泰西古典絵画紀行

オランダ絵画・古地図・天文学史の記事,旅行記等を紹介します.
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出エジプト記~17世紀アムステルダムで制作された聖地の地図~

2012-12-11 21:03:07 | 西洋の古地図

"Palestina sive terrae sanctae descriptio"
carte a figures map by Jan Jansson

 

Amsterdam, Joannes Janssonius van Waesbergen
43.2 x 56.0 cm, without text on verso.
Horn, Georg, Accuratissima orbis antiquii delineatio: Paris, 1677より

ヤンソニウスによる人物図を付した聖地の歴史地図の稀品である.



Christian Adrichom (Christiaan van Adrichems;Delft1533-85)
"Theatrum Terrae Sanctae Et Biblicarum Historiarum cum Tabulis Geographicus aere Expressis;Urbis Hierosolymae quem Admodum ea Christi D. N. Tempore Florvit"
Cologne, 写真は1593の第二版,初版は1590年 Georg Braunによる

 Adrichomの歴史地図に基づきこの地図も東を上にして描かれているが,同図のパレスチナからエジプトまでの海岸線は直線状であったのに対し,この地図では南方が強く湾曲していて,左端のSidonから右下のAlexandriaまでが描かれている.
 地図左寄りにはガリラヤ湖Mare Galilaeaeが描かれているが,ここから地中海はKishon川で連結されているのは間違いであり,中央右に描かれている死海Mare Mortumの南端は西方にゆがんで図示されている.
 ヨルダン川の両岸にあるカナーンの地は,十二部族に分割されている.ここでは彩色の縁取りによって示されている.一見13に色分けされている様に見えるが,Tribus Manasseがガリラヤ湖の東北と南西に跨って(ここでは黄色で囲まれて)いるため.



 上下の欄には出エジプト記からモーゼが登場する18の場面が描かれる.この地図の彩色者は,モーゼに赤い衣を羽織らせ,下着は黄土色としているが,これは彩色者によって異なる.

上段左から右に 

第2図がモーゼの発見(中央) Exodi 2とあるのは出エジプト記 第2章のこと.

第4図は燃える柴の奇跡                    第5図はファラオの前で杖を蛇に変える奇跡 

第7図には火の柱が描かれるが,下のルート拡大図のEthamにも図示されている 第8・9図は紅海渡渉   

下段左から右に(必ずしも時系列順の通りではない)

第11図はマナの収穫 第12図は十戒を授かるモーゼ

図13・4は黄金の子牛の崇拝

第16図は岩を叩いて水を出すモーゼ 第18図は青銅の蛇の奇跡



左下に描かれたエルサレムの鳥瞰小図
 イエスがロバに乗って同市に向かう場面は新約聖書に拠っている


伝統的な出エジプトのルートが砂漠の中に描かれている.紅海渡渉の図も右下に描かれていて,Pharaoと読める.その左手には神殿の周囲に並ぶ十二部族も図示される.


参考:Van der Krogt, Atlantes Neerlandici, 1, 8150:1B; Laor, 372; Nebenzahl, pl.43.


・下記は他の彩色例.


Accuratissima orbis antiqui delineatio,1677


Amsterdam, 1630 初版か?


Amsterdam, 1658


「ダニエルの夢」の地図(2)

2012-10-14 20:51:55 | 西洋の古地図


map 8x12cm border 2cm 手彩色

 こちらは制作順ではGallnerの8番目,16世紀後半ごろに使用されたもので,マニエリズム風のボーダー(額縁)の部分はしばしば変更されて出版されています.この地図は切り出されているので,裏のテキストがドイツ語であること以外,原本を特定することは容易ではないのですが,Sigmund Feyerabend(フランクフルト1564-1583年)かQuentell and Calenius(ケルン1564-1607年)が出版した「ウィッテンベルク聖書」の一葉に挿図として刷られたものと考えられます.木版製作者は Jost Amman と Virgil Solis で,前者は"A"の飾り文字がアフリカ大陸の南端に,後者は"VS"の組み合わせ文字がインドシナ半島の南端にそれぞれモノグラムとして入れられています.
 ボーダー部分の立体的に見える縁取りの構図は16世紀後半の地図,例えばオルテリウスの地図帳のカルトゥーシュに良く用いられていますが,ここでは両側の上端にそれぞれ裸体の男女が隠れつつ壷を差し出しているのが目に留まります.

