ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

「ユーゲント」91号

2008年10月14日 | 教科通信「ユーゲント」
「ユーゲント」91号(2007年12月14日)

                     ドイツ語教室の教科通信

     後期の授業のやり方について

- 夏休みには分からなかったところや、その後忘れてしまった所などを復習という形で出来るので、効率がいいと思う。(多数意見)
- 後期は他の授業が大変なので、今のやり方はありがたい。(多数意見)

     健康法

- 最近は、健康に関しては「食」についてしか考えていませんでした。しかし、他にも家で出来る健康法は沢山あるのだと気づかされました。
- 温冷浴をすることで風邪を予防する方法には驚いた。

     プロコン

- 外国の学生の結果がよかったというのを聞いて、やはり日本人のプログラム能力がそれほど高くないことを感じた。
 ★ 日本側は高専生(20歳まで)、外国の学生は多分22歳まで、という違いもあるのではないだろうか。それに、多分、外国の学生はその国のトップレベルの学生だと思います。

- プログラミングはまだ内容は割と簡単なのだが、頭を使えば使うほど効率の好いプログラムが書けるのでとても面白い。
- ロボコンのように親しまれ、関心を持たれるものになれば、日本の技術者たちを期待して見る目が変わるのだろうか。
 ★ ロボコンに比べて見た目の華やかさに欠けるので、放送が少ないのでしょう。しかし、重要性の割にロボコン偏重がひどすぎると思います。

     失敗学

- 正直な所、どんな内容のビデオだったか覚えていない。それほど印象に残らない内容だったのか、自分の興味の対象外だったのか、定かでない。このように後々レポートを書く際にビデオの内容を覚えていないという失敗を犯した僕は、今後ビデオを見る時は、簡単なメモを取っておこうと決めたのであった。
 ★ 「失敗学」は8回あったのですが、一番不適切なものを選んでしまったようです。反省しています。

     大道芸

- 生で見に行ってみたいと思った。(多数意見)
- とにかく凄いと思った。自転車に乗る行為も、究めれば、乗るという行為ではなく魅せるという行為に変わっていく。
・・両親が大道芸好きなので、私もしばしば静岡に大道芸を見に行くが、人間の限界ってここまで凄いんだなぁと感心させられる。自転車のジェームズという人は私の小さい頃から出ているので良く覚えている。

     学問の現実性と歴史性と体系性

- 学問についての話がとても面白かったです。現実性、歴史性、体系性が大事だということには納得できました。では情報学はどうなの?と考えてみました。

 僕はこの学部で学問を学んでいるという気があまりしません。ISプログラムに関して言うと、その中心はSE〔システム・エンジニア?〕の身につけるべき技能の演習です。良く言えば、情報学科は社会(職業)との関わりを中心にカリキュラムが構成されています。ただそれもマニュアル化できるような古い社会で、例えばウェブのような新しい技術・フィールドについて大学はほとんど何も与えてくれません。そこでアンテナの高い先生はより現実の社会に近づける勉強(コンテストへの応募やベンチャーの運営)を提案してくれたりします。もちろんそれは一部の意見だし、学問が社会と関わらないとはとても思えませんが、僕個人としては新しい社会で何か面白いことを実現するためにここで勉強できたらなあと考えています。

 ★ 先日お話した「日付をクリックすればその日の記事にジャンプするようなブログ」を考えるというのはどうでしょうか。こういう問題意識を持って、そのために技術を磨き、(先生に聞いたりして)過去の努力を調べ、自分のものを作ってゆくのです。その過程で最初の目的と違ったものが出てくるかも知れません。それでもいいと思います。直面した問題にまず取り組んでみることです。とにかく「自分の研究」を始めることだと思います。

     文化祭

- バイトに行っていたので、少し覗いた程度だったが、盛り上がっていた。
- 放送研究会で2日間、制作した番組を流した。研究会といえども公共の電波を借りるので、しっかりした物を流さないといけません。普段気がつかないような制作者の苦労を知ることができました。イベントでの経験は大きいものだと思います。
- 情報学部でも工学部でも、教授陣の研究がみ見易い形で公開されていて面白かった。
 ★ HPには紹介されているのでしょうか。

