既に多くの人の知るところとなっている事実に過ぎないと思うが、2013年10月15日付「asahi.com」――《慰安婦記録出版に「懸念」 日本公使がインドネシア側に》の記事を読み、その書物を手に入れて読んで初めて知った。
記事の内容は、〈駐インドネシア公使だった高須幸雄・国連事務次長が1993年8月、旧日本軍の慰安婦らの苦難を記録するインドネシア人作家の著作が発行されれば、両国関係に影響が出るとの懸念をインドネシア側に伝えていた。〉というもので、〈朝日新聞が情報公開で入手した外交文書などで分かった。〉としている。
以下、記事の内容を紹介する。
〈日本政府が当時、韓国で沸騰した慰安婦問題が東南アジアへ広がるのを防ぐ外交を進めたことが明らかになったが、高須氏の動きは文学作品の発禁を促すものとみられ、当時のスハルト独裁政権の言論弾圧に加担したと受け取られかねない。
当時の藤田公郎大使から羽田孜外相あての93年8月23日付極秘公電によると、高須氏は8月20日にインドネシア側関係者と懇談し、作家の活動を紹介する記事が7月26日付毎日新聞に掲載されたと伝えた。
この記事は、ノーベル賞候補だった作家のプラムディア・アナンタ・トゥール氏が、ジャワ島から1400キロ離れた島に戦時中に多数の少女が慰安婦として連れて行かれたと知り、取材を重ねて数百ページにまとめたと報じた。公電で作家とインドネシア側関係者の名前は黒塗りにされているが、作家は同氏とみられる。〉――
政府に都合の悪い情報である。既に特定秘密保護法が施行されていたなら、特定秘密扱いして30年60年と隠蔽を謀る危険性を抱えかねなかった。
要は発刊に圧力をかけざるを得なかった。書いてある内容が事実だからだろう。事実でなければ、事実でないと堂々と糾弾すればいい。
1日を適当に過ごしている適当人間で時間をあちこちに分散するために全部を読み通したわけではないが、『日本軍に棄てられた少女たち ――インドネシアの慰安婦悲話――』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・コモンズ)の2章程と、冒頭部分に挿入されている鈴木隆史なる人物による2013年3月と8月のインドネシア南スラウェシ州での元インドネシア人慰安婦に対する聞き取り調査を記述した、「私は決してあの苦しみを忘れらない、そして伝えたい」には明らかに日本軍によって14歳や15歳の少女に対して暴力的に略取及び誘拐罪を公然として行って従軍慰安婦に仕立てていた紛れもない事実が提示されている。
駐インドネシア公使が秘密を要することから藤田公郎大使が表に立つことを避け、自らが政府を代表する形で特定秘密指定を企てるべく出版に圧力をかけた書物内容の隠蔽工作=日本軍による未成年者強制連行の従軍慰安婦狩りの隠蔽工作だったということなのだろう。
先ず元従軍慰安婦に対する2013年3月と8月の聞き取り調査を書き記した鈴木隆史氏の「私は決してあの苦しみを忘れらない、そして伝えたい」から日本軍の未成年者略取及び誘拐の罪――暴力的強制連行を手段とした冷酷な従軍慰安婦狩りの事実を紹介したいと思う。
ミンチェのケース(2013年86歳)
14歳で日本兵に拉致される。
作者が訪ねて行くのを4日間知人の家で待っていて、話した内容。
ミンチェ「たとえ相手がどんなに謝罪しても、私を強姦した相手を決して許すことはできません。私はそのとき、『許してほしい、家に帰してほしい』と相手の足にすがりつき、足に口づけしてまでお願いをしたのに、その日本兵は私を蹴飛ばしたのです。
日本兵は突然、大きなトラックでやって来ました。私たちが家の前でケンバ(石を使った子供の遊び)をしているときです。私は14歳でした。(スラウェシ島の)バニュキという村です。日本兵は首のところに日除けのついた帽子をかぶっていました。兵隊たちが飛び降りてくるので、何が起きたのかとびっくりして見ていると、いきなり私たちを捕まえて、トラックの中に放り込むのです。
一緒にいたのは10人くらいで、みんなトラックに乗せられました。私は大声で泣き叫んで母親を呼ぶと、母が家から飛び出してきて私を取り返そうとしました。しかし日本兵はそれを許しません。すがる母親を銃で殴り、母はよろめいて後ろに下がりました。それを見てトラックから飛び降りて母のところに駆け寄ろうとした私も、銃で殴られたのです。