 ボーダー以外の初版との相違点としては,以下のようなことが挙げられます.
①周囲の風神(風の精)が上下左右の四方ではなく上方を取り囲む位置に描かれている.
②EUROPA[UはVと表記されます]・ASIA・AFFRICAの文字の記載がない.
③例えばバルカン半島・アナトリア半島(小アジア)・アラビア半島など,地形の省略が目立つ.
④四つの獣については,ライオンの羽の形状が変わり,原点どおり豹の背に四つの羽が描き加えられたが獣の顔は豹らしくなくなった.熊の顔は熊らしくなり,山羊は山羊らしい顔ではなくなったが歯(牙)は目立つようになっている.



 興味深いのは豹の下,山羊の向かって右に垂直に空白の直線が見えますが,これは山羊のあたりの部分に埋め木で修正を加えているのではないかと推測されますが,他の縁が見えないので実は単なる疵かも知れません.ただ,これは以下の別の刷りにも認められているので,同一の版木が繰り返し用いられている証となります.


ちなみに,こちらは1564年ケルン版の聖書の挿図です 12.2x15.8cm(page size 38.5x24.5cm)


「ダニエルの夢」の地図(1)

2012-10-12 00:32:54 | 西洋の古地図


 Map 13x17cm


 Daniel’s Dream Mapは,プトレマイオスが記述した旧世界図に,大航海時代の知見を加えて,さらにダニエル書にある預言的な四王国に関する夢の記述を重ね合わせたものです.この地図についてはウェブ上にErnst Gallner 氏の研究が公開されており,以下その記述を参考に解説を試みます.

 「ダニエルの夢」の地図は,ダニエルに関する1529年12月のユストゥス・ヨナスとフィリップ・メランヒトンの言及がウィッテンベルクのハンス・ルフトにより,"Das Siebend Capital Danielis von des -Türken Gottes lesterung und schrecklicher mordery mit un terricht"として出版された際にその中に初めて登場しました.続いて1530年1月にマルティン・ルターの解釈が"Der Prophet Daniel"として同じ出版者から出版された際にもこの地図が用いられ,その後も16~18世紀のルター派ないしドイツ語版の聖書やフラビウス・ヨゼフスの「ユダヤ年代記」などに掲載され続けました.そこから,"Wittenberg World Map"とも呼ばれており,確認されたところでは14の異なる図柄で20の版があるとのことです.

 ここでは「旧世界」すなわちヨーロッパ・アフリカ・アジアの三大陸が,ヴァルトゼーミュラーの1513年の地図の北方部分と,アピアヌス(メランヒトンは彼と親交があったといわれます)の1530年の地図の南方部分を組み合わせて描かれていると解釈されています.すでに発見されていた新大陸アメリカはここではまだ存在していませんし,アジアの東に日本の島も描かれていません.大陸を囲む海の外側に,東西南北から風神が口から風を吹き出しています.

 ヨーロッパにはピレネー山脈・アルプスも描かれるが,スカンジナビア半島や英国を欠いており,アフリカにはアトラス山脈と,ナイル川の二つの源が南のムーン山から発しています.アジアにはヒマラヤ山脈がありそこから西にインダス,東にガンジス川が起こるはずですが,2本の大河は東にずれているようで,その南のセイロン島は「ラーマ(アダム)の橋」によってインド半島と連結しており,さらにその東にはインドシナ半島が描かれているようです.


