この7月13日にウィーンのオペラ座で長く歌手をされたアンネット・カズエ ストゥルナート先生の門下生による声楽の発表会「野の花の集い」が開催されました.私も2曲唱いました.これで今年前半は終了です.後半は真剣勝負のコンクールなどは予定していませんが,新しい曲を始めたいと思います.
ここ数回,憲法改定の可否に関わる討論会や講演会に出て,新しく学んだことがあるのでここに述べて,私の記録としておきます.現在の日本国憲法(平和憲法)は米国の押しつけと言われますが,例えば第25条(生存権)は米国の発想にはなく草案になかったもので,日本が独自に主張して加えたものです.ここに非常に大きな特徴,日本人というか日本国のオリジナルがあります.それは,極端な言い方をすれば現存する全人類をまっぷたつに分けるほどの大きな違いをもっています.
人間は,この世に生を受ければ最低限,誰でも生命を保ち人間として生きることが尊重され保証されます.これが現日本人の「人間に対する認識」です.ところが現在の米国には(少なくとも先の大戦以降),こういった考え方は主流ではないようです.競争の結果,それに破れた者は理論的には生存できなくてもやむを得ないということです.ただし,理論的に正しいといって餓死に任せるのではなく,宗教(基督教)的な側面から敗者を救うべく最大限の努力はします.けれども,それはあくまで経済的勝者の自由意志による恣意的な寄付,施し,つまりチャリティーによるということです.
第13条(国民の権利および義務)で,現憲法では「個人として尊重される」が,改定案では「人として尊重される」に変わっています.この「個人」から「人」への変換が,個々に尊重されるべき対象から戦争時の砲弾のように単なる数としての「人」,それぞれ個別に名前と個性をもつ具体的な個人から,数でひとくくりにする抽象的な単位に入れ替わっています.軍隊もそうでしょうが,現社会を構成する企業などでも「この地域の営業が弱い.あと10人投入しよう」などと,人間を数としてみます.
これは,人間社会がそれぞれ異なる目的をもった組織でできている限りやむを得ない面があるのかもしれません.しかし,それを国の形をなす憲法にまで入れて,国を構成する国民を投入すべき物資のひとつ,単なるナンバーとしてしまうのは,いかがなものでしょうか.
クリックをお願いします.