明治2年といっても、まだ明治政権が確立したわけではない。
ちょん髷、両刀をさした侍たちが歩き、殿様もお城にいる。政府といっても、軍隊はなく(薩長土肥の寄り合い)、金もなく、桂小五郎も、西郷も、まだ藩士。
戊辰戦争は、この6月まで続き(函館戦争)、全国に百姓一揆も頻発している。新政府の方針(開国)で、かつての尊王攘夷派の浪士も政府に不満の声をあげる。この年、大村益次郎が暗殺されている。世の中の帰趨はまだ、さだかではない。
この年の、敏麿の足跡を、いくつかの辞令書からさぐってみる。
「3月26日、外交掛を申しつけ、公用人助勤心得たるべきこと(京都)」
「4月17日、明18日出立、富田鉱之助とともに仙台表へ御使者あい勤むべきこと」
まだ、仙台への出張の仕事があったわけだ。
「6月7日、参政三輪清助病中、公議所出頭代勤いたすべきこと。ただし、宇和島藩目付役兼公用人の心得をもって、相勤められ候。」
公議所、この時期の政府が打ち出した窮余の一策ともいうべきもの。要するに、各藩から人を選抜して公議所(東京)でこれからの政策について議論をさせようというもの。
なにせ、この時期の政府の大きな方針としては、五箇条のご誓文の「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」だけだ。みんなで議論する、公議、というのは、幕末以来のひとつの政治のスローガンであり、理想だった。この時期には、上意下達よりも、下意上達が急務だった。なぜなら、上にはいい知恵がないのだから(留学経験者もまだほとんどいない)。この公議所は、かなり開明的な議論が活発になされたらしい。度量衡の統一、切腹の禁止、名前の名乗り方、廃刀論、エタの廃止、などなど。だが、その革新的な提言に政府も危惧を感じたのか、1年とちょっとで権限を縮小し、集議院と改称される。ともあれ、この公議所は、近代の議会の遠祖といえないこともない。当時としては、最も進歩的な議論が交わされたかもしれない。
「7月13日 十八藩密議に関し、出勤仰せ付けられ候こと」
これは何だろう。土佐藩が提起した四国会議のことではないかと思うがどうだろう。会議所を設け、四国の各藩(13藩)で情報交換をし、団結しようとする趣旨だ。明治2年に会議が行われているが、1年とちょっとで、終わる。
「8月17日 築地関門において、守衛士福井茂平治、五百木寛以下7人が大久保利通、副島種臣、大隈重信の三参議に対し、発砲狼藉せる事件に関し、取調役仰せ付けられる。」
これがわからない。容疑者の名前までがわかっているのだから、事実なのだろう。だが、この事件は、どこを探しても出てこない。ご存知の方は、ご教授願いたい。
「10月14日 中納言様御用向在られ、今日、出立、早追いをもって、仙台表へ差し遣わされ候につきこの段、申し達し候。」
またまた、仙台出張だ。
「民部省兼大蔵省監督権正に任ぜられる。」(敏麿伝)
何月からかはわからにけど、明治2年の後半(10月以降)ではなかろうか。伊達宗城が民部省の頭になっているからその関係もあるだろう。日本史総覧かなにかで、明治初期官員録を調べてみたら、たしかに、市村敏麿(市村武という名だったか?)という名前がありました。そのコピーは今、どこかへ消えてしまったので、他にどんな人がいたか確認できないのは残念。また、調べておこう。このころは、市村武と名乗ったようだ。
この時期の民部省は、まさに国作りの発動部隊となり、多士済々の士が集まる。
「おれたちは、神々だ。今、神話を作っているのだ」といったのは、民部省で働いていた大隈重信ではなかったか。
だが、市村は早く宇和島に帰りたがっていたようだ。年の暮れには帰国願いを出している。それが、親父の大病によるものか、他の理由によるものかはわからないけど。
ちょん髷、両刀をさした侍たちが歩き、殿様もお城にいる。政府といっても、軍隊はなく(薩長土肥の寄り合い)、金もなく、桂小五郎も、西郷も、まだ藩士。
戊辰戦争は、この6月まで続き(函館戦争)、全国に百姓一揆も頻発している。新政府の方針(開国)で、かつての尊王攘夷派の浪士も政府に不満の声をあげる。この年、大村益次郎が暗殺されている。世の中の帰趨はまだ、さだかではない。
この年の、敏麿の足跡を、いくつかの辞令書からさぐってみる。
「3月26日、外交掛を申しつけ、公用人助勤心得たるべきこと(京都)」
「4月17日、明18日出立、富田鉱之助とともに仙台表へ御使者あい勤むべきこと」
まだ、仙台への出張の仕事があったわけだ。
「6月7日、参政三輪清助病中、公議所出頭代勤いたすべきこと。ただし、宇和島藩目付役兼公用人の心得をもって、相勤められ候。」
公議所、この時期の政府が打ち出した窮余の一策ともいうべきもの。要するに、各藩から人を選抜して公議所(東京)でこれからの政策について議論をさせようというもの。
なにせ、この時期の政府の大きな方針としては、五箇条のご誓文の「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」だけだ。みんなで議論する、公議、というのは、幕末以来のひとつの政治のスローガンであり、理想だった。この時期には、上意下達よりも、下意上達が急務だった。なぜなら、上にはいい知恵がないのだから(留学経験者もまだほとんどいない)。この公議所は、かなり開明的な議論が活発になされたらしい。度量衡の統一、切腹の禁止、名前の名乗り方、廃刀論、エタの廃止、などなど。だが、その革新的な提言に政府も危惧を感じたのか、1年とちょっとで権限を縮小し、集議院と改称される。ともあれ、この公議所は、近代の議会の遠祖といえないこともない。当時としては、最も進歩的な議論が交わされたかもしれない。
「7月13日 十八藩密議に関し、出勤仰せ付けられ候こと」
これは何だろう。土佐藩が提起した四国会議のことではないかと思うがどうだろう。会議所を設け、四国の各藩(13藩)で情報交換をし、団結しようとする趣旨だ。明治2年に会議が行われているが、1年とちょっとで、終わる。
「8月17日 築地関門において、守衛士福井茂平治、五百木寛以下7人が大久保利通、副島種臣、大隈重信の三参議に対し、発砲狼藉せる事件に関し、取調役仰せ付けられる。」
これがわからない。容疑者の名前までがわかっているのだから、事実なのだろう。だが、この事件は、どこを探しても出てこない。ご存知の方は、ご教授願いたい。
「10月14日 中納言様御用向在られ、今日、出立、早追いをもって、仙台表へ差し遣わされ候につきこの段、申し達し候。」
またまた、仙台出張だ。
「民部省兼大蔵省監督権正に任ぜられる。」(敏麿伝)
何月からかはわからにけど、明治2年の後半(10月以降)ではなかろうか。伊達宗城が民部省の頭になっているからその関係もあるだろう。日本史総覧かなにかで、明治初期官員録を調べてみたら、たしかに、市村敏麿(市村武という名だったか?)という名前がありました。そのコピーは今、どこかへ消えてしまったので、他にどんな人がいたか確認できないのは残念。また、調べておこう。このころは、市村武と名乗ったようだ。
この時期の民部省は、まさに国作りの発動部隊となり、多士済々の士が集まる。
「おれたちは、神々だ。今、神話を作っているのだ」といったのは、民部省で働いていた大隈重信ではなかったか。
だが、市村は早く宇和島に帰りたがっていたようだ。年の暮れには帰国願いを出している。それが、親父の大病によるものか、他の理由によるものかはわからないけど。