安倍晋三のウソだらけの米議会演説「先の大戦に対する痛切な反省」と靖国参拝・真榊奉納との矛盾

2015-05-02 09:10:55 | Weblog



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

《5月3日(日)小沢一郎代表テレビ出演のご案内》

     NHK日曜討論《憲法記念日特集『安全保障法制を問う』》

     ◆日時:平成27年5月3日(日)午前9:00~11:00
     ◆内容
      ○安全保障法制の全体像について
      ○集団的自衛権の行使容認について
      ○外国軍隊への後方支援について
      ○国連PKOなどへの協力について          

《5月1日「生活」機関紙第23号(電子版)発行ご案内》    
     
     『生活 機関紙23号』

     ◆憲法を語るシンポジウムから読み解く安倍政権憲法改正の本質
     ◆山本太郎代表の国会レポート
     ◆玉城デニー幹事長アメリカ・レポート
     ◆第189回国会活動報告
     ◆談話:危険極まりない日米防衛協力ガイドライン改定

 安倍晋三が2015年3月29日午前(日本時間30日未明)、日本の首相として初めて米議会で演説、大方のマスコミが先の大戦に対して「痛切な反省」を言葉にしたが、「侵略」や「お詫び」といった言葉は口にしなかったと伝えた。村山談話との比較だろう。

 安倍晋三「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません」・・・・・・

 問題はこの言葉が安倍晋三の心からの“痛切な”思いから発した、いわばこの思いを思い通りに常々歴史認識している言葉かどうかである。

 そんなはずはない。安倍晋三の靖国参拝の歴史認識が既にそのことを証明している。 

 今回安倍晋三は訪米するからだろう、靖国神社参拝は控えて、春の例大祭初日の4月21日に真榊の奉納に代えて済ませた。真榊奉納に代えたとしても、戦死者を顕彰し、その顕彰を通して戦前日本国家をも顕彰していることに変わりはない。

 常々ブログに書いていることで、繰返し書くことになるが、靖国参拝は決して戦没者のみの追悼で終わらない。「国のために戦い、尊い命を捧げた」、あるいは「国のために尊い命を犠牲にした」と追悼し、顕彰するのである。

 そのように追悼・顕彰している以上、「国のために」の「国」は「尊い命を捧げる」に値する戦前日本国家だとしていることになる。あるいは「尊い命を犠牲にする」に値する戦前日本国家だとする追悼の儀式を行っているに他ならない。

 いわば戦死者の「尊い命」と「国」=戦前日本国家を等価値に置いた追悼を内容としている。

 もしその戦争が植民地主義から発し、国策の誤りに基づいた侵略を性格としたそれだと歴史認識していたなら、戦死者を追悼するためにそのような「国のために戦った」とか、そのような「国のために尊い命を捧げた」と、その行為を「尊い」とすることはとてもできないだろう。

 誤った国家に尊い命を捧げること自体、後に誤りだったとしなければ整合性が取れなくなるからなのは断るまでもない。

 但し、「誤った国のために尊い命を犠牲にすることになった」と追悼することはできる。当然、顕彰する文脈の追悼ではなく、その国を批判の対象として戦死者を国家による犠牲者とする文脈での追悼となる。

 だが、安倍晋三以下の靖国参拝者たちは後者の歴史認識ではなく、すべて前者の歴史認識に立っている。誤った植民地主義と誤った国策からの侵略戦争の犠牲者とする意味合いで追悼しているのではなく、戦死者の行為を「尊い」とすることで、その尊さを受けるに値する国家だとする性格の参拝となっている。

 戦前日本国家=大日本帝国国家の肯定以外の何ものでもない。

 当然、「先の大戦に対する痛切な反省」という言葉も、「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない」という言葉も、安倍晋三たちの靖国参拝が戦前の戦争を誤った植民地主義と誤った国策からの侵略戦争であるとは認めていない歴史認識に立っていることと矛盾することになって、その矛盾に整合性を与えるとしたら、その程度の歴史認識を示さなければ周囲が収まらないだろうという予測のもと、単に口にした言葉――見せかけの言葉に過ぎないと見なければならない。

 このことは引き続いての発言、「これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません」と発言していることにも現れている。2012年9月12日の自民党総裁選挙立候補表明演説で、「河野洋平長官談話によって強制的に軍が家に入り込み女性を人浚いのように連れていって慰安婦にしたとという不名誉を日本は背負っている。孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」と言い、2012年12月26日の産経新聞インタビューで、「自民党は歴代政府の政府答弁や法解釈などをずっと引きずってきたが、政権復帰したらそんなしがらみを捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない。これは大きいですよ」と発言している。

 「河野談話」と「村山談話」に関わるこれらの歴史認識こそが安倍晋三のホンネであって、歴代総理の歴史認識と同じくするといった発言は見せかけのウソに過ぎない。

 ついでにブログに何度でも書いてきて、昨日のブログにも書いたことを書くが、安倍晋三の戦前日本国家肯定は2012年4月28日の自民党主催「主権回復の日」に寄せた安倍晋三のビデオメッセージにも表れている歴史認識である。

 安倍晋三「皆さんこんにちは。安倍晋三です。主権回復の日とは何か。これは50年前の今日、7年に亘る長い占領期間を終えて、日本が主権を回復した日です。

 しかし同時の日本はこの日を独立の日として国民と共にお祝いすることはしませんでした。本来であれば、この日を以って日本は独立を回復した日でありますから、占領時代に占領軍によって行われたこと、日本はどのように改造されたのか、日本人の精神にどのような影響を及ぼしたのか、もう一度検証し、そしてきっちりと区切りをつけて、日本は新しいスタートを切るべきでした。

 それをやっていなかったことは今日、おーきな禍根を残しています。戦後体制の脱却、戦後レジームからの脱却とは、占領期間に作られた、占領軍によって作られた憲法やあるいは教育基本法、様々な仕組みをもう一度見直しをして、その上に培われてきた精神を見直して、そして真の独立を、真の独立の精神を(右手を拳を握りしめて、胸のところで一振りする)取り戻すことであります」・・・・・・・

 日本の敗戦後、日本国家と日本人の精神は占領軍による占領政策によって悪しき形に改造された。改造される前の日本国家と日本人の精神は健全だったと価値づけていることになり、戦前日本国家=大日本帝国の肯定以外の何ものでもない。

 健全な日本国家と健全な日本人の精神が国策を誤るはずはないし、当然、そのような国家と国民が起こした戦争を侵略戦争と歴史認識するはずはない。安倍晋三が先の大戦について発言するとき、どのように「反省」の言葉を使おうと、例え、「侵略」や「お詫び」の言葉を入れようとも、常にホンネの歴史認識は隠して、周囲との関係で自身の立場を利することを目的とした見せかけの歴史認識に過ぎないだろう。


 それをマスコミは触れた、触れないと騒ぐ。アメリカ政府は「戦争への『痛切な反省』を表明し、『自らの行いがアジア諸国民に苦しみを与えた』と言及したことをわれわれは明確に留意している」(時事ドットコム)と評価する。

 滑稽ですらある。

コメント
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