うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0154. The Thomas Crown Affair (1968)

2006年09月30日 | 1960s
華麗なる賭け/ノーマン・ジュイソン
102 min USA

The Thomas Crown Affair (1968)
Directed by Norman Jewison, written by Alan Trustman. Cinematography by Haskell Wexler, music by Michel Legrand. Costume Design by Theadora Van Runkle (Miss Dunaway's wardrobe designer). Performed by Steve McQueen (Thomas Crown), Faye Dunaway (Vicki Anderson).



お話はご愛嬌として、服が愉しかった。主演は絶頂期のスティーヴ・マックィーン、ひたすらスタイリッシュでリッチで頭がよくて、完全犯罪を二度もやってのけるという「ありえない」役回りをつとめる。当時の性格俳優としてアウラを放っていたフェイ・ダナウェイと二人でさまざまなファッションを披露していた。

このあと爆発的に饒舌になる1970年代のモードとくらべると、60年代のスタイルはいかにも端正。薄いラペル、直線的なカット、スリムなライン、カマイユーの配色。当時のモードを決定していたのはおそらくパリだろうけれど、このすっぱりと切れ味のいい機能的なテーストは、アメリカの大都市の雰囲気によくマッチしてみえる。シンプルなのだ。60年代という時期は、建築でもモードでも、20世紀らしい「機能の文化」がひとつの頂点まで洗練された時代だったかもしれない。世紀のはじめに一度こころみられてから、戦争で分断されたのち、ここで完成された。

その時代はアメリカという国が、ひときわ輝いていた時代でもあったろう。国の政策からにじみ出る矛盾や暴力も、映画や音楽というメディアをくぐりぬけたあとは、ほとんど「幅ひろい魅力」に変換されてしまったらしい。ただ、そのねじれの構図は、史実として推測することはできても、同時代性をもたない人間には正直、あまり実感がわかない。このころに青年期をすごしたひとと、そのあとの世代とでは、あの国に対する原体験がずいぶんちがうのではないかしら。

この映画は一種の「カタログ・ムービー」を構成している。えがかれるシーンはポロ、ゴルフ、グライダー、海辺の別荘、オープンカーに焚き火、執事のいる屋敷、暖炉にチェスと、いかにも他愛がないけれど、これは、じつのところアメリカの庶民層にとっての成功のカタログであったはず。

このあまりにも単純化された物質的憧憬は敗戦国・日本の渇望をまきこんで、いまも波のようにくりかえされている。やれやれ。徹底的な物質性に還元されたかたちで表現されるアメリカの上昇志向は、そもそも欧州の伝統的な文化から精神性を切り離して成立したもののようにみえるのですけれど。うえに羅列した「カタログ」をみて。アメリカナイズされているけれど、イギリスの中上流の表層そのものでは?

そうしてこの主役を、事実上の孤児として悲惨な少年時代をすごしたマックィーンが演じている。かれはアメリカ国内で、庶民層出身の上昇者としても愛されたにちがいない。この作品の主役も代々の資産家ではなく、「自己の頭脳と才覚により」一代で財を築いた人物と設定されている。それでなお銀行強盗やってどうするの(笑)というお話なのだけれど、この倒錯は、文化的価値観の歴史、という点からこじつけて愉しめないこともない(なにしろお話の展開がおそいので、いろいろ考えてしまうのです)。

泥棒のヒロイズムの起原は? それはおそらく富の蓄積が進んで階層差が固定した時代における、支配者に対する庶民の不満を土壌として、その不満を解消したいという期待のなかにうまれてくる……。などとかんがえるなら「成功者、でも泥棒かも?」という二重の英雄性をあたえられた主人公が成立することには案外、必然性があるのかも。ふふ、現実にはありえない。でも、とてもアメリカらしい願望ではある。

そしてこの像はいま、まさに日本に移行されている。堀江貴文さんがそう。「成功者、でも泥棒かも?」というあのひとの人気は、きっとまだつづく。かれは個人からではなく、システムからお金をかすめたと考えられているから。株式をはじめとする超高度資本主義の制度のなかでは、富はしばしば匿名化してしまう。匿名の富を手にいれた者に対しては、怒りよりも憧憬のほうがさきにたつ。


