うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0158. A Good Woman (2004)

2006年10月31日 | 2000s
理想の女(ひと) / マイク・バーカー
93 min Spain, Italy, UK, Luxembourg, USA

A Good Woman (2004)
Directed by Mike Barker, 1965-, England. Screenplay by Howard Himelstein based on a play by Oscar Wilde. Cinematography by Ben Seresin, costume design by John Bloomfield. Performed by Helen Hunt, 1963- (Mrs. Erlynne), Scarlett Johansson, 1984- (Meg Windermere), Mark Umbers (Robert Windemere), Stephen Campbell Moore (Lord Darlington) and Tom Wilkinson (Tuppy).


映画の原題は「善良な女」。"悪い女"と"善い女"のふるまいがいつのまにか接近して、最後にするりと入れ替わる筋だてがみそなので、ストレートなタイトルかもしれない。原作はワイルドの "Lady Windermere's Fan". 悪女をヘレン・ハント、善女をスカーレット・ヨハンソン。このキャスティングは意外なくらい成功している。メークと衣装、カメラが視覚面でもみごとな手助けをしていた。

邦題の「理想の女」にしたがうなら、この作品には、理想の女が三人出てくる。うち二人はうえにあげた悪女と善女。でも第三の女は、娘の心のなかにえがかれた永遠の母親像だろう。

脇はそれぞれ、トーンを出している。アンバース、ムーアとも、このあと順調に役がきそう。監督のマイク・バーカーは "Best Laid Plan"(1999,『完全犯罪』)を撮ったイギリス人の若手で、全体をすっきり軽めにまとめている。多少の傷はあるものの、気にならなかった。プロモーションの雰囲気がいかにも「女性むけの恋愛もの」だったので見るのを後回しにしていたけれど、そうでもない。前作『完全犯罪』を観てみようかという気になった。




メモリータグ■緑の芝生に着陸している白い小型機に乗り込むアーリン夫人。白とブルーの旅行着は、白地にブルーの飛行機のストライプとおそろい。ドレスと飛行機のコーディネートなんて、ちょっとない(笑)。




0157. 24 (2006)

2006年10月27日 | 2000s
"24" シーズンV/ジョエル・サーナウ、ロバート・コクラン 他

"24" (2006) Season V
Created by Joel Surnow, Robert Cochran. Performed by Kiefer Sutherland (Agent Jack Bauer), Julian Sands (Vladimir Bierko), Mary Lynn Rajskub (Chloe O'Brian), Carlos Bernard (Tony Almeida), Kim Raver (Audrey Heller Raines).


オペラや歌舞伎といった大衆芸能の約束のひとつに「荒唐無稽」という要素がある。「どんでん返しの連続」といってもいい。たったいままで恋がたきだったのに、じつは親子とわかって突然ハッピーエンド、というのはのどかなほうで、もっと強烈なのは、たとえば新版歌祭文、野崎村。ああいうものは元祖 "ジェットコースタードラマ" だったのではないかしら。どぎつさ、ありえなさ、でも緊迫した展開。あれよあれよといううちに、恋人たちは別れてべつの花道へ。たかなる義太夫、しかも連れ弾き、涙にむせぶ平土間席。

つまるところ『24』は現代歌舞伎。緊迫の種はテロだけれど、それは21世紀初頭のメリケン国が舞台だから。江戸期の破滅要因といえば庶民は借金、士族は不義。さてはお家の一大事という構造はそう変わらない。くるくると様相が変わるのも、早がわり、七変化というおもむきです(笑)。

荒唐無稽の背後には、大量に消費されつづける同工異曲の作品群がつくりだした「約束ごと」の文脈と、その昇華としての「型」がある。そしてそこからわずかずつ逸脱をかさねることで追求される「新作の刺激」がある。まえにも書いた気がするけれど、これはマニエリスティックな「型」の記号を熟知した観客層が育ったときに成立する状態だろう。つまり全盛期、あるいは爛熟期。独創性などという神話的な大概念に頼らなくとも、型からの逸脱が発生するメカニズムを理解することはできる。

では、このあとはどうなるでしょう……。観客が参加してリアルタイム投票をするにつれ、筋がどんどん変わっていくとか? ますます支離滅裂の度合いはあがりそう。わたしがほんとうに知りたいのは、この型そのものが入れ替わるモーメントが、いつ、どうやって訪れるか、なのだけれど。この作品を観ていると、そろそろかもしれないと思う。


以上、作品そのもののお話でなくてすみません。シリーズ5作目、全24話のうち18話までを観た中間報告でした。




最終回まで見終えた。さいごは観客をあざむく禁忌の演出。ようはなんでもありということだろう。ストーリーの核は"大統領の陰謀"だけれど、たとえば、911のテロを仕組んだのがアメリカ大統領自身だったといった展開にちかい(いえ、それじたいはあるかもしれないけれど)。

物語の終了10分前に恋人とのラブシーンが出てくれば、残り10分のあいだにこの円満な状況は転覆すると見とおしがつく。成功と危機は交互に訪れる。それはこの作品が守る唯一の「約束」かもしれない。制作方針を想像するには、1回の放映時間45分のあいだに10はできごとをいれるといった「課題」を自分でおいてみると参考になりそう。きっと毎回、濃密な脚本会議をおこなっているだろう。ここまでするには、何十ものプランを持ち寄る必要がある。

見たあとはなにか、ゆっくりした思想や作品を読みとおして、ものの見方をきりかえたい。なにかをうしなう。

それにしてもこの主人公、ジャック・バウアーに遭遇する無辜の市民は災難の一語につきる。とつぜんあらわれて頭に銃を突きつけ、おれは正しい側にいる、正義のためにすぐに従え、とどなるのだから……。アメリカのパワーポリティクスの暴力性そのまま。「おまえがあんなことをするから、おれがこんなことをせざるをえない」。つまり、すべてはひとのせいという論理である。そしてわたしはそれを熱心に見つづけている。



