江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

主日礼拝(2012年5月6日)

2012-05-06 12:51:14 | Weblog
        主日礼拝(復活後第四)    2012.5.6
       
        「聖霊を受けなさい」 ヨハネ20:19-23
 
 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月の第一主日を迎えました。ゴールデンウィークも今日で終わりになりますが、皆さんの休日はいかがでしたか。良き休暇となったことと思います。
 30日は第二回のナザレンピック(教会運動会)でした。今年は観客も増え、新しい方々も参加して下さいました。稲葉神学生は、始まる前に走って転び、足と手に擦り傷を負いました。体力と頭(思い)とのずれが転倒してしまったと思います。
 今回は、去年準備の中心人物でありました野村兄が海外出張のため、壮年会の新会長の長瀬兄を中心に勧められました。楽しいプログラム、そのためのいろいろな準備と大変であったと思います。とても良き時を持つことができました。来年は第三回、また一味も二味も違うナザレンピックができそうな気がします。皆さんのご協力とお祈りに感謝致します。今回参加できなかった方々は、来年は参加してみて下さるといいですね。
 先週は、北海道の札幌でナザレン青年会全国大会があり、私と門田純兄と笹田麗子姉が参加致しました。北海道を中心とした信仰の先達に学ぶと篠沢俊一郎先生が講師として立てられ、とても良い講演でした。今回は、ナザレンの全国壮年会長の杉原兄と土居兄、江頭兄が出席され、青年たちに対してとても良いお話をして下さいました。門田純兄も海外でのサードウエイブの報告をして下さいました。4日の午後は、聖会のような素晴らしい集会となりました。旭川ナザレン教会の青年たちが、常に賛美をリードして心からの賛美をささげることができました。最初プログラムを見て、あまり期待していなかったのですが、本当に参加できて良かったと思える全国大会でした。お祈りに感謝致します。
 さて、ゴールデンウィークも今日で終わり、明日からはお仕事、勉強とそれぞれに与えられた持場、立場での歩みが始まります。今日は、ヨハネによる福音書20章19節から23節を通して、「聖霊を受けなさい」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 一、恐れる私のそばに主が
 今日の聖書の個所は、イエス様が復活された日、日曜日の夕方の事です。女性たちがイエス様の遺体に香油を塗ろうとして墓に行ったら、墓は空っぽでイエス様の復活を天使を通して聞きます。ヨハネによる福音書では、マブダラのマリアが復活の主に出会いました。女性たちのイエス様の復活の出来事を弟子たちは聞いても、バカバカしいことだと思い信じませんでした。
 ペトロとヨハネはマグダラのマリアからイエス様の墓が空っぽだと聞いて、墓を見に行きました。聖書にはペテロとヨハネは、イエス様を包んだ布が置いてあったのを見て信じたとあるのですが、今日の箇所を見ると、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。他の弟子たちも、主はよみがえられたと聞かされても、何の証拠もなく、イエス様の次は自分たちがユダヤ人に捕らえられ、処刑されるのではないかと恐れたのです。
 19節には、「ユダヤ人を恐れて」とありますが、私たちは人を恐れます。先生や上司を恐れるでしょうか。いじめられている子は、いじめっ子を恐れるでしょう。上下関係のある人々は上にいる人々を恐れるのです。また、私たちは過去を恐れます。自分の犯した罪や、失敗を恐れることがあります。けれども、イエス様の十字架は私たちの過去の全ての罪、失敗、弱に解決を与えておられるのです。解決をしておられるのに、私たちは、まだ解決していないかのように、赦されていないかのように、過去を見て、過去を思い出して恐れることがあるのです。
 また、未来、将来を恐れます。全国の青年大会で、岡山教会の土居兄弟がこれから大変な時代来ると話されました。医者の立場から、高齢化時代の中で、死を迎える人々の数が多くなり、そのことで日本は経済的にも、いろいろな面で大変になるとお話しされました。
 私たちは、これから地震の問題、大きな地震が確実に来ると言われる。放射能の問題は将来的な希望を見出せない。雇用の問題、自分自身の将来、一体どうなるのだろうと不安になり、まともに勉強することや働くことに正面から取り組めないということも出てくるのではないかと思うのです。
 私たちは、恐れます。しかし、その恐れで鍵を閉めている弟子たちの所にイエス様の方から近づいて下さったのです。イエス様は、「頑張れ、ここまで来い。ここまで来たら救ってやろう。」というのではなく、人を恐れ、過去を恐れ、将来を恐れている。どうにもできない。ただ、恐れているだけの私たちに自ら近づいて下さるのです。そして、語られるのです。私たちの罪を赦す為に、人となってこの世、人間の世界に来られ、十字架にかかって罪の赦しを与え、私たちを励まして下さるのです。

