って、その筋の掣制厳しく、あるいは吉備の地に潜み、或いは三田尻の忠勇隊に通じ、或いは松山にかくれて種々活動をなせり」

志士活動についてはこれだけの記述しかない。
「古市村庄屋芝八代記」の八代芝雄左衛門の章にはもう少し詳しく書かれているので、重なる部分もあるが、引用する。

「師矢野杏仙先生は、人格高潔にして頗る経綸の志をいだき、皇家を尊び時勢を卑しみ、最も雄左エ門の才器を愛して特に培養薫陶懇到にして尊王論を注入す。これに加え、土州の浪士西春松(西修)と号する老叟ありて儒を以って自ら許し、年耳須に達すといえども壮者の気力を備え、40年来皇国内に負笈行幸し、水戸義士に意を通じ、大に尊王の論をなす。西春松、また雄左衛門を愛し、天下の形成を論じ天下の志士は杏仙、春松を尋ねてここに来たり、雄左衛門を会せしめ、かつ、これらの志士を宿泊せしむ。嘉永6年黒夷来航以来、世の様、いよいよ異体を呈しきたり、西、矢野の両氏雄左エ門を国家のためにはからしめんと益々鼓舞す。雄左エ門、漸次に疎豪磊落となり、家政を顧みず、一小村吏に甘んずるを得ざるにいたり、大に国家のため、奔走せんと決するに至れり」

敏麿に最も大きな影響を与えた人物として、矢野杏仙と西春松の二人の存在は大きい。一方は、長崎にも遊学し、世界事情にも詳しいだろう蘭医、一方は、全国を歩き、特に水戸の尊王論の信奉者。二人の危険だが堂々たる大人によって教育されたら、どんな少年でも変身せざるをえない。それにしても思うのは、この四国の山奥に、日本の政治を熱く論じる個性的な知識人がいた、というのも江戸時代のおもしろさだ。当時は、全国各地、各村に在野の学者、教育家がいた、子供は、その人によって個性的に教育された。幕府を倒したのは、こうした各地の個性的なな教育であり、えねるぎーだ。学校教育からは、権力を倒す思想もエネルギーもでてこない。おっと、横道にそれた。続ける。

「この前後、土州藩津野山近傍の有志吉村虎太郎、坂本龍馬、上岡肝修、松山深蔵、那須俊平、那須真吾、千屋金策、田所荘介等の名士、尊王攘夷を唱え、陸々脱走す。由来、古市は土佐街道の要衝なれば、これらの志士は西、矢野両氏を尋ね来たり、したがって、雄左衛門も紹介され、かつ、志士のために便利をはかれり。
然して、志士との交通も繁くなり、交際も広くなり、雄左衛門の心、ますますおどれり。ある日、吉村虎太郎は西春松老を尋ねきたり、雄左衛門も加わり、密議をこらし、雄左エ門方に一泊して去れり」

吉村虎太郎が敏麿の家に泊まったことを伝えている。これは、あるいは天誅組挙兵前ではなかろうか。

「これより先、矢野杏仙師の門人にして、雄左エ門と同門親友なる玉川尚綱も脱走して長州三田尻にありて、忠勇隊に入り、三条前中納言実美卿及び五郷に奉仕して名を壮吉郎正章と改む。この人、あるとき、微行して矢野杏仙師方に来たり密議するところあり。雄左衛門も来たり会し、相約するところあり。玉川氏の勇壮なる様を見て、大いに刺激せられ、いよいよ夷を決するにいたれり。

しかし、ここはおかしい。三条実美が長州に落ちたのは禁門の変のあとだ。このころは、敏麿はすでに脱藩している。玉川が脱藩したのは元治元年、敏麿のあとだ。ただ、医者修行をしていた玉川は矢野杏仙の門人であり、敏麿とは親しかったにちがいない。

「ちなみに、玉川氏は、土州松原の医師にして英俊の男なり。後に、津山往来と号し、後、井出法之と改め、後に井出玉章となり、民政に兵営に数々の功勲をなし、明治23年ごろには陸軍省1等監督正五位なりし」

玉川氏については、「明治維新人名録」にはのっていなかったので、生没年や詳しい経歴はわからない。ただ、大岡昇平の「天誅組」の冒頭、吉村虎太郎が脱藩するとき、玉川が馬でおいかけてきて吉村を関所まで送る場面が描かれている。

ついでながら、この大岡昇平の「天誅組」には吉村と玉川が土居村の矢野杏仙の家に泊まって語り明かした、という一文がある。そこには当然、雄左エ門もいたにちがいない(笑)。


市村敏麿4 思想

2008-03-01 | 宇和島藩
谷本市郎の「敏麿伝」を続ける。

「はじめ、土居村の国手にして学者たりし矢野杏仙および土佐浪士西春松に皇謨文武を学び、特に尊王論を注入培養薫陶せられたり。由来、古市村は土佐街道の要衝にして土佐浪士の往来繁く、殊に矢野、西両氏を尋ねる諸氏多く、従って、これら諸浪士との交わりは、両氏の鞭撻と相応じて尊王攘夷の思想を深め、土州津野山近傍の大庄屋吉村虎太郎を初め、上岡謄治、松山深蔵、那須俊平、同信吾、千屋金策、田所宗介、玉川壮吉等と共に国事に奔走せしが」とある。

