7月14日衆院予算委質疑/安倍晋三は集団的自衛権行使とは日本が戦争する国になるということを隠している

2014-07-15 10:41:35 | Weblog

 

 ブログで何度も断っているが、私は日本が集団的自衛権を行使できる普通の国となることに賛成である。私自身の集団的自衛権を行使できる普通の国とは戦争をする国を意味する。常にその場のみの単なる戦闘や衝突で終わる集団的自衛権である保証はどこにもない。

 集団的自衛権行使はまた、日本国憲法第9条に象徴される平和主義に深く関わるゆえに憲法改正を手段とした集団的自衛権行使を主張している。いわば日本国民の選択に委ねるべきだと。日本国民こそが日本の進路を決める資格と権利を有する。一内閣ではない。

 そうでなければ主権在民が意味を失う。

 安倍晋三は通常国会閉会を受けた記者会見2014年年6月24日)の記者会見で集団的自衛権について述べている。

 安倍晋三(集団的自衛権行使によって)「抑止力は高まり、戦争に巻き込まれる可能性はより低くなっていくわけであります。同じような論争は、かつて、60年安保の際にも盛んに叫ばれたわけであります。安保条約を改定すると日本は戦争に巻き込まれる。果たしてどうなったのか。もう一度冷静に考え、そして、今、私たちが直面し、答えを出さなければいけない課題に誠実に向き合っていく必要があるのだろうと私は考えています」――

 安保条約改定によって日本が戦争に巻き込まれなかったのは憲法第9条があくまでも「武力による威嚇叉は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っていたからだろう。

 だが、安倍晋三は憲法解釈変更で第9条を無効化することを狙っている。

 安倍晋三は機会あるごとに「抑止力は高まり、戦争に巻き込まれる可能性はより低くなっていくわけであります」と保証しているが、7月1日の集団的自衛権閣議決定後初の国会論戦である7月14日(2014年)衆院予算委質疑を聞いていると、このように言っていることがゴマカシであることが明らかになる。

 安部政権は『国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について』と題した集団的自衛権行使閣議決定の中で、「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」として「武力行使の新3要件」を打ち出している。

 「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」と書いてあると、一見憲法第9条のままで集団的自衛権が許されるよう見えるが、憲法解釈変更によって「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」ということであって、ここにも微妙なゴマカシがある。国民に対する説明に正直であろうとするなら、「憲法解釈変更によって憲法第9条の下で許容される自衛の措置」と書くべきだろう。

 安部政権は憲法解釈変更による「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」(=集団的自衛権行使)の発動条件として「武力行使の新3要件」を掲げている。このことは閣議決定した文中にも書いてあるが、7月14日の衆院予算委でフリップによって掲げられた。

 「武力行使の新3要件」

 ①我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追
  求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合。

 ②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき

 ③必要最小限度の実力行使する  

 従来の「3要件」は次のとおりである。

 ①我が国に対する急迫不正の侵害があるとき
 ②これを排除するために他の適当な手段がないこと
 ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと――

 いわば自国攻撃に対する自衛に限っていた。

 だが、「武力行使の新3要件」は自国攻撃に限らず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃も集団的自衛権行使の発動条件に加えている。

 このことの安倍晋三の答弁は新聞記事を引用する。《首相 政府見解論理超える場合は憲法改正必要》NHK NEWS WEB/2014年7月14日 12時38分)

 記事題名の「政府見解論理超える場合は憲法改正必要」と書いてあることは、安倍晋三が「憲法9条に関する従来の政府見解の基本的な論理を超えて、武力の行使を認める解釈を今の憲法のもとで採用するのは困難で、その場合には憲法改正が必要になる」と答弁したことに因んでいる。

 憲法解釈変更による「武力行使の新3要件」自体が既に従来の「3要件」を超えているのである。「憲法改正が必要」という言葉で如何にも日本国憲法の平和主義に則っているかのように見せかけるゴマカシに過ぎない。

