江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年3月12日)

2017-03-12 12:48:20 | Weblog

日曜礼拝(受難節第二)        2017.3.12

愛は計算を度外視する」 マタイ26:6~13

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第二日曜日、受難節の第二日曜日を迎えました。先週は、岩淵兄がお話し下さいました。感謝です。先週は、金曜日から日曜日まで大阪のホテルコスモスクエア国際交流センターにおいて、日本ナザレン教団の大年会が行われました。多くの議事協議とナザレン神学校の卒業式、青葉台教会出身の門田純兄が卒業され、門田純師、伝道師となり、九州の長崎教会に赴任が決まりました。また、按手礼式、伝道師から長老職となる式で、松江教会の中出潤一師、尾山台教会の梅實淳一師が按手を受けられ、長老となられました。按手礼の後は聖会があり、アジア・パシフィック担当のデイビッド・グレイブ監督がメッセージして下さいました。また、日曜日の礼拝は古川理事長がメッセージして下さり、ユーオディアの演奏、柳瀬兄の証しがあり、聖餐の恵みに預かりました。

また、青葉台教会出身でメノナイト白石教会の牧師でありました大山裕昭師はナザレン教団に加入され、国立教会の牧師として遣わされることになりました。皆さんのお祈りに心から感謝致します。

 私も教職理事としての2年間が守られました。あと一期2年間選ばれましたので、仕えたいと思います。お祈りでお支え下さい。

 さて、受難節第二日曜日に選ばせていただいた聖書箇所は、マタイによる福音書26章6節から13節です。「愛は計算を度外視する」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、ベタニアでの出来事

 6節には、ベタニアという地名が出てきます。ベタニアには、イエス様が愛された兄弟姉妹のマルタ、マリア、ラザロの家がありました。また、ヨハネによる福音書1章には、イエス様がバプテスマのヨハネより洗礼を受けられた場所がヨルダン川の向こうのベタニアだと記されています。このベタニアで、イエス様は死んだラザロを生き返らせるという奇跡の業をなさったのです。イエス様にとっては、ベタニア、つまりマルタ、マリア、ラザロとの交わりは心地よかったのだと思うのです。

 イエス様は、エルサレムで十字架につくわけですが、エルサレムに行く前にベタニアに行かれたのです。ベタニアはエルサレムの南東約3キロの所にあったようです。ルカによる福音書では、イエス様が昇天された場所がベタニアであったことを記しています。

 ベタニアとは、「ナツメヤシの家」という意味があるようです。また、ヘブライ語では「神により頼む貧しい者の家」「悩める者の家」という意味もあるようです。

 今日の聖書の箇所には、このベタニアに重い皮膚病の人シモンの家でのお話しです。

重い皮膚病は、律法には、「自分は汚れた者だ」と周りいる人々に、わかるように叫ばなければなりませんでしたし、一般の人々と共にいることはできませんでした。ですから、この病気になった人々は、孤独と苦しみと悲しみを深く深く経験したのでした。

 おそらくシモンは、この重い皮膚病をイエス様に癒していただいたのだと思うのです。たとえ重い皮膚病が癒されたとしても、周りの人々は気味悪く思ったのかも知れません。

 ベタニヤとは、「神により頼む貧しい者の家」「悩める者の家」という意味があったように、シモンも家族も悩める者、つらい事柄を経験した人々だったのです。そこに、救い主、解放者イエス様が共におられたということは、大きな慰めだったと思うのです。私たちも、悲しみや苦しみ、嘆きや絶望を経験します。しかし、その私とあなたと共にイエス様はおられることを信じて、イエス様に全てをお委ねしたいと思うのです。

 

