愛、アムール / ミヒャエル・ハネケ
127 min France | Germany | Austria
Amour (2012)
Written and directed by Michael Haneke. Cinematography by Darius Khondji. Film editing by Nadine Muse and Monika Willi. Performed by Jean-Louis Trintignant (Georges), Emmanuelle Riva (Anne), Isabelle Huppert (Eva), Alexandre Tharaud (Alexandre). Estimated budget: $8,900,000. Gross:$6,738,954 (USA, 10 May 2013).
「深い愛で結ばれた夫婦」をハネケがえがくと、こうなるのだろう。とても乾いていて、とても厳しい。でも必要なことは十全に示されていた。
最終場面は、娘が両親のアパルトマンを訪ねてきたところで終わる。それは母の遺体が片づけられたあとのエピローグにあたる。この場面で初めて使われたアングルがあって、それまでずっと閉じられていた屋内のあちこちの扉が開けはなたれている。そのロングショットのなかで寝室のベッドも片づいている。別の空間になっているという示唆だろう。彼女は玄関から入ったあと、鍵をショルダーバッグにしまったようにみえる(両親の家の鍵をもっているという示唆)。居間では父の椅子に座る(もはや父親はいないという示唆)。そこでカット。すべて終わったのだ。
一見曖昧にみえる表現のなかに、じつは強い暗示をつつみこんでおくというこの作家のややこしいスタイルはあいかわらず。今回の作品で集中していたモチーフは扉と窓。扉はその内部に妻を守る封鎖の記号、逆に窓は、鳩や風景画とあわせて戸外と開放性を示唆する記号として機能していた。内と外、隔絶性と連続性という対称を喚起していた。
具体的にいえばこの作品は、最初から最後まで戸外の風景が一度も実写されない。妻が発病してからあとは、カメラもアパルトマンから一度も外に出ない。ハネケ版『家族の肖像』になっている。心理的にも夫の立場にほぼ沿ったカメラワークをとっていた(途中、訪ねてきた若いピアニストの視点に切り替えるあたりはさすがに非凡だったけれど)。半身不随になった妻が、ひらいた窓の下に座り込んだままの場面も象徴的だった。もはや立てない彼女が「家から出る」のは死後、夫の夢のなかでだけなのだ。
物語は冒頭、アパルトマンの玄関扉が救急隊の手でむりやり開けられた衝撃音で始まる。封印が破られた瞬間から始めているのはさすが。屋内には異臭が満ちているらしい。誰もが鼻をおおう。寝室の扉が開けられると、なかには高齢の女性が遺体でベッドに横たわっている。女性は繊細な花で飾られ、濃紺のドレスで正装している。アパルトマンは整っていて、寝室の扉は厳重に封印されていた――たいせつな墓所のように。横たわるひとの眠りを妨げないように。けれど中庭の窓は開いていたことが台詞で示唆される。(ここもわかりにくい箇所だけれど、開いていたことが焦点になっているのは中庭の窓です。指摘した人物も、かすかに手振りでそちらの方向を示している。)
物語の最後で、夫は健やかなままの妻に導かれ、二人で玄関扉から外へ出ていく。穏やかに、日常の散歩にでもいくように。おそらくそれは夢なのだけれど、夢をこえた場面でもある。夫が現実の世界でどのように自分を処したのかは観客の想像にゆだねられる。ここは深さが出ていてすばらしかった。
物語の途中で、鳩が中庭の窓から二度、アパルトマンのなかに入ってくる。夫は、最初は寝室の妻を乱さないよう扉を閉めたうえで鳩を窓から追い出す。けれど二度目は鳩をとらえて、ストールごしにその手ざわりを抱く。温かい命がいまも自分の手のなかにあることを、つかの間いつくしむように抱く。このとき妻はすでに死んでいる。このせつない瞬間を、この作家はけっしてアップにしない。カメラはロングのまま、ただしショットは割らずに、じっとみつめている。事実このとき、ひとは夫に対してなにもできない。けれどその孤独に立ち会ってはいるのだ。彼を癒すことができるのは妻だけで、その最終的な慰謝はまもなくあたえられる。ほとんど完全な構造にみえる。