 海江田民主党代表(武力行使の新たな3要件について)「『日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと』と『日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』ということが、どのようにつながるのか」

 安倍晋三「日本の近隣で武力攻撃が発生し、早急に止めなければ日本にも武力攻撃が行われかねない状況が想定される一例がある。判断にあたっては、事態の個別具体的な状況に即して、主に攻撃国の意思や能力、事態の発生場所、その規模や態様、推移などの要素を総合的に考慮して、日本に戦禍が及ぶ蓋然性や、国民が被ることになる犠牲の深刻性や重大性などから判断することになる」

 「日本の近隣」、いわばアジア大陸や日本の近海で日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合を想定し、その武力攻撃を阻止しなければ、「日本にも武力攻撃が行われかねない状況が想定され」た場合は集団的自衛権を発動させる。

 だが、その武力攻撃阻止の集団的自衛権行使は明らかに戦闘行為である。短時間に阻止でき、相手国部隊を撃退できて、あとは外交交渉に委ねる等々の経緯を踏めばいいが、常にそうなるという保証はなく、戦闘が一進一退の長時間の膠着状態に陥った場合、戦闘行為であることを超えて、限りなく戦争状態に近づくことになる。

 そして一進一退がその場に限定されるならいいが、「早急に止めなければ日本にも武力攻撃が行われかねない状況」を想定した集団的自衛権行使の戦闘行為である以上、一進一退の膠着状態打破のために日本に対して直接的に武力攻撃を仕掛けない保証がないことも想定しなければならない。

 そうなった場合、もはや戦争であって、安倍晋三が言っている「抑止力は高まり、戦争に巻き込まれる可能性はより低くなっていく」という想定はゴマカシ以外の何ものでもなくなる。

 大体が、「早急に止めなければ日本にも武力攻撃が行われかねない状況」を前提とした他国に対する武力攻撃阻止の集団的自衛権行使の戦闘行為を最初から最後まで戦闘行為だと規定すること自体に無理がある。

 集団的自衛権行使が「抑止力は高まり、戦争に巻き込まれる可能性はより低くなっていく」は全体的には幻想の部分を抱えることも覚悟しなければならない。

 安倍晋三は幻想を国民に抱かせて集団的自衛権行使が憲法第9条にも日本国憲法の平和主義にも反しないと思わせようとした。不正直であるばかりか、卑怯である。

 しかも、ここでは「日本の近隣での武力攻撃の発生を言いながら、近隣だけではない安倍晋三の発言を同記事は伝えている。

 シーレーン=海上交通路で武力攻撃が発生した際の国際的な機雷の掃海活動についての答弁である。

 安倍晋三「ホルムズ海峡はわが国のエネルギー安全保障の観点から極めて重要な輸送経路となっており、仮にこの海峡の地域で紛争が発生し、機雷が敷設された場合、その段階で相当の経済危機やエネルギー危機が発生したといえる。わが国の国民生活に死活的な影響が生じ、わが国の存立が脅かされ、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底から覆されることとなる事態が生じうる」――

 要するに機雷が敷設された段階で日本は「相当の経済危機やエネルギー危機が発生した」と看做して、「わが国の国民生活に死活的な影響が生じ、わが国の存立が脅かされ、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底から覆されることとなる事態が生じうる」と想定、集団的自衛権行使の要件を満たすことになって機雷の掃海活動乗り出す。

 と言うことは、近隣に限ったことではない、中東まで手を伸ばす集団的自衛権の行使となる。

 但し機雷掃海の活動にとどまる保証はない。機雷敷設は敵部隊に人的損害を与えることや艦船等の軍備の消耗を目的としているが、何よりもその場所に機雷を敷設することによって敵部隊の進撃を阻止する、あるいは進撃を困難にすることを重要な戦術としているからであって、そうである以上、そのような戦術を無効化する活動を紛争発生中に見逃す保証はなく、戦術の維持のために機雷掃海活動を攻撃しない保証もない。

