森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

究極の選択

2017-10-25 13:25:40 | 社会問題

2017年10月24日(土)スウェーデン大使館オーディトリウムで行われた一般社団法人日瑞基金主催による第1回サイエンスセミナー、立命館大学前副総長、京都大学名誉教授の村上正紀氏による「人口減少での2060年問題に挑む立命館大学」という表題の講演を拝聴した。

日本の人口問題といえば、その減少を憂い、ますます減る若者が一体何人の老人を食べさせるのか、どうしたらもっと子を産む社会をつくることができるのか、そういう視点ばかりである。それ以外の見方はないと言ってもよいくらいである。

講演者の村上正紀氏は、京都大学卒業後UCLAに籍を置き、その後米国のIBMに勤め20年間を米国で過ごした冶金工学者である。帰国後京都大学で教鞭をとり、その後立命館大学で教え、現在は“文理融合”の視点をもって、立命館大学全学プロジェクト第3期「少子高齢化に対応する社会モデル形成」を進めている。

まず私が驚いたのは、「日本の人口減少は“その理想的な姿”に向かっている」との見方である。つまり日本の人口減少を、誰が誰を食べさすとか損とか得とかの視点ではなく、環境問題に関心を持つ人々が使う“エコロジカル フット・プリント”の視点から捉えた点である。日本人が現在の生活水準を維持するためには地球が2.3個いる。地球は2.3個には絶対にならない。1個のままである。ではどうすればよいか。日本人の生活水準を下げるか人口を減らすかである。現在の生活水準を保つと、適正な日本の人口は5800万人になる。幸いにもそちらへ向かっているではないか!

しかし、その人口で現代の生活水準が保てるのか。仕事はあるのか。国家の財政は成り立つのか?・・これらの総合的な解決のために、社会科学、自然科学、あらゆる学問を併せた全集学的なプロジェクトである。人文科学、自然科学からの様々の試みが紹介された。何より、立命館大学の校風か、京都大学の校風か、あるいは講演者の人柄か、講演が真摯で一途、また強い熱意を感じ、聴いていてとても気持ちがよく好感を持った。しかし、人類社会が今どうなっているのか、今後どう動くのか、真摯と一途はとても大事だが、それだけではうまく行かないと思った。それで、講演終了後の質疑で、会場から意見を述べた。
「お話をお聴きして人口減少に対するものの見方、および真摯で一途なご講演に同意し、強い好感を持ちました。しかし、現代の社会の状況で気付いていないと思われる点があるので、それを述べさせていただきます。私は、65歳を過ぎた老人ですが、今日この会場を見渡すと失礼ながら若者はほとんどいない。私が一番若いんじゃないかと思うくらいです。

今の若者が何と言っているか。

もちろん若者全部ではないが、ブログやMLで若者の声を聴き、質疑応答をやれば見えてくるものがあります。

・・・日本は人口が減少する。老人ばかりになる。しかしその問題の解決は非常に簡単だ。国は、70歳以上の老人には生活費の支給は一切しない。福祉的な援助も一切しない。むろんお金のある人は自分のお金でいくつまで生きようと、どう生きようと構わない。しかし、生きてゆくだけの資産のない人、親戚縁者、関係者の誰も助けない人は安楽死をしてもらう。今後人間社会に役立たない人、社会に負担をかけるだけの人、それゆえに現在もお金がないし今後も入る見込みがない。そんな人は消えてもらうのが世のためである。・・・

こう言っているのですよ。

この主張に対して、私が、人間には思考力も意思もある。70歳になってこの世も飽きた。そろそろこの世とさよならしたいと自ら思う人もいるかも知れない。しかし、仮にいてもそれは10人中せいぜい1人だろう。10人中9人はお金がなくても生命ある限り生きたい、生を全うしたいと思うだろう。その人たちの意思はどうなるんですか。その若者は、では貴方はどうしろというんですか。若者に、縁もゆかりもない赤の他人の老人、日本社会の寄生者のような人の面倒を見続けろとでも言うんですかと、私に問い返しました。


講演でお示しくださったグラフのように、一部の若者はそんな考えを持つかもしれないが老人の比率はどんどん増えている。老人が増えるから、そんな若者の意見は取り上げられないと楽観視されるかもしれませんが、決してそうではないのです。問題は、自分で働いて得た金(収入)は自分のものであり、なぜ他人のために出さなくてはならないのかと言う疑問が、人類社会に表面化してきていることです。老人だってお金持ちは、同じことを言うでしょう。なぜ老人になっても蓄えがないのか。それは若い時に怠けてきたからだ。そんな人をなぜ助けなくてはならないのか。老人も金持ちは、先の若者と同じことを言うでしょう。表向きには声に出さなくても、内心ではそう思う人が増えるでしょう。老人の数の多いことは助けにならないのです。要はものの考え方です。自分の富を他人のために使うこと、それが許せない社会になってきていることです。欧州では移民排除の極右政党が著しく伸長し、スウェーデンなど高い税と福祉の北欧も例外ではありません。弱者への福祉や特権を許さないと言う日本のヘイト・クライム、米国のトランプ大統領でさえ、クリントンを富裕者、既得権益層の代弁者と見立て、それへの抵抗者だとの振りによって当選したと私は見ています。世界の潮流だと思います。
スライドでお示しくださった自然科学による素晴らしいブレイク・スルーが絵に描いた餅で終わった時、先ほどの若者の主張はすぐにも現実化すると私は思います。ご講演で素晴らしい言葉がありました。「文理融合」という言葉です。自然科学がいくら発展しても、人間とは何か、人間社会とは何かが分からなければ、その発展した自然科学によって人間は滅ぼされると、私は思います。

上記について翌日メールで意見交換をした。村上氏は、私の指摘を聴いて過去の「姨捨山」を思いだしたとおっしゃった。私はそれに合意した。

昔は、精一杯努力しても、助け合っても生物として生きていくこと自体が難しかった。そのことが身体に染み付いた人間は、次世代の人のために自らが死を選んだ。悲しいがその時代はそれが現実だったのだろう。それゆえに、人間はそんな悲しみを減らすために日夜働き、科学(学問)を発達させた。現代が姥捨山になったら、何のために科学を、学問を深めたのか。人類が日夜働き営々と積み上げてきた文明、学問、科学・・これらの総てが涙を流すだろう。

 今、私が書き上げた論考、生物学と哲学を統合した論考、私がこの世に、次世代の人類に残したい、私の生涯をかけたまとめである。まさに、この講演会でのやり取りで垣間見た世界の現代人類の潮流、その流れを変える答えも示唆している。