 二、あなたには平和がある
 弟子たちは、誰も自分たちの所へは入って来られないように、しっかりと鍵をかけていました。1つだけではなく、2つも、3つも鍵をかけていたかも知れません。現代なら、セコムしていたでしょう。けれども、イエス様は、彼らの所に入って来られたのです。
 鍵をかけるとは、人を受け入れないということでしょう。泥棒が入らないように、変な人が入らないようにと鍵をかけるわけです。私たちは、心に鍵をかけていないでしょうか。
日本人は案外、多くの人の心に鍵がかかっているようにも感じます。だから、深い関係を好まない。表面だけの、形だけの関わり、自分が傷つかないように、あまり関わろうとしないというのが日本人の特徴かも知れません。私自身もそのような所があるようにも思います。人にもそうですが、神様、イエス様に対しても鍵をかけているということはないでしょうか。イエス様を自分の心の中に迎え入れない。適当な距離を置いて、あまり深く関わることなく、それと言って無関心でもない。イエス様の十字架を信じて救われても、イエス様の関係が薄いと感じたことはないでしょうか。クリスチャンらしくない自分を感じたことはないでしょうか。いつまでたっても人間的で、この世と信仰との間を行ったり来たりしている。何かぬるい風呂に入って、出ようかどうしようかと中途半端な状態だと感じていることはないでしょうか。
 でも、大丈夫です。イエス様は、そのような私たちの所に来てくださるのです。不信仰な、弱々しい、絶望の中にあった弟子たちのところにイエス様は来られました。私たちはたとえどんなに頑丈な鍵を心にかけようとも、イエス様はあなたの心にもお入りになるのです。来てくださるのです。あなたが今日、ここにいること自体がそうなんだと思うのです。
 イエス様は弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。新改訳聖書では、「平安があなたがたにあるように。」とあります。口語訳聖書には、「安かれ。」となっています。この言葉は、ギリシャ語では「エイレーネ」という言葉だそうですが、皆さんがよく御存知のヘブライ語の「シャローム」の訳語と考えられるようです。シャロームとは挨拶の言葉とされていますから、夕方ですから日本では「今晩は」ということになるのでしょう。けれども、ユダヤ人を恐れ、鍵をかけている弟子たちにとっては、このシャローム、エイレーネ、「あなたがたに平和があるように」と言う言葉は、ただの挨拶としての言葉ではなく、弟子たちを励ます、支えの言葉であったと思います。バークレーという注解書では、「あなたがたが問題から救われるように」という以上の意味があり、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」という意味があると説明しています。
 今日、イエス様は私たちにも語られます。「たとえ問題があっても、恐れや不安があっても大丈夫。私はあなたにあらゆるよいもので満たします。」と。
20節を共に読みましょう。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」 「あなたがたに平和があるように」と言って、手と脇を見せたのです。手と脇とは何でしょうか。イエス様が十字架の上で傷ついた所でしょう。釘で十字架に打ち付けられた傷、ローマ兵の槍で突かれた脇の傷、つまり十字架を見せたと言っていい。
平和、平安の根拠は十字架だと言う事です。イエス様は、全人類の罪のために十字架で死なれました。死ぬはずのない神の子イエス様が罪ある私たちの罪の身代わりに命を投げ出して死んで下さいました。そして、復活することにより十字架を完成されたのです。十字架で死んだで、終わりではなく、復活して神であることを示されたのです。ですから、手と脇の傷は十字架で死んだことの証拠、しるしなのです。神様の大きな愛のしるしなのです。弟子たちは、確かにあの十字架刑で死なれたイエス様が復活したことを見て喜んだのです。私たちも十字架と復活を通して、喜びと平和が与えられるのです。