トラックに日本兵は8人ぐらい乗っていて、みんな銃を持っていました。トラックの中には既に女の子たちが10人ほど乗せられていて、私たちを入れると20人。みんな泣いていました。本当に辛く、悲しかったのです。そのときの私の気持がどんなものか、わかりますか。思い出すと今も気が狂いそうです。
それから、センカンという村に連れて行かれました。タナ・ブギスというところがあります。でも、どのように行ったのかは、トラックに幌がかけていたのでわかりません。着くと部屋に入れられました。木造の高床式の家です。全部で20部屋ありました。周囲の様子は、日本兵が警備していたので、まったく分かりません。捕まった翌日に兵隊たちがやってきて、強姦されました。続けて何人もの兵隊が・・・・・。
本当に死んだほうがましだと思いました。でも、神様がまだ死ぬことを許してくれなかったのでしょう。だから、こうして生きています。ほぼ6カ月間、私はそこにいました。
一人が終わったら、また次の日本人がやってくる。どう思いますか。ちょうど15歳になろうとしていたところで、初めてのときはまだ初潮を迎えていなかったのです。そこには日本人の医者(軍医)がいて、検査をしていて、何かあると薬をくれました。料理も日本兵がやっていました。インドネシア人が入って料理をすることは許されません。私たちと会話することを恐れていたのでしょう。部屋にはベッドなんてありません。板の上にマットを敷いていました。あるのはシーツだけです。
私は日本兵が他の女性と話している隙を見て、裏から逃げ出しました。このまま日本兵に姦され続けるくらいなら、捕まってもいいから逃げようと思ったのです。私自身が過ちを犯したわけではありません。〈神様どうか私を助けてください〉と祈り、近くの家に駆け込みました。
『おばさん、私をここに匿(かくま)ってください』
どうしたのかと訝(いぶか)る彼女に。すべてを話しました。
『日本兵が怖いのです。彼らは私を強姦します。耐えられません。本当に辛いのです』
彼女は私をかわいそうに思ってくれたのでしょう。『どこに帰るのか』と聞かれたので、『マカッサルへ帰りたい』と言いました。たまたま彼女の息子がトラックの運転手をしていて、彼女に男性の服を着せてもらい、帽子もかぶって、逃げたのです。とても怖かったです。とにかく耐えられなかった。
トラックで家まで送ってもらい、母親に再会できました。お互いに抱き合って喜んだ。彼女は私が6カ月も戻ってこないので、日本兵に連れて行かれて殺されたと思っていたようです。突然、目の前に死んだはずの私が現れて、母はとても喜んでくれましたが、他の親戚たちは私を受け入れてくれませんでした。嫌ったのです。親族の恥だと言って。
私が日本人に強姦されたこと話を母から聞いたようです。母にどうしていたのかと尋ねられたので、(慰安所に)連れて行かれたことを話しました。それを母が親戚に話し、みんなに伝わったのです。誰一人として私を受け入れてくれませんでした。ここではこのようなことが起きれば、親戚中が恥ずかしいと感じます。死んだほうがましだと、他の人に聞いてご覧なさい。私のような人が家族にいたらどうするか。『恥だと言って殺す』と答えるでしょう。父親も受け入れてくれませんでした。
母親だけが私を受け入れてくれました。彼女も日本兵に殴られていたからです。私が戻ったとき、母は病気でした。彼女が3カ月後に亡くなると、家を出ました。親戚の一人が、お前がここに残っていれば殺すと脅したからです。
私はそれからずっと他人の家で皿を洗ったり洗濯をしたりして生きてきました。結婚もしていません。一人で生きてきました。最初は小学校時代の友人の家にやっかいになりました。彼女の母親が私のことを好いていてくれましたから。本当のことを話すのは恥ずかしかったので、友人には嘘をつきました。
『私の父親が再婚して、その継母が私に辛く当たるので、一緒にいたくない。だから家を出てきたのだ』と、いつもそのように言い、家を転々としてきました。気に入られたなら、、しばらくいる。嫌われているなと思ったら、すぐに出て行く。そんな暮らしをずっと続けてきました。どれだけの家を移り歩いたのか覚えていません。この歳になるまでずって転々としているのですから。
彼らからお金はもらっていません。だって、お手伝いとして雇われたわけではなく、私が一方的においてもらっているのですから。持ち物は、ナイロン袋に詰めた一枚のサロンと二着の服だけ。荷物と呼べるものはありません。