まず土居村の矢野杏仙が敏麿の師ということになる。文化8年の生まれ、若くして長崎に遊学した蘭医。明治2年8月59歳でなくなる。坂本龍馬、吉村虎太郎、那須俊平など土佐の志士たちが、矢野の家に泊まったのは事実のようだが、何も史料は残っていないそうだ。蘭学者が尊皇攘夷?とは思うが、村田蔵六など蘭学者でありながら尊皇攘夷に組みしたものもいるし、当時の尊皇攘夷は、今、想像するような古臭いものではなく、最新の新思潮であったのかもしれない。

土佐浪人西春松となると、さっぱりわからない。老儒者だろうか。土佐南学というヤツ?

隣村ともいってもよい土佐高岡郡の庄屋たちの影響もあるにちがいない。土佐天保庄屋同盟の精神だ。これは土佐勤皇党の流れにつながるという。土佐勤皇党の首領武市瑞山は、平田篤胤の書を愛読したそうだ(当時の志士の必読書だったのかもしれないが)。市村敏麿も平田派国学を愛したのは想像できる。名前もそうだが、墓も神式でやっている。

いや、本からだけでなく、一身の利害を顧みず、時勢を批判し、世直しを叫ぶ土佐の新しい若者たちの出現(宇和島藩にはいない)に影響されたことが一番大きかったかもしれない。

名前が出てきた土佐の志士の履歴を少し書いておく。

*上岡胆治(文政6-元治元年)
土佐高岡郡津野山出身 庄屋 妻は吉村虎太郎の姉。土佐勤皇党に参加。文久2年勤皇党弾圧の報を聞き、9月脱藩、三田尻へ。忠勇隊。禁門の変で被弾し、切腹。42歳。

*松山深蔵(天保ー元治元年)
高岡郡能津出身。土佐藩士。文久3年8月18日の政変後、千屋菊次郎と脱藩。禁門の変では忠勇隊隊長として戦う。天王山で切腹。28歳。

*那須俊平(文化4-元治元年)
高岡郡梼原村に住む。土佐藩士、郷士。元治元年脱藩、忠勇隊に参加。禁門の変で戦死。58歳。

*那須真吾(文政11-文久3)
土佐藩士。安政2年、那須俊平の養子となる。土佐勤皇党に参加。文久2年、吉田東洋を暗殺して脱走。文久3年、天誅組の挙兵に参加。鷲家口の戦いで戦死。35歳。

*千屋金策(天保14-慶応元年)
父は高岡郡の庄屋。医学を志していたが、土佐勤皇党に参加。元治元年脱藩。禁門の変に出陣。慶応元年、美作国の関所で守兵に賊子され、同志とともに、斬殺。旅宿で自刃。23歳。兄の千屋菊次郎も天王山で自刃している(28歳)。

*田所荘介(天保11-元治元年)
土佐藩士。代々、海部流砲術をもって藩につかえる。江戸に出て五年間修行。藩の砲術師範役。文久3年、武市瑞山の下獄で脱藩。忠勇隊に参加。禁門の変のあと、忠勇隊の小隊長となるが、隊内の一部と意見が合わず、自刃。25歳。

*吉村虎太郎(天保8-文久3)
12歳で父の後を継ぎ、高岡郡北側村の庄屋となる。安政6年梼原村番人大庄屋。
間崎哲馬に師事、武市瑞山の門に出入り。土佐勤皇党加盟。文久2年2月、長州へ。同年3月脱藩、伏見義挙に。土佐に送還される。文久3年天誅組総裁。戦死。27歳。
敏麿はこの人と一番交流があったのではないか。梼原の庄屋であったこと、何度も土居を往来しただろうこと、天誅組の挙兵。敏麿に脱藩の決意をさせたのは、天誅組への参加だったのだから。

坂本龍馬(天保6-慶応3年)
この人は書くまでもないでしょう。

庄屋時代、敏麿と交流があったとされる志士はすべて土佐人、そして、玉川壮吉をのぞいてあとは、みな戦死するか自殺するか暗殺されている。


市村敏麿3 庄屋芝八代記から

2008-03-01 | 宇和島藩
今回は、「市村敏麿翁の面影」におさめられている「古市村庄屋芝八代記」から書いてみる。

第一代芝徳之丞(寛文10-元禄7まで25年庄屋職)
  寛文10年、古市、伏越、中津川村の庄屋になる。
この人、少年のころからの鉄砲の名手(稲田流の小筒)で、あるとき、伊達宗利が領内巡行のとき、宗利に列をなして空を飛んでいる鶴を打ち落とすように命ぜられ、見事に打ち落として褒美をもらったという。その後、まもなく病気にかかり死亡。死の床の周りには鶴の羽毛がたくさん落ちていたので、鶴の霊にたたられたのではとうわさされる。

