日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





 何年経っても、この時期になるとさざなみ立つような感情から逃れることができません。

 6月4日は天安門事件(六四)17周年です。

 いまこれを書いている6月3日夜、1989年はこの時点ですでに人民解放軍の市民・学生に対する無差別な実弾射撃が始まっていたかと思います。正規軍が、完全武装の歩兵が自動小銃を空に向けてではなく、自国民めがけて直接実弾を発射したのです。

 装甲車(歩兵戦闘車?)や戦車までが投入され、「先鋒として敵陣突入」という役目通りのことを行いました。あのキャタピラに轢かれて両足を失った学生もいれば、人間としての形を留めずに文字通りミンチにされてしまった人もいます。もちろん身元などわかろう筈がありません。

 歩兵による射撃にはダムダム弾が使用されたとも言われています。誰が書いたものか、色々読んだので忘れてしまいましたが、当時現場にいた大学生の手記の中に、

「畜生、奴ら『開花弾』を使いやがった」

 と罵るくだりが出てくるものがありました。また2003年、中共による北京での中国肺炎(SARS)流行隠匿を告発して有名になった蒋永彦医師、この人が天安門事件当時北京の病院に勤務しており、当直医として被害者治療にあたっています。その手記の中にも、本来なら人体を貫通ないしは盲貫(体内に留まる)するだけの筈の小銃弾が、着弾とともに体内で炸裂していたため手の施しようがなかった、という記述があります。

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 上で「自国民」とつい書いてしまいましたが、これは私たちの感覚にすぎませんね。なぜなら厳密にいうと「人民解放軍」は中国共産党の軍隊であり、中華人民共和国軍ではありません。その立場からいえば、北京に屯集した市民や学生は国民であろうとなかろうと関係ありません。「党の敵」という認定(定性)がなされれば、容赦なく殲滅して構わない存在なのです。

 実際に民主化運動に対しては4月末にまず「動乱」認定があり、武力弾圧に際してはさらにランクアップして「反革命暴乱」と規定されました。インフラを傷つけることを恐れたのか、手榴弾が使われなかったのは幸いでした。

 何せ海外プレスが常駐する首都で起きた出来事です。そうでなくても民主化運動の盛り上がりで平時以上に報道陣が集まっていました。ですからこの事件、私たちの常識では考えられないショッキングな映像は全世界に流され、いまもネット上で入手することが可能です。

 私も日本のテレビでそれを何度となく見ることができました。ただ、事件当時私は上海に留学生として滞在していたため、そうした映像はリアルタイムではなく、半月後に外務省の「退避勧告」と母校の「帰国命令」によって日本に戻ってから目にしたものです。

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 北京の詳細な動きはわかりませんが、上海ではソ連のゴルバチョフ書記長(当時)来訪に合わせた5月18日と19日が市民も大挙参加して運動が最高に盛り上がった時期でした。その19日の深夜に北京市に戒厳令を敷くことが発表されるのですが、当夜、ふだんなら午前0時の「晩安」(おやすみなさい)を最後に放送を終了する上海人民廣播電台(地元の中波ラジオ局)が、23時半すぎから、

「上海人民廣播電台。各位聴衆,本台今天夜裏將有重要新聞要廣播,請注意収聴。中央電視台將播出重要新聞,請注意収看」
(こちらは上海人民ラジオ局です。放送をお聞きの皆さん、今夜半に重要ニュースを放送致しますのでこのままお待ち下さい。また、中央テレビ局は重要ニュースを放映しますので御留意下さい)

 という不気味な一節を繰り返していました。すでに地方から投入された軍隊が北京に入ろうとしていた時期です。何事が起きるのかと日本人留学生の有志(笑)は私の部屋に集まって固唾を飲んで待っていたところ、飛び込んできたのが北京が戒厳令に入ったというニュースです。これは容易ならぬことになった、と私たちは顔を見合わせました。

 そのころ、上海・外灘(バンド)の上海市政府庁舎前で夜通しの座り込みを行っていた多数の中国人学生たちの間では、

「上海にも軍隊が投入される」

 という想像ないしは虚言から恐慌が発生していました。要するにパニックになって、その場にいた学生たちが秩序も何もなく、我れ先にとその場から逃げ出したのです。

 そのとき現場にいた私たち有志のひとりである日本人留学生が逃げ出す学生をとっつかまえて、これはつまりどういう状況なのかを知ろうとしました。ただし中国語会話が不得手だったためメモを持ち出して、書いてくれと迫ったのです。

 パニックに巻き込まれなかったその留学生も肝が据わっていたものだと私は感心しましたが、その求めに応じ、逃げようとする足を止めて差し出されたメモにひとまとまりの文章を書き付けてくれた中国人学生も相当なものです。後で見せてもらったのですが、

