江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年7月16日)

2017-07-16 14:44:23 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第四)     2017.7.16

        「どんな時もどんなときも」  ヨブ記1:13~22

 

 Ⅰ導入部

 お早うございます。7月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができることを感謝致します。毎日、35度前後の温度で、「暑い、暑い」が合言葉になっているように思います。この暑さ「何とかならないものか」と、クーラーの効いた部屋に逃げてしまいます。この暑さの中、九州北での災害の復興作業に取り組んでおられる方々も、この暑さのために困難な状況であると思います。労しておられる方々が、暑さから守られ、復興作業が進められることを祈ります。

 今日は、第一礼拝においては、中高生の皆さんも合流しています。夏休みの目前ですが、夏休みを待ち望んでおられることだと思います。

 青葉台教会では、先週の役員会報告でお知らせしましたように、8月の第二日曜日から9月の第一日曜日までの一か月間、午前7時からの早朝礼拝を行いたいと思います。夏の暑い期間、小学校のラジオ体操と同じ時間になるでしょうか、7時から30分か40分の礼拝を行います。朝早く目覚める方々は、涼しい時間帯の早朝礼拝、ワーシップ賛美と短縮したメッセージをする予定です。ぜひ、覚えてお祈りいただきたいと思います。

 さて、今日は、ヨブ記1章13節から22節を通して、「どんな時もどんなときも」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、サタンがかぎまわっても大丈夫

 ヨブ記は、正し者がなぜ苦しむのか、という苦難の問題を問うています。聖書は、ヨブのことを、「無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた。」(1:1)と紹介しています。新改訳聖書には、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあります。リビングバイブルには、「この人は人格者で、神様を敬い、悪から遠ざかっていた。」とあります。このようなヨブが試練に遭うというのは、彼の罪のゆえではないことがわかります。ヨブには罪がないということではありません。

 ヨブ記1章には、神の使いの集まりにサタンが参加している様子が記されています。サタンは、神様に「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」(1:7)と言っています。リビングバイブルには、「地球のパトロールから帰って来たところでさ。」とあります。サタンというのは、クリスチャンの罪を見つけ出して、主の前に訴えるのです。クリスチャンの罪を告発することの専門家なのです。ペトロの手紙第一、5章8節には、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」という言葉があります。リビングバイブルには、「最大の敵である悪魔の攻撃に備えて、くれぐれも警戒しなさい。悪魔は、飢えて、ほえたけるライオンのように、引き裂くべき獲物を求めて、うろつき回っているのです。」とあります。 皆さん、いかがですか。今週の1週間のあなたの言動をサタンはうろついてあなたの罪を指摘するというのです。

 うろついて人の罪を告発するサタンに、神様はヨブについて語るのです。1章8節では、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上には彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」 神様は、ご自身がヨブのことを「わたしの僕ヨブ」と呼んでいます。ヨブは主のしもべなのです。神様とヨブとの良き関係を見ることができます。ヨブは神様を畏れて生きる人でした。この生き方が、彼を「無垢な正しい人」、全き人、どこをとっても欠けのない人、曲がったところはなく、まっすぐな人であることを神様ご自身が語っておられるのです。

 サタンは、私たちの罪や弱さを指摘して、私たちのクリスチャンとしての歩みを崩そうとしますが、私たちは、イエス様の十字架と復活のゆえに、神様の前に義とされていることを覚え、感謝したいと思うのです。

 

 二、信じているふりなのか

 神様はヨブをサタンに紹介しました。「無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」と。すると、サタンは言います。9節です。「サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」」 「利益もないのに」という言葉を、口語訳聖書や新改訳聖書は、「いたずらに」と訳しています。リビングバイブルでは、「当たり前ですよ。あなたが特別ひいきにしているんだから。」とあります。ヨブには、七人の息子と三人の娘、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産がありました。驚くべき財産です。特別ひいきと言われてもうなずけるような気がします。

 サタンは、ヨブが神様を信じているのは、信仰しているのは、このような多くの財産が与えられているからであって、このような財産が無くなれば信仰も失うという考え方でした。ご利益宗教だというのです。サタンの考えは、ヨブだけではなく、人間というものは、その宗教から得られるご利益を失えば、その神、信じる神をも捨てるのだということです。

 「利益もないのに神を敬うでしょうか。」ということです。「あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。」(1:10) リビングバイブルには、「あなたはいつも、彼とその家庭、持ち物を守っているじゃないですか。それに、彼のすることは何でも栄えるように目をかけている。これじゃあ、金がうなるほどあっても不思議ではない。あなたを拝むふりをして当然ですよ。」とあります。

 ヨブは、神様に祝福されているから信仰しているふりをしている。それをはっきりさせるためにもと提案するのです。「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1:11) リビングバイブルでは、「試しに、やっこさんの財産を取り上げてみるんですな。きっとあなたをのろいますぜ。」とあります。 サタンは、人間とは、ヨブは、多くのご利益があるから神を信じているのであって、それが失われれば、神をのろうにちがいないと考え、ヨブの財産を取り上げて来ることを提案するのです。神様は、そのことを許しますが、ヨブの体には手を出さないようにというのです。 サタンは、うろついて、人の罪や弱さを指摘し、また、ご利益があるから信じるのであって、それを取り上げることを提案しますが、サタンは、悪魔は、あくまでも、神様の許しの範囲内だけでしか行動できないのです。試練というものは、サタンが仕掛けるものですが、神様の許しがあって初めて起こりうることなのだと思うのです。