私は仕事をしていなければ、あのこと(強姦)を思い出します。だから、いつも体を動かして働いているのです。あの辛さは、いまのいままで忘れたことはありません。そしていま、私の秘密を初めてここでしゃべっています。今日が最初です。他の人には恥ずかしいので話していません。でも、もうこの辛さには耐えられない。そこで私は決心したのです。これからどんどん歳をとって、しゃべれなくなっていきます。話を聞きたいという人がいたから、話すことにしました。私のつらい経験を話してもいいと思ったのです。
あの日のことは、いつも夢に出てきます。思い出すたびに泣いています。辛い思い出は、とても忘れることはできません。もし忘れられるとしたら、お墓に入ったときでしょう。生きている間は、決して頭から離れることはない。たとえ、その兵隊が自らの行為を悔いて謝罪したとしても、私は決して許しません。本当に日本兵は残酷です。ひどい。
いつも夢に見ます。いったい、どうしたらいいのか。いつになったら私は幸せを感じることができるのでしょうか。私はこの苦しみから抜け出したい。でも、苦しみは勝手にやってくるのです。どうすることもできません。私がこうなってのは、すべてあのことがあったから。日本兵にこんな目に遭わされなければ、苦しんでなんかいません。お金や謝罪では、消えないでしょう。わたしは、すべては神にゆだねています。人にはそれぞれの運命があります。それはどういうものかわかりません。それに、自分では好きなように変えられない。すべて神の手にゆだねられているのです。
神が私をかわいそうに思ってくれるのか。それとも、このままの人生を送れというのか。いずれにせよ、私は祈り続けています。私も他の人たちと同じような人生が送れるようにと。
あなた(作者)が、倒れている私を(話すことに)立ち上がらせてくれたのよ」(以上)
日本兵がトラックに乗ってきて暴力的に強制連行し、連行した先に軍医がいた描写はインドネシアのオランダ人抑留所から17、8歳のオランダ人女性を強制的に連行した際の元オランダ人従軍慰安婦の描写と重なる。
オランダ人女性を強制連行し、従軍慰安婦に仕立てたときも、未成年者略取及び誘拐の罪を日本軍として犯していたのである。
明治40年4月24日公布、明治41年10月1日施行当時の「刑法(明治40年法律第45号)」第224条は「未成年者を略取し、又は誘拐した者は、三月以上五年以下の懲役に処する」とある。
現刑法第224条は「三月以上七年以下の懲役に処する」となって、より重くなっている。これに婦女暴行の罪が重なるはずだ。
いわば刑法で罰せられると承知していなければならない未成年者略取及び誘拐の罪を天皇の軍隊である大日本帝国軍隊は白昼堂々と平然として犯していた。
ミンチェの証言でただ一つ不審なことは、強姦された女が家族や一族の中に存在することは家族の恥、一族の恥とされて強姦された側が爪弾きの排斥を受けることを知りながら、なぜ母親が親戚の者に話したのだろうかという事実である。自身が病気で万が一のことを考えてミンチェの身の上を親戚の誰かに頼まなければならなかったとき、どこへいくはずもない娘が6カ月間どこへ行っていたのだと聞かれて、仕方なく話したのだろうか。
証言全体の信憑性の疑いをこの一点に置いたとしても、少女が暴力的に拉致された事実は1998年7月から9月までインドネシアのジャワ島で調査を実施した《インドネシアにおける慰安婦調査報告》(倉沢愛子著)にも、「いずれのタイプの場合も連れていかれた時の少女たちの年齢は想像以上に低く、14-15歳というケースもかなりある」と記述してある間違いのない事実である。
既に触れたように間違いのない事実だからこそ、駐インドネシア日本公使が出版に圧力をかけざるを得なかったという次の事実を生じせしめたはずだ
この他にも道路を歩行中、日本軍兵士にトラックで拉致された少女の証言、馬に乗った4人の日本軍人が馬に乗せて拉致・誘拐した少女の証言と続く。
鈴木隆史氏は、「声なき女性たちに真摯に向き合う」と題して、次のように書いている。
〈私は5人の研究者による戦後和解を巡る共同研究の一環として、2012年からインドネシアの元「慰安婦」の聴き取り調査を行っている。2013年にスラウェシ州のマカッサル、タカラール、パレパレ、エンレカンなどに住む元「慰安婦」たちや「慰安所」の所在地を覚えている人たちにインタビューした。太平洋戦争後68年が過ぎ、彼女たちの高齢化は進む。全員が80代以上だ。多くの女性たちが、日本占領期に身に起きた過去を誰にも話すこと亡くなっていった。今回、インタビューできたのも奇跡に近い。