まだ案の段階で、いろんな方に見ていただいている最中だが、出版となったら、このブログでも紹介したい。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(5)

2017-07-25 09:41:28 | 社会問題

(5)控訴の結果

5月31日に控訴した出版裁判について結審がでました。
(この出版裁判の発端と経緯については過去のブログを参照してください)

私と長瀬氏の敗訴となりました。

私も長瀬さんも、代理人(弁護士)も、社会の一般常識として、出資をした者、つまり金銭的なリスクを負った者がその制作物の所有者であると考えました。しかし結果としては、我々の常識ではなく覚書に書いてある通りの判断でした。
つまり、覚書には著者が100冊献本を受けると記述されており、所有者であれば献本を受けるはずはない。したがって所有者は赤○氏であるという、論理に基づく結論です。
これに対して、もしその論理で考えるなら、赤○氏もパブリシティー献本という言葉で100冊取ったのだから所有者は両者のいずれでもなく、両者に共通する架空の存在であってそこから両者が献本を受けたのではないか、そう論理付けられると主張しました。
実際に、著者が100冊献本を受けるなら、私も同じ部数をもらうよと言ってU出版社長の赤○氏がもって行ったのです。
だからこのことを言えば控訴は勝つだろうと思いました。
ところが、赤○氏もパブリシティー献本という言葉で100冊取ったのは事実だけれども、覚書にはパブリシティー献本100冊と書いてあるだけで赤○氏が献本を受けるとは書いてないのです。

最初から覚書に罠があったというほかはありません。

考えてみるとパブリシティー献本の意味がよく分かりません。出版社とか卸などに配ったのか??国会図書館じゃあるまいし、出版された本がいちいち全部献本されても出版社も卸も書店も保管に困ってしまうでしょう。私の前に同じく“U出版”で本を出した人が一人いました(私が二番目)。講演会で私が講演した時、赤○氏は受付付近にその“U出版”の本を置かせて欲しいと頼み、私はそれを了解しました。その本は、講演と関連があり相当売れたように思いました。そこで販売された本は赤○氏自身が持参した本であり、むろん卸や書店を流通していないので流通経費はありません。売上の全額が利益です。しかも制作費は著者が出していれば一切の負担なく売上全額が自分のものです。こんな虫のいいビジネスはちょっと思い当たりません。

最初のK先生のお話では、赤○氏は出版業界に顔が広いので出版社を紹介して便宜を図ってくれるということでした。大学教授や著名な人にはそうしているのでしょう。しかし赤○氏は、私に対してはどうしてもうちで出版させてくださいとお願いしました。赤○氏は絶版にして全部廃棄したと言いますが、実際大手の書店には私の本はまだ置いてあります。しかし、裁判で敗訴して所有者が彼ということになった以上どうすることもできません。6:4で利益分割の約束が全額赤○氏の取り分になります。本の中身は無論私、本の制作費も全額私、それでいて売り上げは全額赤○氏のものです。私が自分の正当な取り分を受け取るには裁判しかありません。


結論として、赤○氏のような小企業で、お金を出資してくださいという話は全て詐欺だと思った方がよいと思いました。著者の中には、とにかく出版さえすれば出資や利益のことなどどうでもよいという人もいるでしょうから、そういう人は無論のこと、社会的に発言力がないと見た人には積極的に迫っていくのでしょう。赤○氏の謳い文句である著者と出版社のコラボによる新しい出版形態 “U出版” も10冊を超えたということです。この裁判に勝ったので、これから大威張りでこのビジネスを進めるでしょう。何せポイントを押さえた簡単な覚書でスタートすればよいのです。私の場合のように、著者から権利関係が明記してあるちゃんとした契約書を結んでくれと要望が出れば、「もちろん結びます。ただし今は細かい契約書で時間を食っているより本の制作が先です。出版までには結びます」。こうしてお金を入れさせたら赤○氏のもの、「この業界でこれ以上詳しい契約書を結ぶ習慣はありません。誰も結んでいませんよ。どうしてもというならこの出版は止めてもいいですよ。ただ既に動いているので、あまりお金は戻ってきませんが・・」

何れにしても、制作物の書籍は赤○氏が持ち(倉庫代は著者に請求するが)、売り上げも赤○氏のところに入るので、どうにもならないのです。個人出版のようなところにお願いする場合には、全額を支払う前に罠のない覚書(契約書)を作らなければ出版するものではないと思いました。裁判に勝って、怖いビジネスが大手を振れるようになりました。
今後も出版することはあろうかと思います。

いい経験、社会勉強をしました。

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『永遠のゼロ』、『カエルの楽園』他へのコメント

2017-05-04 14:07:33 | 社会問題

ジブリの映画『風立ちぬ』を観て深く感動した。その映画評をこのブログにあげた。これは、言論プラットフォーム『BLOGOS』にも掲載された。しかし、一般に公開された数多くの『風立ちぬ』の映画評の中で“最も分からない映画評”というコメントをいただいた(笑)

私の映画評は、護憲派の人から「零戦という飛行機は血染めの歴史を持つ。最初は真珠湾で太平洋戦争の火蓋を切り、最後は特攻機として数多の若い生命を無意味な死に追いやった。太平洋戦争を象徴する忌むべき飛行機だ。この映画は零戦を主題にしていながら、そのことが全く示されていない。明示すべき真の問題点を避けた駄作である。あなたの映画評も、この映画と同様に零戦の歴史的な意味について全く触れていない」というコメントをいただいた。このコメントは、一つの見方として良くも悪くも私の心を刺した。

ジブリは左寄りだと思っていた。そのジブリの映画を私の映画評も併せて、その護憲派の人はここまで酷評した。

前後して、小説『永遠のゼロ』が映画となった。『永遠のゼロ』の原作者である百田尚樹氏は右翼として著名であり、左派系の集会に行くと彼は蛇蝎のごとく嫌われている。

明示すべきことがなされていないとジブリの映画ですらそこまで厳しく批判されるのなら、右翼原作の零戦映画はさらにどこまで酷いか、試しに観てやろうと思ったのが、それまで読んだことのなかった百田氏の著作に触れる切っ掛けとなった。“零戦については、〇〇と描くべし”・・。その描くべしが描かれていないと、ジブリの映画ですらここまで批判される。だがしかし、その〇〇が描かれてさえいれば立派な映画だということになるのか?それでは新しい発見や気付きが生まれるはずがないではないかと私は思う。発売後数年で『永遠のゼロ』は300万部を超え、映画にもテレビ番組にもなった。一体どれだけの人が影響を受けたかわからない。〇〇さえ描かれていれば・・という考え方それ自体に大きな問題があるように私は思う。

左派系から毛嫌いされる百田氏が零戦をどう描いたか、さぞかし敵をバッタバッタとなぎ倒す無敵の戦闘機として描かれているのだろうと思った。また国のために死ぬことこそ真の男の道だと描かれているのだろうとも想像がついた。『永遠のゼロ』には否定的な書評がたくさん出ていて、中には書評が書籍になっているものすらある。何も知らない幼子を騙し、日本の子どもに憧れさせ、日本を戦争へと導くための嘘と誤魔化しの物語だろうと思った。

そんなことはなかった。それは“純愛物語”であった。自分には生涯を共にしたい伴侶がいる。しかし特攻で自分は死ぬ。死んでなおその伴侶と生涯を共にする。今はやりの霊となってあの世から帰ってくるとか、タイムスリップではない。生身をもって、その伴侶と生涯を共にするのである。さてどう描いたか?!