 さて,ダニエルの「四つの獣の幻」(夢)についてですが,新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダヤ人たちをバビロンへ連行(バビロン捕囚)した後,ダニエルはその中から出て,ベルシャザル王の治世,夢=幻視体験に富み,その解釈で王に信頼されました.旧約聖書のダニエル書7章には「バビロンにいた預言者ダニエルは夢を見る.天の四方の風が広大な海をかき立て,四つの異種の巨大な獣が海から上って来た」と書かれています.
 この四匹の獣達は,聖地を支配した帝国の興亡を示しているという一つの解釈がなされています.ベルシャザールの治世が紀元前6世紀半ばであることから,未来の予言として以下の様な推定がなされます.ただし,ダニエル書の成立はずっと後世であるという説もあります.

 「第一の獣は獅子のようで鷲の翼があり,その後,翼は引き抜かれ人間の心が与えられた」.
 獅子と鷲はエレミヤ書や哀歌にバビロンを例える動物として述べられ,バビロンがその勇猛さを失って人間の弱い心に支配される国家となって衰退したのでしょう.ただし,この王国はアッシリアという解釈もあるそうです.
 「第二の獣は熊のようで,口に三本の肋骨を銜えていた」
 この獣はペルシャ帝国を示し,肋骨はダリウスに続く三人の王を示しています.
 「第三の獣は豹のようで,その背には四つの翼と,四つの頭とがあった」
 ペルシアの次に興ったギリシア帝国を示し,アレクサンドロス大王の後は四将軍が割拠して四王国となったことを示しています.
 「第四の獣は凄く恐ろしくかつ強大で,大きな鉄の歯で噛砕き,その足で蹂躙し,十本の角があったが,もう一本の目と口のある角が生えると三本が抜けてしまった」
 この帝国は,その後に広大な領土の覇者となったローマ帝国を示しています.


 この地図でも①翼のあるライオン・②熊・③四つの頭を持つ豹・④6,7本の角と人頭の付いた角を持った山羊が,地誌的考慮はなされずに三大陸の上に配置されています.そのほかに,地図の中ほど上をよく見ると,ターバンを巻いて旗を持った人々も描かれていますが,じつはこれはトルコの軍隊を表しています.そして,ここにこそ,この地図の製作意図が秘められているのだそうです.
 1529年と言えばオスマン・トルコがウィーンに迫った年で,メランヒトンやルターらはダニエル書の預言にトルコの軍隊を書き加えることによって,キリスト教世界への侵略に対する危機感を暗示したわけです.


 この初版の地図は,後に"Biblia, Thet är all then helgha scrifft på swensko" ("Gustav Wasa bible")として,ウプサラで1540/41年に出版された際に使用されました.この刊行は16世紀のスウェーデンでは最大の出版プロジェクトで,1523年と1534年のルターによるドイツ語訳聖書に基づいており,担当したドイツ人の印刷業者ゲオルク・リコルフはウィッテンベルクから沢山の版木を持参したといいます.


Text(スウェーデン語) 一頁は27,5x18cm.

 この地図はやっと探し出したスウェーデンの版画商から購入したのですが,彼によるとこれは「スウェーデンで最初に印刷された地図」だそうです.


フェルメール「絵画芸術」のネーデルラント壁地図のライバル作品

2012-06-19 22:27:55 | 西洋の古地図



Nieuwe ende Waarachtighe Beschrijvinghe der Zeventien Nederlanden, Anno MDCXXII. Amsterdam: Willem Jansz. Blaeu, 1622
103.5x161cm, engraved by Josua van den Ende
vellum(いわゆる羊皮紙)3x2枚貼り合わせ(タイトル部を含む),両側のマージナルの都市景観図は2x2枚を追加
向かって左上からブリュッセル,アムステルダム,右上がアントワープ.