 二、無駄に見える最高の奉仕

 そのシモンの家に、一人の女性が入って来たのです。彼女は、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持ってきたのです。この記事の平行箇所であるマルコによる福音書14章には、「純粋で非常に高価なナルドの香油」と記しています。この香油は、北インド・ヒマラヤが原産でオミナエシ科植物ナルド・スタキスという植物の根から抽出した香料をオリーブ油で溶いたものです。その香は炭や土さらに松ヤニの香りを含み、深い森を連想させます。 今日では、スパイク・ナルドと呼ばれる香油で、殺菌効果があり、アレルギーなど皮膚治療、アロマテラピーでリラックス作用による疲れの癒しなどに使われているようです。
 この記事の平行記事であるヨハネによる福音書12章には、「純粋で非常に高価なナルドの香油一リトラ持って来て」とあります。1リトラとは、328グラムですから、カンジュースほどの量になります。

 純粋で高価なナルドの香油を、なんと300グラムを全てイエス様の頭に注ぎかけたのです。普段は、一滴ずつ使用するのでしょうが、イエス様には全てささげたのです。ヨハネによる福音書12章には、「家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。一滴なら、ほのかに香るぐらいでしょうが、300グラムですから、家いっぱいに、高価な香油の香りが充満したのでした。

 車でも、トイレでも芳香剤を最近使用します。何か変な匂いを消したり、良い香りを出すために使用します。女性の方々は、香水をつけられている方が多いのでしょうか。すれちがった時に、良い香りがするということがあります。香水は、もともと宗教的な用途や行事に使用されていたのが始まりのようです。イエス様の注ぎかけた香油は、宗教的な用途であったことがわかります。

 その女性がイエス様に香油を300グラム全てを注ぎかけるという非常識な行動を見た弟子たちは言いました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。」と。ヨハネによる福音書12章には、イエス様の弟子のイスカリオテのユダが、文句を言ったことが記されています。マタイによる福音書26章は、「高く売って」とありますが、マルコやヨハネでは、「三百デナリオン(以上に)で売って」とあります。三百デナリオンとは、成人男性の1年分の給料の額と同じだと言われていますから、相当な金額です。この女性がささげた300グラムは、そんなに高価なナルド香油だったのです。「無駄だ、もったいないことを」ということなのです。

 弟子たちは、無駄だと言いましたが、この女性にとっては、無駄なことではなく、感謝の現れ、信仰の表れだったのです。私たちは、人の行動にケチをつけるのではなく、そのことを受け止めて、共に感謝できたらと思うのです。

 

 三、精一杯のささげものが喜ばれる

 イエス様に対して、自分の持てる精一杯のささげものを、この女性は弟子たちから、けなされました。「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言われて、せっかくの感謝の気持ちがなえてしまいました。この女性のそのような心と、また弟子たちの心無い思いを知って語られたのです。10節を共に読みましょう。

「イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」

 弟子たちは、自分の持ち物ではないし、他人のことだから簡単に言えます。ヨハネによる福音書では、ユダが言ったとあり、ユダが貧しい人々のために、と言ったのは、ユダが盗人で、金入れを預かりながら、その中身をごまかしていた、と記しています。ですから、貧しい人々のこと等、何も考えないで言ったことでした。私たちも、その人の事を別に何も考えないで、話してしまうことがあるかも知れません。マルコによる福音書では、「彼女を厳しくとがめた。」と記しています。 1年分の給料がおしかったのでしょうね。

 イエス様は、弟子たちが貧しい人々のこと等考えていない事をご存知でした。そして、彼女を厳しくとがめた弟子たちに、「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と彼女を弁護されたのです。

 12節を共に読みましょう。「この人は、わたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。

 イエス様が十字架につけられて死なれた時、葬りの備え、香油を十分に塗ることができなかったので、女性たちは、安息日が終わって日曜日の朝に香油を塗るために墓に行き、イエス様の復活を知りました。香油は、死体にぬるためのものでもありました。しかし、イエス様は、この女性が自分に香油を注ぎかけたことは、イエス様の葬りのために準備をしてくれたと、はっきりと言われたのです。