理屈をこねました、失礼。ともあれ、映画においても「おしゃれな泥棒もの」の系譜は脈々とつづいていきそう。ヒッチコックやワイラーとくらべてはこの監督が気の毒だけれど、グレース・ケリーとケーリー・グラントの "To Catch a Thief" (1955『泥棒成金』)、ピーター・オトゥールとオードリー・ヘバーンの "How to Steal a Million" (1966『おしゃれ泥棒』)……。それらのリメークも。



メモリータグ■ダナウェイのものすごいつけまつげ。アップになるとさすがに笑ってしまう。



0153. 紅の豚 (1992)

2006年09月26日 | 1990s

Porco rosso / Hayao Miyazaki
94 min Japan

紅の豚 (1992)
原作・脚本・監督:宮崎駿、プロデューサー:鈴木敏夫、企画:山下辰巳・尾形英夫、作画監督:賀川愛・河口俊夫、音楽:久石譲、美術:久村佳津、声:森山周一郎(ポルコ・ロッソ)、加藤登紀子(ジーナ)、岡村明美(フィオ・ピッコロ)、大塚明夫(ドナルド・カーチス)


ポルコ・ロッソとは豚肉のトマト煮込みのこと、ではない。魔法によって、顔だけが豚の主人公。考えてみると、宮崎駿さんの作品で中年男性が主人公をつとめたのは、2006年現在までこの一作だけ。ご自身にとっても、いちばんリアリティーの深い主人公だったのではないかしら。「くれないの」と勇壮に始まり、「ぶた」でどすんと落ちるタイトルのとほほな落差感が、なんとも的確。レトロな縦書きのタイトルからもいにしえの戦闘機映画への郷愁が漂ってきそう。全編、豚的ダンディズムに満ちています。

ポルコは、もと戦闘空挺機のパイロット。豚版ハンフリー・ボガートの香りも高く、トレンチコートを着て登場する。車をえらぶとすれば、まちがいなく2CVに乗りそう。いまは賞金かせぎの飛行艇乗りだけれど、ホテル・アドリアーノのエレガントな経営者と、かつてはわけありだったよう。そしてミドルティーンの天才青少年に愛機の設計をまかせ、かつその子の将来をかけて殴りあいなどするのです。

途中、わけあり美女が、ポルコにむかって「ばか!」と一喝するセリフがある。声を演じた加藤登紀子さんによれば、監督の指示は "これまでの人生で男に対して抱いた、すべての憤りをこの一言にぶつけてください" だったとか(笑)。大役ですね。


アニメはちょっと、というおとなにも、イタリア映画を含むいにしえのモノクロ映画ファンにも、おすすめの名作。

追伸:
この作品は、英語版のヴィデオに使われている表紙が、日本語版よりスタイリッシュ(笑)。



メモリータグ■白くつづく雲の層の上を飛んでいく、死者の飛行機のむれ。無音。やはりこのひとはあれを見ている。あれが見えるのだ。



0152. Once Upon a Time in America (1984)

2006年09月22日 | 1980s
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ/セルジオ・レオーネ
139 min / 229 min (2003 restored director's cut)

Once Upon a Time in America (1984)
Directed by Sergio Leone based on a novel by Harry Grey. Cinematography by Tonino Delli Colli, original Music by Ennio Morricone. Performed by Robert De Niro (David 'Noodles' Aaronson), James Woods (Maximilian 'Max' Bercovicz), William Forsythe (Philip 'Cockeye' Stein), Elizabeth McGovern (Deborah Gelly), Jennifer Connelly (Young Deborah).



人通りの絶えた夜半。路地の湯気を背後にまつわらせながら、酒場の裏口にあらわれるロバート・デニーロ。写った瞬間、壮麗な迫力が漂う。かっこいいなあ。

今回は長尺版で見た。少年期、青年期、初老期と三つの時間を交錯させる、おそろしく難しい編集をしている。それを可能にするほど脚本と演出の完成度が高い。

ところでカメラワークをじっくり勉強するには、音を消すといい。有名なラストシーンにかけて、部屋を暗くして音を消し、画像だけを見た。集中できるし、演出の細部の意図が前よりわかった気がする。



メモリータグ■最高の夜になるはずだったのに、主人公の粗暴さのために台無しになってしまった明け方。やくざな雇い主よりも、ロールスのショーファーのほうがはるかに品のある「まっとうな男」という、みごとな演出だった。



