虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿16 明治3年

2008-03-14 | 宇和島藩
明治3年。

2月、長州の奇兵隊など諸隊解散に不満をもつ脱退兵士の騒動(木戸孝允が鎮圧にむかう)。西郷は、昨年より薩摩に帰り、政府にはいない。8月、薩摩藩士横山正太郎は、遺書を集議員に投じ、自刃するが、そのの遺書にはこうある。
「方今一新の期、司法著目のとき、府藩県とも朝廷の大綱に依遵し、各新に徳政をしくべきに、あにはからんや、旧幕の悪弊、暗に新政にうつり、昨日、非としせしもの、今日、かえって、これをを是となす」
横山は、庶民の困窮を察せずに、自分の利益だけを求める政府官員たちの堕落した生活に怒りをぶつける。
時勢への不満は、全国の百姓一揆にも見ることができる。ご一新といいながら、百姓統治の方法は変わらず、かえって物価はあがり、生活は困窮をきわめる。昨年にひきつづき、この年も、高松藩、浜田藩、仙台藩、大田原藩、松代藩、新潟藩、若松藩、伊那県、彦根藩、小諸藩で百姓一揆。百姓たちの世直しの叫びだ。そして、わが宇和島藩も。

今回の部分は、谷本二郎「市村敏麿伝」を全文引用する。

「明治3年春、野村屯集百姓一揆のさいには、たまたま病父の病を看んとて、東京より帰郷せしところ、同一揆の首魁が古市村の鶴之助とて、市村の最も親しき友人なりしかば、これが鎮静方を藩知事伊達宗徳より命ぜられる。
しかるに、当時、市村は民部兼大蔵省に職を奉じもっぱら、府藩県三治の是非を審査する任にあれば、この命に服しがたく、大いに論争するところありしも、藩議の許すところとならず、やむなく、内面より鎮静することとなり、藩馬に鞭ち、夜をおかして道を迂路にとり、下相村の酒造家塩崎太七方にいたりて、その民情を偵察し、それより古市村にいたりて、庄屋高田三浦方につき、村民良三郎の探索によりて、徒党の情勢を知り、古市村医師三橋陣斉を説きて、表面、暴徒に当たらせ、尚古市村横目役喜平治にすすめて古市村民をして、各村民に先立って全部引き上げ帰村せしめしかば、各村民も漸次、野村より引き上げ帰村するにいたり、無事鎮静せり。
しかれども、なお蔭に煽動するものあり、再び騒擾の起こらんことを恐れ、藩においては、市村武をして民部大蔵監督権正の職を辞せしめ、土居逸夫と共に郡衛に長たらしめ、都築温、三島典平を副たらしめたり」

この「野村騒動」については、宇和島の歴史家では第一人者と目される三好昌文氏の研究(愛媛資本主義社会史第1巻)が詳しい。三好昌文氏は、谷本一郎、徳田三十四氏に続いて、市村敏麿の事跡を世に紹介した人だろう。司馬遼太郎の「街道をゆく」(南伊予、西土佐の道)にも、名前だけちらと出てくる。司馬遼太郎とちがい、イデオロギー史観(階級闘争という言葉が頻出する)の持ち主で(今はちがうかもしれないが)、そこんとこは、世代的に違和感があるものの、史料の発掘収集、綿密な研究の情熱には敬服せざるをえない。

それにしても、思うのは、宇和島市だ。宇和島で、この野村騒動を知っている人が何人、いるのだろう。100人に一人も知らないのではないか。いったい、市の郷土史で伝えているのだろうか(もし、伝えているのだったら、ごめんなさいね)。
宇和島藩の北部の山奥に約1万5千人が立ち上がった一揆、他藩の一揆まで誘発し、宇和島藩の一揆(全国的にも一揆多発藩だ)としては最大のものではないのだろうか。これを調べずして何が郷土史だろう(いいすぎ!)。旧宇和島藩の住人は立ち上がれ(笑)。

三好昌文氏の本は今、手元にないので、次回は、景浦勉「伊予農民騒動史話」から、かんたんに紹介する。