 イエス様は、弟子たちに少なくとも三回は、御自分が祭司長に苦しめられ、十字架につけられて死ぬことを語っておられました。けれども、弟子たちの全ての者が、そのことを信じませんでした。イエス様の十字架の死について、考えもしなかった。気にもとめなかったのです。けれども、この女性は、イエス様の十字架の死の葬りの備え、準備をしてくれたのです。ですから、イエス様が全人類の罪の身代わりに十字架にかかって死ぬということ、それは苦しみであり、痛みでありました。弟子たちは、イエス様の苦しみを痛みを、自分たちの苦しみ、痛みとすることはできなかったのです。そのような中で、イエス様が十字架につく前に、一人の女性の、このような香油注ぎをイエス様は喜ばれたのです。イエス様の心が救われたのです。全人類のために、十字架につくという使命に立つことができたのだと思うのです。彼女の勇気ある、タイムリーな愛の奉仕により、イエス様は勇気づけられたのではないかと思うのです。

 弟子たちは、300グラム、300デナリオンの香油が無駄だ、勿体ないと憤慨しました。それならば、神であるイエス様が十字架で尊い血を流し、命をささげたということの方が無駄に思えるかも知れません。全ての人が、イエス様の十字架と復活を信じたのであればいいですが、日本では99パーセントの人が背を向けているのですから、イエス様の十字架は無駄だ、もったいないと言うべきかも知れません。けれども、神様は私たちを愛し、私たちを救うために、イエス様を十字架につけ、私たちの全ての罪を赦して下さったのです。全ての人のための救いは完成されているのです。全ての人の罪は赦されているのです。それを知らないだけなのです。

 Ⅲ結論部

 この女性は、イエス様がシモンの家にいると知って自分の最高のささげものをもってイエス様にささげたのです。彼女にとっても、イエス様にとってもそれは、無駄なことでもなく、もったいないこともなかった。最も大切な事となったのです。彼女は、神の時を生きました。今しかできない事を彼女はしたのです。それが、イエス様の葬りの準備となったのです。私たちも、神の時を生きたいと思うのです。私たちは、クリスチャンであっても、苦しみを経験することがあります。苦しい時、苦しむということが神の時を生きるということだと思うのです。悲しい時は悲しむことが、嘆く時は嘆くということが神の時を生きるということなのです。勿論、うれしい時は喜ぶということが神の時を生きることだと思うのです。私たちは、神の時を知る者でありたいと思うのです。

 弟子たちは、彼女の香油注ぎを300デナリオンで売って、と彼女の精一杯の奉仕を計算で決めてしまいました。私たちの住んでいる世の中は、計算で物事を処理します。それは、自分中心であるということでしょう。愛の心をお金で計算したのです。しかし、この女性は、イエス様に愛を持って仕えたのです。計算ではなく、見栄でもなく、心からイエス様を愛して、心からのささげものをしたのです。ですから、誰に何を言われてもよかったのでしょう。しかし、イエス様は、彼女の行為を良い事、葬りの備えと言われ、全世界で福音が宣べ伝えらえる所で、彼女のした行為は記念として伝えられると言われたのです。

 彼女は、記念となるようにとしたわけではありません。彼女のイエス様に対する精一杯の感謝と奉仕が、葬りの備えとなり、イエス様にとって良い事であり、多くの人々に証しとなったのです。

 弟子たちは、彼女の精一杯の愛の奉仕を計算で簡単に済ませました。つまり、自分だけの思い、自分だけの考え、自己勝手に判断したということです。けれども、神様は、計算を度外視して、イエス様、神の子、聖なるお方を私たちの罪を赦すために、魂を救うために、イエス様を十字架につけて殺されたのです。ある意味では、最高の無駄遣いかも知れません。私たちは、命を与えるほどの愛で愛されているのです。このような愛で愛されているのですから、私たちは、この週も安心して、この愛に生かされてまいりましょう。

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