彼女たちを捜し出してくれたのは、「インドネシア兵補協会」のメンバーたちだ。代表のダルマウィさんの父親は兵補だった。元兵補たちは、郵便貯金として預けていた未払の給与の払い戻しを日本政府へ求めている。「アジア女性基金」の設立を知った彼らは、元兵補のネットワークを利用して、元「慰安婦」の名簿づくりを始めた。それなしには、彼女たちの消息を知ることはできなかったであろう。
インタビューからもわかるように、南スラウェシ州には「シリ(恥)」と呼ばれる慣習が根強く残っている。日本人には理解し難いかもしれないが、一族の女性が陵辱されれば、それは一族の「シリ」と認識される。犯した者が処罰されるのではなく、犯された女性が処罰の対象となり、一族の恥として殺されたり、親族との縁を一切断たれたりする。実際に、日本兵に強姦されたことを知られ、海に投げ入れられて殺された女性もいる。
だから、彼女たちは誰にも話せない。話せば命が危険にされされる。家族が知った場合も、親族にはめったに言わず、秘密にしてきた。そのことが、どれだけ苦痛であったろうか。強姦の被害にあっても、誰にも話すことができない。心の奥底ずっと隠し続けて、68年間を生き続けてきた。私の前で「初めて話をする」と言って過去を語った女性が大半である。
しかも、被害者は本人だけではない。その家族にも及ぶ。ドリさんの甥に当たる男性は、自らの父方と母方、そして妻の親戚に「慰安婦」にされた叔母がいる。インタビューの最中に彼は突然、号泣した。
「どうして、私の家族がこんな目に遭わなければならないのか」
彼女たち、彼らの言葉の一つひとつ、経験の一つひとつが、私の心に突き刺さってくる。返す言葉はない。あまりにも辛いその経験は、私が寄り添うことを拒否する。
私は1993年にジャワ島のソロで、元「慰安婦」のおばあさんに出会ったことがある。それはテレビの取材だった。しかし、その後は何もしてこなかった。彼女たちの存在を知りながら、誰かに伝えようとしてこなかったのだ。すでに、多くの元「慰安婦」たちはこの世にいない。
インドネシアでは、「アジア女性基金」から個人への補償金の支払いが期待されたが、実現しなかった。謝罪の言葉もなく、補償金の支払いもなく、人知れず亡くなっていった元「慰安婦」たちに、私たちはどのように償えばいいのだろうか。
彼女たちを、あたかも存在しなかったように語る人たちがいる。だが、彼らは、彼女たちに会ったことがない。会って話を聞けば、わかるはずだ。「存在しなかった」などと決して言えないことが。
もう一度、声なき女性たちの声に耳を傾けて、真摯に向き合いたい。まだ、間に合うかもしれない。私はそう信じている。〉――
では、『日本軍に棄てられた少女たち ――インドネシアの慰安婦悲話――』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著)から先ず第1章「甘い約束」を見てみる。
インドネシアを占領した日本軍が「留学話」の「甘い約束」で14、5歳の少女を慰安婦に狩り立てる内容である。
プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏は1925年生れ。「留学話」を聞いたのが1943年。18歳のときで、前年の1942年に日本の同盟通信社ジャカルタ支局にタイピストとして勤務、1年経過していた。
それから30年余経過した1970年代に「留学話」の「甘い約束」が当時新聞や資料、あるいは官報等の印刷物によって公告の形で告知されず、すべて口頭の伝達によってなされていたことからその事実を資料で証明することが不可能なため、聞き取り調査と聞き取りに対する証言によって事実の証明を行う方法で物語を進めている。
現地の新聞が日本軍の「留学話」を受けて旅立つ少女の誰それを記事にしていたなら、その記事を探し当てれば紛れもない証拠とすることができるが、記事にすることはできなかったはずだ。日本軍に不都合な事実として、日本軍政監部が検閲を行っていただろうからである。
日本軍政監部とはこの書物の注に、「太平洋戦争中、オランダ領東インド=インドネシアを占領した日本軍が設置した軍政の中枢機構」と説明されている。
