単細胞な「中国脅威論」 

2006-03-15 04:16:04 | Weblog

◆ 単細胞反応な「中国脅威論」 

 声高に「中国脅威論」が叫ばれている。

 国防予算が18年連続2桁の高い伸び率(06年度国防予算は、前年比約15%増)を示していること、その上、予算が何にどう使われているのか、実態が不透明なことが根拠となっている。

 04年11月の中国原潜の石垣島近海で発生した日本の領海侵犯や、同年の東シナ海の日中中間線に於ける中国側の強引な海底油田開発、それに小泉靖国参拝に端を発した中国国内での過激な反日デモ等に対する不快感が背景となって、「中国脅威論」に拍車をかけている面もあるに違いない。

 日本と中国との間に「現実的」に軍事的緊張関係が生じているわけでもないのに、民主党の前原代表がワシントンの講演で、「中国の軍事力は現実的脅威」だと勇ましくもぶった。ストレートに過ぎて、中国側から反撥を受けるのは当然で、一党の代表を務めるほどの政治家ならそのことぐらいは計算に入れておくべきを、中国を訪問して、望んでいた胡錦涛胡主席との首脳会談すら実現させることができなかったのは、愚かにも計算に入れておくことができなかったからだろう。

 問題は軍事予算の規模ではなく、意志である。全体的な国力が大人と子ども程にも差があった現実を無視してアメリカに日本は戦争を挑んだ、その意志である。何か問題が起きたとき、日本にしても世界有数の軍事力を擁している上に、世界1位の突出した軍事力を持つ同盟国であるアメリカの太平洋軍が中国周辺の日本やその他を基地として中国に向けて兵力を展開している状況下で、中国は日本に攻撃する意志を具体化できるだろうか。具体化したとしたら、例え日本が相当な打撃を受けたとしても、中国はかつての無様な日本の二の舞を演じるだけで終わるに違いない。かつての日本ならいざ知らず、歴史を学んでいなければならない今の中国がそこまでバカを犯す「意志」を発揮できるだろうかと言うことである。

 民主党は今年年2月に「見解案」としてだが、中国が日本に対して軍事的行動を起こそうとする「意図」は認めがたいとして、前原代表の「現実的中国脅威論」を事実上棚上げしている。「脅威」が実態的な形を取っていないと認識したということなのだろうが、棚上げという面倒を取らなければならなかったこと自体、当初の判断が外交的な面から言っても、ミスっていたことを示している。前原代表は勇ましいだけでは外交は成り立たないことを知るべきである。

 アメリカ国内にも、あるいは政府内にも「中国脅威論」を主張する勢力が無視しがたく存在する。中国を対象に兵力を展開しているのも、中国の軍事力と体制の違いを考慮に入れてのことだろうが、その一方でアメリカ政府は今回、アメリカ軍と中国軍の交流を決定している。敵を知り、敵に影響を与える戦略なのだろう。

 アメリカの中国に対する敵を知る戦略は、軍の交流だけにとどまらない。交流に先んじて中国語を「アラビア語やロシア語などと並んで『重大言語』の一つに位置づけ」、学校での語学教育を通して「情報収集力や対外発信力を高め」(06年1月28日・朝日新聞夕刊)る国家安全のための戦略(『国家安全言語戦略』)を今年の1月5日に打ち出している。

 尤も学校での中国語学習はアメリカでは既に広い範囲で行われていて、「シカゴの公立校に中国語の授業が初めて取入れられたのは99年」(同記事)だという。元々大国としての潜在力を持っていた中国の、潜在力を裏切らない経済成長と世界的な影響力拡大に合わせてアメリカらしく視野広く対応した動向でもあったのだろう。

 オレゴン州のポートランドでは、「1日の授業のうち半分が英語、半分が中国語というプログラムが一部の幼稚園から高校まで行われてい」て、「今年はこのプログラムをオレゴン大学にも拡大して、『中国語エリート』養成を目指す」計画だそうだが、「年間70万ドルの予算をつけたのは国防総省」(同記事)だとは、『国家安全言語戦略』に添った措置だとしても、国家戦略の実現に向けた長期的視野に立ったプランは見事で、驚きでさえある。

 外国語の習得は、単に会話が可能となることを超えて、会話を通してそれぞれの国の今を生き、生活している人間がそれぞれに持つ文化の相互的な習得に至る。人的交流が相互理解を生む所以であろう。

 日本は政府予算でここまでするだろうか。考えつきもしないだろう。「中国脅威論」を言い立てるだけが精々ではないか。靖国神社参拝強行で対中韓政治・外交が停滞したなら、それを埋め合わせる外交方策を講じる責任が参拝者本人である小泉首相にはあるが、打つ手を見い出せない始末である。このことは内外から日本の政治・外交に戦略性が認められないと酷評される象徴的シーンの一つに挙げることができる。

 中国の軍備増強政策に対しては、中国はいずれの外国とも軍事的危機関係にあるわけではなく、国家指導者の第一番の義務は国民の衣食住を過不足なく、より公平に近い形で保障することであることを考えるなら、軍備増強よりも、都市と農村との経済格差・生活格差の是正や住民の健康に関わる工場廃水や工場煤塵に対する環境汚染問題の改善・整備により多くの国家予算をかけるべきだと、牽制球を投げることも、軍備増強を意識の上で悪と仕向ける戦略の一つに挙げることができるだろう。

 北朝鮮に対しては、一国の体制の維持は国民の生活を保障することによって可能となるのであって、核兵器の開発によってではない。逆に核兵器開発に向けた乏しい国家予算の偏った注入は、国民の飢餓・餓死の解決に何ら役立たないばかりか、解決を阻害する愚かな政策で、体制の維持とは反対に、内側から崩壊させる重大な要因とならないとも限らないだろうぐらいは言ってやるべきだろう。

 中国、北朝鮮とも内政干渉だと言ったなら、国民の衣食住を保障する義務は国家権力を担った人間の理としてあるもので、そのことは人種・民族・国籍を超えた世界的な普遍的価値でなければらないと言い返してやればいい。そうしない指導者は劣ると。
 
 手代木恕之
 HP「市民ひとりひとり」
 http://www2.wbs.ne.jp/~shiminno/


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