風立ちぬ / 宮崎駿
126 min Japan
原作・脚本・監督:宮崎駿、色彩設計:保田道世、作画監督:高坂希太郎、美術監督:武重洋二、動画検査:館野仁美、アフレコ演出:木村絵里子、編集:瀬山武司、音楽:久石譲、声:庵野秀明・瀧本美織
初の「リアリズム」を断行して、一人の天才エンジニアリング・デザイナーの半生をゆっくりした呼吸で語っていく。異性愛もふつうに描写されていた。
スタイルは晩年というしかない。このさき生きていく時間より、これまで生きてきた時間のほうがはるかに長い作り手だけが、こうした慎重な息づかいをするようになる。
ファンタジーとしての要素はほぼ主人公の内的な幻想におさめられている。あるのは明治生まれの少年が取り憑かれた夢、つまりひたすら・ひたすら・飛行機である。最終場面はあやうく演出者の理性が蒸発しかかっていたけれど――たぶん本人が感動の波に流されてしまったのだ――それでも、自己充足的なマニエリスムに偏向した『崖の上のポニョ』の誤謬はこの作品にはない。
作画はどれもこれもおそろしく難しそうで、しかも膨大な作業量にみえる。すくなくともアニメーションの技術や発想にかんするかぎり、もはや伝えのこしたことは何もないのではとさえ思えてきて、「遺言」と口にした監督の気持ちがすこしだけわかる気がした。この作家はアニメーション映像史上のバッハなのだと思う。史上のあらゆる要素を学びつくしてみずからのうちに集成し、さらにさきへと大きく切り拓いた。冒頭ほどなくあらわれる関東大震災の描写は圧巻で、これだけでも見る価値がある。
ヨーロッパなどの文献では、第一次世界大戦後から第二次世界大戦勃発までの時代を「戦間期」という概念でとらえていることが多い――それは第一次大戦という大規模な近代戦がもたらした未曾有の荒廃から、復興をへて、ふたたび戦争の予感が濃くなっていき、ついにその不吉な気配が絶望的に実現してしまうまでの不穏な20年をさす。いっぽう日本に第一次大戦による破壊はなかったとだけ、これまでわたしは思ってきた。けれどこの映画で、いきなり目がさめた。関東大震災(1923)の破壊と衝撃は、大戦渦にもひとしかったのではないか。そこから復興し、それなのに戦争へとつき進んでいったこの国の、まさしく「戦間期」をおしえる作品だった。その示唆に御礼をもうしあげたい。
それはフランスでいえば、ちょうどサンテグジュペリやシャネルやジロドゥが仕事をしていた時代にあたる。とりわけサンテグジュペリ(1900-)と堀越二郎(1903-)は、飛行人としても同世代なのだと気づいた。乗り手と設計者というちがいはあるものの、どちらも戦間期に活動をきわめ、第二次大戦でずたずたになっていった(シャネルやジロドゥもそうですが)。
宮崎さんはかつて『紅の豚』でサンテグジュペリをしのび、こんどは堀越二郎にとりくんだことになる。そこに堀辰雄をはめこんだのは、抜群におもしろい直観であると同時に、なんともロマンティックな象嵌細工にみえる。理屈でいえば、たった一行のヴェルレーヌを引くために白樺派の青年文学を経由する必要はかならずしもない。宮崎さんは、どうやらロリコンは卒業してもロマンティストであることは卒業しない予定らしい。
あらためて――というか、公言されているかはしらないのだけれど、『紅の豚』の主人公ポルコにはサンテグジュペリの姿が濃厚に透けていたことを思い出す。あるいは七割サンテグジュペリ、三割くらい宮崎さん。豚とサンテグジュペリをかさねる傍証をあげるなら、戦間期の商業飛行機乗り、たいこ腹の中年、上をむいた鼻、やせがまんに近いダンディズム、航空機のメカニズムに対する徹底した追究心、合理的な美への強い憧憬。かつ親友を空で喪くした経験と、なにより根本的な時代錯誤性がつきまとう。あえていうなら、滅びていくがわの人間だった点である。
では堀越二郎は? これはもう美意識と錯誤の高度なアンビヴァレンス、そのきわめつけにみえる。この作品にえがかれていたようにみずからの夢に憑かれ、その思いが呼び込んでくるまがまがしい滅びまで飲みくだすしかなかったのだとすれば、宮崎駿がとらえたその核心において、堀越はサンテグジュペリと深く激しくかさなりあう――そして堀辰雄とのちいさな共通項もおなじ座標にもとめることができるだろう。死んでいく相手を愛すことで生きたのが堀辰雄だからだ。アンビヴァレンス。
極言するなら宮崎さんは豚であり、豚はサンテグジュペリであり、サンテグジュペリは堀越二郎でもある。そしてこの全員におそろしい共通項がある。それは「憑かれびと」であることだ。
かれらが全力を尽くせば尽くすほど、おぞましいものまでも引き寄せてしまうのはなぜなのか――すばらしいものはおぞましいものと切り離すことができないからなのか――憑かれた者のその呪いを宮崎さんは身にしみて知っているに違いない。過去数十年、自己の夢を追うなかでこの映像作家がどれほど周囲に犠牲者を出してきたかと想像するべきではないけれど、憑かれびとたちの手は洗っても白くはならない。しかも、かれらは生きやめることができない。それはファウストの呪いにひとしいからだ。あえて「生きて」などと甘い救済命令を女性性のがわから唱えさせるまでもなかった。
「憑かれびと」に近づいてはいけない。それが平穏な人生の鉄則である。呪いを引き受けるのは本人だけでいい。そう、これはファウストの物語なのである。
メモリータグ■静かに懇願すると、フランス語の発音だけはなんとかしていただきたかった。あれでは何語かさえわからない。全編をささえるモチーフを再起不能なまでにずっこけさせるよりは、いさぎよく原文を削るほうがまだよかったろう。声優演出家の責任は重い。Le vent se lève, il faut tenter de vivreのところです(The wind rises, you must try to live. 風が立つ、生きようとしなければならない)。