著者は、零戦乗りの主人公“宮部久蔵”に「俺は自分が人殺しだと思っている!」と言わせた(講談社文庫、p.225)。一体全体、過去の軍人で、自分の行為、役割、仕事を“人殺しである”とストレートに言える人がいるだろうか。ストレートに認めることができるか。おそらく殆ど誰もできないだろう。しかし誰もできなくとも、まさにそれは真実である。軍隊は人殺しの組織であり、兵器は人を殺す道具である。人を殺すためではなく、鳥や魚を殺すための兵器があろうか。著者はこの物語において、主人公の口を借りて、まさにそれを率直にストレートに述べた。このたった一言から、著者が軍隊とは何か、その真実を見抜き、また心の奥底で平和を望んでいることがわかる。著者はまた、零戦が非人道的な機械であることを見抜き、この物語でそれを開示している。『永遠のゼロ』についての賛否両方の実に様々な書評を読んだが、著者がこの物語において真に示したものについて、それを捉え真正面から言及したものを、ついに私はただの一つも見つけることができなかった。

なぜ零戦は非人道的な機械か?それは、零戦が2000km以上もの航続距離をもつという、この点にある。むろんそれだけでは“非人道的機械”にはならない。零戦が単座であることと対になることで、それが生まれる。零戦が単座であることは誰でも知っているので、特に言葉で明示はされていない。零戦に二人が乗り込む場面はどこにもないのでそれは分かる。この両者の組み合わせによって“非人道的機械”が生まれる。プロペラ機なので、最高速度350km/h、平均250 - 300km/hで、計算上最大9時間程度は連続で飛べることになる。それで中国の奥地やラバウルで、片道3時間、戦闘1時間、帰り3時間という行程が可能となった。合計7時間、連続して空を飛ぶ(講談社文庫、p.41、p.212)。

もし生理現象が起きたら、気分が悪くなったら、睡魔に襲われたら・・どうするのか。自動車なら路肩によけて仮眠する。高速道路であればサービスエリアなど、ひととき運転を止め休息することができる。しかしただ一人で、途中で降りること適わず最初から最後まで連続して空を飛ぶのである。ふらふらっとして落ちた飛行機がどれくらいあったか、想像にあまりある。正々堂々と、同じ土俵で闘って負けるのであれば、“非人道的機械”という言葉はそぐわないだろう。たとえ敵戦闘機に比べて大幅に性能が劣ったとしても、それは“性能が劣った機械”というだけで、“非人道的機械”とは言わないだろう。しかし、生身の人間が独りだけで、7時間も8時間も空中にいることを可能にした機械、闘った結果負けて死ぬのではなく、生命があるが故に、生身であるが故に死ぬ。これを非人道的と言わずして何を非人道的というのか。この物語、『永遠のゼロ』がこの世に出なければ、零戦に隠されたその深い罪、心に刻むべき点について私は知ることがなかっただろう。この物語がなかったならば、零戦の真に忌むべき点について知ることはなかっただろう。零戦について様々の主張や指摘がある。しかし、この物語ほど深く零戦に対する指弾と告発を行ったものを、私は知らない。

次に、『風の中のマリア』という小説を読んだ。これは、オオスズメバチの生態を擬人化した小説で『永遠のゼロ』のような感動はなかった。しかし迫力満点の作品で、あっという間に時が過ぎた。私は生物学者なので、エンターテインメントとしてとても面白い良い作品であった。

『カエルの楽園』は、書評がほとんど見当たらない。左派系の人は殆どが、この物語を無視すると言われる。私は、『コスタリカに学ぶ会』に入って、月に1、2回いろんな議論をするが、やはりそこでもこの物語が話題になったことはない。読んでみて、やはり『風の中のマリア』と似て『永遠のゼロ』のような深い感動はなく、しかし『風の中のマリア』ほどのボリュームもなく、あっという間に読み切った。この物語は、現代の日本社会の情勢を背景として、憲法9条をとても大事なものとする護憲派の考え方を批判した著作である。批判は批判として冷静に受け入れ、おかしいと思われる点については、反論すればよい。2016年2月に出版され同5月には優に10万部を突破している。図書館で借りたが数十人の順番待ちであった。

私はやはり“コスタリカに学ぶ会”で話題になったYoutubeの『Kazuya Channel』について自分のブログで真正面から受け止めた上で、批判をしたことがある。

この物語は、人類の未来においてとても重要と思われる憲法9条について批判をしているのであるから、護憲派の人がどうしてコメントしないのか、どうして無視するのか私にはわからない。まさか、この著作の内容に反論できないのではないだろうが。

この物語で、私が手を止めたのは、スチームボートという名のワシが「お前たちカエルどもが自分の国とかよその国とか言っているが、馬鹿馬鹿しい限りだ。この世界は全てわしの監視下にあるのだからな」(新潮社、p.74)というセリフだ。狭いところしか見ない視野狭窄から、視点を高く大きくもてば、自分の国だ、よその国だと騒いでいるのは馬鹿馬鹿しい。

まさにその通りである。その局所しか見ない目、局所しか頭にないことが人間を殺し合いへと導く。まさに馬鹿馬鹿しい限りである。なぜもう少し長い時間で考えないのか。なぜ交渉相手に敬意を払い、友情を持って譲りあおうとしないのか。なぜ初めから疑い、喧嘩腰で接するのか。

この著作には、以下の“3戒”が固く遵守されていることによって平和が保たれているとされる、ツチガエルの国“ナパージュ”が登場する“ナパージュ”とは我が国“日本”のことであり、“3戒”とは現在の平和憲法の比喩であろう。

