岐阜市は令和3年1月29日、市内の金華山の山上部付近で進める岐阜城の発掘調査で、織田信長が築いたとされてきた城門「一ノ門」は、構造から信長の前に居城とした戦国武将斎藤道三が築いた可能性が高い、と発表した。岐阜城はこれまで信長が入城後に大改修したとの見方があった。滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「岐阜城は信長による独創性の高いものと考えられていたが、城の姿を大きく塗り替える」として、定説を覆す成果と強調している。
市は2018年度から山上部で本格的な発掘調査を始めた。本年度は一ノ門と天主の土台(天主台)周辺の石垣を調査している。
一ノ門は江戸時代の絵図や記録に出てくる門で、城の入り口に当たる。巨石と石垣を組み合わせた造りで、市は巨石を用いた理由について「来訪者を威圧しようとしたのではないか」と推察している。
一ノ門の調査は周辺の約180平方メートルで実施。周辺で倒れている巨石や石垣を調べたところ、門の構造が16世紀前半に美濃国守護の土岐氏が築いたとされる山県市の大桑城の「岩門」に非常に似ていることが分かった。土岐氏に仕え、後に追放した道三が、土岐氏と同じ技術を用いて築いたとみられる。道三は守護の居城にあった城門の構造を、美濃国の国主としての威厳を示すために取り入れた可能性がある。
金華山の山麓で以前行った信長居館跡の発掘調査では、巨石を使った構造の入り口が見つかっている。岐阜市は「信長は新しい城造りをしたというイメージがあり、居館と一ノ門の巨石も同じに見えたので、信長が築いたと考えてきた」と説明した。
調査ではまた、土中から瓦が発掘された。城の構造に瓦を使うのは、信長が岐阜城に入城した1567年以降に多く見られるため、市は「信長は道三が造った一ノ門を引き継ぎ、瓦ぶきの門に改修した可能性がある」としている。
天守台周辺の石垣調査は、昨年度に続いての実施となった。出土した瓦の模様や石垣の積み方の特徴から、昨年度の結果と同様に市は「石垣は信長が築いた可能性がさらに高まった」と結論付けた。
中井教授は「信長は城の中心となる天主台を造り、玄関先の門は道三が造った構造をそのまま活用した。信長は新しい城に改修したと考えられていただけに、どうしてこうなったか研究していきたい」と評価している。