メモリータグ■ひとこと多い、分析官のクロイ。めまぐるしい脚本のなかで、人格演出が唯一たもたれているこの登場人物は、やはり人気があるらしい。大半の人物は「英雄」「恋人」「上司」「悪役」「忠実な部下」「裏切る部下」「友人」と、背中に役割札がはられていそう。もちろんクロイの設定も「有能だが、ひとこと多い部下」かもしれない、でも二つ形容詞がつく。この作品では例外。




0156. Detective Story (1951)

2006年10月15日 | 1950s

探偵物語/ウィリアム・ワイラー
103 min USA

Detective Story (1951)
Directed by William Wyler (1902-81), based on a play by Sidney Kingsley. Cinematography by Lee Garmes. Performed by Kirk Douglas 1916-(James 'Jim' McLeod), Eleanor Parker (Mary McLeod), William Bendix (Lou Brody), Lee Grant (Shoplifter), Cathy O'Donnell (Susan), Craig Hill (Arthur).

Ref. Other works by Wylers: The Best Years of Our Lives (1946), Roman Holiday (1953).



原作は舞台劇。ほとんど一つの空間を使い回して「刑事の仕事」をえがくコンパクトさで、一日の群像劇をつくっている。つぎつぎと容疑者が連行されてくる。それぞれの事情がある。いまの『ER』や『24』などからわたしたちが受けるスピード感にちかいものを、当時のひとは感じたのでは。

最後は、撃たれた刑事のために救急車が呼ばれようとする。でも、それより牧師を呼んでくれと本人がいう。すると、即座に同僚が牧師に電話をかけるのにはおどろいた。まるで、吐きそうなのでトイレにつれていこうとしたら、それより洗面器だといわれたみたいにあっさり了解してしまう。

「おれ、もう死ぬから医者いいよ」「あっそう」みたいな。

もちろん映画の話ではあるのだけれど、この反応は当時、自然だったのでしょうか。わたしが同僚だったら救急車以外の選択肢はありえない気がするけれど、「そうか、まにあわないか」という瞬時の合意が、ここでは成立している。戦争が終わってまもないころで、誰もがまだ死を濃密に記憶していたの? 死というものの明確な手ざわりが、あのひとたちにはあったのだろうか。

隣りにたたずむ生きものが、たったいま呼吸の間合いを変えたと知るように、急速にちかづいてくる死の速度を本人が計れるなんていうことは、きっともうない。いまは死は遠い。死の感触が遠ざかるとき、逆に、死へむかう生の怖れが膨張する。それはそれでくるしい。この映画のように、「坊さんを呼んでくれ」「よっしゃ」というふうには、なかなかいかないものだろうし。



メモリータグ■エリノア・パーカーは「美人女優」なのだろう。"わたしって、つめたい顔がすてきでしょ"という表情が不思議だった。怒って、傷ついて、なにもかもを失おうとして、はげしく混乱しているはずの場面なのに。



0155. The Getaway (1972)

2006年10月07日 | 1970s
ゲッタウェイ/サム・ペキンパー
122 min USA

The Getaway (1972)
Directed by Sam Peckinpah (1925-84), written by Walter Hill based on a novel by Jim Thompson. Cinematography by Lucien Ballard, music by Quincy Jones. Costume-supervised by Ray Summers, mens' costume by Kent James, womens by Barbara Siebert and wardrobe by James M. George. Performed by Steve McQueen (Carter 'Doc' McCoy) and Ali MacGraw (Carol Ainsley McCoy).

Ref. The Wild Bunch (1969), Straw Dogs (1971), The Getaway (1972), Convoy (1978)


監督がペキンパーで主人公は犯罪者、それならもちろん最後は破滅にちがいない……という予断をあざやかに裏切るハッピーエンド。マックィーンとアリ・マクグロウというスターを揃えて、ごみ車に放り込むシーンをよくぞ撮ったものだとも思う(笑)。

大犯罪のあとの逃走につきまとうのが、華々しい危険ばかりとはかぎらない。大金が入った鞄をつい駅のコインロッカーに預けてしまう不安な気持ち、そしてありふれたすり替え詐欺にあってしまうという日常性。鞄をおいかける男、ひたすら駅で待つ女、とっぷりと暮れていく空。いったい相棒は戻ってくるのか、今夜はどうしよう、永遠にここで待つのかしら……あのお金がなかったら、わたしたちどうなるの? 現実というものの頼りなさがひしひしと迫るシーンだった。おみごと。

全般に、傍流のシーケンスがじつに冷静に演出されている。はげしいアクションの合間に、さりげなくはさみこまれる周囲のショットも細部までいきていて、作品をゆたかなものにしていた。目的だけの映像がつらなる作品が、いかに貧しいものかと気づく。

それにしてもマクグロウの足ってキレイ(笑)。こんなにプロポーションのいいひとだったの(身長は1メートル77センチ、体重はせいぜい55キロでは)。すくなくとも"Love Story"より、はるかにいろっぽく撮れている。たぶん、モデル・ビューティーとして写すのではなく、男性の目で撮っているから。

マクグロウは時代にのった女神の一人だったはずなのに、この作品をきっかけにマックィーンと結婚。それはかまわないけれど、降板した役が"Great Gatsby"と"Chinatown"のヒロインというのが、あまりに惜しい。いまだったら恋愛しようが結婚しようがクランクインしたでしょう、時代の意識の犠牲者である。



メモリータグ■この作品もコスチュームが学べる。逃走する話では登場人物を着替えさせるタイミングが限られるだろうに、うまい。