“3戒” 1「カエルを信じろ」 2「カエルと争うな」 3「争うための力をもつな」

明示された“3戒”のうち最初の“1.カエル(人間のこと)を信じろ”は人類の未来にとってとても重要である。疑いの心、喧嘩腰の態度で折衝してうまくいくだろうか。相手を見下したり、喧嘩腰は、いかに言葉は丁寧でもそれは相手に必ず伝わる。交渉がうまくいくはずはなかろう。ハンドレッド(著者の代弁)も、ウシガエルには敬意を払わないが、ワシには敬意を払っているではないか。“3戒”のうち2つ目の“2.カエル(人間)と争うな”はおかしい。護憲派の人でこんなことを言う人はいないだろう。主張が違い、見方が異なれば堂々と争えばよい。ただし暴力で、殺し合いで争うなと護憲派の人は言うのである。どちらに理があるか、冷静に、敬意を持って、同じ人間としての意思とそれが形となった言葉と態度で争うのである。ワシもヒキガエルも人間の比喩である。別種であれば喰われることもあり得るが、この物語ではアマガエルも、ツチガエルも、ヒキガエルも、ワシもどれも国を表す比喩である。同種であり、実際には喰われることはない。“3戒”のうち3つ目の“3.争うための力をもつな”もまたおかしい。護憲派の人がこんなことを言うはずはない。著者は“3戒”において、護憲派の人を大きく誤解している。争うための力は持っていいと、護憲派の人の殆どは言うだろう。護憲派の人は、人間同士が殺しあう道具、これから生まれる子孫がずっと使うこの大地、自然環境を破壊する力では争ってはならないと考えるのである。交渉相手に暴力の一歩を踏み出させない、グッと留める力は殺し合いや破壊し合う力の強弱ではない。今や世界中が繋がる経済の力、言葉の違いを超える文化や芸術、医療や食料の援助、農業技術そういう力が戦争を防ぎ殺し合いを止めるのである。護憲派の人は、人殺しや環境破壊の軍事力、暴力ではなくて、そういう“力”を、戦争を防ぐために使え、人類はなぜこんな大きな頭が授かったのか、そのためではないかと問うのである。

この物語は、世界最強の“ワシ”が守護神としてツチガエルの国を守ってくれたことになっている。しかし、その“ワシ”も歳をとり弱った。ツチガエルを守って欲しければ、“ワシ”も必要な場合は守って欲しいとツチガエルに逆提案をした。お互い様、至極真っ当な提案である。護憲派の人がこれに反対するわけがなかろう。それはワシの国に、敵が攻めてきた場合である。ワシが、あの国にある金銀財宝を奪いにいくぞ、お前も来い。こう言って、ツチガエルを尖兵として使おうとする。護憲派の人には、それが見えるのである。著者も含め改憲派の人は、ワシに尻を叩かれて一緒に奪いに行くのか?改憲派の人は、護憲派の人がどう考えているのか、これでわかろう。

さらにハンドレッド(著者の代弁)は、こうも言っている。『この国には偉大なるスチームボート様がいるからだ』『それは王の名前なのか』『いや、違う。ナパージュの僭主だ。この国の本当の支配者だ』(新潮社、p. 66)つまり偉大なるワシ(スチームボート)は、このツチガエルの国(日本)の支配者であると明言し、堂々と認めているではないか。現在の平和憲法は米国が作った。日本人独自の憲法を作りたいと、改憲派の人は改憲を主張する。しかし、右翼の百田氏が、この国はワシの支配下にあると堂々と認めている。他国に支配される国が、自分たち独自の憲法を作れるはずがなかろう。日本人だけの独自の憲法を作りたければ、まず支配する他国に出て行ってもらって、その影響を断ち切る必要があろう。でなければ、日本人独自の憲法など寝言であろう。この物語は、ここまで読み取ることができるし、むろん著者の百田氏もそう書いている。スルーせず、一歩を踏み出し、深く読んで大いに議論すれば、護憲派にとっても改憲派にとっても、日本の未来のためにとても有用であろう。

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2017.4.8 市民シンポジウムを終えて

2017-04-15 08:35:42 | 人類の未来

4月8日(土)東京大学弥生講堂で開催した市民シンポジウムにお出でくださいまして有難うございました。学長になられたばかりの自然人類学者の長谷川眞理子先生のお話と、ノーベル賞理論物理学者の益川敏英先生と長谷川眞理子先生の対談、そして質疑の後、放送大学特任教授でカント哲学者の渋谷治美先生に取りまとめをしていただきました。

また最後に元シールズの奥田さん、新外交イニシャティブ(ND)の猿田さんが、飛び込みでいらして人類の次代を継ぐ若者として今日のシンポジウムの内容を受けて感想を述べてくださったことは私としてはとても嬉しかったです。

私も1、プルトニウムと原発、核兵器、2、相模原障害者殺傷事件を表面に出た一つの事例として現代の世界の流れと人間の立ち位置について趣旨説明に盛り込みました。この1と2について4月22日(土)に、それぞれ別の集会で、二つ掛け持ちで話をします。1については、猿田さんが最近プルトニウムについてのご著書を上梓されたというので、是非読んでみたいと思います。2については、私のチョウを対象とした系統学研究や生物の種、生命についての思索が、相模原障害者殺傷事件、トランプ現象、ヘイトクライムや移民排除など、個人あるいは特定の限定された集団の利益擁護という現人類の歴史的な流れそれ自体につながりました。この人類の流れをどのように転轍するか、というより生命自体がもつ本来の流れに戻すこと、これは私の生涯に与えられたテーマとして捉え、今後進展を図りたいと考えます。

ウェルカム・コンサートは初めての試みでしたが、アンケート結果では概ね好評です。声がホールに響き渡ったという感動のコメントを頂いて、お出でいただいたソプラノの岩崎京子先生もとても喜んでいます。今後どうするか伴奏も含めて考えてみたいと思います。

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4月8日市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか? 自然科学者の役割」

2017-02-06 00:05:23 | 原発・エネルギー
日本生物地理学会では、第72回年次大会の中で市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか? 自然科学者の役割」を開催いたします。
20世紀は戦争の世紀と言われました。現世紀になってもそれは終わるどころか、ますます醜く変貌しているように思います。先の相模原障害者殺傷事件、トランプ大統領の出現や世界的な右傾化、排除の論理、なぜこうなるのか?人類は今どういう位置にあるのか、その中で科学者はどういう役割を担っているのか?興味深いシンポジウムになると思います。
最初にウェルカム・コンサートを行います。
 