夫が寝室の扉を封印した理由は、冒頭まもなくの妻の台詞からよみとくことができるだろう。「眠っているときに侵入されたりしたら、こわくて死にそう」。いっぽうで、鳩はおそらく無防備な生命と、身体の自由、そしてその背後にひろがる外部とのつながりを示唆していたと思う――つまり、日常という恩寵を。だから冒頭で中庭の窓は開いていたのだ。自分たちが去ったあとも、生きつづけるものを受け入れるために。
主題だけをみれば、これまで観たハネケの作品のなかでは最も平明なものに属する。プロットも直線的に設定されていた。「脳梗塞で倒れた妻。介護する夫。悪化していく病状」。そして帰結はプロローグでもうあきらかにされている。妻は亡くなったのだ。だからプロセスをどのように語るかがすべてになる。ハネケは失敗していない。ただし徹底して非叙情的な描写なので、観るほうの疲労が重いのは必至と申し上げるしかなくて(笑)、それでえがかれているのは、なんと死を凌駕するほどの愛なのです。うーん、へとへとうさこさん。
音楽だってシューベルトのアンプロンプチュ(作品90の1, 3)や、バッハのオルガン小曲集から “Ich ruf’ zu dir” BWV639, f-mollという、こわいくらい美しい曲を選んでおきながら、わざとぶっつり中断してみせる。主演の二人にいたっては、とほうもない重労働だったろう。生をかたちづくるアイデンティティーの層が一枚ずつ剥がれ落ちていくとき、はたして最後に何が残るかという極限まで演じ切ることを求められていた。セザール賞などを総なめにしたようですが、それはそうでしょう。命が縮む役ですもの。ついでに2012年カンヌ映画祭パルムドール。ハネケの受賞はもう十分すぎるのではと思いつつ、この極端な精巧さをみると(そしてほかの受賞作の水準をみると)、落としようがなかったろうという気持ちになる。このひとが人間のポジティヴな面をえがいたことじたいめずらしいわけですけれど、その表現ときたら。この作品は最高級カカオ100パーセントのチョコレートのよう。高純度で高濃度、そしておそろしく苦い。
追記1:脇役のピアニストの青年は、玄関に立った瞬間、みるからに「いま売り出し中の若手ピアニスト」という完璧な像だったので感心してしまった。そしたらほんとうに「いま売り出し中の若手ピアニスト」なのだそうです(しかしこのひとが弾く場面も、ふつうの監督だったら鍵盤や手を見せると思うの、わざわざ弾けるひとをつれてきたのだから。でも見せるのはペダリングだけ。あるいは楽屋だけ。いやはや)。
追記2:まったく個人的なイメージなのですが、シューベルトの作品90の1は、まるで死者がこの世からひっそり立ち去っていくときのように始まる曲だと思う。そのくらい孤独な足どりに響き、そこから生涯の回顧のように展開されていく。映画では、プロローグのあと、この曲が本編で最初に使われる。エピローグのまえにおかれた終結部は、死んだ夫婦がひっそりと家から立ち去っていく場面なので、直感的には最初の音楽と最後の光景とが異様に呼応していた。この作品の基調曲だと思う。映画冒頭の、扉をばーんとあける衝撃音は、曲の冒頭音そのままのよう。
さらに個人的な妄想をいうと、作品90の3は遠い追憶の曲だし、バッハのf-mollはいま苦悩のどん底にあるという曲で、この映画では、どちらもそういう使われ方をしていたとしか思えなくて、本編が終わったあとも、自分の中で残響のように残っている。映画のなかで90の3は、追憶さえ苦すぎるものとして中断される。夫がピアノで弾き始めたバッハは、あまりにいまの心境と合いすぎていたうえ妻にも残酷に響く気がしたために中断されるのだと思う。Ich ruf’ zu dir と呼びかけても、誰も助けてはくれない――。というわけで、気まぐれやサディズムの演出で中断したわけではないと申し上げたかったのでした。場面の内的必然による。
あのバッハはたまにうさこも弾きますが、オルガン小曲集のなかではめずらしく三声ということもあって、ほぼそのままピアノで弾けます――うさこでも(笑)。あの場面は「いささか疲れたときの気分」としてもリアルな選曲だった。
メモリータグ■日常に異変が最初に起こる場面の、水道の水音。キッチンで夫妻が朝食をとっていると、妻がとつぜん呼びかけに反応しなくなる。夫は水道から水を出してタオルをぬらし、妻の顔や首にタオルをあてる。彼は蛇口を閉め忘れていて、ずっと水音がつづいている。観客はこの音が非常に気になる。いっぽう妻は応答しない。夫はキッチンを出て、急いで身じたくを整えにいく。水音はつづく。その音がとつぜん途切れる。夫が台所に戻ると、妻がごく尋常に蛇口をとめている。そして夫をとがめる。「水が出しっぱなしよ」。絶妙でした。一つの画面、二つの流れ。その分裂感、不安定さ。