「政府はついにファシズムというその本性を露わにした。民主化を求める我々大学生の愛国運動に対し……」

 といった内容の、それだけで演説原稿になりそうなしっかりとした文章でした。

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 ……ともあれ翌5月20日以降、市民の運動参加が激減し、学生は連日デモを繰り返していましたが、その勢いが5月末にかけて徐々に衰えつつあるのを私たちは感じていました。NHKの国際放送「ラジオジャパン」をはじめ、VOA、BBCなど海外の短波放送が伝える政情も、趙紫陽・総書記(当時)を筆頭とする改革派の敗勢覆うべくもないことを思わせました。

 つまり、上海では民主化運動がともすれば尻すぼみになりかねない状態にありました。そんな中で天安門事件が発生した、というのが驚きでしたし、市民や学生に軍隊が実弾射撃を行って武力弾圧した、というのも私たち外国人はもちろん、私と同世代だった中国人学生の想像をも超えていました。いや、文化大革命をくぐり抜けてきた老教師も、

「学生運動が失敗するだろうとは思っていた。思っていたが、こんな結果になるとは予想だにできなかった……」

 と、暗い表情で話してくれたものです。

 1989年6月3日の上海というのは、学生によるデモは行われていたものの、終業シーズン(中国は9月が新学期)の空気が漂うなか半ば惰性でやっているという気配がありましたし、学生リーダーたちの間でも今後の方針に関して対立が発生していた時期でした。

 その日、私たち留学生は農村ツアーに駆り出されました。生活感のない、外国人や地方からの視察団に見せる目的で作られた郊外のモデル農村を見学させられ、党書記の演説を聞かされ、そのあとは御馳走が出て教師ともどもビールで乾杯を繰り返しました。……不謹慎なようですが、上海はすでにそういう空気だったのです。農村見学は自由参加でしたから、デモが盛り上がっていれば私たちも加わらなかったでしょう。

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 一同いい気分になって学校に戻り、留学生宿舎の自室に引き揚げました。ただ習慣となっている上海人民廣播電台と短波放送での情報収集は欠かしませんでした。……すると、また夜になって上海人民廣播電台が不思議な放送を繰り返し始めました。北京市郊外で軍の車両が人身事故を起こし市民4名が死亡した、といったニュースを何回も繰り返すのです。どうやら何かが起きたらしい、いや起きているのかも知れない、とそこでまた有志一同が緊張して集まり、色々考えてみましたが答は出ません。

 ちょうど、「ラジオ日本」の夜のニュースの時間でした。これは海外への放送を前提としていないため、NHKのラジオジャパンと違い、条件がよくなければ聞き取れないほど雑音の入る放送でしたが、その夜は幸運にも聞き取ることができたのです。

 そこで入ってきたのが、北京で軍隊が学生や市民に無差別に実弾射撃を始めている、というニュースだったのです。あのときの戦慄はちょっと表現できません。そして、他に情報収集の手段を持ち合わせなかった私たちにはそれ以上何もすることはできませんでした。

 テレビは1階の応接室にありましたが、職員が帰るときにカギをかけてしまうために入れません(入ってもテレビではニュースを流していなかったと思います)。緊張と興奮が混ざりあった気分と手も足も出ないやるせなさを感じつつ、私たちはそれぞれ床に就くほかありませんでした。

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 なかなか寝つけなかったのですが、少し眠ったかと思ったところで部屋のインターホンが私に電話が来たことを伝えました。いまは知りませんが、当時は電話は宿舎職員の勤める服務台(宿舎受付)にだけ設置されていて、電話が来るとインターホンで該当者に知らせる仕組みです。

 時計をみると6時45分でした。こんな朝早くに……と思いつつ受付に下りて受話器をとると、何と日本の恩師が自宅からかけてきた電話でした。珍しく興奮した声で、

●北京で軍隊が学生や市民に発砲して死傷者が出ている。
●NHK(テレビ)は一晩中北京の映像を流した。発砲シーンもあった。

 という趣旨のことを手短かに伝えたうえ、「学校命令」として、

●外地(上海以外の地区)には出ないこと。
●デモに巻き込まれないように十分注意すること。デモ参加などはもってのほか。
●何かあったら御家人まで連絡すること。(同じ学科からの留学者では私が最年長だったので)

 ……との3項目を宿舎に貼り出しておきなさいと言われました。加えて最後に、つい最前線に飛び出してしまう私の性質を知る恩師は、

「御家人君、あなたも駄目ですよ。デモに参加したらいけませんよ」

 と念を押すように言われました。後日留学仲介業者からの連絡もあって、やはり同じことを念押しされてしまったのですが、結局この点だけは私は守れませんでした(笑)。まあ留学先が北京ではなく、オフサイドトラップにも引っかからなかった(1回だけ私服に尾行されて危ないことがありましたがw)という僥倖により、今こうしてブログを書いていられる自分がある訳です(真剣)。ちなみに一時帰国で恩師宅に挨拶に行ったとき「すみません約束を守れませんでした」と正直に白状したところ、恩師は上品に笑いつつ、