1.日時:2017年4月8日(土)13:00時(開場12:30)
2.場所:東京大学農学部弥生講堂(東京メトロ南北線 東大前下車歩3分)
3:内容: 
  ウェルカム・コンサート:「花」「朧月夜」「You raise me up」「はっか草」「落葉松」岩崎京子(東京芸術大学大学院修了 ソプラノ)
  趣旨説明:「人類は今どういう位置にあるのか」森中定治(日本生物地理学会会長)
  講演:「次世代に何を贈るか」長谷川眞理子(総合研究大学院大学学長)
  対談:「科学者は戦争で何をしたか」益川敏英(名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長、ノーベル賞受賞者)、長谷川眞理子
  クロージング・アドレス:渋谷治美(放送大学埼玉学者センター長、カント哲学者)
  ポスターをごらんください
4.参加費:1500円(講演要旨集、別途500円)、懇親会4500円
5.参加申込:講演会と懇親会について、参加のご希望の方は、お名前(読み方)と年齢を森中まで。必ず受け付けた旨の返信メールと予約番号を差し上げます。250席程度の席数です。満席の場合はご返事を差し上げませんので、予めご了解ください。また、予約し予約番号を入手の後にキャンセルの場合は必ずその旨ご返事ください。

宛先:日本生物地理学会事務局 森中定治,delias@kjd.biglobe.ne.jp

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(4)

2016-12-28 14:23:59 | 原発・エネルギー

(4)控訴

判決結果は納得のいくものではありませんでした。

この裁判は残っている本について、無償で著者が受け取れるものかどうか、つまり所有権が著者にあるか、それとも制作者にあるかが争われたものです。

制作した2000冊のうち、判決では私は700冊もらったことになっていました。私と制作を担当した(株)S・Fとの覚書では、著者(甲)に100冊献本と書いてあります。そして残った本の300冊を著者に、となっています。100冊の献本というのがおかしい上に、さらに私は700冊ももらったことになっています。パブリシティー献本として(株)S・Fが取った100冊も私が取ったことになっています。

判決の通り著者に所有権はないとして、まずおかしいのは著者の得るべき収益からも倉庫代が引かれていることです。著者が所有者でなく本の購入者つまり顧客であるなら、なぜ倉庫代を顧客が支払わなければならないのか?

色々と調べてみると、著者が出資をする共同出版という出版形態があることがわかりました。この場合は、著者のとる原稿料(印税)が高くなるだけで、著者が販売促進の責任を負うことはありません。“U出版”という出版形態の特徴は、通常の共同出版ではなく、著者が本の中身はいうまでもなく、本の制作費も全額出し、さらにその本の販売にまで責任を持つという出版形態であり、確かに他にはないユニークな出版形態です。

著者が販売に責任を持つのであるから、著者が行う講演会やいろんな場でできる限り自著を売る責任が生じます。普通それは出版社がやることであって、たまにサイン会などはありますが、著者が販売促進を義務付けられるというのは聞いたことがありません。その場合に販売の時に自著をその場に置く必要があります。その段になると著者は共同販売促進者ではなく書籍購入者(顧客)に変わります。書店を通さないので書店の利益を差し引いた定価の80%、いわゆる著者割りで著者が買って、それを著者が売るのです。ある時は共同推進者、またある時は自著の購入者(顧客)になります。

著者が著者割りで自著を買うのは普通です。しかし、その場合は全ての制作費を出版社が出し、書籍が出版社のものである場合です。制作費を全額出させ、さらに著者のお金で作ったその書籍を販売のために著者に買わせ、覚書の期限が来れば、その後は制作者の所有物として他社に売り渡す。どう考えてもまともではないと思います。

出版さえできればいいと考える人、出版さえできれば文句を言わない人を対象としたビジネスです。

著者は制作費全額を出資し、販売促進の義務まで背負いながら、最後は単なる顧客だったというこの出版形態・・、私はこの日本社会に許されるものではないと思います。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(3)

2016-10-04 11:07:14 | 原発・エネルギー

(3)裁判に臨む

私の知り合いに、ロシア文学者の長瀬隆さんという方がいます。彼の奥様が“熔融塩炉”研究の日本の草分けであった古川和男先生と幼馴染でとても親しかった。それで長瀬さんは古川先生と知り合いになりました。私は、古川先生から直接熔融塩炉を教えていただいた関係で、いろんな場所で顔を合わせた長瀬さんとご縁になりました。彼もまたこのA氏のU出版で“熔融塩炉”に関係する本を出しました。そして、長瀬さんもA氏との間に私と同じトラブルを抱えました。私は裁判などやったことがなく、漠然とですがその費用とか時間の無駄とか、それらを考えると裁判を起こすまでの気持ちにはなれず、このことは一つの人生勉強だったと既に諦めていたのです。しかし長瀬さんは裁判を起こすと決断しました。長瀬さんからの誘いがあり、私はこれも社会経験と考えました。そして、その裁判に加わりました。生まれて初めての裁判です。

すでに2回公判がありました。その中で私が理解したことは以下の通りです。

1.      出版の形態は2種類しかない。自費出版と商業出版である。

2.      自費出版は制作費一切合切を委託者(著者)が出す。ゆえに書籍の全所有権を委託者が持つ。つまり記念品を、お金を支払って業者に作らせるようなものです。

3.      商業出版は、本の制作に関わる一切の費用を出版社が持つ。ゆえに書籍の所有権の一切は出版社が持つ。著者には出版社が一方的に決めたいわゆる印税(一般には印刷部数x定価の10%以下)が支払われるのみ。

そして、著者と出版社あるいは制作者の契約(覚書)に、“自費出版”との言葉がなければ、すべて商業出版と考えるのが、出版に関する商法上の通念であるとのことでした。いくらお金を出していても、口でどのような話があってもそれは関係しないとのことでした。

A氏の話では、この業界で著者と出版社あるいは制作者で正式な契約書を交わすことはないとのことであり、スタート時にあくまで仮で結んだ覚書(A氏は覚書作成の時点では、私の要望に沿って出版迄には正式な契約書を結ぶと言っていました)がそのまま残りました。改めてそれを見直してみると、無論自費出版などという言葉はありません。元々その積りではないので当たり前です。著者(甲)に100冊献本するという文言があります。これが、所有者がA氏であることの決め手になるのでしょう。所有者がA氏であるが故に、著者に献本つまり差し上げるとなるのです。著者が所有者であれば、自分自身に差し上げるというのはおかしいですね、というわけです。私はこの本を書いた時、いろんな人に差し上げたいと思いました。それが著者の立場での販売促進です。実際に私からもらって読んだ方が新聞に書評を書いてくれました。また“マジのつくエネルギー本”という書評ランキングで1位にもなりました。この時に、A氏も「私も出版関係で販売促進に使うので、著者と同じ部数をもらうよ」と言ってA氏個人が本を取りました。それは覚書ではパブリシティー献本という言葉になっており、A氏(乙)が献本を受けるとは書かれていませんでした。