0151. 天空の城ラピュタ (1986)

2006年09月19日 | 1980s
LAPUTA : The Castle in the Sky / Hayao Miyazaki
124min Japan, 69262 sheets

天空の城ラピュタ (1986)
原作・脚本・監督:宮崎駿、作画監督:丹内司、美術監督:野崎俊郎・山本二三、色指定:保田道世、音楽:久石譲、プロデューサー:高畑勲、声:田中真弓(パズー)・横沢啓子(シータ)・初井言榮(ドーラ)、寺田農(ムスカ)



宮崎さんはいつも導入部が巧みだけれど、この作品のすべり出しはとりわけ練り上げられている。むだのない台詞、なめらかでコンパクトな速い展開。何度観てもつかまる。新しいヴィデオデッキのテストのつもりでふと再生して、そのまま最後まで見てしまった(笑)。

このイントロは音と絵の合い方が完璧で、音楽にもめぐまれた。作曲の久石さんがのっているのだ。冒頭のテーマ曲も、おそらく久石さんが自分で指揮をしているのだろう。のびやかで、品のある歌いかただった。ラピュタの島が正面からあらわれた箇所でリタルダンドするところなど、はっとする。そこでわずかにカメラが寄る。いい。



メモリータグ■ランタンを消すと、地底の石たちが光り出す。



0150. 魔女の宅急便 (1989)

2006年09月16日 | 1980s
Kiki's Delivery Service / Hayao Miyazaki
103 min Japan

魔女の宅急便 (1989)
脚本・監督:宮崎駿、原作:角野栄子、音楽:久石譲、音楽演出:高畑勲、声:高山みなみ(キキ/ウルスラ)・佐久間レイ(ジジ)・山口勝平(トンボ)・戸田恵子(おそのさん)・山寺宏一(おそのさんの夫/警官/アナウンサー)



魔女の箒の代わりに、とっさに借りたデッキブラシにまたがって、主人公のキキが必死で空に飛び上がろうとする。クライマックスのあのシーンの絵コンテを、コピーして額にいれ、ひところ壁にかけていた。全力をつくす少女の表情、その顔つきが変わり、ついに浮力が戻る「突破」の瞬間……。そう、宮崎さんは抜群に絵がうまい。あのタッチの力は、仕上がったアニメの画像よりも、むしろ手描きのコンテでこそよくわかる。

もちろん、あのシーンの魅力は絵だけではない。ありったけの集中力をふりしぼるしかない命がけの瞬間に、ひとはしばしば、もっともまにあわせの道具しか手にしていない。なにもかもが、ほとんど最悪の状況であったりする。なぜかは知らないその"法則"を、このシーンを作ったひとはよく知っている。そのことが、胸にせまる。

空中にかろうじてつかまっている友達を、いま助けられなければ生涯悔やむにちがいないこのときに、キキは自分のたった一つの技能をなくしてしまっている。つまり、空を飛ぶ能力をうしなっている。まともな箒さえない。

ちいさな魔女のキキは物語の冒頭で、修業のために家を出るとき、お母さんがととのえてくれたりっぱな箒に不平をもらしていた。自分の甘えにまだ気づかなかったあのシーンが、力づよい対比としてこのクライマックスで生きてくる。どんなにみごとな道具でも、どんなにめぐまれた環境でも、飛べないときは飛べない。そしてほんとうに飛ばなければならないときは、デッキブラシしかない。でも、それだって飛べるのです。いわばノイラートのデッキブラシ(笑)。もしここで、誰かがキキに魔女の箒の名品をわたしていたら、おもしろさは半減する。たいがいの「アクション映画」ではそういうことになってしまう。デッキブラシというところが、只者ではなかった。



メモリータグ■市電がゆるやかな坂を登る。あれはどこ? ブリュッセル? いろんな街をつなぎあわせた、ちょっとへんな架空の街なみが愉しい。


追伸:個人的には、おほん、なんといってもキキの巨大なズロースが最高です。




0149. Paths of Glory (1957)

2006年09月14日 | 1950s

突撃/スタンリー・キューブリック
87 min USA

Paths of Glory (1957)
Directed by Stanley Kubrick based on a novel by Humphrey Cobb. Cinematography by
Georg Krause. Performed by Kirk Douglas, 1916-(Col. Dax), Ralph Meeker (Cpl. Philippe Paris), Adolphe Menjou (Gen. George Broulard), George Macready (Gen. Paul Mireau), Wayne Morris (Lt. Roget/Singing man), Richard Anderson (Maj. Saint-Auban), Joe Turkel (Pvt. Pierre Arnaud) and Christiane Kubrick (German singer).



