――中1女子電車事故原因調査は「家族の意向次第」とする条件づけは学校社会が健全な状態で維持できているかどうかの常なる検証に蓋をする責任放棄であろう――
二つの記事から、学校社会が一般的としている無責任体制を見てみる。《死亡は中1女子と判明 「いじめない」と学校 山手線事故》(MSN産経/2012.10.4 23:42)
10月4日(2012年)朝、東京都品川区のJR山手線五反田駅で同区在住の私立中学1年女子生徒(13)が制服姿で電車にはねられて死亡した。
大崎署は目撃者の話や駅ホームの防犯カメラの映像から、自殺の可能性が高いとみているという。但し遺書は見つかっていないとのこと。
在校中学校教頭「現時点で、いじめなどのトラブルは把握していない。今後、調査するかは遺族の意向次第だ」
学校が自殺原因を「今後、調査するかは遺族の意向次第だ」と言っている。
いわば遺族が要請しなければ、調査はしないことになる。
だが、学校当局は自らの学校社会が健全な状態で維持できているかどうか、常なる検証を自分たちの責任としているはずである。
その検証は生徒間の人間関係の摩擦や衝突、あるいはいじめなどの対人抑圧等が表立って起きていなくても、学校の目の届かない場所で行われているケースが一般的傾向となっているのだから、問題点の存在の有無は主体的・積極的に生徒の間に入って行う構造を常に取っていなければならないはずだ。
対人抑圧はそれが酷くなれば直接的な精神的・心理的対人抹殺という形を取ることになるが、自殺へと発展した場合、精神的・心理的対人抹殺に間接的な物理的対人抹殺が加わることになる。
教頭が言っている「現時点で、いじめなどのトラブルは把握していない」が主体的・積極的に生徒の間に入って、学校社会が健全な状態で維持できているかどうかの検証を確実に経てきている上での発言ならいい。
だが、一般的には公式的な把握であることが多く、教師が把握していながら、大事(おおごと)になって責任を問われることを恐れ、いじめの取り扱いをしない、見て見ぬ振りをする、あるいは教師には見えない隠れた場所で公式的な把握から漏れたいじめが進行しているといったことは学校社会には一般的に見る例であって、公式的な把握に漏れがないか、念には念を入れて確認の検証を行うことが学校社会が健全な状態で維持できているかどうかの常なる検証を自分たちの責任としていることに応えることになる改めての責任行為となるはずだが、その責任行為の履行を「今後、調査するかは遺族の意向次第だ」と、学校自らが主体性・積極性に蓋をして責任放棄に走っている。
いわばいじめが関連していないことを主体的・積極的に調査し、証明することも、自らの学校社会が健全な状態で維持できているかどうかの検証となる学校の責任行為としなければならないということである。
また、「いじめなどのトラブルは把握していない」が事実そのとおりだったとしても、学校社会を構成する所属成員の一人の少女が自殺と思われる死に方をしているのである。自分自身の生存に対する自らの遮断に果たして学校社会が何らかの抑圧作用を与えていなかったか、その面からの検証も自らの学校社会を健全な状態で維持するための責任行為に入るはずだし、もし13歳というまだ幼い少女が尊いはずの生命(いのち)を自ら無にすることになる死への衝動から、学校が生命(いのち)というものに対する何らかの驚きや畏れを抱いたなら、遺族の意向など待っていられないはずだが、遺族の意向を調査の条件としたということは、生徒たちに対して口では「生命(いのち)は尊い、大事にしなければならない」と言っていたとしても、口先だけのことで、それぞれの生命(いのち)に無感覚な学校教育者の姿を見せたということでもあるはずである。
児童・生徒に対するこの無感覚な生命観こそが、深刻ないじめを受けている児童・生徒の生命(いのち)をも無感覚に把えることになって、学校や教師自身の自己保身や責任回避を優先させることになっているに違いない。
もしいじめを受けている児童・生徒の一人ひとりを生命(いのち)の観点から把えることができたなら、十全な喜怒哀楽の表現を抑圧されて鬱々としている様子や、あるいは生命(いのち)そのものが悲鳴を上げている様子が頭に浮かび、とても自己保身や責任回避に走ることはできまい。
だが、その逆の状態にある。
同じ事故を扱ったもう一つの記事。《山手線ではねられた制服女性、私立中1年と判明》(YOMIURI ONLINE/2012年10月5日)
運転士「飛び込んできたように見えた」
在校中学校教頭「いじめは一切ない。2学期になって特に変わった様子も見られず、悩んでいたといった、思い当たるところはない」
頭からのいじめ否定があとで簡単に「いじめがあった」と肯定に転換する場面を我々は何度も見てきた。
少なくとも教頭の発言は自らの学校社会が健全な状態で維持できているかどうかの常なる検証に蓋をする責任放棄を提示しているだけではなく、この発言自体が13歳の少女の自身の生存に対する自らの手による遮断、その衝動に生命(いのち)というものに対する何らかの驚きや畏れにまで踏み込んでいないことを証明している。
児童・生徒一人ひとりの生命(いのち)というものに対する何らかの驚きや畏れを持ってこそ、学校社会が健全な状態で維持できているかどうかの常なる検証を学校自体の絶対的な責任行為とすることになるはずである。
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