しかし、両者は同じことをしたのです。お金や食べ物のならいざ知らず、著者が自著を100冊もらって自宅に抱えこんでも何の意味もありません。私は私の立場でいろんな学識者に差し上げて、それらの人が書評を書いてくださったり話題にしてくださって、それがこの本を世に知らしめ販売につながるのです。A氏が出版関係に配って販売につなげるのも同じです。両者が協力して販売促進をすることがこの覚書の基本であり、著者(森中)も制作者(A氏)も販売促進用の道具として同数を取ったというのが覚書の正しい理解だと思います。裁判の結審において、覚書にある“著者への献本”という文言をもって所有権が制作者にあるという判断がなされた場合は、それは真実を見ていないと私には思われます。

覚書のこの記述を今あらためて見て、私ははたと思い当たりました。この覚書を作った時に、既にこういうトラブルが生じることをA氏は見越していたことに気づきました。だから私だけが本をもらったことになっているんだ・・

本の所有者は誰かで争ったこの裁判も、次回2016年10月24日で結審です。制作費全額を出したのは著者であるにもかかわらず、本の所有者はA氏自身であり、覚書の期間が過ぎた以降は所有者が売っ払おうと裁断して廃棄しようと好きにできるというわけです。著者が欲しいと言えば、定価の8掛けで買ってください。今度は、本の制作費全額を出した著者に売りつけるのです。実際、今までに百冊以上私は買いました。これは制作者にとっては出版のリスクを何も取らないで本の所有者になり利益だけ取る素晴らしいビジネスです。本が売れれば利益はどんどん入ります。契約解除の後は、他人のお金で作った本を自分のものとして売ることができます。最近知り合った出版会社はもっと安くできると、50万でも可能だと言います。つまり私が最初に渡した制作費100万円には(株)S・Fの利益が既に入っていたと思われます。今思えば、3:2の比率どころか4:1でもおかしくありません。実際、長瀬さんは4:1の利益配分の比率でした。その上、なんと私の取り分から倉庫代まで差し引いたのです。

おそらく出版の慣行から言えば、我々は敗訴するでしょう。著作の所有者は制作者であって著者ではない。しかし・・、とここで私は思います。では、あの出版形態、A氏の説明を受けてとても魅力的に見えた、あの自費出版でもない商業出版でもないU出版とは何なのか?! 

私は、これが人間社会におけるまさに弱者を標的と定めた行為の一つではないのかと思います。A氏は人を見て対応を変えるでしょう。社会的な強者、例えば大学の教授や著名人であれば誠実な対応をするのでしょう。著者に喜ばれようと言いなりになるかも知れません。そして私のようなリタイアして年金暮らしの無名の人間が出版を願った時のみ標的にするのでしょう。A氏が「これは是非自社で出したい」と熱望したのは、こういうことだったのかと今ではわかります。先に書いたように私自身は実際諦めていて、長瀬さんが裁判に訴えなければ泣き寝入りになっていました。有力者に守られながら・・相手によって豹変する。弱者を標的と定めることが苦にならない人であれば、他に思い当たらないくらい美味しいビジネスと私の目には映ります。私と同様の被害者が今後も続く可能性が十分あります。それで、このブログを書きました。判決を見てみたいと思います。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(2)

2016-10-02 07:39:36 | 原発・エネルギー

(2)雰囲気が変わる

私は、この出版形態であれば自著に対する権利は自分に強いと思いました。A氏はもの静かで腰が低く著者を立ててくれますから、これはかなりコントールできるような気になりました。一般には総ての資金的なリスクを負うがゆえに全所有権を持つ出版社が、本のタイトルをつける権利を持つと聞いていましたが、「プルトニウム消滅!」というタイトルは私がつけました。A氏は別の案を出しましたが折れ、このことからも私に権利が強いのだという認識を深めました。また、利益も6:4つまり総売上の50%の利益のうち、30%を著者の私が、20%を(株)S・Fが取るということになりました。制作費全額を著者が出したことを思うと利益折半では心情的に納得できないと、心持ちでも差をつけて欲しいと私から申し出たのです。

この辺りから何か、A氏の雰囲気が変わったように思います。

「30/20でいいですよ。その代わり今後発生する費用や労力も著者がみてください」

本の作成には、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞、日経新聞から新聞記事を引用し写真を借り、合計で相当の金額になりました。それも全部私が持ちました。前述のK先生に序文をお願いしました。まず熟読するので本のコピーを一部送ってください。自宅のパソコン用の小型プリンターで本1冊分全部刷りました。こんなこと著者がやることかと、制作者が業務用のプリンターで刷って送ってくれれば・・と思いました。

古くから懇意で廉価でやってくれる印刷会社を知っていたので、自著であることだしそこを使ってもらいたいと思いました。A氏にそれを話すと「いいですよ。ただし自分も長年やって安いところを知っているので双方から見積もりを出してもらって比べましょう」。A氏に会って話を聴いた私の知り合いの印刷会社が私に、A氏は印刷を私のところにさせる積りは全くない。ちょっと何かおかしく思うので気をつけた方がよいと忠告してくれました。

それから大変なことが起こりました。

ある日の朝、A氏から私の自宅に電話がありました。

「結論から先に言います。流通をお願いしていた出版社から、合意済みで契約の段階まで来ているのにいきなり断られました。これは商法上の信義に反するので、抗議と契約締結の再折衝を行います。一緒に来てください」

書籍を流通に乗せるには東西2か所の卸を通さねばなりません。A氏は卸へのルートを持たないので、それが可能な出版社に本の流通を委託するのです。その会社は卸に対してとても有力な出版社で、そこと契約にこぎつけたはずだったのです。その会社の契約には連帯保証人が2名必要であり、1名はA氏の兄が引き受けたけれども、もう1名がいない。A氏は私にそれを引き受けるよう言いました。私は、連帯保証人になることは非常に危険だと聞いていたのでとても嫌でした。「自分の本ですよ」「貴方の本を流通に乗せるための我々の共同作業なんですよ」と言われ、こんな場合は止むを得ないのかと思いました。

A氏の要望で、その出版会社の専務との折衝に同行しました。結局不調、喧嘩別れになりました。A氏が血相を変えて食ってかかったのを目の当たりにしました。なんでこうなるの・・?! いずれにせよ滅多にない一つの社会経験をしたと思いました。その専務は、少なくとも私の見るところ真っ当そうな人でした。名刺をいただいたので、後日電話して直接彼に会いに行きました。

