ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード
149 min USA
The Da Vinci Code (2006)
Directed by Ron Howard. Akiva Goldsman (screenplay), Dan Brown (novel), Cinematography by Salvatore Totino. Tom Hanks (Dr. Robert Langdon), Audrey Tautou (Agent Sophie Neveu), Ian McKellen (Sir Leigh Teabing), Jean Reno (Captain Bezu Fache), Paul Bettany (Silas).
数年前に目をとおした原作は、作者自身がいかにも映画化を期待していそうな匂いのするものだった。じっさいに映像化された作品についてあまり高い評価をきかない。理由は自分で見て確認できた。演出や視覚情報では、話の基本的な弱点をカバーできなかったのだろう。美しい僧院や有名寺院などが撮影されているので、観光映画としてたのしむといいかもしれない。
ということで映画はさておき、原作について。冒頭、ルーブルの館長が、死に瀕してとはいえレオナルドの画布になぐり書きをする。その驚きにまず耐える。ところがなぐり書きの発見者も、ひと目みるなり平然と、「この謎が解ける?」などと訊く。レオナルドの作品が損傷されたら世紀の大事件でしょうに、この反応。一瞬、ある朝目がさめたら巨大な虫になっていた。しかし世界は変わらないという異様な設定を思い出した。
カフカの場合、その状況のなかで生じるあらゆる苦悩と焦燥をつたえる克明な描写に満ちているのだけれど、ここでは全員あたりまえという顔。そこでこちらも覚悟をきめる。これはそういうレヴェルの話らしい。そして、その覚悟が正しかったと知ることになる……。
とはいえ、むきになるまでもない。あそこまで他愛のない知識やその借用を奥義のようにならべつづけられると、最後は笑い出してしまうひとのほうが多かったのでは。たとえばハーヴァードで美学を専攻している学生が黄金分割さえ知らず、興奮しきって質問をつづけたり、当の教授が僧院でユダヤの民の基本的な印に気づかず、ひとから教えられて驚いている。その水準は最後までかわらない。
わたしたちは、ものごとについて調べる場合、ひとつずつの「知識」はつねに表布にすぎないことを思いおこす必要がある。布には裏地がついている。その概念を位置づけてきた文化的文脈、解釈の系譜というぶあつい裏地である。裏地を知るまで、その表布は使えない。知らずに使えば失笑をさそう。これは自分をかえりみてもこわい。
同時に、外からみてあやういのは、その事態と市場性がむすびついた場合に、むしろ一種の放任状態が生みだされることだろう。表布の乱脈使用について、知識層はしばしば完全に黙殺するほうをえらぶからである。それは最大の侮蔑の表現であるにもかかわらず、逆に市場での「評判」だけが野火のようにひろがっていくという事態をうむ。
この作品が世界各地で販売され、累計4900万部という実績をのこした事実について、専門家はいちど冷静に考えてみてもいい。ほんとうに・それで・いいのだろうか。徹底的な大衆小説だからという理由で別次元の話として無視するだけではなく、プロとしての説明責任について考えてみてもよかったのではないか。レオナルドの生地のイタリアでさえ、「ダ・ヴィンチ・コード展」といった名称で催しがなされたらしい。あのときはさすがに、なぜ「ダ・ヴィンチ展」ではいけないのかとエーコが苦言を呈していた。舞台にされた欧州の知識人のうんざりした反応と、アメリカ人観光客の熱狂の、鮮烈な対比が印象にのこる。
メモリータグ■映画で使われた小道具の暗号器。ちいさな円筒形で、表面の文字列をくみあわせてロックを解く。とても美しく仕上げられていた。どこに発注したのだろう、ほんものの精密機器の職人に依頼したもののようにみえる。
いっぽうでコスチュームはひどい。ひどいけれど理屈はとおっていて、ヒロインは話の進行にともなって次第に服を着くずしていく。かつて『ローマの休日』でこころみられた、一枚のシャツの着こなしを変えていく有名なスタイリングである。ヒロインはまずコートを脱ぎ、ついで襟元がくつろげられ、カーディガンのボタンがはずされ、やがてシャツとスカートだけの軽装になる。
ただし、その先はありません(笑)。
149 min USA
The Da Vinci Code (2006)
Directed by Ron Howard. Akiva Goldsman (screenplay), Dan Brown (novel), Cinematography by Salvatore Totino. Tom Hanks (Dr. Robert Langdon), Audrey Tautou (Agent Sophie Neveu), Ian McKellen (Sir Leigh Teabing), Jean Reno (Captain Bezu Fache), Paul Bettany (Silas).