「そんなことわかっていますよ。わかっていますけど、一応言っておいただけです。ともかく無事でよかったですね」

 と言ってくれました。……まあそれは後日のことです。何はともあれまず仕事。貼り紙を作って貼り出し、一応後輩たちの部屋を回って一声かけておきました。

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 そういうことをしているうちに腹が減ってきたのに気付き、近くの馴染みの汚い麺屋に出かけようと校門を出たとき、ふと時計を見たら9時ちょっと前でした。あっこりゃいかんテレビのニュースをチェックしないと、と思ったとき、雲南出身のY君という私と仲のいい学生がのんびり歩いてくるのに出くわしました。

「おい大変だぞ。北京で軍隊が発砲したのを知っているか」

 と聞くと何も知らないのです。事態がよくわからずただ驚いてしまっている彼の腕をとって、

「もうすぐ9時だからテレビでニュースをやるだろう。一緒にテレビを観よう」

 と留学生宿舎に戻り、応接室に入ってテレビをつけました。

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 ほどなく9時です。背景が青一色でセットも何もない北朝鮮のテレビニュースを思い出して頂きたいのですが、最初にその青い背景に何の変哲もない大きな文字で、

「重要新聞」
(重要ニュース)

 という4文字が画面いっぱいに映し出されました。続いてやはり文字だけで、

「新華社消息/戒厳部隊遭到歹徒野蛮襲撃/被迫採取果断措施」
(新華社電/戒厳部隊は暴徒の野蛮な襲撃に遭遇し/やむを得ず果断な措置をとった)

「新華社消息/戒厳部隊平息反革命暴乱/進駐天安門廣場」
(新華社電/戒厳部隊は反革命暴乱を鎮圧し/天安門広場に進駐した)

 という画面が出て、その後北朝鮮のニュース同様女性アナウンサーが登場して、

「党中央の決定を断固擁護せよ」
「反革命暴乱を断固鎮圧せよ」

 といった『解放軍報』社説を読み上げました(戒厳令下ですから党中央機関紙の『人民日報』ではなく、人民解放軍機関紙の『解放軍報』なのでしょう)。現場の映像は一切ない、ただそれだけのニュースです。ただそれだけであることが、事態が緊迫していることを強調する効果をもたらしているかのようでした。

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 Y君はぼんやりして私の顔を見ています。私もこの異様な画面に呑まれていました。ただいつまでもそうしていられません。Y君には同じ学科のC君にこのことを急いで伝えてくれと頼みました。C君は私の学校の学生運動リーダーのひとりである上に、私にとって最も仲のいい学生のひとりなのです。そして急き立てるようにして2人で留学生宿舎を出て、校門の前でY君と別れました。

 私はともあれ食事です。自転車置き場を改造したような露天で汚い馴染みの麺屋へ行って自前の箸(箸持参はB型肝炎が流行していた当時の常識)でうどんのような麺をすすりました。すすりつつ、

●午後には上海大厦(ガーデンブリッジ=「外白渡橋」のそばにある高級ホテル)に香港の新聞(親中紙の『香港文匯報』と『大公報』)が入るからそれを買いに行く。

●買ったら大学に戻って戒厳令布告のときのようにC君にそれを貸す。

●C君はそれを江沢民(当時上海のトップ=市党委員会書記)に潰された『世界経済導報』編集部に持ち込んでガンガンコピーする。

●今夜か翌朝にはそれが南京路など市中心部の目抜き通りに貼りまくられることになる。

 ……などと行動計画を練っていました(すでに恩師のいいつけを破っているも同然w)。

 不気味な仮定ながら、上海にも戒厳令が敷かれるのだろうか、とも考えたりしました。当時、党中央は実際にそのつもりだったようで、事実軍隊が上海市をグルリと包囲するような形で待機していたそうです。最も郊外に位置する大学には戦車を目撃した学生もいた、という話も後日聞きました。

 それから数年後、香港でプロのチャイナウォッチャーに教えてもらったのですが、政治生命を賭けて上海での戒厳令実施に反対し続け、ついにそれを防ぎ切ったのは当時市長だった朱鎔基だそうです。ある意味、私の恩人といえるかも知れません。

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 現状に背を向けて、とりとめもないことを長々と書いてしまい申し訳ありません。情緒不安定になるこの時期だから、ということで諒として頂ければ幸いです。


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