「著者の貴方が、こんな保証人になるものではないですよ」。私の本も含まれるけれども、その出版社と(株)S・Fの契約書です。よく考えると、今後その出版社と(株)S・Fとの間で金銭的トラブルが生じた場合、自著とは係わりなく私が全く知らないこと総てを含めて私が保証する契約でした。私にとっては恐ろしい契約でした。

なぜその専務がこの話を断ったのか。

A氏と接してみて、この人とは仕事をやりたくないと思った。理由はそれだけでした。

流通は小石川の(株)S・Fの近くにあるT社が引き受けてくれました。T社は重要な社会問題に関する書籍も含めて、真面目な様々の書籍を出版しており、T社社長に会って私は大変好感を持ちました。

既に半額の50万円をA氏に支払い、覚書を結んで制作を始めていたので止める事は考えませんでした。現状をよく踏まえ私が窮地に陥らないようにどれだけやれるか、それが私に課せられた社会勉強だと考えました。

本ができればA氏に入ります。利益はT社からA氏に流れます。A氏から私にその3/5が来るわけです。そうするとA氏が例えば販売促進用の資金だとか、増刷用の資金だとか、あれこれ理由をつけて私に送金しなければいいんです。いくら自分の取るべき正当なお金だって暴力で奪いに行くことはできません。A氏が私に約束の分を支払わない場合は、結局私は泣き寝入りになります。これでは負けだと思いました。私が残りの50万円を支払う前に、利益はT社で著者と(株)S・Fに分割し、T社からそれぞれに直接送金するよう交渉しました。T社はA氏さえ合意すればそれは問題ないとのことでした。私に渡す分である以上、どちらからもらおうと違いはないはずだ。そうしなければ私は残りの資金を支払わないと言ったら、A氏は渋々承知しました。これで私の取り分はA氏を通すことなく、T社から私への直送となりました。まず一勝です。

そして数年が過ぎ、“熔融塩炉”は社会の脚光を浴びることもなく、とりたてて大きな話題にもならず、私の本も売り上げは伸び止まってしまいました。私としては、自分の生き様を描いた大事な本です。本が売れても売れなくても手元に置きたいし自分の考えを分かってもらう一つの手段として有用です。A氏が覚書を解除するのなら残部は返してもらいたいと思いました。

ところが、A氏は著者に一言の相談もなく、相談どころか知らせることもなく残部を売り払ってそのお金を自分の懐に入れていたのです。それは、裁判に訴えての事実経過についての論述の中で、言葉が二転三転しながらA氏の口からそれが出ました。

”エエッー!!

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(1)

2016-09-30 07:28:17 | 社会問題

(1)次世代に贈る

今まで共著で何冊かの本を出してはいました。しかし「この章を書いてください」という依頼ばかりで、自ら単著を出したことはありませんでした。

長い人生を歩んできて、もともと好奇心の強い性格でしたので、人間、あるいは人間社会について自分なりにいろいろと知りました。残された自分の生命はせいぜいあと10年か15年、自分が理解したこと、身に付けたことを、お世話になった人類社会に残したい、次世代に贈りたいと思いました。

プルトニウムを、塵・埃のような微粉にして東京の空に撒けば日本経済は壊滅し、事実上日本は滅びます。これは汚い爆弾“Dirty Bomb”と呼ばれて以前から知られ、米国政府のHPにも出ています(Figure 3. 放射性微粒子の無人航空機散布)。わざわざハイテクの核ミサイルなどにする必要はないんです。私はもともと反原発ですが、感情的な反対論者ではなく、ウラン235の3万倍もの強さと2万年以上の半減期を持つプルトニウムはこの世にあってはならないと考えていました。

プルトニウムをこの世から消すことが真にできる“熔融塩炉”と言う原子炉があることを知りました。福島の原発事故によって日本の軽水炉原発に対する社会的な指弾を目の当たりにしている時でしたから、社会に殆ど知られていないこの“熔融塩炉”を紹介することは人類の現在の状態にとって相応の意味があるのではないかと考えました。それをまずトピック的な話題として前半とし、自分自身が学んできたこと、理解したこと、経済学、公共哲学、生物学が総合されたいわば私の生き様・・、それを後半としたそんなに内容になりました。書いて何人かの方に読んでもらうと特に女性から「大変読み易い」、「一晩で読んだ」などとのご返事をいただき、これは書いた価値があったと思いました。

で、もちろんこれを書籍にしたいと思いました。しかし、今まで出版社から書いてくれと頼まれたこともなく、これと言って強いコネもありませんでした。私が深い関心を持ち参加していた公共哲学の講演会を主催していたK先生(ETVマイケル・サンデル白熱教室の解説で著名)に相談しました。K先生には、一度非公式な討議の場でその内容を聴いていただいていました。その公共哲学の講演会の受付をしていたAさんは、過去出版社に勤めていたため出版界に強いコネを持っていて、適切な出版社を紹介してくれたりつないでくれるという情報をくださいました。K先生も彼の仲介で出版された本があったようです。

で私の原稿をA氏に見せると、もちろん他社につなぐこともできるけれども、これは自分のところで是非出版させてくれないかと強く要望されました。私は内心相応の名のある出版社につないでくれたら嬉しいと思いました。けれど、まずは本を世に出したかったので、手っ取り早いその申し出を有難いと思ったことを覚えています。

彼は株式会社S・Fという書籍制作の会社を経営していて、U出版という新しい出版形態を取っているとのことでした。

この本の出版にあたって、A氏から著者である私に本の制作費100万円を支払って欲しいと言われました。50万と言いよどんで100万と言い換えたことを記憶しています。

「えっ、私が制作費を出すんですか? じゃあなに! 自費出版なんですか」

「いいえ違います。無論、通常出版社が行う商業出版でもありません。著者と制作者が一つのユニット(単位)となる全く新しい素晴らしい出版形態なんです!」

「どういうことですか?」

「著者に制作費をご負担いただきます。私がその資金で本を作り上げ、書店に並ぶところまで持ち込みます。その時点まで私は利益を一切いただきません」

「まだよく分かりません」

「制作費は著者が負担する。私が制作し流通に乗せる。流通に大体売り上げの50%を支払います。残り50%が利益なんです。この利益を著者と私で分割します。こういう出版形態なんです。ですから、私が利益を得るためにはどうしても本が売れねばなりません。著者と制作者が一丸となって本を売ろうという素晴らしい出版形態なんです。商業出版ではすべての経費を出版社が出します。つまり全てのリスクを出版社が負います。著者は販売のリスクを負わない代わりに本の体裁やタイトルなど決める権利も出版に関わる何の権利もなく、出版社が決めた僅かの印税が行くだけです。U出版の場合は、売上高の50%の利益を双方の合意で分割します。私としては双方が対等に販売に努めるという趣旨から、利益は折半、50%/50%を提案します」