要するに日本軍は自らに不都合な事実、天皇の軍隊として隠しておきたい事実は文字・活字に残さないようにしていた。全て口頭の伝達で行っていた。
これはインドネシアに限った事実なのだろうか。日本政府は、特に安倍晋三は日本軍による従軍慰安婦の強制連行は資料が残されていないことを唯一の根拠として存在しなかったこととしているが、日本軍が資料として残さない、いわば証拠を残さない方法で暴力的・強制的従軍慰安婦狩りを行っていたとしたら、しかも未成年の少女を未成年者略取及び誘拐の形の強制連行を日常的に行っていたとしたら、証明を資料に求めるのは事実の歪曲に相当することになる。あるいは戦前の日本軍が持っていた一面を覆い隠す歴史の歪曲ともなる。
聞き取り調査に対する証言が既に事実を証明していることは鈴木隆史氏の2013年3月と8月のインドネシアでの聞き取り調査、倉沢愛子氏の1998年7月から9月までの同じインドネシアのジャワ島での聞き取り調査でも明らかになっている事実である。
先ず国営アンタラ通信スラバヤ支社の元責任者スリヨノ・ハディ(1929年生れ)氏の1978年聞き取りの際の証言。
スリヨノ・ハディ氏「兄が1943年に話してくれたところでは、日本軍政監部は娘を持つ両親に対して、娘の名前を速やかに登録するよう命じました。娘たちを学校に入学させるため、というのが登録の理由だった。
(私が1943年から1945年まで居住した中ジャワ州の)ウンガランでは、15歳から17歳までの少女5人が登録を終え、この内の一人は兄の親友の娘さんでした。登録した5人はその後の手続を進めるため、スマラン(中ジャワ州の中心都市)に連れて行かれました」――
スラバヤ(東ジャワ州都)のタンジュン・ペラック港の元造船工のイマム氏(1931年生まれ)の証言。少年や少女たちを乗せた船での輸送が始まったのは1943年。
イマム氏「私の実兄ユフスは当時18歳で、溶接工をしていたときに日本軍政監部の留学話を受け、シンガポールへ船で連れて行かれました。兄によると、船には多くの少女たちも乗っていましたが、船名や少女たちの人数は覚えていません。シンガポールに近づいたころ、魚雷が命中し、船は大破したそうです。兄は漁船に救助されて無事でしたが、『少女たちは全員死亡しただろう』と話していました。兄は、恐怖心もあってシンガポールにそのままとどまり、帰国したのはインドネシア独立後でした」――
「留学話」の「甘い約束」で釣ったのは未成年の少女だけではなかった。未成年の男子もいた。少女だけ募集する「留学話」は容易に疑いを抱かせ、怪しまれる。事実らしく見せるために男子の留学も必要であった。あるいは何人かは実際に留学させて、自らにも事実だと納得させる演出さえ行った可能性も否定できない。
作者は日本軍の占領時代には都合の悪いニュースや失敗例を知られるのを恐れて、上記事件等が公表されることはなかったと書いているが、このことは各地戦闘に於ける大敗北を逆の大戦果と公表することを常とした大本営発表が何よりも証明している。
インドネシア人の親の中には自分たちの社会的地位を守るために自ら娘を「留学話」に進んで提供した者もいたと書いてある。勿論、そのように至る過程には日本軍による有形無形の強要・強制があったはずだ。
留学に同意し、日本兵に連れて行かれたのち、娘の行方・消息が途絶えてしまい、親が懸命になって捜す話が続く。
皮肉を込めて言うと、「留学話」の「甘い約束」は大勢の日本兵が幌付きのトラックに乗ってきて遊んでいる少女や道を歩行している少女を力づくでトラックに乗せて人攫いのように攫っていく慰安婦狩りよりも遥かに紳士的で、頭を使った遣り方と言うことができる。
第5章「ブル島に棄てられた少女たち」を見てみる。
作者は1965年、インドネシア共産党関係者とされ、当時のスハルト政権の軍当局に拘束され、1969年8月に政治犯流刑地のブル島に10年に亘って送られている。ブル島に棄てられたのは政治犯だけではなく、元少女の「慰安婦」も棄てられ、50歳代に姿を変えていた。
ここでは作者自身の直接の体験ではなく、作者と同様にブル島に政治犯として棄てられた仲間たちの体験談として語られている。
流刑から3年後の1972年に仲間の一人(スタント氏)が中ジャワ出身の年齢50歳代の二人の「棄てられた少女たち」に出会う。