 集団的自衛権行使側からすると、敵部隊の攻撃を想定しながらの掃海としなければならない。その攻撃を阻止、もしくは撃退するには攻撃を上回る攻撃が必要になる。もし相互に攻撃がエスカレートした場合、遠い外国の地で展開する攻撃戦であっても、戦争の一部に巻き込まれた状態に陥るケースも否定できない。

 当然、戦闘参加の自衛隊員の生命のリスクは高まる。《クローズアップ2014:集団的自衛権、衆院審議 新3要件、歯止め曖昧》毎日jp/2014年07月15日)

 岡田克也民主党議員「自衛官の生命のリスクを高めることだと認めた上で(任務拡大の)必要性を議論すべきだ」

 安倍晋三「これまでと同様に部隊の安全を確保しつつ行う。これは憲法論議とは別だ」――

 岡田克也の質問に対して安倍晋三が「部隊の安全を確保しつつ行う」と答弁していることは自衛隊員の生命のリスクは冒さないと言っていることを意味する。

 だが、部隊の安全を優先させた紛争発生中の機雷掃海は果たして可能だろうか。敵部隊は自分たちの戦術に関係してくる機雷掃海をただ眺めていてくれるだろうか。眺めているとしたら、機雷敷設に対する矛盾行為となる。また、奇襲・夜襲は軍事行動に於ける欠かすことができない重要な戦術である。機雷を掃海していた我が自衛隊がそれを阻止する敵部隊の攻撃を回避し、撤退できる時間の猶予を与えてくれる攻撃ばかりだと誰が保証できるのだろうか。

 紛争が収まってからの機雷掃海ではない。紛争発生中の機雷掃海を想定している以上、自衛官の生命のリスクは危険域にまで想定しなければならない。安倍晋三は命の危険はありませんよと、ここでも幻想を与えているに過ぎない。

 村上史好生活の党議員「自衛隊員を戦闘状態の場所に送り出せば、専守防衛よりも危険性が高くなる」

 安倍晋三(現在もソマリア沖で実施している海賊対処活動を挙げて)「これは警察権の行使だが、安全なことをやっているわけではない。(集団的自衛権と)全く別の世界ということではない」――

 つまり集団的自衛権と同じような安全ではないことをやっているが(安倍晋三は、海賊はロケット砲まで持っていると言っていた)、自衛隊員の生命を一名たりとも危険に曝したことはないと言って、集団的自衛権行使に於ける自衛隊員の生命の保障を受け合っている。

 海賊が例えロケット砲までも持っていたとしても、部隊の展開という点でアルカイダやタリバン、あるいは新興のイスラム武装勢力ボコ・ハラム等と比較した場合、それらの武装勢力程に大掛かりだとすることはできないはずだ。

 安倍晋三は海賊たちと武装勢力の部隊の展開能力の違いを無視して、それが劣る海賊を相手とした海賊対処活動を以って自衛隊員の生命は守られる、安全だと保障した。

 いとも簡単に幻想に早変わりしないとも限らないゴマカシを見せている。

 大体が集団的自衛権行使が想定している戦闘は戦争に巻き込まれる危険性を想定する危機管理が伴わなければ、戦闘に厳しく対処できない中途半端さを漂わせることになる。逆説するなら、戦争に巻き込まれる危険性を想定した危機管理のもとで戦闘行為を行ったなら、戦争に発展させまいとする強い意志を働かせることになって、戦闘に有利な力の発揮が期待可能となる。

 だが、相手のあることである。戦争の一部に巻き込まれる状況に陥ったり、戦争そのものに発展しない保証はどこにもない。自衛隊員も国民のそのことを覚悟しなければならない。それが集団的自衛権の行使だと。

 安倍晋三は集団的自衛権を国民に認めさせるためにゴマカシたり、幻想を抱かせたりする不正直で卑怯な振舞いはやめるべきだ。あくまで決めるのは国民である。集団的自衛権行使は戦争する普通の国になることだと正直に告白すべきだ。自衛隊員の生命のリスクも高まる。


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