 現存が知られる唯一の地図で,紙刷りのものは他に二枚が知られている.これはブラウ家が制作した版だが,絵画芸術の壁地図はドゥーテクムの原版に基づき,フィッセル家の第二版として1652年以降に出版されたと思われるニコラウス・フィッセルのウォール・マップで,これも現存は一点のみでスウェーデンのSkoklosterに伝わり,パリの国立図書館に唯一保管されているのみとのこと.それも銅版画9枚からなる地図部分のみで,その周囲のタイトルや都市景観図は添付されていない.当時の慣例として,購入の際,地図のみか周囲の装飾を付け加えるかを選択できたためとのことである.


Blaeu's Nova Totius Asiae Tabula ブラウのアジア壁地図1686年

2011-12-07 00:13:22 | 西洋の古地図


Auctore Joannes Blaeu Amstelaedami./ Jo. Jacobus de Rubeis/ Formis Romae.
83x110cm


 Willem Blaeuの壁地図には世界地図と四大陸図などがあり,これらの豪華版は中央の大きな地図の周りを人物像や都市景観図などで縁取った(マージナルと呼ばれる)もので,世界図にはメルカトル図法で描かれた初版と東西半球図で描かれた版がある.前者はマージナルに「泰西王侯騎馬図屏風」の基絵となった図像がくだんのカエリウスの1609年模倣版に求められており,その原版としてW・ブラウが1606/7年に刊行した図が知られているが写真が残されるのみですでにこの世には存在していないらしく,半球版のほうは息子のJ・ブラウによる1646年版がロッテルダム海事博物館に所蔵されており,こちらのマージナルにも王侯騎馬図が上段に描かれている.

また,徳川幕府献上品から国立博物館に伝わる1648年フィッセル改訂版も良品である.
 大陸図は1608年に刊行され,第二版は1612年に製作されたが,原版はHendrik Hondiusの手に渡って1624年頃に再版された後,さらにClaes Janzoon  Visscherのもとで1655-7年に再度刊行された.これらは極めて稀にしか残っておらず,最近では初版の三枚だけが1979年スイスで発見されているのみである.
 ブラウのこれらの壁地図は西欧の貴族や商人の館で大いに需要があったが,非常に高価なことと運搬に適しなかったようで,次第にイタリアにおいても出版されるようになった.恐らく1646年頃にStefano Scolari がヴェニスで新たに版を起こして出版した後,第二イタリア版は1667年にローマでGiovanni Giacomo de Rossi(ラテン語名Johannes Jacobus de Rubeis)によりやはり新版で刊行された.第三版も新版でTodeschiにより1673年頃ボローニャで刊行され,この版はブラウのオリジナルに非常に正確と評価された.これらのいずれも現存は稀少である.
 さてロッシ家はローマの著名な地図製作業者であったが,しばしばブラウらがオランダで製作した地図から地理情報を借用して再版していた.Giovanni Giacomoの兄Giovanni Domenico de Rossi (1619-1653)は1652年にブラウの四大陸の壁地図を銅版製作者Daniel Vidmanに二枚版の画面に縮小して版を作るように命じ,Giacomoが1670年の刊記の入った67x95cmの版Totius Asiae nova et exacta tabula ex optimus tum geographorum tum aliorum accomodata per Gulielmum Blaeu. Amsterdam [but Rome] を得て刊行した.これが上記の第二イタリア版である(1679年再版).なおロッシ家は1665年に教皇Alexander VII世から夏の宮殿を地図で装飾する注文も得ており,後に四枚版の画面でブラウに倣った新版を製作した.
 ここに提示したのはこの版で1686年の刊記があり,Joan(=Johannes) Blaeuの図に基づく中心の大地図のみで周辺の装飾図は伴っていない.すでにこの時代にはアジアの地の新発見が進んでいたので,その時代の約80年前の「古地図」として装飾的な要素が大きかったのかもしれない. これは15世紀の地図に見られるような伝説legend,異国の人種の営みや動物,果ては怪獣や魔物などを描く慣習の名残からも読み取れる.









タイトルと小アジア部分


Ierusalem, Damascus, M.Sinaiなどの地名が見える.シナイ山に向かう人が見える.



日本と中国付近






















Schilder, Monumenta Cartographica Neerlandica V 1996 p.199-202