最後に酒場のドイツ娘がつたない愛の歌を歌い、フランス軍の兵士たちがハミングで唱和して、涙を流す場面はなんとなく記憶にあった。遠いなあ。キャプラやカルネや……。

第一次大戦当時のフランス軍。軍上層部は強引な攻撃命令が失敗した責任を現場に転嫁するため、敵前逃亡という冤罪で三人の兵士を銃殺する。弁護士の連隊長がけんめいの弁護をこころみるけれど、むくわれない。この連隊長をカーク・ダグラスが演じる。酒場のかわいい女の子はキューブリックの奥さんですって。

全体に、まだ戦前の映画のストイックな語法がていねいに踏襲されている。モノクロのきまじめさ。映画がカラーになり、超拡大路線にむかうのは1960年代からなのだろう。この3年後に『スパルタカス』がリリースされることを考えると、急激な変化に驚く。それにしてもこの安定したできばえ……。

こじつけた帰結がないことに好感がもてる。無意味な処刑の結果を、論理としての正義で回収することなどできるはずがないのだ。死は回復できない。食べつくされたケーキのように、生きていたものはあとかたもなく消え、どこにもいなくなる。



メモリータグ■司令部がおかれた広いシャトー。天井が高い。シンプルな、昔の映画らしい映画の空気が出ていた。この空間はいまもあるのだろう。建物は、動物よりも長寿だ。生きている者はそこをすたすたと通り過ぎる。





0148. The Killing (1956)

2006年09月12日 | 1950s

現金に体を張れ/スタンリー・キューブリック
85 min USA

The Killing (1956)
Directed and screenplay by Stanley Kubrick based on a novel by Lionel White. Cinematography by Lucien Ballard. Performed by Sterling Hayden (Johnny Clay), Coleen Gray (Fay), Vince Edwards (Val Cannon), Jay C. Flippen (Marvin Unger), Elisha Cook Jr. (George Peatty), Marie Windsor (Sherry Peatty), Ted de Corsia (Randy Kennan), Joe Sawyer (Mike O'Reilly) et al.



天才。1928年生まれのキューブリックはまだ二十代なかば、緻密で冷静な演出はやはり抜きん出ている。犯罪がしくまれていく段どりをノンリニアなドキュメンタリータッチの演出でおっていく。シーンのくりかえしなどは出るものの、果敢な実験だったろう。「完全な犯罪」計画の、どこで破綻が始まるかをこちらも緊張しながら観ていられた。うまくいくはずがない、という不安定さが確実に深まっていくようにできているのだ。やっとの思いで得た大金が風に吹き飛ぶシーンは、ながらく定番になったよう。

絵に描いたような「悪い妻」のシェリー、その妻を溺愛している気のちいさい夫のジョージが人間的な味を添えてくれる。マルの『死刑台のエレベーター』の洗練されたエレガンスはすばらしいけれど、この作品のトーンをつくっているみじめさもいい。原作はライオネル・ホワイトのハードボイルド、"Clean Break"(『完全なる消散』)。



メモリータグ■夫が撃たれて戻ってくると、いかにも迷惑そうにシェリーは言う。「ジョージ、撃たれるなんてばかねえ、外へ出てタクシーを拾いなさいよ」。このひとが、いちばんハードボイルドかも(笑)。




0147. Barry Lyndon (1975)

2006年09月09日 | 1970s
バリー・リンドン/スタンリー・キューブリック
184 min UK

Barry Lyndon (1975)
Directed by Stanley Kubrick based on William Makepeace Thackeray. Produced by Jan Harlan. Cinematography by John Alcott, music by Leonard Rosenman. Performed by Ryan O'Neal (Barry Lyndon), Marisa Berenson (Lady Lyndon), Patrick Magee (The Chevalier de Balibari), Hardy Kruger (Capt. Potzdorf), Marie Kean (Belle, Barry's mother).