数年前に目をとおした原作は、作者自身がいかにも映画化を期待していそうな匂いのするものだった。じっさいに映像化された作品についてあまり高い評価をきかない。理由は自分で見て確認できた。演出や視覚情報では、話の基本的な弱点をカバーできなかったのだろう。美しい僧院や有名寺院などが撮影されているので、観光映画としてたのしむといいかもしれない。
ということで映画はさておき、原作について。冒頭、ルーブルの館長が、死に瀕してとはいえレオナルドの画布になぐり書きをする。その驚きにまず耐える。ところがなぐり書きの発見者も、ひと目みるなり平然と、「この謎が解ける?」などと訊く。レオナルドの作品が損傷されたら世紀の大事件でしょうに、この反応。一瞬、ある朝目がさめたら巨大な虫になっていた。しかし世界は変わらないという異様な設定を思い出した。
カフカの場合、その状況のなかで生じるあらゆる苦悩と焦燥をつたえる克明な描写に満ちているのだけれど、ここでは全員あたりまえという顔。そこでこちらも覚悟をきめる。これはそういうレヴェルの話らしい。そして、その覚悟が正しかったと知ることになる……。
とはいえ、むきになるまでもない。あそこまで他愛のない知識やその借用を奥義のようにならべつづけられると、最後は笑い出してしまうひとのほうが多かったのでは。たとえばハーヴァードで美学を専攻している学生が黄金分割さえ知らず、興奮しきって質問をつづけたり、当の教授が僧院でユダヤの民の基本的な印に気づかず、ひとから教えられて驚いている。その水準は最後までかわらない。
わたしたちは、ものごとについて調べる場合、ひとつずつの「知識」はつねに表布にすぎないことを思いおこす必要がある。布には裏地がついている。その概念を位置づけてきた文化的文脈、解釈の系譜というぶあつい裏地である。裏地を知るまで、その表布は使えない。知らずに使えば失笑をさそう。これは自分をかえりみてもこわい。
同時に、外からみてあやういのは、その事態と市場性がむすびついた場合に、むしろ一種の放任状態が生みだされることだろう。表布の乱脈使用について、知識層はしばしば完全に黙殺するほうをえらぶからである。それは最大の侮蔑の表現であるにもかかわらず、逆に市場での「評判」だけが野火のようにひろがっていくという事態をうむ。
この作品が世界各地で販売され、累計4900万部という実績をのこした事実について、専門家はいちど冷静に考えてみてもいい。ほんとうに・それで・いいのだろうか。徹底的な大衆小説だからという理由で別次元の話として無視するだけではなく、プロとしての説明責任について考えてみてもよかったのではないか。レオナルドの生地のイタリアでさえ、「ダ・ヴィンチ・コード展」といった名称で催しがなされたらしい。あのときはさすがに、なぜ「ダ・ヴィンチ展」ではいけないのかとエーコが苦言を呈していた。舞台にされた欧州の知識人のうんざりした反応と、アメリカ人観光客の熱狂の、鮮烈な対比が印象にのこる。
メモリータグ■映画で使われた小道具の暗号器。ちいさな円筒形で、表面の文字列をくみあわせてロックを解く。とても美しく仕上げられていた。どこに発注したのだろう、ほんものの精密機器の職人に依頼したもののようにみえる。
いっぽうでコスチュームはひどい。ひどいけれど理屈はとおっていて、ヒロインは話の進行にともなって次第に服を着くずしていく。かつて『ローマの休日』でこころみられた、一枚のシャツの着こなしを変えていく有名なスタイリングである。ヒロインはまずコートを脱ぎ、ついで襟元がくつろげられ、カーディガンのボタンがはずされ、やがてシャツとスカートだけの軽装になる。
ただし、その先はありません(笑)。