スタント氏「どうして、このようなところにいるんですか」
「そう、昔は勉強を続けるために日本へ向かうはずでした」
スタント氏「それなら、なぜここに」
「分かりません。日本軍が私たちをここに連れてきたのです」
スタント氏「何年のことですか」
「1944年です」
二人共、それ以上詳しい話はせず、家族や知人に合わせる顔がないという理由で、戻るつもりも戻れる希望もないと話したという。
仲間のスユド氏がスティナというスマランのジュルナタン村出身の中年女性と出会った話。
彼女はスマランのスレコ・ガス会社の重役の長女で、弟と妹が一人ずついて、日本で勉強させてくれるという日本軍の「甘い約束」に騙され、ブル島に連れて来られ、日本兵の「性の奴隷」とされた。その後地元のアルフル人の若者の助けを借りて同じ運命の二人の少女と共に脱出、やがて脱出を助けてくれた若者と結婚し、若者は今は村の村長をしていると身の上を明かした。
仲間のスティクノ氏が定住区の畑にいたとき、彼と同じスマラン出身と分かったスリ・スラストリと名乗る女性が現れた。
1944年、彼女がまだ14歳のとき、勉強を続けるために東京に送ってやると日本軍が約束した。両親は当初この約束を断り続けたが、日本軍はこの拒否を「テンノーヘーカ(天皇陛下)へ楯突くのと同じ行為だ」と言って両親を脅した。反逆にも似たこの行為への罪は重く、恐ろしくなった両親は泣く泣く「留学」に同意した。
スリ・スラストリ「1945年の初め、日本兵をもてなす軍酒場であらゆる下品な仕打ちと裏切りを受けたのち、228人が船に乗せられて、ある島に連れて行かれました。その島がブル島と呼ばれているのを知ったのはしばらくしてからです」
日本軍が敗れると、少女たちは何の手当も与えられないまま、放り出された。スラストリは地元の村に入り、村民と共に生活する道を選択するが、地元男性の所有物となり、同時にグヌン・ビルビル地区のある村の所有物となった。
強制結婚という意味らしい。
スワルティ「私は14歳で5年制の国民学校を終えていました。そんな折、日本軍政監部が私と同い年の少女たちに東京で勉強させる機会を与えると宣伝していると聞きました。この話は学校だけでなく、郡長、村長、区長、組長といった役人を通じても広められたのです。私は228人の少女たちから成る一団の一人として、船でジャワ島を出発しました。船名や船の大きさなど覚えていません。途中、島々に寄港しながら航海を続け、最後にブル島南部に着き、上陸させられます。大東亜戦争の栄光と勝利のためという口実を前にして、私たち少女は『甘い約束』をどうしても避けられず、それどころか、強制的に宣伝に従わされました。私たちはここで、すでに周到に用意されていた寮に無理やり入れられました。スマランから入ったのは私を含めて22人です。その後は筆舌に尽くせぬ苦難の連続で、それが現在も続いています」
ブル島についた少女たちは山々を越え、島の最高峰カパラットマダ山の麓にある日本軍の地下壕に収容され、少女たちはこの陣地内で、経験のないまま、日本兵の野蛮さの中に投げ込まれた。と作者は描写している。
少女たちはここで、尊厳、理想、自尊心、外部との接触、礼節、文化など、全てを失った。持てるもの全てを強奪され尽くしてしまった。
日本軍が敗北すると、少女たちはこの地下の陣地内に取り残された。日本兵たちが知らぬ間に彼女たちを置き去りにし、姿を消した。
要するに日本軍兵士は最初から最後まで紳士的に振る舞ったというわけである。
政治犯の仲間のスプリホノ・クスワディ氏の1976年2月4日記述からの「棄てられた少女たち」の一人であるカルティニの証言。
カルティニ「親は私を東京で勉強させたいと言いました。そう言われてからまもなく、ある日の夕方、サイドカーに乗って日本人が迎えに来て、クンダル(スマランの西方)へ連れて行かれました。持って出たのは制服二着。帯、それに道中の風よけにと母が手渡してくれた、ブランギ(虹)という色鮮やかな肩掛けだけです。その肩掛けはいまでも大切にしています。
クンダルには、同じような年齢の少女がたちが既にたくさん集まっていました。外国で勉強が続けられるため、誰もが嬉しそうです。セトロおばさんが私たちの世話を焼き、手洗い、水浴び場などの場所を教え、『船に乗ったら、帯をしっかり締めるように』と忠告してくれました。
