沖縄の歴史について詳しいわけではない。まるきり詳しくない部類に入る。新聞やインターネット情報から知ったコマ切れの知識しか持ち合わせていないが、多くの日本人が記憶しておかなければならない沖縄の歴史だと信じている。当ブログ記事で取り上げたものの含めて、改めて振り返って記憶を新たにしたいと思う。
〈廃藩置県に伴って明治政府は1879(明治12)年、軍隊と警察を派遣して琉球王国を廃止、日本に組入れる「琉球処分」を行って沖縄とするが、明治政府の皇民化圧力を自ら応えようとする沖縄側からの過剰な〝ヤマト〟への同化意識は内地の人間の元々は〝ヤマト〟に属していなかった遠い新参者(しんざんもの)である沖縄人に対する差別をなくそうとする努力でもあったという。
その手段としての皇民意識の共有、沖縄風から日本風への改姓改名運動、沖縄方言の撲滅と標準語奨励運動等のヤマト化があった。
本土の人間の沖縄人に対する象徴的な差別を1999年5月16日の「朝日」夕刊(≪邊境論 これで、あんたたちと同じ≫)は次のように伝えている。
沖縄出身の女性の戦争中の内地での体験記である。(内地の)〈奥さんはどこで情報を集めたのか、サイパン島の、住民を巻き込んだ悲惨な戦闘の模様を、こと細かに話した。
最後に何気なく言った。
「玉砕したのは、殆ど沖縄の人だったんですって。内地人の犠牲が少なかったのは、せめてもの救いだったんですって」
そう、差別とは命の差別まで含む。命に軽重を生じせしめる。「これで、あんたちと同じ」記事題名の由来は、帰郷したその沖縄女性が沖縄風の名前をヤマト風に改姓改名して、<「これで、あんたたち(本土)とおなじでしょ・・・・」>と内地の日本人と同等の立場に立てたとしたときの述懐である。
しかし、沖縄人がいくらヤマト風を装っても、沖縄の人間の命を自分たちの命よりも一段低く見る本土の人間の意識はそのまま残る。
内地の〈奥さん〉の「沖縄の人だったんですって」の「人」は丁寧語であろう。「どこそこの方(かた)」と同じく、よその国やよその土地の人間を指すときの日本人得意の丁寧語となっている。「中国の人」、「中国の方」、「韓国の人」、「韓国の方」――というふうに。だが、「沖縄の人だったんですって」の場合は言葉は丁寧語を当てていても、込められている意識は本人は気づいていなくても、〝丁寧〟の意図とは反する差別意識を含んでいる。政治家がよく使う「国民の皆様」と同様に、丁寧語・敬語等が額面どおりの丁寧さを表していないことの証明であろう。
沖縄上げてのそういった(皇民化・内地化の)努力にも関わらず、戦争では本土防衛のための捨石(結果的に)とされた上に敗戦と同時に1972年までアメリカの統治下に置かれる内地が味わわない辛酸を舐めされられた。
【捨石】――「囲碁で、より以上の利益を得るために作戦としてわざと相手に取らせる石」(『大辞林』三省堂)
沖縄の辛酸に対して、それ相応の代償で報いるならまだしも、米軍基地の集中と失業率全国一の名誉が戦後経済大国日本の富の配分として与えられた報奨であった。〉(《集団自決「軍強制」を修正検定 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》)
その戦後――
戦後の沖縄―「Wikipedia」 アメリカの統治による琉球政府
「アメリカ合衆国による沖縄統治」を参照
戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。(土地を接取され、住む場所を失った住民はテント式の収容所に強制移住させられる。)
1952年(昭和27年)4月28日発効の日本国との平和条約で、潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから県民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、返還する気は全く無かったようである。
1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。 |
戦後本土にも米軍基地は設置されたが、日本の1951(昭和26)年サンフランシスコ講和条約締結後も米軍軍政下に置かれた敗戦国の国民としての地位を沖縄県民が“甘受”させられていたその沖縄の構造を歴代の日本政府は米国を上に置き、日本を下に置いた同じ構造で“甘受”し、1972年の本土復帰以後もその構造を既成事実として、過重な基地負担を沖縄に過重なまま押し付けるのみで見るべき基地環境の改善も行わない不作為に終始し、現在に至っている日米同盟に於ける沖縄の米軍基地の現状――過重なままの基地負担ということではないだろうか。
歴代日本政府はアメリカに対して基地負担に限らず、外交政策に於いても内政問題に於いても主体的・自律(自立)的な行動を取ることができなかった。
このことを記憶しなければならない。
だが、沖縄及び沖縄県民は今、既成事実に乗っかり、不作為を常としている日本政府に対して現在の基地を含めた沖縄の既成事実を変えるべく主体的・自律(自立)的行動を取ろうとしている。
このことも記憶しておかなければならない。
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