たのしんで観た自分におどろく。これはこれで一流の作品だったことを知った。

かつてこれを劇場で観たときは、ほぼ全面的に却下した記憶がある。おそらく理由は二つ。最大の理由は、アクチュアリティーがまったく感じられなかったことだろう。18世紀に題材をとったサッカレーの俗物小説を、ハリウッドがコスチュームドラマとして盛大に映像化する必然性は、せいぜい階層コンプレックスと金満趣味しか思いつかない。サッカレーの風刺なんて、たいしたものじゃないのだ。それをあの鋭敏なキューブリックが引き受けて、皮肉もパロディックな要素もろくに伝わらないほど大真面目でおつとめをする。ほとんど信じられない思いでみていた……こちらも真剣だったのです。

評価しなかったもう一つの理由は、アメリカが「欧州の古典世界」という像をけんめいに模倣して視覚化する、小児的なすなおさが退屈だったから。ここについては不当だったと思う。いまみると『バリー・リンドン』は、たいへん美しい画面づくりをしている。図書館と美術館と衣裳博物館で調査をつくし、巨額の資本をそそぎこみ、才能のある監督が光と構図を吟味して実現した水準である。もちろん、そのようにして得られた美の質は、どこかしら紙芝居の美しさにとどまるかもしれない。ただ、それは国の文化性という記号に還元してすませるべき性質の限界ではないし、キューブリックだけの限界でもない。たとえば『赤と黒』のような映像もそうだった。どこまでもりっぱで、どこまでも表層的だった。様式をまじめに模倣することを目標と考えているぶん、どこか滑稽にさえみえた。

けれど、ふつうは誰もがその立場にちかい。たまたま同時期のヴィスコンティのコスチュームドラマが、あまりにも例外的なだけ。あれにくらべると、なまじの「古典」の幼稚さが露わにならざるをえない。けれど、くらべるほうがいけない。

成功しているときのヴィスコンティの映像は、特異な世界をつくりだす。一つの動作にこめられた記号の複雑な重層性、歴史的な美しさの堆積と変容の気配、その気配に対する鬱屈と、鋭い皮肉と嫌悪、しかも深い愛着をこめた洗練。腐敗寸前の官能と豊穣さ、髪を解いた寝室の女性の脂粉の匂いまで漂ってきそうな画面は、あの作家だけのものだろう。様式のなかでそだったひとが、それを崩すところから始めているという点で、出発点から圧倒的優位にある。ようするにあれはマドレーヌからはじまる映像なのだ。別格。

ふとかんがえ出すと、おもしろい逆説がいくつもみてとれる。たとえばキューブリックのキャスティングは「正しい」。BBCのドラマとおなじように、貴族の役であれば、できるだけ貴族にみえそうな人を選んでいる。ところがヴィスコンティのキャスティングは、しばしば「正しくない」。そこでは記号が発酵し、ねじまげられ、意図的に浸潤され、毒され、腐り始めている。

基本的にヴィスコンティはなりあがりの俳優をえらぶ。アラン・ドロンはとうてい男爵家の青年にはみえないし、ヘルムート・バーガーが演じるのは、もはや健全な王の機能をはたさないまま崩壊していく末期の王である。近代の容赦のない効率性が世界をおおいつくそうとしていた時期に、狂気という贅沢に惑溺していった人物をえがこうとする行為そのものをふくめて、そこには自己批評をこえた嗜虐趣味が漂う。ヴィスコンティ自身がそうであるような、なにかが終わろうとする末世の支配層の目からみた新鮮さ、すなわちいかがわしさや禁忌の匂いを漂わせた虚偽の美、逸脱、ある飢えとにがさを透かし見せることが、役者えらびをはじめ万事の好みになっていたように思えてならない。ようは残酷なのだ。彼が偏愛するのはジゴロであり、下司である。下降指向などというなまやさしいものではない。体に悪い腐敗寸前の美味を口にする自虐的な愉しみが追求されるのは、弱いくせに誇りが高いからだ。裏切り者をえらぶひとは、どこかで裏切られたくてえらぶ。それがヴィスコンディだった。

ひきかえ『バリー・リンドン』が、12歳の子どもの目に映った古典世界であることはしかたがない。一種のディズニーである。けれどそこにはディズニーとしての、のどかななぐさめがある。そして第一級の品質管理力がある。もはやこちらも、屈託なくディズニーを楽しめる年齢に達したのでしょうか。ほんとのことなんて、知りたくないとか(笑)。