クンダルには約一週間いて、日本人がいつも私たちの人数を確認していました。その後、全員が幌を被せた大きな車に乗せられ、出発。朝出て、昼ごろに目的地に着くと、厳しく警備された船に乗せられました。人数を数えていた日本人も同じです。
船には、別のところから集められてきた少女たちが既に大勢いました。でも、みんなとは親しくなれませんでした。と言うのは、さっきの日本人にずっとつきまとわれていたからです。いやらしいか笑いを浮かべながら身体を触り、口をもごもごさせ、『お前はきれいだ』などと言いながら、両腕を舐めまわしました。恐ろしくなり大声を上げましたが、頭のはげたこの日本人は、私の悲鳴を聞いてもやめようとしません。そうです、母からもらった虹色の肩掛けが流れ出る涙を受けとめてくれました。
助けてくれる人はいません。船室に連れて行かれ、この肩掛けで顔を隠されました。日本人は私を寝かせ、そして・・・・・。
気がついて起きようとすると、全身の力が抜けました。洋服は破れていて、全身に痛みがあります。正直に言って、いまの私はもう年を取り、恥じらいもなくなりまして。局所が腫れていたのです。泣きました。でも、泣けば泣くほど、日本人は何度もやって来て、乱暴を繰り返します。結局、私は気を失いました。こんな状態が涙の枯れるまで続いたのです。
着替えようとしましたが、衣服を入れてあるバッグが見当たりません。船がどこかに着いたとき、私はまだ船室にいました。何回気を失ったか分かりません。もうきれいな身体ではなくなってしまったのです。ある朝、太陽が昇り始めたとき、船を降りました。あのはげた日本人から解放されて、どんなにほっとしたことでしょう。
私たちは一軒の家に連れて行かれました。クンダルからの男はもういませんでしたが、頭のはげた日本人が大勢いました。日本人が何とか上品さを保っていたのは、数日間だけです。その後、私は四人の日本人の相手をさせられます。日本人からは『娘さん』とか『賄いさん』などと呼ばれ、言いつけられた仕事をやらされました。夜になると、男たちは私を弄んだのです。他の少女たちも同じような悲惨な目に遭っていました。
日本人は何も与えてくれず、着る物にも不自由しました。ジャワ語を話す日本人がスカートを一着くれたことがあります。でも、この人と話す機会もありませんでした。スマランから来た知り合いの少女二人を連れて、モロタイ島に移ったからです。友達の一人はこのような苦しみに耐えきれずに、ついに息を引き取りました。マラリアに罹っていたようです。昼も夜も日本人の面倒を見なければなりませんでした。日本人の仕事は、海岸で石を運ぶ、『ロームシャ(労務者)』たちの監督です。
しばらくして中国人女性の一団がやって来て、私は日本人と夜をともにしなくてもすむようになりました。病気がちだったからです。そんな折り、脱走の機会があり、森に逃げ込んで、サゴヤシの芯から、澱粉を採る作業をしていた地元のアルフル人に出会いました。誘われるまま、一つ屋根の下で家族のように暮らすことになったのです。でも、つかのま、また一人となったため逃げ出し、いまの夫に出会いました」――
「日本人」が日本軍兵士なのか民間人なのか最初は分からなかったが、「ロームシャ(労務者)」とは、「注」には、〈日本軍の占領下、インドネシア内外の劣悪な環境のもとで重労働を強いられた人々。とくに日本軍政時代を経験した者たちにとって「ロームシャ」は恐怖感と忌まわしい記憶を伴う言葉となっている。人口の多いジャワ島出身の島民が多く、確実な数字はないが、その数は最大で400万人とされる。
自ら応募した者もいたが、多くの場合、強制的に動員され、満足な賃金も得られぬまま、炭鉱、鉄道・飛行場建設などの現場に送られた。過酷な条件下、多くが病気などで死んだ。なかでも、タイとビルマをつなぐ「泰緬鉄道」の建設現場に送られた者たちは辛酸をなめ、多くの犠牲者が出たほか、日本軍降伏後もインドネシアに戻れぬ者たちもいた。
また、1970年代初めにはインドネシア映画「ロームシャ」が上映中止となる事態が起きる。地元紙などは、反日感情の高まりを恐れた日本政府側が中止を要請したためと示唆する報道を行った。〉とあり、その監督をしていたというから、日本軍兵士だと分かる。
但し日本軍兵士を「頭のはげた日本人が大勢いました」と表現するのは証言として不審を抱かせるが、頭のハゲていた日本人に少女だった彼女が最初に姦され、それが何度も続いたショックが余りにも強く、長い間尾を引いたために、最初は頭がハゲている日本兵ばかりではなかったが、心理面でいつの間にか日本兵の多くが頭がハゲていると思い込んでしまう記憶の固着化が起きてしまっということもあるはずだ。