 私たちの信仰はどうでしょうか。利益もないのに、ただで神様を信じる者でしょうか。

 

 三、全てを知っておられる神様

 神様の許しを受けたサタンは行動に移します。次から次へとヨブの財産が奪われ、失われます。人の手によるもの、自然現象によるものによって、ヨブは子どもたちと財産を一度に失うことになるのです。サタンが言ったように、ヨブは神様からの恵みや祝福を失ってしまえば、神様を呪うのでしょうか。

 皆さんと共に、1章20節を共に読みましょう。「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。」 ヨブの悲しみの表現です。全ての物を一度に失ったヨブの悲しみを表しています。 これらの災いは、ヨブの財産が奪われたということだけではなく、その財産を取り戻すことのできる可能性が全くないということを表しています。

 財産や愛する者を失ったのですから、その悲しみは大きいものです。絶望があります。しかし、ヨブはただ絶望しただけではなく、ただ、悲しみに沈んだというのではなく、「地にひれ伏して」とあるように、自分の上に立つ者に敬意を表す、つまり、神様を礼拝したのです。私たちは、ヨブのような立場に立てば、失ったものにのみ心を奪われてしまいます。そして、その悲しみを、苦しみを、嘆きを訴えるのです。しかし、ヨブは、失ったものが回復されるように願って礼拝したのではありませんでした。ただ、神様に悲しみや嘆きを訴えるために礼拝したのではありませんでした。

 21節を共に読みましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 リビングバイブルには、「生まれた時、私は裸でした。死ぬ時も、何一つ持っていけません。私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。」とあります。

 裸一貫で出直そうというのではありません。どうしようもないからと開き直っているのでもありません。全ての良きものが神様が与えて下さったというだけではなく、今、ヨブ自身が経験している辛い出来事、絶望と思える出来事、マイナスさえも、神様の許しの中で起こっているという信仰、どこまでも神様に信頼していくというヨブの信仰が現れているのだと思うのです。ここでヨブは、悲しみの中にありながらも、災いも幸いも一切のことを治めておられる神様、主を告白しているのです。

 ヨブは、「主は奪う。主は取られた。」と言いながら、主がこの災いを許された事を受け入れつつ、認めながら、主と呼んでいるのです。もし、ヨブが、神様が与えて下さるご利益、幸福だけを中心として、それをいただける限りにおいて、神様を信じているとするならば、この時、全ての物を失った時、神様を呪ったに違いないのです。「主は与え、主は奪う。」とヨブは言いました。幸いだけではなく、災い、困難、苦しみ、悲しみ、嘆きさえも、許された主は、主は与え、という主と変わらないお方であると信じたのです。

 ヨブは、自分の命と奥さん以外は全て失われたと思いました。けれども、祝福を与え、災いさえも許される、奪う主との関係、神様がヨブを「わたしの僕ヨブ」と読んで下さる関係、どのような経験をしようとも、苦しみや悲しみがあったとしても、「主の御名はほめたたえられよ。」と言える神様との深い関係が残されていたのです。そして、この関係が、信仰がヨブに回復を与えることになるのです。

 

 Ⅲ結論部

 「生まれた時、私は裸でした。死ぬ時も、何一つ持っていけません。私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。」と21節のリビングバイブルの言葉です。「いつでも、どんな時でも」という言葉から今日の説教題を考えました。「どんな時もどんなときも」、楽しい時も幸せな時も、苦しい時も悲しい時も、神様は神様なのです。私たちがどのような経験をしようとも、その背後には神様の守りがあるのです。私たちが経験する苦しみや悲しみ、絶望を神様は知らなかった、ということはないのです。

サタンがどのような策を考えて、私たちを苦しみ、みじめにし、落ち込ませようとしても、そのことを許された神様、その辛い経験をした私を神様は知っていて下さるのです。

 私たちを愛する神様、私たちの罪を赦すために、罪のないお方、イエス様は神の子として人間の世界に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。十字架の上に、両手両足に釘づけされ、頭にはいばらの冠をつけられ、最後の一滴まで私たちのために血を流して下さいました。私たちの罪を赦し、魂の救いのために、イエス様はご自分の命をささげて下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、救いを完成されたのです。そして、私たちに永遠の命、死んでも生きる命を与えて下さったのです。

 サタンが私たちの周りをうろつき、かぎまわろうとも、どんなに罪を指摘し、告発しようとも、イエス様の十字架と復活のゆえに、私たちは神様の前に義とされ、神様がヨブに言われたように、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上には彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」と同じように、私たちにも言って下さるのです。

 私たちは、苦しい時も辛い時も、幸せな時も楽しい時も、どんな時も、どんなときもイエス様を信頼して、イエス様にすべてをお委ねして歩みたいと思うのです。この週もイエス様が共におられます。あなたを支えて下さいます。だから、大丈夫。どんな時もイエス様を信じて歩んでまいりましょう。

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