- 小学生の頃から好きだった水木一郎さんの歌を聴けて本当によかった。
- 自分は実行委員をやっていたので、とにかく「大変だった」の一言に尽きます。テントや装飾の設置や片付け、様々な団体や会社との話し合いやパンフレットの制作など、今まで自分たちが何気なく楽しんでいた祭りの裏ではこのような大変な事が行われていたのだと分かり、勉強になった。

     その他

- とうとうCSプログラムかISプログラムかを選ぶ時期になりました。CSに進もうと思っていますが、今までプログラムの説明をちゃんと聞いていなかったので、少し後悔しています。
- 辞書とは事実が書いてあるものだと思うので、「思う」とか「考えられる」など意見が入っているマクシコンは、他の名前にするべきではないだろうか。
 ★ 「辞書とは事実が書いてあるものだ」と誰が決めたのでしょうか。これは事実でしょうか。では、なぜ辞書に間違いがあるのでしょうか。

- 先生は年末年始はどう過ごされますか。
 ★ 子供たちが帰省するのでそれに付き合いますが、その外はいつもの通り研究と行政批判と健康のための運動になるでしょう。

- ブログには「最新のコメント」という欄が設置される。利用者は最新の記事だけでなくこの部分も見ている場合が多いので、過去の記事にコメントしても問題なく機能する。最新の記事に書くと、有効な意見でも邪魔になる。
 ★ 実は私はこの「最新のコメント」欄を見る習慣がありませんでした。これは失敗でした。しかし、完全に新しい意見はやはり最新の記事のコメント欄に書くしかないと思います。それに複数のテーマにまたがる意見もありすまし、結局、そういう事にこだわらないで、「ユーゲント」のように、1つの号にいろいろなテーマでの意見が載っている方が面白いと私は思います。

     司馬遼太郎『坂の上の雲』から

 「東京大学医学部がまだ東京医学校といっていた明治8[1875]年、はじめてドイツ人のホフマンとミューレルの2人をまねいたが、その講義を通訳できる医者は日本に1人しかいなかった」と、加藤〔恒忠〕はいう。その通訳は、司馬凌海(りょうかい)という。幕末に出現した洋学者で、経歴はふるい。この人物が世間に出てくるについては、奇縁がある。

 旧幕府がオランダから医師ポンペ・ファン・メーデルフォールをまねいたのは安政4[1857]年だが、このポンペを教師として幕府は長崎ではじめて官立の洋医学塾をひらいた。塾というが、門人は1人である。その1人の門人も、幕府の任命によるもので奥医師の松本良順(のち順)であった。この時期の幕府はなおも夷人(いじん)と日本人がほしいままに接触することをおそれ、良順にのみポンペと直接接触する資格をあたえたのである。志願者は、他にも多かった。幕府はそれらに対し、良順の門人という資格でそれを黙許し、ただしポンペの直接授業はうけさせず、良順から学ぶという形式をとらせた。

 良順にすれば自分の医学修業だけで手いっぱいなはずであり、できれば言葉のできる助手を得、その助手をしてポンペの授業を他の門人に伝えさせたいとおもい、適任の者をさがした。ふと良順がおもいだしたのは、司馬凌海である。語学の天才というべき少年で、凌海が江戸でオランダ語を修業中、良順に接していたが、その後、故郷の佐渡に帰っていた。良順はその凌海を佐渡からよびよせた。凌海19歳のときである。

 長崎では、良順はこの助手とともにポンペの授業をうけた。凌海はポンペのオランダ語を即座に漢文でノートしてゆき、そのノートをもって他の門人に伝達した。かれが語学の天才であったことは、この長崎滞在中、中国人と交際し、たちまちその言葉をおぼえ、詩文のやりとりまでして中国人たちをおどろかせたことでもわかる。

 明治後は一時新政府に仕えたりしたが、かれが死ぬ明治12[1879]年までのあいだに、英、独、露の3ヵ国語をおぼえ、さらにギリシャ語とラテン語までおぼえた。この凌海が、前記、東京医学校の通訳になったが、ミューレルはそのドイツ語の達者さにおどろき、
  - あなたは何年ドイツにいたか。
 ときいたほどであった。むろん凌海はどの外国へも行ったことがない。ただ凌海は奇行が多く、飲んだくれであったため、深酒をすると翌日学校を休んだ。通訳の凌海が休むと、自然、授業は休みであった。