この説明を聴いて、内心これは何が起こるかわからないと不安を感じました。しかし、本の制作費を私が出すのであれば、その本に対する私の権利が強くなるのは当然であり、権利関係を契約書に明記しておけば、この本のコントロールは私ができると思いました。今後何冊も何冊もビジネスのように本を書くつもりはないし、後に続く人類に私の得たものを残したいという気持ちの著作ですから、自分で自著をコントロールしたいと思ったのです。自費出版は、言わば記念品を作るようなもので、もし本が売れてもその利益は全部著者のものですから、基本的に出版社は販売の努力はしてくれません。U出版の場合は、業界に詳しいA氏が販売に注力してくれ、しかも本が売れれば商業出版のような10%以下の印税ではなく利益は大きいのですから、考えてみれば著者にとっても好都合なアイディアだと思われました。

でもそうはなりませんでした。

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KAZUYAさんのYouTube

2016-08-11 18:19:29 | 国際政治・外交

私はここ10年くらいスウェーデン社会に強い関心を持ってきました。「持続可能な国づくりを考える会」というスウェーデン社会に関心を持つ人が集まる集いに参加し、近代スウェーデンの礎を造ったスウェーデン社会民主党の綱領を読みました。現在もスウェーデン社会研究所の会員で、スウェーデン大使館で毎月行われる講演会には参加しています。なぜ興味を持ったかというと、自分自身が得た収入の50%以上を税金として納める社会で、それを市民が納得している社会だからです。個人の得た半分以上のお金が見ず知らずの他人のために使われる。どういう風にそんな社会が作られたのか、実際にそこに住む人はどんな人間なのかと強い関心を持ったからです。

次に、これは最近ですが「コスタリカに学ぶ会」という会に所属しました。これも月に1、2度関心のある人が集まっていろんな議論をしています。なぜ関心を持ったかというとコスタリカは軍隊を廃止した国だからです。日本のように四面が海に囲まれた国ではなく、ジャングルで他国とつながっています。過去には実際に他国が武器を持って侵入してきたようです。内乱で負けた方が隣国に逃げ込み、隣国の助太刀を得て自国へ攻め戻ったこともあったようです。そんな地理的環境の中で軍隊を廃止したことに驚いたからです。軍隊は実際には人を殺し、我々人類が今後もずっと生存していく土台つまり自然環境を破壊します。何のためにそれをするのか?軍隊賛成論者は、それは“正義のためだ”と言います。日本の場合は軍隊ではありません。“自衛隊”です。つまり他国が武器を持って侵入してきた時、そこの人間と自然環境を守ることが仕事です。災害などの場合も大きな力を発揮して頑張ってくれます。

このコスタリカに学ぶ会でKAZUYAさんのYouTubeが話題になりました。「KAZUYA Channel」というシリーズで2012年から続いていてなんと36万人が登録し1億人以上が観ているそうです。話題になったのは、『女子中学生を洗脳していた9条の会と話してきました』というテーマのYouTubeです。

この中でコスタリカのことがでてきました。

コスタリカは常備軍は持っていないけれど、有事の際には徴兵制と軍隊の編成権が大統領に与えられる。徴兵制って、彼ら(9条の会の人のこと)が発狂しそうな内容だけど、そんな国を褒め称えているんですよという内容です。KAZUYAさんが何を主張しているのかわかりませんでした。

コスタリカは隣国とジャングルで地続きです。もし武器を持って侵略してきたら、それは防がねばなりません。自身の家に泥棒が入ってきた。警察に連絡するのがまず一番です。警官が来るまでの間、もしその泥棒が子供や家人を傷つけようとしたら、棒やバット、手元にあるもので防がねばなりません。徴兵制にするか、志願制にするか、警察で対応するか、それとも相手の様子を見て説得に入るとか、緊急対応としていろんな方法があるでしょう。徴兵制はあくまで一つの選択肢で、緊急時においてはコスタリカはそれを選んだというだけのことです。一体何が発狂する内容なのでしょうか。

他国の人間も、豊かな感情、喜怒哀楽を持つ我々日本人と同じ人間です。楽しいときは笑うし、平和を望むし、幸せになりたいし、身内を理不尽に殺せば恨みを買うでしょう。武器を持って攻めてくるのは攻めてくるだけの理由があります。理由はなく人殺しと環境破壊が大好き、それ自体を心から望む、それ自体が目的という“悪魔”はいません。それが絶対前提であることがわかれば、なぜ攻めてきたのか、その理由を問いただすことができます。ただし勇気がいります。遠くから敵が撃ってきた。なら2倍にして撃ち返せ。なぜ撃ってきたのか、そんなことは知らない。撃たれればもっと強烈に撃ち返せばいいんだ!これでは少なくとも“将”の器ではありません。なぜ攻めてきたのか、なぜ撃ってきたのか、そちらの“将”と会いたい。差しで話がしたいと言って武器を持たずに敵将に会いに行くのです。戦闘をやめるまで“将”と“将”が差しで飲み明かすあるいは語り明かしたらどうでしょうか。

ものすごい武器で、殺し合いでことを決めようとした。その結果日本はどうなりましたか?何百万、何千万の屍をもって日本人はそれを悟ったのではありませんか。

この悟りの具象が、コスタリカのこの常備軍廃止の真髄です。こうして極端な小国でありながら、武器なしで米国と堂々と対等に渡り合います。将”の器です。米国が基地を置かせろと言ってきた。御免こうむると言って断った。もちろん米国を納得させ得る堂々たる論拠があります。それで米国が怒って武器を持って攻めてきたなんてことはありません。

さらになかなか気づかない点は、武器に使うお金を人を成長させる教育や医療など、住民の実際の幸福のために使えることです。お金を人を殺すために使うか、人を生かすために使うか、端的に言えばこういう言い方になるでしょう。家族が食べることも病気の治療も控え、子供の教育も控えて、泥棒への対処のために高価なスタンガンばかり買い揃えるようなものです。泥棒への対処の前に、家族が空腹や病気で死んでしまいます。

KAZUYAさん、こんな小国でも堂々としているんですよ。我々も武器ではなくて神様から人だけが授かったこの大きな頭、この頭脳を活用しませんか。

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