パレスチナの取る道――世界を領土とせよ

2006-04-01 01:38:08 | Weblog

かつてのユダヤを倣う

 今回のイスラエルの総選挙で第一党となった中道新党カディマを重態入院中のシャロン元首相に代って率いるオルメルト首相代行はパレスチナの承認がなくても、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸からの撤退と2010年までの「国境」画定を唱えている。占領地からの撤退を支持する労働党が第2党となり、両党、その他との連立によって、パレスチナとの一方的な分離策は具体化への道を取ることになるだろうと見られている。

 一方パレスチナ側はイスラエルの存在そのものを認めない政策を掲げて武装闘争を展開してきた過激派ハマスが政権を握ったばかりの状況にある。ハマスが交渉に応じるのか、従来どおりにイスラエルという国家そのものを認めない方向で、パレスチナの地からの排除を目指してインティファーダ(イスラエル側から見たらテロ)を続行するのか。

 「国境」を議題に交渉に応じることは、その時点でイスラエルの存在を曲がりなりにも認めることになる。

 インティファーダが建設的な何かを生み出したり、何らかの発展につながっている事業の類ならば、継続する意味がないわけではない。ハマスの立場からしたら、パレスチナ領土の本来的な原状回復を最終目的とする建設的事業だとしているだろうが、現実には自国経済をイスラエルに依存している矛盾をまず以て抱えていて、そのイスラエルとの戦いで手にできる収穫は人的資源の消耗と産業の打撃による経済混乱、生活の低下といった、矛盾の上に矛盾を積み重ねる自滅行為といったところでしかない。

 イスラエルにしても、パレスチナ領土の原状回復は自身の生存権にかかってくるから、徹底抗戦に出ることは目に見えていることで、終わりのない混乱を双方から仕掛けていくだけの公算が強い。

 パレスチナは自らが立つことをまず考えるべきである。1947年の国連総会でのパレスチナ分割決議に添った領土の回復に向けて、いわば振り出しに戻って、そこから始める形で交渉のテーブルに着くべきだろう。と言っても、イスラエルとの共存を訴えているわけではない。

 世界は急速にグローバル化している。グローバル化に応じて、国境を自由に跨ぎ、世界を一つ舞台とした人間の往来と活動が激しさを増している。領土はもはやその絶対性を失いつつあり、国家の管理と自由な相互関係との二重性を持つに至っている。多くの人間がそのことに留意しないだけである。その流れを利用して、領土の分割を超え、世界全体を機会実現の領土とする、いわば領土の従来的性格の相対化を図るべきではないか。

 ユダヤ人はその逆をいって、イスラエルを獲得した。ならば、パレスチナ人はさらにその逆をいって、現在のグローバル化と同調し、世界を領土とすべきだろう。現在のパレスチナの土地から比べたら、世界は無限の広さと可能性を持つ。

 現在パレスチナ人の多くが自国で仕事を得ることができずに、イスラエルやアラブ諸国に出稼ぎに出ている。その送金はパレスチナGDPの相当部分を占めるというが、多くは単純労働で得た稼ぎだという。しかし、祖国に仕送りしたそのカネを優先的に子どもの教育に投資し、国もその予算の多くを教育政策に割き、小中教育の設備を整備充実させて、まずは子どもたちの知識・教養を高め、一定の年齢に達したなら、単純労働ではなく、さらに上の技術や学問を目指して留学や研修の形で海外に出すことを国の政策とする。

 他に誇ることのできる技術や知識を獲得した者がその国の企業に職を得るのもよし、研究所に勤務するのもよし、その国の国籍を獲得するのもよし、自国に戻って、パレスチナの発展に尽力するのもよし。それぞれの選択にかかっているが、世界を領土とする目的から言ったら、海外を恒久的な活躍の場とすることの方が優先事項とされるべきだろう。頭脳流出といった側面も弊害として生じるだろうが、100人が100人帰国しないわけではないだろうし、海外成功者は祖国の子どもの教育に何らかの手を差しのべる援助を慣行としたなら、教育投資の循環が教育そのものへの意識を継続的に高めて、次に続く者の教育意欲を刺激し、そのようにして得た教育の質がパレスチナ人一人一人の生産活動とその生産性を良質なものにしていくことに役立つに違いない。

