うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0218. Goldfinger (1964)

2007年08月17日 | 1960s
ゴールドフィンガー / ガイ・ハミルトン
112 min UK

Goldfinger (1964)
Directed by Guy Hamilton, written by Richard Maibaum and Paul Dehn, based on the novel by Ian Fleming. Sean Connery 1930- (James Bond), Gert Froebe (Goldfinger), Harold Sakata (Oddjob), Bernard Lee (M).


物質的にも精神的にもひたすら消費的。
ゆがみが目立つ理由のひとつは、語りにおける過剰な省略法のためかもしれない。現実的な前提やフォローアップが徹底的に省かれている。表現としての目新しさや、展開の「スピード感」を意図したときの典型的な技法だろう。とはいえこれを過度に追求すると、しばしば、のちにみたときになんとも異様なものになる。つまりそうした作品は「同時代のほかの作品群」をあまりにもはげしく参照していて、その度合いがとびぬけて高いために、独立して鑑賞しようとしても見るに耐えないのである。いいかえれば特定の表現の定型という文脈に依存しすぎた結果、そこでは多くのできごとが断片のまま、説明なく放置される。リアリズム以前に、語りの基本的な生理のようなものがうしなわれてしまっている。たとえ同年代の映像であっても、たとえばヒッチコックの成功した作品では、こういうことはない。

もうひとつの理由は、やはりおもちゃのような人格設定。このジェームズ・ボンドという主人公が行使している「力」――政治的特権、知力、体力、組織力、暴力をふるう技術、装備のテクノロジーなど――はのちの娯楽アクション映画の主人公にもひきつがれている。わたしたちは「力」の描写がたっぷり誇張されていることにはいまでも慣れていて、そういうおもちゃを理解する素地はある。

すると最大のちがいは性行動だろう。ここで描かれたほど放埓な行動パターンは現代の作品ではもうすこし抑制されている。いまみると、これは性格破綻者にちかい。すくなくとも境界性格にはみえる。同時に、かれをとりまいてえがかれる女性たちは徹底的な隷属性をおびていて、独立した意志をもたないようにみえる。

こうしたいびつな要素がかさなって、全体が、ときに失笑をさそうような滑稽さを帯びてくる……いつもではないにせよ。主人公のスーツは一流の仕立てだし、壮年期のショーン・コネリーはクジャクの雄のように目をひく。プロットにもそれなりに市場経済的な洞察が反映されているようにみえる。だから、感心する点もさまざまにあった。

そのうえで、この作品でアジア人と女性が、人間――すなわち西洋の教養層男性――に隷属する家畜のように描写されていることには驚く。そして、なによりも家畜的なのは結局、ジェームズ・ボンド自身かもしれない。この主人公の性行動はごく直裁な交尾要求を目的とした言動にほとんど限定されていて、いいかえれば異様に貧しい。たとえばかつてコンラート・ローレンツが指摘したような、野生動物にはみられるはずの求愛文化の繊細な上部構造が欠落している。つまるところ、娯楽映画の主人公というのは、痛烈に家畜的なものなのかもしれない。かれらは観客の消費目的のために最適化された、人工的な生命像である。

「スター」――家畜化されたクジャク。



メモリータグ■英国作品。




Ref▼「家畜では、都市化された人間の場合とだいたい同じように、これらの繊細な性行動の上部構造すべてが失われる傾向があります。家畜の行動パターンと野生動物のそれとを較べてみますと、非選択的な交尾の要求、つまり私たちが獣のようだというむやみやたらなインスタントな性交の型は、野生動物の特徴ではなくて、むしろ家畜の特徴です」
コンラート・ローレンツ談▼リチャード・エヴァンズ『ローレンツの思想』日高敏隆監訳、思索社(一九七九)p62




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