虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

野村軍記 八戸藩稗三合一揆

2007-06-30 | 一揆
「野沢蛍」というちょっと風雅な題名の一揆史料がある(日本庶民生活史料集成)。これ、野村軍記という八戸藩家老の事歴を物語風に書いたものだ。中に怪談話などもあって、おもしろい。

万石騒動の川井藤左衛門、備後福山一揆の遠藤弁蔵と同じように、殿様の信を得て権勢を得、藩の財政改革に取り組み、果ては百姓一揆の責任をとらされて閉門、蟄居(この人は切腹したらしい)する。

天保5年1月だ。雪国の八戸、厳寒の中、雪をけちらして進む一揆勢。

百姓たちは、70以上の願書を出すが、願書のほかに二つ願い事がある、という。一つは、こうだ。
「野村軍記、これまで色々の諸過役を申しつけ、まこと持ち合いの穀物まで取り上げ、凶年違作に一粒の施しもなく、1日に1人稗3合の割り渡し、百姓こぞって嘆きまかりあり候間、同人を頂戴つかまつり、1日玄稗3合づつ食べさせ、田畑働きいたさせ、薪芝をとらせたい」という。
もうひとつは、この寒中の中、野宿している者もいるので、町家で休息させてほしい、というもの。

備後福山一揆のときにも百姓たちは、遠藤弁蔵をもらいうけたい、遠藤に百姓をさせ、6、7月に年貢をおさめさせたい、といったそうだから、百姓の気持ちは同じだ。

野村軍記の先祖は、明智光秀の草履取りをしていたそうで、光秀が死んでから、諸国を遍歴し、八戸の野沢という村で代々百姓をしていたそうだが、そのうち、下級役人に取り立てられ、軍記のときに、大出世する。

野村は、藩の産物を統制し、領民から安く買い上げ、これを江戸や大坂に高く売りつけて、財政をふやした。また、八戸の名を高めるために、神社仏閣を壮麗にしたり、江戸の横綱をおかかえにしたり(藩籍にする)、八戸の三社大祭で、騎馬打球を復活させたりする。ネットで野村軍記を検索したら、この八戸の三社大祭が出てきた。

天保の飢饉のとき、新潟、大坂に出張して米を買い入れるが、これを領民には渡さず、一部をよそで高価に売って麦を買い、家臣には、米給与の代わりに麦給与にする。百姓には、1合の米もわたさず、ただ1日1人稗3合を渡して、それ以外の穀物を出させ、藩札で安く買い上げたそうな。

野村軍記の権勢がさかんなときは、誰一人、野村の意に反対することはなかったが、さて、いったん一揆がおこってみると、野村の失政を非難するものが出てくる。家老会議で、野村がただちに一揆勢を鉄砲でおいはらえというと、1人は、「貴行の御百姓にてもあるまじ。天下は天下の天下なり。百姓も天下の民なり」
といって、反対する。

野村の処置をどうするか。家老たちは、お役御免にしようとしたが、長く野村を信任してきた殿様はなかなかそれができない。で、家老たちは、「御家と君とは替えがたし。この上、お迷いあそばされ候はば、重役一統退役申し、切腹いたすほか手立てあるまじ」と決心して殿様に言上、野村の処分がきまったそうだ。


ヤフーの検索で「野村軍記」は33件あったが、その中で、井伏鱒二がこの一揆について書いてあった。久慈街道を訪ねたときの文だ。野村軍記にもふれていた。


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