徳之丞には嗣子がなく、そのため、親友であった中津川組頭塩崎八之丞の子供を養子にして後を継がせる。また、塩崎八之丞のヨメさんがなくなると、徳之丞のヨメさんを妻にむかえたというから芝家と塩崎家のつながりは濃い。後年、明治3年、野村騒動の首謀者は、この塩崎八之丞の子孫、塩崎鶴太郎(鶴というのも妙だ)であり、その騒動の説得にあたったのが、芝家の子孫、市村敏麿ということになる。

第二代芝治左衛門(元禄7-享保17まで39年庄屋職) 特記事項なし
第三代芝治左衛門(享保17-享保20まで4年間庄屋職)特記事項なし。

第四代芝祐左衛門武昭(享保20-安永まで42年間庄屋職)
「天性活発侠気にして、文辞に通じ、強きをくじき、弱きを助くるを好み、かつ、武道を修め、剣、柔術に通ず。なかんずく、棒にいたっては伊達家士中、この人に勝れる者まれなりという」

この人、資本を投じて田地を開墾するが、隣村の二宮荘右衛門という庄屋兼代官役を勤める者に、隠し田だと役所に讒言され、ために隠居。隠居後は、邸内に2階建ての高層の隠宅を立て、いつも2階から往来を見ていたので、村民は「黒隠居が見る」と恐れたそうな。この祐左衛門には男子なく、宇和島の神官の息子を養子にして後を継がせる。

第五代芝祐左衛門武正(安永5-享和3まで28年間庄屋職)。
養子(神官の息子)。「分限に応ぜざる奢侈ありて、養父より譲られし莫大の財産を費消し、-略ー妾をおき、本宅におらむこと多かりしという。これによりて、財政不如意となりしという」

第六代芝治左衛門武延(享和3-文政11まで庄屋職)
「天性温順柔和にして常に観世流謡曲を好み、また角力は甚だ巧にして、その名を得たり。父祐左衛門が家伝の財産を多く費消しかつ、弟九平沢次郎等に分与したるため、家系不如意となりしにより、恒に農事に怠らず、勉励す」

妻は伊達氏の一門弾正殿の家司河野九郎兵衛の長女モト。
河野助九郎はえん者のために主家を離れ、寺子屋業で世を過ごす。この妻がすこぶる美人の聞こえあり、かつ、秀才にして能弁なり、と書く。

いよいよ敏麿が小さいころ接したおじいさん、おばあさんの登場です。
なお、このおじいさんの次女ひさ(敏麿の父親の姉にあたる)も美人の聞こえ高く、宇和島藩筆頭家老松根図書の妾になる。松根図書が亡くなった後は、再び実家に帰り、他に嫁ぐことなく、敏麿たちを訓育し、老後も宇和島の敏麿拓で明治12年に73歳でなくなっている。敏麿の生母は嘉永2年に難産のため死亡しているので、その後は母代わりになったかも。
宇和島藩家老松根図書は幕末史によく登場する(サトーの日記にも出てくる)有名人物だが、この松根図書はその本人かその親父かまだ調べていません。

第七代治左衛門武治(文政11ー嘉永7)
「七代治左衛門は、土居の二宮庄右衛門貞義の薫陶により少年の頃より弁舌爽快すこぶる風采あり、庄屋の職務上怠慢なきも配下3村窮民多く、官府に乞うて、その経済の改革をなしたるに下相村庄屋宇多賀源左衛門と不快になりて、同人のかすめるところとなり、官の都合宜しからざるを察し、勇退」

妻はアイ(吉田藩音地村庄屋の三女。バツ一)。敏麿(朝太郎)、次男、三女を生み、4人目の難産で死亡。42歳。後妻は伏越村万蔵の次女ヤスノ。ヤスノは二人の男子を産み、明治2年38歳で死亡。ヤスノ死亡後、治左衛門は、明治3年市村敏麿方に入籍、市村弥(ワタル)と改め、その好める漁猟を楽しみ晩年を安楽に終わる」

ついでに兄弟のことを書いておこう。先妻の産んだ子は3人。敏麿の次の男子は鹿二郎。のち、改め、中山富士太郎と名乗ったいうから、これは兄貴の影響が濃厚だ(敏麿も中山登次郎と名乗ったことがある)。大正12年83歳で死亡とあるのみで何をしたのかはさっぱりわからない。
三女チョウは、土佐に嫁ぐ。
後妻の産んだ4男三郎。芝家の家督はすべてこの三郎に譲った(敏麿は市村家を興こす)。裁判所に勤務したり、代言人になったりしているが、明治21年に28歳で死亡している。五男四郎は宇和島市の家に養子になるが放蕩無頼で離縁され、その後、獄吏、巡査などをし、行方不明、明治40年兵庫の城之崎で死亡していたことがわかる。41歳。
以上、おわり。