森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

人類への贈り物、ジブリの『君たちはどう生きるか』

2023-08-02 11:23:48 | 人類の未来

この3月に前ブログを書いたので、ずいぶん時が経ちました。生物学の学会の年次大会、歌のコンサートやコンクール、自分自身の生物学の半生のまとめ・人類への贈り物である論考を脱稿しました。今、いろんな方に見てもらっているところです。あれこれとても忙しく過ごしました。

先日ジブリの映画『君たちはどう生きるか』を近くの映画館で観ました。私の論考とも重なりました。ジブリというか、宮崎駿氏の人類への贈り物だと思いました。

それより先に、トゥキュディデス(ツキジデス)による『人はなぜ戦争を選ぶのか』という本を読みました。
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(一部修正しています)
アテネが支配していた紀元前のギリシャ。都市国家ミュティレネがアテネとの同盟を解消し、離脱を目論んだ。

<クレオンの演説>
諸君らは我が帝国(アテネ)が、支配を不服とし、陰謀を画策するような都市を相手に暴君的な圧政を敷いているという事実を理解していない。同盟国が我々に服従するのは、我々が彼らのために恩を施すからではなく、力づくでねじ伏せているからだ。
それは力のなせる業で、  なにも我々を慕っているからではない。
質は悪いが実行力のある法を持つ都市の方が、質は良いが実行力のない法を持つ都市よりも優れている。起こりうる最悪の事態は、この事実を我々が見落としてしまい、意味のない決議を行うことだ。
抑制の効いた無知のほうが、自己を点検することのない知性よりも好ましく、都市をうまく運営できるのは、賢い者たちよりも単純な思考をするものたちである。

<ディオドトスの演説>
私はミュティレネを擁護するつもりも、非難するつもりもない。彼らの犯した罪についてではなく、我々のとりうる最善の道について討論するほうが賢明だ。仮にミュティレネの罪を完全に立証できるとしても、それがアテネの利益にならないのであれば、彼らを死刑にすべきではない。また、それがアテネの利益にならないのであれば、彼らを放免する必要もない。
我々は現在についてではなく、未来について討論すべきである。
クレオンはミュティレネ人を処刑することが反乱の抑止につながり、我々に大きな利益をもたらすと主張している。私は将来について真剣に案じるなら、反対の道を行くのが最善であると考える。
我々はミュティレネを正義の名の下で裁くのではなく、どうしたらミュティレネの反乱を最大限に利用できるか討論すべきなのである。
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この演説を読むと、アテネの紀元前400年、今から2500年前と現代と何も変わっていないと思います。
クレオンの演説は、力でねじ伏せよ!恐怖で支配せよ!と言っているだけです。でも人間の一面を突いていると思います。
それに対し、ディオドトスの演説は人間には愛の心があり人を信じよと、説いているのではありません。
上記のディオドトスの演説の最後の文章を見てください。

自分が一番大事だ。
自分が一番都合よく行くにはどうすればよいか、そこを考えろと言っているのです。
2500年前と現代と何も変わっていません。
むしろこの時代は演説に正直な気持ちが出ているのに、現代では嘘の仮面をかぶっている分もっと悪くなっています。
ディオドトスの演説は自分ファーストそのものです。

先の大戦で日本が負け、日本は裁かれました。
正義の名の下、人道の名の下で裁かれたのではありません。
正義と人道で表面を粉飾されただけで、ディオドトスで裁かれたのです。
当時の主力の政治家や新聞社社主、そのほかの有力者が米のエージェントとして大きな資金を受けていたと言われます。
まさにディオドトスの演説そのものではないでしょうか。名目の正義によって処刑するよりも、日本を自国の役に立たせるにはどうしたらよいか。それこそが米にとっての正義です。
米はディオドトスに従って米の正義を為しただけです。
正義は国の数だけあるのでしょう。

これを利己性と言います。
この地球上に生物が誕生したとき、利己性つまり自分自身を維持し、未来に生命を繋いでいく機能を授かった生物が現在まで生き残ってきました。生物に利己性は必然です。

映画『君たちはどう生きるか』では、人間の真の姿が描かれています。主人公の名前は眞人(まひと)、ここにこの物語の全てが凝縮されています。
主人公が転校先で喧嘩をし、帰り道で石で自分の頭を叩いてこめかみから血を流して家に帰ります。父親が誰にやられたんだと聞いても、道で転んだだけだと言います。なぜこんな演技をするのか。なぜ父親を騙すのか。これが私の持つ悪意だと、眞人自身が映画の終わりの方で告白します。
私は人間の持つ利己性の一つの表れだとみます。その眞人の傷を見た社会的に大きな力を持つ父親が学校へ行って何をしたか、そこは映画には出てきません。想像せよと観客に迫るだけです。
でも人間は、利己性の他に真の利他性を持っています。最終的に自分の利益につながる擬似の利他性ではなく、言わば無私の愛、博愛、人類愛ともいうべき真の利他性です。この映画のポスターは1枚だけです。顔が二重になったアオサギのポスター、それだけです。アオサギは人間の持つ悪意そのものでした。でも眞人と関わっていくうちに、別の面が出てきます。これが人間です。
アオサギに導かれた幻想の世界で、眞人は世界を統べる大爺に会います。大爺は眞人に「私を継いで欲しい」と頼みます。でも眞人はそれを断ります。例え世界が火の海になろうとも嫌だと、眞人はそれを断ります。人間というものは、本来他人によって支配できないものだという主張がここにはあります。
この映画は小説『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎、1982)をタイトルにしています。その本の内容は映画では全く出てきませんが、大きな影響を受けていることは映画を見ていくとわかります。宮崎駿氏がこの小説にきっと大きな影響を受けたのでしょう。

でもこの小説には反論があります。
「『君たちはどう生きるか』に異論あり!」(村瀬、2018)です。
『君たちはどう生きるか』の物語は、主人公コペルくんが銀座のデパートの屋上から下を見ると、人間が分子のように見えるというところから始まります。村瀬(2018)の異論は、この人間分子論についてがメインです。でも村瀬は、この人間分子論を否定してはいません。人間を分子として見る目、言葉を代えれば高い位置から人間や人間社会を俯瞰する目、感情を除外した客観的な目は必要だと言っています。でも人間を横から見る目、「目、口、尻」を持った等身大の位置から見る目とのバランスが大事だと言っています。
小説『君たちはどう生きるか』は、現代の人間社会に生きる我々が原点から再考すべき時が来ていると私は思います。

そしてもう一度映画に戻りますが、眞人の新しい母である夏子のお腹には子どもがいます。この子が未来の人類を表しています。『君たちはどう生きるか』の、科学的と称する高いところから俯瞰した人間分子論、そして等身大の位置からの目・・・。
この両方を備えた新しい目を持った未来の人類が、この夏子のお腹の子です。

私は、この両方の目がこれからの人類に必要だ、身につけよと言っているのではありません。人間は、生物としてこの両方の目を本来持っているのです。この両方の目の生物学的な視点から機構の解明が私の論考であり、人類への私の贈り物です。この年末には出版できるでしょう。

これを読むと人間がどんな生き物なのか、どんな目を持っているのか、それがわかります。
この目こそが夏子のお腹の子の目だと、私は思います。
美しい情景や幻想的な展開、エンターテインメントで飾られてはいますが、この映画は哲学映画であり、宮崎駿の長く生きたこの人類社会への彼の贈り物、長く生きたこの人類社会への宮崎駿の感謝の気持ちの表れではないかと私は思います。

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