25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

リピドー

2016年09月14日 | 日記

 この頃リピドー( Libido)について考えることがある。日常的には性的欲望または性衝動と同義に用いられる。母子の授乳、この時に母の乳首を男根にたとえ、乳児の口を膣とたとえると、母はその時は男性となり、乳児はすべて女性となる。これが本能的に備わった哺乳類のリピドーの始まりであると僕は理解している。間違っているかもしれない。このリピドーは生きるエネルギーに変換されていく。

 この前、NHKの「桑田佳祐 昭和歌謡を歌う」の中で、インタビューアーが、桑田歌にはどこかにエロい歌詞があるとかどうとか、それはなぜかみたいなことを訊いていた。すると桑田は、「僕らの頃にね、〇〇パンチとか〇〇ボーイとかあってね、それ見て、想像力を刺激されちゃってね、そのエロい想像力が、バネになってね、エネルギーになってね・・・」みたいな趣旨のことを言っていた。

 ああ、この人はリピドーってことがわかっている人なんだ、とその時、僕は思ったのだった。名声を得たい、金持ちになりたい、名誉を得たい、美味しい物が食べたい、異性と付き合いたい、こういったエネルギーもリピドーのなせることではないか。

 このリピドーの強さ、弱さは個人によって違うのかもしれないが、50歳や60歳、70歳になってもリピドーが溢れる人がいる。これは何か。精神の鍛錬なのか、性格なのか、つまり物の考え方によるものなのか。

 昨日知り合いに偶然出会って、顔がどす黒く、覇気がなく、どうしたんだろう、体のどこかが悪いのではないかと心配した。おそらくリピドーが失われつつあるのかもしれない。美は健康に宿ると同じようにリピドーも健康に宿るのかもしれないが、それは精神とも多分に結びついていて、精神のリピドーが肉体のリピドーと連携して、ホルモンも、エロスも前に進もうという力も湧いてくるもののように思える。

 リピドーはすべての人間活動の変形として考えられ、リビドーは無意識を源泉とする。性にまつわるものだけでなく、より正確には人間の性を非常にバラエティに富んだものへと向ける本質的な力と考えられている。

 整形手術で若く見える人も、「整形をしてまで若く見せたい」というエネルギーを持っている。逆に、化粧ひとつしなくても精神が若々しい人もいる。そういう人は健康でもある、ように思える。

 どうやらリピードを持って生まれ、リピードーが消失して終わるのが人間のようだ。週刊誌二誌が「六十代からの性」を昨年あたりから毎週のように扱うのは、作り手側もリピドーを何かしら感じているからなのだろう。