安倍晋三の教科書検定基準見直しは地方分権の流れに反する国家主義的立場からの中央集権の強化に過ぎない

2012-12-13 11:16:01 | Weblog

 2012年衆院選自民党マニフェストには「教育の立て直し」の方法の一項目について次のように記述している。

 〈子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう、教科書検定基準を抜本的に改善し、あわせて近隣諸国条項も見直します。〉――

 時代は地方分権の流れにある。国が検定を手段として教科書内容の決定に介入して大枠を決め、その大枠を地方に一律に強いる教育方法は国家権力による一律的な強制であるというその一点によって中央集権体制の構造を踏襲している。

 検定を用いたこのような教育の中央集権体制は日本の教育が暗記教育となっているからこそ成り立つ一律性であって、この一律性が逆に暗記教育を補強する力となっている。

 暗記教育の構造を取らずに不可能な、日本全国似たような知識・情報を児童・生徒に学ばさせるという一律性である。

 12月12日(2012年)、「日本未来の党」の小沢一郎氏も日本外国特派員協会で講演、自民党の教科書検定の見直しを批判しているそうだが、残念ながら、発言自体を伝えている記事がなかった。

 安倍晋三が「教科書検定基準を抜本的に改善」して、「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書」とすると言っていることは、その方向の内容へと一律性を強化することを意味する。

 国家権力による一律性の強化は国家主義の力学を衝動として初めて可能となる。

 安倍晋三は本質的には国家主義者であるゆえに、知らず知らずのうちに国家主義を発動することになっている。

 文部省のHPから、「教科書検定の意義」と「教科書検定の必要性」を見てみる。

 《検定 3.教科書検定の趣旨》文部省HP)
   
 〈教科書検定の意義

 我が国では、学校教育法により、小・中・高等学校等の教科書について教科書検定制度が採用されています。教科書の検定とは、民間で著作・編集された図書について、文部科学大臣が教科書として適切か否かを審査し、これに合格したものを教科書として使用することを認めることです。

 教科書に対する国の関与の在り方は、国によって様々ですが(表2参照)、教科書検定制度は、教科書の著作・編集を民間に委ねることにより、著作者の創意工夫に期待するとともに、検定を行うことにより、適切な教科書を確保することをねらいとして設けられているものです。

 教科書検定の必要性
 小・中・高等学校の学校教育においては、国民の教育を受ける権利を実質的に保障するため、全国的な教育水準の維持向上、教育の機会均等の保障、適正な教育内容の維持、教育の中立性の確保などが要請されています。文部科学省においては、このような要請にこたえるため、小・中・高等学校等の教育課程の基準として学習指導要領を定めるとともに、教科の主たる教材として重要な役割を果たしている教科書について検定を実施しています。〉――

 「適切な教科書の確保」はなぜ地方に委ねることができないのだろうか。委ねてこそ、地方分権であろう。

 「教科書検定の必要性」について、「全国的な教育水準の維持向上」「教育の機会均等の保障」「適正な教育内容の維持」「教育の中立性の確保」と要件を挙げているが、全国似たような知識・情報を一律的に詰め込んだ教科書を使って、そのような知識・情報を全国の児童・生徒に一律的に暗記させる、その成果を以って「全国的な教育水準の維持向上」とすることにどれ程の意味があるのだろうか。

 あるいは、「教育の機会均等の保障」だとすることにどれ程の価値があるのだろうか。

 全国的に似たり寄ったりの知識・情報を一律的に暗記させることを以って、「適正な教育内容の維持」とすることができるのだろうか。

 日本全国津々浦々、児童・生徒が洩れなく似た知識・情報を一律的に学ぶことができれば、確かに「教育の中立性の確保」と言うことはできる。

 金太郎飴の金太郎が棒飴の右にも寄らず、左にも寄らず、常に真ん中に位置しているという意味の中立性は確保できる。

 児童・生徒が学ぶべきは教師から与えられる知識・情報を単に暗記して丸のまま自分自身の知識・情報とすることではなく、自分の頭を通して考え、判断して自分なりの知識・情報へと高めていくことであり、そのような姿勢こそが自立性の獲得へとつながっていく。

 自分が学ぶ知識・情報を教師に全面的に頼るのではなく、自分で考えて判断して決めていくことによって知識・情報に関わる自立性が身につく。

 例えそれが知識・情報に関わる自立性であったとしても、そこから始まって他の方面に関わる姿勢でも自ずと自立性を育んでいくはずである。

 だが、全国の教師自身が国家主義的な教育の中央集権体制に飼い馴らされ、国が検定して与える教科書の全国一律的な知識・情報をそのまま「全国的な教育水準の維持向上」とか、「教育の機会均等の保障」とか、あるいは「適正な教育内容の維持」「教育の中立性の確保」等々を理由として児童・生徒に一律的に与えて、一律的に暗記させようとするのでは、児童・生徒に自立性獲得のキッカケを与えないばかりか、教師自身が全国的に一律に自立していない姿を立ち位置としていることになる。

 市町村単位で教師たちが民間の有識者を交えて話し合い、自分たちの責任で検定を経ない教科書を決める自立性を発揮可能とする、教育の国家主義的な中央集権体制から解き放たれたとき、その自立性にしても自ずと児童・生徒にも伝わって、そのことが習慣的となり、自立性確保の扉を開いていくはずである。

 児童・生徒の自己を主体として取るべき態度を決定していく自立性こそが社会意識や創造性を育む。

 暗記教育では社会に従属する姿勢を学ぶことはできても、それが国家主義的な中央集権体制が望む姿ではあっても、主体的な自立性は期待できない。

 自立性と国家主義とは相反する価値観であるのは断るまでもない。国家主義は個人を国家に従属させる構造を取るが、自立性は自我の確立、個人の独立を意味する。

 学ぶべきは自立精神に基づいた社会意識や創造性であるにも関わらず、安倍晋三は国家主義的な中央集権体制を取っている日本の教育になお一層の国家主義の血を注ぎ込み、その中央集権体制を強化しようと目論んでいる。

 「日本の伝統文化」を育むという美名のもと、国家を意識させようとしている。


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