 三、わたしがあなたを遣わす
 21節を共に読みましょう。「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」」
 もう一度、シャローム、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」と語られました。そして、イエス様ご自身が父なる神様から遣わされたように、わたしもあなたがを遣わすと言われました。キリスト者、クリスチャンとは遣わされた者であると言われます。今回の青年全国大会の主講師の篠澤俊一郎先生も、クリスチャンは教会の中だけでなく、この世に遣わされて、そこで与えられた使命を果たすのだと力強く語って下さいました。私たちは、教会で礼拝を持ち、祈り会や学び、いろいろな集会を通して信仰を成長させるだけではなく、教会で得た恵みや祝福を携えて、この世に遣わされるのです。それは、イエス様御自身の願いであり、イエス様のお心なのです。
 遣わされる側の弟子たちは、遣わされるのにはふさわしい人々ではありませんでした。
イエス様の復活も信じられず、人を恐れてただブルブル震えて、苦しみが過ぎ去るのをただ待つというような、そのような弟子たちでした。けれども、イエス様は、弟子たちに、「わたしもあなたがたを遣わす。」とはっきりと宣言されました。ふさわしかどうかに関係なく、イエス様は弟子たちを選び遣わされました。私たちもイエス様に遣わされる者なのです。私が不信仰かどうか、世的かどうかに関係なく、イエス様はあなたを遣わすと宣言されるのです。
 イエス様は、弟子たちに狼の中に羊を送るようなものであると言われました。出て行くべき所、この世は恐ろしい場所でもあります。人間のエゴが罪が満ち溢れています。ですから、そこへ行くためには絶対に必要なものがあるのです。
 22節を共に読みましょう。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」 人を恐れ、過去を恐れ、未来を恐れる弟子たちをそのままでこの世に遣わすことはできないのです。聖霊が必要なのです。イエス様は、最後の晩餐の席で、聖霊について、助け主について語られました。
 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハネ16:8) 「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)
 聖霊を受けることにおいて、この世に遣わされて神様の働きを全うすることができるのです。だから、「聖霊を受けなさい。」と御命令されたのです。聖霊を受けても受けなくてもいいのではないです。選択ではない。必須なのです。これなくして歩めないのです。やがて、彼らはペンテコステの日、イエス様の言葉を信じて聖霊を待ち望み、聖霊を受けてクリスチャンとして、証し人として力強く歩んでいくのです。
 私たちは、待つ必要はありません。申先生が語られたように、私たち一人ひとりのうちにおられる聖霊を認めることから始めましょう。そして、内におられる聖霊に従う者となりましょう。イエス様が父なる神様に忠実に従われたように、聖霊の導きに従いましょう。
 聖霊は聖書の言葉を通して、導き働かれるのです。み言葉にしっかり立ちましょう。

 Ⅲ結論部
 23節の言葉は、弟子たち自身に罪の赦しの権限が与えられ、彼らの判断でどうにもなるというのではありません。弟子たちには、イエス様の十字架を通して与えられる罪の赦しの宣言が与えられているということです。その宣言を受ける者と受けない者の違いがそこにあるのです。けれども、聖霊はその救いの宣言を通して魂を罪から救われるのです。聖霊は、聖書の言葉を通して働かれます。時には、圧倒的な働きを通して、み業を行われます。聖霊は私たちの青葉台教会を通して働かれます。私たち一人ひとりを通して働かれます。私たちは、自分が不信仰かどうかが問題なのではありません。肉的、世的なことが問題なのでもありません。聖霊を認めず、聖霊に目を向けない。信頼しない。委ねない所に問題があるように思うのです。「聖霊を受けなさい。」これがイエス様の言葉です。
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