安倍晋三の戦前国家・戦争・戦死者を等価値に置いた8/15玉串料奉納と日本にのみ顔を向けた歴史認識

2017-08-16 08:08:48 | 政治

 敗戦から72年目の2017年8月15日、安倍晋三が自由民主党総裁特別補佐柴山昌彦を代理人に靖国神社に玉串料を納めたとマスコミが報じた。

 柴山昌彦「安倍総裁の指示を受けて、先の大戦で尊い犠牲を遂げられた先人のみ霊に謹んで哀悼の誠を捧げ、恒久平和への思いを新たにした。私費で安倍総裁と私の分の玉串料を納めた。安倍総裁からは『参拝に行けずに申し訳ない。しっかりお参りをしてほしい』と言われた」(NHK NEWS WEB

 安倍晋三も同じ8月15日に日本武道館で行われた政府主催の全国戦没者追悼式挨拶で、「私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧(ささ)げられた皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであります」と、戦死を「尊い犠牲」と価値づけている。  

 玉串(=榊)とは昔は榊の枝を神社に供えていたが、それをのし袋に入れた金銭に代えたことから「玉串料」と呼ばれるようになったとか。神社側は木の枝を供えられるよりも金銭が供えられれる方が有り難かったのだろう。

 有り難くないことは遠ざけられる。

 「先の大戦で尊い犠牲を遂げられた」
 
 戦死を“尊い犠牲”と価値づける。例え「自存自衛」と名付けようと、断るまでもなく、日本の戦争は戦前の日本国家が起こした戦争である。日本国家が起こした戦争に於ける戦死という犠牲を“尊い”と価値づけるということは、その戦争を正しい戦争と価値づけていなければ出てこない発想であろう。

 戦争を正しい戦争と価値づけている以上、その戦争を起こした国家を正しい国家だったと価値づけていることになる。

 いわば戦前の国家とその戦争と戦死者を等価値に置いた発想が“尊い犠牲”という価値づけとなって現れている。

 逆に間違った戦争だと価値づけていたなら、“尊い犠牲”という価値づけはどこからも出てきようがない。“悲しい犠牲”、あるいは“哀れな犠牲”、“腹立たしい犠牲”等々としか価値づけようがないはずである。

 実際にも間違った国家による間違った戦争だと歴史認識している多くの日本人はその犠牲を憤りや悲しみの感情で把握している。

 靖国神社に参拝して、そこに祀られている戦死者を追悼するに当たって国家の戦争のために「尊い犠牲を遂げられた」と価値づけるということは参拝する本人が意識していようといまいと戦死者の背後に戦前の日本国家とその戦争を置いていて、追悼を通してその国家と戦争の正しさを再認識しているのである。

 だからこその国家とその戦争と戦死者に対する等価値の価値づけであり、戦死者に対しては、“尊い犠牲”という価値づけが可能となる。

 それは参拝に代えて玉串料を支払う場合に於いても同じである。追悼という精神行為に関しては同じだからである。

 そしてこういった等価値観は日本という国にだけ顔を向けていることによって可能となる。

 このことの理由は不要であろう。

 安倍晋三が8月15日に日本武道館で行われた政府主催の全国戦没者追悼式で天皇が過去の戦争に対する深い反省と不戦の誓いを述べたのに対して〈アジア諸国への加害と反省に5年連続で言及しなかった。〉と「朝日デジタル」が伝えていたが、戦前の日本国家とその戦争を正しいと意義づけている以上、当然な態度と見なければならない。
   
 そして靖国神社を参拝するにしても、玉串料を納めるにしても、真榊を奉納するにしても、戦争で被害を与えたアジア各国に対してではなく、戦前の日本国家と戦争と“尊い犠牲”と価値づけている戦死者のみに、それらと対面する形で心の顔を向けているのであり、そういったことが靖国神社に対する追悼の形となっているのである。

 安倍晋三がこのような歴史認識に立っているからこそ、全国戦没者追悼式で日本の戦前の戦争での加害と反省に触れずに、その結果まるで日本だけが受けたかのような表現となるのだが、既に触れたように同じく日本という国にだけ顔を向けて、「戦争の惨禍を、二度と、繰り返してはならない」と何ら矛盾を感じずに誓うことができる。     

 安倍晋三、その他の戦前の日本国家とその戦争と、その戦争の犠牲者である戦死者を等価値に置き、尚且つ日本という国にだけ顔を向けた「尊い犠牲」、あるいは「戦争の惨禍」は極めて危険な歴史認識と見なければならない。

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