読み通せば、まだまだ多くの証言を目にすることができるはずだが、多くを引用し過ぎて既に著作権侵害の恐れも出ている。ここまで書けば、インドネシアの日本軍が、あるいは日本軍兵士が多くのインドネシアの少女たちを白昼堂々とトラックに乗せて連れ去る略取・誘拐を経て、あるいは表面上は正当性を装った「留学話」の「甘い約束」を手とした限りなくソフトな略取・誘拐を経て悪魔の姿を現す従軍慰安婦狩りを行っていた歴史的事実の証明はこれでもう十分過ぎる。
最後にインドネシアの従軍慰安婦で思い出すことは戦時中のインドネシアで海軍主計中尉だった中曾根康弘が兵士のために慰安所をつくってやった」としていることである。
このことは2013年3月5日の当ブログ記事―― 《安倍晋三の従軍慰安婦を「人攫いのように人の家に入っていって攫ってきた」の証拠はないを考える - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のように書いた。
〈戦争中旧日本海軍の主計官だった中曽根康弘元首相が『終りなき海軍』という本の中で次のように書いているという。
中曽根康弘「3000人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」(同書第1刷98頁)
中曽根がインドネシアで慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省が公開している文書「海軍航空基地第2設営班資料」の中からも見つかっているという。
問題は慰安所建設に関わっていたことよりも、日本軍兵士が現地人女性を襲ったという事実である。数が多いから、慰安所の建設に至ったのだろう。一人や二人のために慰安所を建設するはずはない。
この多人数が現地人女性を襲い、強姦するという、別の意味での日本軍兵士の集団的な暴力的強制性が慰安所建設で、そこで働く慰安婦の数を満たすために直接強制連行する可能性は否定できない。
何しろ襲って強姦する直接的経験を積んでいるのである。兵士自身が自ら進んで強制的に頭数を調達しなかったとは言えないはずだ。
文書が存在しない事実だけを錦の御旗として従軍慰安婦強制連行を否定しているが、日本軍及び日本軍兵士が担っていた威嚇的な強制性から軍自らによる強制連行か、兵士自らによる強制連行か、あるいは日本軍の強制性を体現した業者を仲介とした強制連行かを読み取るだけの認識能力が示されてもいい時期に来ているはずだ。〉――
このブログで書いた、〈この多人数が現地人女性を襲い、強姦するという、別の意味での日本軍兵士の集団的な暴力的強制性が慰安所建設で、そこで働く慰安婦の数を満たすために直接強制連行する可能性は否定できない。〉という予想した風景が予想で終わらずに、『日本軍に棄てられた少女たち ――インドネシアの慰安婦悲話――』という書物が証明しているはずだ。
そしてこの証明はインドネシアに限らず、中国や朝鮮半島でも適用することができるはずだ。ただ日本軍は強制的な従軍慰安婦狩り、従軍慰安婦強制連行の証拠を残さないために文字や活字を用いずに口頭の形で兵士たちの性欲処理政策を推進していたということなのだろう。
残された資料がないことを根拠として従軍慰安婦の日本軍による強制性を否定している安倍晋三や橋下徹に代表される歴史修正主義者・国家主義者たちは強制性を認めた『河野談話』の見直しまで要求している。
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毎回、鋭い指摘や考察に、大きく共感しております。
安倍政権支持率はいまだ高く、特にネットでは、ネトウヨ、ネトサポといった方々が”人数以上”に活躍しているため、国民全体が雰囲気として戦前の皇国主義に近づいているように感じます。
手代木さまの記事は、私にとって非常にありがたいものです。
どうかお体をお大事になさって下さい。
励ましありがとうございます。
冒頭の写真の目はインターネット上のヒトラーの目から取ったものです。
安倍晋三が戦前の日本国家に生きていたら、東條英機以上の政治家・軍人になることができたでしょうね。精神論だけを振り回した日本民族優越主義者としての東條英機に。