 あるいは教育産業をパレスチナの一大重要政策として、各種研究所や大学といった教育機関、国際機関等を外国から誘致し、海外進出者のUターンの場とすることで、パレスチナ人頭脳流出の防御壁とすることも考えられる。

 勿論時間はかかるが、軌道に乗ったなら、1948年の第一次中東戦争からの現在までの時間を無駄に過ごしたことに気づくのではないだろうか。世界のグローバル化がインターネットの普及などによって情報の加速度的な伝達と流通にも及んでいて、その広範囲・迅速さの恩恵を受けて、従来以上のスピードでパレスチナ人の才能の底上げは可能となるに違いない。1975年のサイゴン陥落前後から始まった南ベトナム人難民の海外で教育を受けた年少者の少なくない者が高々30年の年月を経ただけで、その国で高度な職業に就くに至っている。

 かつて紀元前に国を失ったユダヤ人は流浪の民と化して世界各地に散り、「十九世紀なかばに西欧諸国でユダヤ人の解放が行われるまで、周知のように金貸しが彼らに許されたほとんど唯一の生業だった」(『ヒトラーとは何か』セバスチャン・ハフナー著・赤羽龍夫訳・草思社刊)が、多分そのことが幸いして、手に入れたのが歓迎されざる資産家の地位であったとしても、カネの価値に代わりはなく、他国人の仲間に入れない埋め合わせを金貸しの利子で得たカネをふんだんに使ってユダヤの仲間同士で、あるいは個々に読書や音楽、絵画や彫刻といった芸術鑑賞・趣味で肩代わりさせて自らの生活を充実させ、金貸しの裏に併せ持ったそのような私生活を親から子へ、さらに孫へと代々受け継いで2000年近くに亘った流浪の年月を満たしてきたのだろう。その成果が各種才能への開花を促し、単なる金貸しからの大いなる発展をもたらしたのではないだろうか。

 「おおざっぱにいって、十九世紀なかば以降、ユダヤ人が一部は天分により、一部は、否定できないことだが、彼らの強い結びつきにより、多くの国々の多くの分野で指導的な地位を占めるようになったのが顕著に認められた。とくに文化のあらゆる領域で、それにまた医術、弁護士業、新聞、産業、金融、科学および政治の分野でもそうであった」(同『ヒトラーとは何か』)

 ユダヤ人の「天分」は決して民族的に生来的なものではなく、幾世代にも亘る学問や芸術に対する継続的な親しみによって培われた才能であろう。食うや食わずの生活環境であったなら、読書や芸術に親しむ余裕は生まれない。才能を開花させる機会に恵まれるためにには親しむ余裕を十分に持てる資金(カネ)をつくり出すことから始めなければならない。

 ただでさえ差別や迫害を受けていたユダヤ人がナチスドイツのホロコーストを受けて、シオニズム思想に則った自国領土所有への意識(国家建設への意識)が高まったことは理解できるが、現在のグローバル化の世界にあって、領土を世界に向けた発信基地と考えた場合、領土は世界に於ける単なる一時的滞在地と化す。領土の相対化である。

 自国から一歩も出ない人間であっても、外国の生産物の(工業製品や農業製品だけではなく、映画や書物、絵画といった創作品まで含めて)恩恵を受けている。

 領土の相対化という観点から考えると、日本と韓国の間の竹島領有権の問題、中国との間の尖閣列島の領有権も問題も、小さく見えてくる。

 もし日本が自らの才能・技術に自信があって、日本の領土を超えて世界を舞台に活動できる力を持っているなら、すべてを譲れとは言わないが、二分割するとか、共同領有とする選択肢も可能ではないだろうか。だが、海外での活躍はインド人や中国人に見劣りがするのは、その伝統性から言っても、如何ともし難いようだ。
 「市民ひとりひとり」

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