この世をきらいだといいながら、
いざ別れるときには、もうすこしいたいと言い出す
                     ブレヒト



メモリータグ■ベルギーの庭園。水路がはるかに見渡せる。



追記:プロデュースのジャン・ハーランはBrother of Christiane Kubrick, Brother-in-law of Stanley Kubrick. どうりで一枚岩。手がけた作品は『バリー・リンドン』1975、『シャイニング』1980、『フルメタル・ジャケット』1987、『アイズ ワイド シャット』1999、『A.I.』2001など。撮影はイギリス人のジョン・オルコット。The Shining (1980) を撮っている。




0146. Spartacus (1960)

2006年09月06日 | 1960s
スパルタカス/スタンリー・キューブリック
161 min (1967), 198 min (1991) USA

Spartacus (1960)
Directed by Stanley Kubrick based on a novel by Howard Fast. Cinematography by Russell Metty, music by Alex North. Performed by Kirk Douglas (Spartacus), Laurence Olivier (Marcus Licinius Crassus), Jean Simmons (Varinia), Charles Laughton (Sempronius Gracchus), Peter Ustinov (Lentulus Batiatus), John Gavin (Julius Caesar), Tony Curtis (Antoninus) et al.



「大河ドラマ」というコピーをNHKの番組のためにかんがえたひとが誰なのかは知らないけれど、アメリカの映画界には「大河ドラマの系譜」が、日本のテレビ番組の数百倍の規模をもって、おそらくたしかにある。劈頭にあってひとつの神話のはじまりをもたらしたのは、やはり『イントレランス』なのだろう。あのバビロンの門にかざられた巨大な象の彫刻ひとつに胸を躍らせる兄弟の物語を、ずっとのちになっても、コーエン兄弟は深い愛着と憧憬をこめてつくりあげていた。

この作品は、1960年のアメリカが創った「古代ローマ」の像がおもしろい。それらしくもへんてこで、感心したり笑ってしまったり。映画としては、じっくりと腰をすえて描いていく息のながさが、いまみるとかえって新鮮にうつる。スパルタカスという人物のアクチュアリティーは、アメリカの価値観では「自由を得るためにたたかった男」になるのだろう。ただし、ヒステリックな赤狩りをおこなったほど短絡的なものにとどまっていた共産思想認識しかもたないハリウッドで、「階級闘争」という概念は厳重に封印されているようにみえる。

いっぽう、ここで奴隷たちを抑圧しているのがローマの貴族による支配階層であることはストレートにえがかれている。概念をほんのすこしずらしさえすれば、「反乱」と「戦い」そのものは政治的にコレクトな記号なのだ。やれやれ。

背後で問題を醸成している「階層性」は、あの国の映像界ではしばしばイギリスとアメリカという「国」の記号にすり替えられる。字の読めないスパルタカスとして「自由と解放」のためにたたかう役はアメリカの代表的な俳優、カーク・ダグラスが演じる。反面、支配階層、あるいは知識人の役にしばしばイギリス人の古典劇の俳優が配されるハリウッドの"伝統"は、ここにも顔を出す#。抑圧的なローマの元老院議員を演じるのはローレンス・オリヴィエで、彼に見初められる"教育のある"女奴隷にはジーン・シモンズが配されていた。このヒロインはオリヴィエの推薦かもしれない。シモンズはこの15年ほど前、オリヴィエ自身によって制作された例のハムレットで、わかいオフィーリアを演じている。

#たとえば宇宙における刑務所が舞台になっていた『エイリアン3』でも、支配層にあたる侮蔑的な所長はイギリスのアクセントで話し、服役者たちはアメリカの英語を話す。悪はドイツ、支配者はイギリス、自由はアメリカ、野蛮は日本。1960年代からながらくつづいた記号である。地域名はいれかわっても、その認識の単純な色分けにはあまり変化がない。蛮族はいまではプレスリーの猿まねをするまでに飼い慣らされたらしいけれど……。あの二匹の猿!



メモリータグ■これがローマだと語るバルコニーでの立ち台詞の遠景に、奴隷たちの長い行列がつづく。いったい何度あの行列のリハーサルをしたのだか、映像のお手本のような演出だった。キューブリックというひとは、端正な構図を好むというより、そもそも「汚い画面が撮れない」のだと思う。